名探偵のオーヴァチュア
森亜るるかと帆羽くれあ、そのはじまりと別れのお話。
間に合った…… 明日の8:30(23話放送)までがこの駄文の賞味期限な気がしてならないです。スーパーのお弁当みたいな賞味期限してんな。
ほぼ100%捏造設定で執筆されています。宜しくお願いします。
※この小説は名探偵プリキュア!第22話までの情報で執筆したものです。後々出てくるような描写との齟齬が見受けられる可能性があります。またメイン登場人物2人の設定がほぼ明かされていない都合上、オリジナル設定が多々含まれます。ご了承くださいませ。
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今宵のロンドンは、雨と霧が混ざる。
細かな雨粒が街灯の光を滲ませ、濡れた石畳の上では、白い車体の上で回る赤色灯がゆっくりと脈打っていた。
このテムズ川沿いにある古い倉庫街は昼間なら観光客の姿も多い活気ある場所だが、この時間ともなるとまるで片田舎のように静まり返る。
そして今。その静寂は、響き渡る警察無線のノイズと怒号によって破られていた。
「来るなぁ! 武器を捨てろ!」
鍵のかかった倉庫の入口に追い詰められた男が、肩を震わせながら叫ぶ。
三十代半ばほど。
雨を吸ったベージュのトレンチコートは泥で汚れ、無精髭の浮いた頬はひどくやつれていた。
血走った目。右手には黒い回転式拳銃が握られ、左腕は若い女性の首を乱暴に掴んでいる。
人質にされている女性は二十代前半くらいだろう。淡い青のワンピースは雨に濡れ、声も出せず、怯え切った顔で息を呑んでいた。
男は銃口の先を震わせながら続けた。
「近づくなッ!! 本当にこの女を撃つぞ!!」
男を囲むように周囲に散った制服警官たちが、一斉に身構える。
防弾盾を構える者。
無線で本部へ状況を伝える者。
濡れた路面を走る靴音。
まさに一触即発である。現場の空気はこれ以上ない程に張り詰めていた。誰かの小さな一挙一動が、人質の運命を決めてもおかしくない。
武装した警官隊の中心に立つのは、灰色の髪を短く刈り込んだ初老の男。
厚手のコートを見に纏い、口元には彫刻のように刻まれた深い皺。左頬には何かで斬りつけられたような古傷があった。
長年、ロンドンのあらゆる現場を渡り歩いてきたことを物語るようなその鋭い目は、獲物を狙う狼のごとく犯人を見据る。
そしてその隣では、若い刑事が青ざめた顔で唾を飲み込んでいた。
こちらはまだ二十代半ばと言ったところか。雨に濡れた金髪を乱暴にかき上げながら、震える手でメモ帳を握っている。
誰が見ても経験不足なのは明らかだった。
犯人の男が少し動くたび、大袈裟に彼の肩はびくりと跳ねる。
「け、警部……」
若い刑事が小声で言った。
「あの子、本当に来てるんですか」
警部と呼ばれた灰髪の男は、犯人から視線をジッと逸らさぬまま答える。
「ああ、来てる」
「でも、子供ですよ……!」
「先程の彼女の名推理はお前も聞いただろう。スコットランドヤードが頭を下げる相手だ。年齢で判断するな」
若い刑事は、ハッと息を呑んだ。
そしてようやく、パトカーの脇に立つ少女へ視線を向ける。
彼女は、いつの間にかそこにいた。
白いレースがあしらわれた傘が、その少女に降りかかる雨粒を一滴残らず正確に弾く。
見に纏うは胸元に藤色のリボンを結んだ、これまた白色のブラウス。袖口には幾重ものフリル。同じく白色のスカートは柔らかな布を重ねたデザインで、雨風に揺れるたび花びらのようにフワリと広がっていた。
特徴的な紫色の瞳。白いリボンで飾られた銀色の美しい髪はゆるく波打ち、毛先だけが雨粒を含んで光っている。
まるでその少女だけが、この霧と雨に包まれたロンドンの倉庫街から切り離されているようにハッキリと浮いていた。
——森亜るるか。
このロンドンにおいて、噂に名高い“天才探偵”。
だが若い刑事には、
どうしてもそう見えなかった。
小柄で、華奢で、どこかぼんやりしていて。
確かに、彼女の推理のおかげで犯人をここまで追い詰めることが出来たのは事実だ。
それでも、"何処ぞのお屋敷から抜け出してきた上流階級のご令嬢です"と言われた方がまだ納得できる。
「聞こえねぇのか!近寄るなって言ったんだよ!」
男がまた叫ぶ。
手に持った拳銃が、容赦なく人質の頭にグリグリと押しつけられる。
若い刑事の喉は、ひゅっと鳴った。
だが、少女は動かない。
ただ静かに男の手元を見ている。
「森亜くん」
警部が低い声で言った。
「君はどう見る」
るるかはすぐには答えなかった。
白い傘を少し持ち直し、男の拳銃をじっと見つめる。
それから小さく首を傾げた。
「……あれ、本物じゃない」
——空気が止まる。
若い刑事が目を見開いた。
「は?」
男の顔が、明らかに強張る。
るるかは手に持った傘を手持ち無沙汰にクルクルと回し始めた。
「たぶん、モデルガン」
「お、おい? 何を根拠に——」
「撃鉄(ハンマー)……ずっと起きたままだから」
警部の目がスーッと細まった。
るるかの言葉は、そのまま淡々と続く。
「それに人質を取ったこの状況で、トリガーからフィンガーアウトしてるのもおかしい。私達から逃げ切るのが目的なら、尚更ね」
「ふむ……」
「銃の扱い、手慣れてないんじゃない?」
今後こそ、男の呼吸がわかりやすく乱れる。
目を左右にキョロキョロさせながら、動揺を隠しきれていない様子が、若い刑事にも見て取れる程だった。
「リボルバー自体も、本物にしては光沢が強すぎ」
「……っ」
「シリンダーの回転痕も薄いし、発火した跡も見えない」
若い刑事が、思わず呟いた。
「そんなの…… あの距離で見えんのかよ……」
るるかは少し考えてから、まるで当たり前といった調子で答える。
「見える。探偵は観察が基本でしょう?」
その言い方が妙に子供っぽくて、この場においては逆に現実味がなかった。
犯人の男が、人質と共に半歩ほど後ずさる。
「黙れぇ……!」
だがその声は、脅しというよりもはや悲鳴に近かった。
人質の女性が震える。
一方でるるかは、男だけをジッと見ていた。
「それにあなた、怪我してる」
男が固まる。
彼の羽織るコートの袖口に、よく見れば薄い鮮血。
るるかは、もう一歩、足を前に踏み出しながら言葉を続けた。
「……さっき、窓から逃げた時。素手で無理やりガラスを割ったでしょう。病院、行った方がいいと思うけど」
「……っ」
「血、止まってない」
男の顔が泣きそうに歪み、ぐしゃぐしゃに崩れる。
数秒間、その場の誰も動かなかった。
……やがて男は、掠れた声で笑った。
「……病院なんか、行けるわけねぇだろ」
男の声と、拳銃——いや、モデルガンが連動するように震える。
「その日暮らしの金すらも、全部消えたんだ」
その場にいた警官たちが息を呑む音が聞こえた。
「保険も下りない。借金も断られた。仕事もクビになった。社会との繋がりを断たれたんだぞ。誰も俺を助けちゃくれないんだ」
男は呆れ果てたようにクツクツと笑う。その様子は、まるで壊れたロボットのようだった。
「だから、この女に金を返せって言っただけなんだよ……!あの夜、俺の全てを奪ったこのアバズレになぁ!」
「そ、そんなこと私、知らなかったのよ……!」
人質になっている女性が涙声で言う。
どうやら二人の間には、何かしらのただならぬ"関係"があるらしかった。
警部が心底呆れた様子でポツリと呟く。
「全く、ティーンエイジャーの少女に聞かせる話ではないな……」
「うるさい!!」
男が雨音を掻き消すほどの、あらん限りの声で叫ぶ。
だがその瞬間、モデルガンを握る力が抜けた。
「……もう、俺にはどうしたらいいか分かんなかったんだ」
その声は、雨に溶けていきそうな程に弱かった。
るるかは静かに男を見る。
責めるでもなく、
同情するでもなく。
ただ、本当に不思議そうな顔で。
「……あなた、助けてほしかったの?」
男の肩が震え、膝からその場に崩れ落ちる。
モデルガンが地面に落ちた。本物ではないことを示す、妙に軽い音。
雨音に混ざってその音がに響き渡るのと、周囲の警官たちが一斉に駆け出すのは、ほぼ同時だった。
「確保ォ!!」
響き渡る、警部の怒号。
上官への報告で錯綜する無線。
忙しなく駆け回る足音。
張り詰めていた空気が、呆気なく崩れる。
若い刑事は、その場に呆然と立ち尽くしていた。
……今夜は、近年では珍しい異例の大捕物。
だがその解決の中心にいたのは、間違いなくあの少女だった。
「……嘘だろ」
警部はやれやれといった風体で、静かに息を吐く。
「だから言っただろ。見た目と年齢であの子を判断するなとな」
周囲ではにわかに、たった今事件解決の決め手となった少女への、賞賛の声が飛び交う。
——“さすが天才探偵!”
——“ロンドンの奇跡だ!”
——“まるでシャーロック・ホームズの再来だよ……”
だがるるかは、そんな声をこれっぽっちも聞いていなかった。白い傘の先から、雨雫がひとつふたつと落ちる。
警官に引きずられ、深く俯きながら大人しくパトカーへと連れて行かれる男の背中は、まるで怒られた後の子供のようだった。
るるかはその背中を見つめたまま、小さく呟く。
「……助けてほしかったなら」
紫色の瞳が、雨に滲む赤色灯を静かに反射していた。
「ちゃんと言えばよかったのに……」
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ロンドンの空は、昨夜の雨が嘘のように晴れ渡っていた。
ベイカーストリートB112番地。
キュアット探偵事務所ロンドン本部。
その灰白色の外壁には年代を感じさせる蔦が優雅に絡まり、正面玄関の上部には黄金の天秤を象った巨大な紋章が輝いている。
重厚なヴィクトリア朝様式の石造り建築は、見る人が見ればきっとその目を惹きつけてやまないことだろう。
ハイドパークの緑が近くに見える高台寄りに建っており、静かでありながらもロンドンの中心部に近い好立地だ。
私の私室は、その4階の角部屋にある。
淡いラベンダー色の壁紙に包まれた部屋は、いつもより少しだけ明るく感じた。
今日は窓の外の霧が比較的薄いせいかもしれない。レースのカーテンがそよ風に揺れ、白いアンティークテーブルの上では紅茶の湯気が静かに立ち上っている。その横には今朝のタイムズ紙が、昨夜の出来事を思い出させるように広げたまま置かれていた。
至っていつも通り。普通の光景。ただ一点、普通の人が見たら驚くであろうことといえば……
「きゃー! るるか、また一面よ一面! 『ロンドンの奇跡、天才少女探偵が人質事件を解決!』だって! 写真もすごく可愛く撮れてるわ!なかなか腕のいいカメラマンじゃない♪」
……テーブルの向かいで、お喋りする小さな狐のような生き物が新聞を両手で持ち上げてはしゃいでいることぐらいだろう。
マシュタン。
まるで咲き乱れるラベンダー畑のような淡い紫色の毛に覆われた、私のおとも妖精。
……今日も本当に可愛い。
丸い緑の瞳がきらきらと輝き、耳が興奮でぴょこぴょこと動いている。
私は向かいの椅子に腰を下ろしたまま、銀色の髪を指で軽く払った。胸元のリボンが、朝の光を受けて柔らかく光る。
「……天才探偵、ね」
この霧の都——ロンドンで、探偵として活動し始めて、もう何年になるだろうか。改めて考えると、なんだか遠い言葉のように聞こえた。
謎を解くのは楽しいし、そう呼ばれるのも決して吝かではないけれど。なんというか……いまいちピンとこない。
私はただ、目に見える事象をピースにして並べ、論理的なパズルを組み立てているだけだというのに。
「——でも! そ・れ・は・そ・れ・と・し・て!」
マシュタンは急に新聞をばさりとテーブルに置くと、腰に小さな両手を当てて私を睨みつけてきた。
「るるか、昨日は本当に危なかったのよ! いくらモデルガンだって分かってたからって、あんな状況で警官よりも前に出るなんて! もし本物だったらどうするつもりだったの!? 私がどれだけ心配したか……昨夜は一睡もできなかったんだから!」
短い腕をぶんぶん振り回す様子が、なんだか子犬が威嚇しているみたいで可愛らしい。でも、その声は本気で怒っている。
……これはまずい。年に数回のマシュタンお説教モードだ。いつも私に甘い分、こうなると彼女の話は長いのだ。
私は紅茶のカップを両手でそっと包み、安心させる意味を込めて瞳をグッと細めた。
「……ごめんね、マシュタン」
「その言い方、ちっとも反省してないでしょ! いくらプリキュアって言ったって、弾が本物だったら一瞬で終わりなのよ!? もう、るるかは危機感が足りなさすぎるんだから……!」
マシュタンがプリプリしながら近づいてきて、私の頰を小さな肉球で軽くぽんぽんと叩く。温かくて、柔らかい感触。私は少し困ったように微笑んだ。
「でも……私、失敗しないから」
「そういう問題じゃなくて!」
その時、部屋のドアが軽くノックされた。
マシュタンがびくりと耳を立てる。
私が「どうぞ」と声をかけると、ドアが遠慮がちにゆっくりと開いた。
入ってきたのは、ヤギメールさんだった。
ヤギをそのまま二足歩行にして、郵便配達員の制服を着せたような、一見すると奇妙な出立ち。
だかその実、彼は本部の郵便・伝達を担当する、『伝令の妖精』だ。私もいつもお世話になっている。
「メェ……おはようございます、るるかさん。局長から急ぎの伝言です」
ヤギメールさんは独特ののんびりとした声でそう言いながら、部屋の中へ足を一歩踏み入れた。
右手には、キュアット探偵事務所の刻印が刻まれた封筒。
……毎度思うが、同じ建物内での情報伝達にわざわざ手紙を用いるのは何故なのだろうか。
マシュタンが慌てて私の胸元に飛び込んできた。
「あら、ヤギメールさん! 直接来るなんて珍しいわね。 局長から……何か大事な用事かしら?」
あ、お説教モードが有耶無耶になったかも。
私はヤギメールさんに、心の中でグッジョブを送る。彼は首を軽く傾げ、角を揺らしながらマシュタンに答えた。
「申し訳ありません、私は内容の方までは存じておらず…… お手数ですが、お手紙の方を直接ご確認ください。それでは……ヤギメーェェル!」
彼はお決まりの挨拶と共にそう言い残して、ゆったりとした足取りで部屋を出て行った。
肩にかけたバックの膨らみを見るに、まだまだ配達する部屋があるらしい。
そういえば彼が休んでいるところは見たことがないかも——なんて、今更な感想が脳裏に浮かんだ。
「……それじゃ、読んでみる?」
善は急げ。早速貰った封筒を開けようとした瞬間、マシュタンが私の目の前にふわりと浮かんで見せる。
「待って待って! その手紙、開ける前にアタシに占わせてちょうだい!」
マシュタンはそう言うとテーブルへと着地し、懐から水晶玉を取り出す。
そしてふわふわの体をくるくる回しながら、両手を胸の前で合わせて……
「マシュマシュマシュマシュ……マシュ~!」
可愛らしい掛け声の後、マシュタンは目を閉じて両手を掲げ、少しの間ふるふると震えた。
うん、肉球が丸見えで本当に可愛い。
それから急に目を開けて、得意げに胸を張る。
「見えたわ! この手紙からは……『新たな出会いの予感』が漂ってる! 今まで会ったことのないようなタイプの誰かが、るるかの前に現れるかも。きっと大きな事件の始まりだわ!」
私はしばらくマシュタンの顔をじっと見ていた。新たな出会いに、大きな事件。
マシュタンは私のおとも妖精である以前に、『占いの妖精』だ。彼女の占いはまるで未来を見透かすかのようによく当たる。
……大きな事件の始まりかぁ……
「……また変な事件だったらどうしよう」
「そこ!?」
マシュタンが水晶ごとずっこけた。
「普通もっとこう……『どんな人かしら』が先でしょう!?」
「だって、この前の塩キャロットケーキ事件は酷かったし」
「まぁ、確かにあれはケーキ屋の店長が壊滅的な味覚音痴っていう酷いオチだったけど……」
「うん。わざわざ探偵が出向くまでもなかった」
私は封筒の端を指で軽く撫で、ハイドパークの木々が朝風に揺れる窓の外に視線を移した。
昨夜の雨の匂いがまだ少し残る空気の中。薄い霧の向こうを黒や茶色のコート姿の人たちが忙しそうに歩いている。
「……でも」
「でも?」
「これまでにない新しい出会いって、ちょっと気になるかも」
私がそう言うと、
マシュタンは信じられないと言った様子で、ぱちぱちと瞬きをした。
「るるか……珍しく前向きじゃない」
「そう?」
「ふふ、そうよ」
私は封筒を指先で摘んでくるくると回す。
知らない人に、知らない事件。
少しだけ、新しいパズルの箱を開けた時のワクワク感に似ている気がした。
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結局、封筒の中に入っていたのはペラペラの紙が一枚だけだった。
『至急、局長室まで来るように』
これ以上ないほど簡潔で、短い文面。
でも、局長直々の呼び出しなんて珍しい。
直接話したいということは、よっぽど重要な案件なのだろう。
「……なんだろ」
別に推理しても良いけど、会って聞く方が手っ取り早い。私が小さく呟くと、マシュタンがふわりと胸元に飛び込んでくる。私はそれを優しく抱っこしてあげる。慣れ親しんだ、いつものルーティン。
「ほらぁ、やっぱり大事な話じゃない」
「マシュタンの占い通りに?」
「アタシの占い通りに!」
彼女は胸を張って、得意げである。
私は苦笑しながら、封筒を片手に部屋の扉を開けた。
歩きなれた廊下には、朝の光が細く差し込んでいる。ワインレッドに近い、高級感のある赤い絨毯。ピカピカに磨き上げられた手すり。
高い天井から吊るされた古めかしいシャンデリア。
そして、その下を忙しそうに動き回るのは——人間ではない。
「あら、るるかちゃん。おはようさん」
小さな体で長いモップを器用に操りながら床を磨いていたのは、『清掃の妖精』ウォッシュだった。アライグマみたいな丸い耳を揺らしながら、彼女はにこにこと笑う。
「今朝の新聞見たでぇ。またまた大活躍やないの」
「おはよう、ウォッシュ」
「せやけど、事務所の床汚して帰ってくるんは感心せぇへんなぁ?昨日着て行ったスカートも泥だらけやったで」
「……ごめん」
「ふふ、ええよええよ。ピカピカに洗濯するんがウチの仕事やしな!」
ウォッシュは豪快に笑う。
その横を、小さなティーポットを抱えた妖精がぱたぱた飛んでいった。
「気持ち良い朝に、ミルクティーの追加はいかがですか~?本日はシナモン入りですよ~!」
チャティだ。
『お茶汲みの妖精』で、お茶の知識を語らせたら止まらない。彼の入れるアールグレイは老若男女問わず、どんな依頼人をも唸らせると評判だ。
「あっ、るるかさん!昨日の事件の記事、ボクも読みました!すっごくかっこよかったです!」
「ありがとう」
「でも、『危なかったじゃない!』って、マシュタンさんが昨夜ずーっとぷりぷりしてましたよ!一晩中愚痴に付き合わされて……ボク疲れちゃいました」
マシュタンが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「ちょっとチャティ!! 」
「えへへ~」
チャティは悪びれた様子もなく、そのまま廊下の奥へと飛んでいく。
彼の持つ小さなティーポットがカチャカチャと揺れ、その場に残るのはシナモンの甘い香りだけ。
ウォッシュは私達のそんなやり取りを見て、モップの柄に尻尾を巻きつけながら苦笑していた。
「朝から賑やかやなぁ」
「まったくもう、チャティったら余計なことばっかり……」
マシュタンは私の胸元でぷんすか怒っている。でも、その尻尾は楽しそうにぱたぱたと揺れていた。私も、こういう騒がしい朝は、嫌いじゃない。
少しだけ口元を緩めながら、再び廊下を歩き出そうとして——
その時だった。
ガシャァン!!
廊下の奥から盛大な破壊音が響き渡った。
シャンデリアがグラグラと揺れ、壁際に置かれていた甲冑の飾りまでもが震えている。
……本当の意味で騒がしくなってきた。私は思わずそちらを見る。脚立の上で作業をしていた青年が、山積みになった工具箱ごと派手に廊下へ転げ落ちているのが目に入った。
黒い作業着にオーバーオール。
腰には大量の工具を吊るし、指なしグローブを両手にはめている。無造作に後ろで束ねられた焦げ茶色の髪。額には煤汚れ。
どう見ても人間の青年だ。
でも、彼の正体を私は知っている。
「……レンチ」
『修繕の妖精』であるレンチは、床へ転がったまま片手をひらひら振った。
「おう、これはこれは——っと」
レンチはそこで一度言葉を切り、にやっと口元を歪める。
「お嬢」
「やめて、その呼び方」
「えー? 似合ってんじゃねぇか。お嬢様探偵って感じで」
「嫌」
キッパリとした否定の意味を込めてわざわざ即答したというのに、レンチは面白そうに肩を揺らす。
「相変わらず反応が早ぇなぁ」
「だって私、お嬢じゃないから」
「まあ、金持ちではねぇわな」
「そういう意味じゃなくて」
私がじとっと睨むと、レンチは降参をするかのように両手を上げた。
「悪ぃ悪ぃ。んじゃ、“名探偵様”で」
「もっと嫌」
「注文が多いねぇ」
レンチはヘラヘラと笑いながら立ち上がる。
その拍子に工具箱の中身がまた少し床へ転がった。
マシュタンが呆れたようにため息を吐く。
「もう……どこもかしこも、朝から本当に騒がしいんだから」
「騒がしいのは本部の伝統だろ? マシュの字」
「誰がマシュの字よ! あと、開き直らないの!」
私は床へ散らばったスパナを一つ拾い、レンチへ渡した。
「……またその古い壁時計?」
「ああ。回路がイカれててな。コイツ曰く、今は『2027年1月24日、午前8時30分』だとさ」
「三十年近くズレてるわね。時計としての機能、全然果たしてないじゃない」
「時刻だけは合ってるからセーフ!」
「アウトよアウト」
マシュタンがすかさず突っ込む。
レンチは堪え切らないと言った様子でケラケラと笑いながら、まるで西部劇のガンマンのようにスパナを起用に手のひらで回転させ、腰へ戻した。
こうして見ると、本当に普通の好青年にしか見えない。
でも彼も妖精だ。
ウォッシュも。
チャティも。
ヤギメールさんも。
そして勿論、マシュタンも。
このロンドン本部にいる者達は、みんな妖精。
——人間なのは、私だけ。
でも、不思議と寂しいと思ったことは一度もなかった。この事務所こそが私の家。
これが私の日常。
ここはちゃんと……私の帰る場所だから。
軽く挨拶をしてレンチと別れた後、私はマシュタンを抱えたまま廊下の角を曲がり、階段を降りた。
吹き抜けになった中央ホールでは、何人かの妖精達が朝の準備に追われている。
「あーもう! 今月も妖精の里の実家から大量のクッキー送られてきたんだけど!」
「羨ましいでシュ。僕なんか、母様から探偵道具しか届かないでシュ……」
「それ絶対、事務所で働くことになったシュシュタンのために選んでくれてるよねぇ〜。優しいじゃない」
楽しそうな笑い声と共に、小さな妖精の子供達がぱたぱたと飛んでいく。
私はそれをぼんやり眺めながら、地下へ続く階段へ足をかけた。
「……るるか?」
腕の中で、マシュタンが小さく首を傾げる。
「ううん。なんでもない」
私はそう答える。
実際、本当になんでもなかった。
少なくとも——この時の私は、これで十分だと思っていた。
吹き抜けの天窓から差し込む朝日が、大理石の床に長く伸びている。
一段ずつ階段を降りる度、妖精達の明るい笑い声は、まるで遠くの鐘の音みたいに高い天井へと吸い込まれていった。
私は地下の闇の中を、静かに歩いていく。
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局長がいる地下室は、上階とは少しだけ空気が違う。
赤い絨毯は途中から深い紺色へ変わり、壁に掛けられたランプの光もどこか落ち着いていた。
上階のような賑やかな笑い声も聞こえない。
聞こえてくるのは、時計の針が刻む規則正しい音だけ。
局長室は、その最奥にある。
重厚なオーク材の扉。中央には、黄金の天秤を象った紋章が輝いていた。
私はその前で立ち止まる。
腕の中のマシュタンは、珍しく静かだった。
いつもなら「どんな事件かしら!」と騒いでいる頃なのに、今は私の服のリボンをそっと握っているだけ。
「……マシュタン?」
「えっ? な、なぁに、るるか?」
「ちょっと緊張してるでしょ」
「してないわよ!?」
声がちょっと裏返っていた。これじゃ私が探偵じゃなかったとしても、緊張しているのはバレバレだ。思わず小さく笑いが溢れてしまう。
するとマシュタンは誤魔化すように咳払いをした。
「と、とにかく! 局長って変に話が長い時があるから、ちゃんと要点をまとめて聞かなきゃダメよ!」
「うん」
私は扉を三回ノックする。
すると、間を置かず低い男の声が返ってきた。
「入りたまえ」
静かで、落ち着いていて、どこか芝居がかった声だった。
私は扉を開ける。
局長室は、外からイメージするよりも広い。
壁一面を埋め尽くす本棚に、古い事件資料。
ガラスケースに飾られたアンティークの懐中時計。キャンドルの光が、妖しく室内を照らし出していた。
そして、その中央。
深い緑色のソファに腰掛け、今まさに一冊の分厚い本を閉じた男がいた。
長くて細い脚を優雅に組み、漆黒のスーツを完璧に着こなし、細い銀縁眼鏡の奥からこちらを見定める金色の瞳。
黒交じりの灰色の髪は丁寧に撫でつけられていて、口元には余裕を崩さない笑み。
まるで映画俳優のような佇まいだった。
ただし。
人差し指と中指の指に挟まれている煙草だけは、誰がどう見てもシガレットチョコだけど。
「ご足労どうも、るるか君」
男はゆっくりと立ち上がる。
長身。杖を片手に軽く床を鳴らす仕草まで、妙に様になっている。
「昨夜の活躍、実に見事だった。スコットランドヤードからも絶賛の嵐でね。いやぁ、我がキュアット探偵事務所としても鼻が高いとも」
そう言いながら、
彼は指に挟んだシガレットチョコを口に咥える。
……そして、それを食べた。
ぽりぽり食べた。
マシュタンが小声で私に囁いてくる。
「局長、最近あれ本物の葉巻だと苦いから嫌だって言って、お菓子に変えたのよ……」
「聞こえているぞ、マシュタン君」
局長は即座に返した。
マシュタンの背中がびくっと震える。
「きゃっ、地獄耳!」
「ふふふ。名探偵たるもの、観察力は常に研ぎ澄ませておくべきだからね」
そう言って彼は、私達の方へ向かってくる。
コツ、コツと杖の音が、静かな部屋に規則正しく響いた。
私は改めて彼を見る。
キュアット探偵事務所ロンドン本部局長。
名前は——『局長』。
そう。皆、彼のことを敬意を込めて『局長』としか呼ばない。
どこか飄々とした壮年の男性のように立ち振る舞ってはいるけれど、本当の姿は勿論妖精だ。
「さて、本題に入ろうか」
局長は徐に、右胸のポケットから一枚の紙を取り出した。
そしてその瞬間。
「実は次の依頼なんだがね!!」
急に彼の声量が跳ね上がる。
ボフンッ!!
その時突然、大きな音と共に白煙のような光に局長の体が包まれた。
「うにゃっ」
煙が晴れると、そこには宙に浮かぶ小さな三毛猫の妖精。部屋が静まり返る。
私達は瞬きを何度か繰り返す。
そして……その三毛猫は頭を抱えながら叫んだ。
「あーもう! またやっちゃった!!」
「…………」
彼は気まずそうに片前足で口元を隠したかとおもうと、数秒後に『ぽんっ』と再び人型へ戻る。
「……失礼。少々興奮してしまった」
局長はまるで何事もなかったかのように咳払いしたが、耳だけはまだ猫のままだった。
頭の上で、ぴこぴこと動いている。
私はしばらくその耳を見つめる。
……ちょっと可愛いかも。
「笑っているね?」
「少しだけ」
「取り繕っても、もう遅いと思うケド……」
マシュタンが呆れたように呟く。
でも局長本人はまったく気にしていない様子で、再びシガレットチョコを一本取り出した。
流石に気づいたようで、猫耳もポンという音と共に消える。
「……さて。改めて本題だ、るるか君」
彼は金色の瞳を細める。
さっきまでの少し抜けた空気が、すっと消えさる。
一瞬で、部屋の温度までもが変わったような気がした。
「結論から言おう。君には——日本へ行ってもらいたい」
「日本!? 」
マシュタンから驚きと共に発せられた大声は、私の代わりと言わんがばかり。
それを制するように局長は、杖の先で軽く床を叩く。
静かな部屋へ響く、コツンと乾いた音。
それだけで空気が引き締まるあたり、やっぱりこの人は局長なのだ。……さっきの三毛猫妖精姿を知らない人なら、その雰囲気だけで彼に圧倒される事だろう。
局長は壁際へ歩いていき、地下室には似つかわしくないほど立派なティーセットの側に立った。アンティーク品のティーポットから紅茶を注ぎながら、彼は淡々と言う。
「怪盗団ファントム——その名は聞いたことがあるね?」
私は小さく頷いた。
「……当然」
「何度か直接戦ったわ。キザで芝居がかった所作してる、緑髪の変な男ね! あんな奴、るるかにかかればちょちょいのちょいだったわよ! 」
マシュタンが胸を張ってそう続けると、局長が少しだけ眉を上げる。
金色の瞳が面白そうに細められた。
「ふむ。確かに君達は、名探偵プリキュアとしてこれまで何度かファントムの作戦を阻止してきた」
局長は湯気の立つティーカップをそっと啜りながら続ける。
「だが、るるか君が何度か直接対峙したその男は、あくまで構成員にすぎない」
「……頭領がいるってことね。怪盗"団"を名乗るくらいだから、そうだろうとは思っていたけど」
私が呟くと、局長は静かに頷いた。
「ファントムの構成員が全員妖精だということは判明している。だが……この者についてだけは、得体がしれないのだ」
彼はそう言いながら、先程胸ポケットから取り出そうとしていた写真を机の上へ置いた。
片目だけを隠す紫色の仮面を身につけた、どこか芝居がかった怪盗達の姿。
でも、その中央に佇む影だけは違った。
まるでルネサンス時代の貴族のような豪奢な服の上に中世の鎧を着込み、ベネチアンマスクのような仮面で顔の全体を隠した、大柄なシルエット。
「——怪盗団ファントム首領、“ウソノワール”」
部屋の空気が、少しだけ冷えた気がした。
パタパタと揺れていたマシュタンの尻尾が、ぴたりと止まる。
「……」
私は黙って写真を見る。
妙な話だ。ただの写真なのに、目を逸らしたくなる。まるで見てはいけないものを見ているみたいに。
局長は低い声で続けた。
「幹部連中も確かに厄介だ。だが、真に危険なのはこの頭領だよ」
「ふーん。そんなに強いの?」
「強い、という表現では足りないな。『誰もがウソと思うほど強い』……という噂もある」
局長は即答した。
いつもの芝居がかった口調ではない。本気の声だった。
「だ、大丈夫よ! るるかなら、そのウソノワールってヤツ相手でもきっと楽勝だわ!」
マシュタンが、中空に向かってシュッ、シュッとシャドーボクシングをしながら高らかに宣言した。……やる気満々なマシュタンも、可愛い。
「フッ、頼もしいな。だがファントムが恐ろしいのは、単純な戦闘力だけではない」
局長の金色の瞳が、静かに細められた。
彼は次のシガレットチョコを口に咥えなおし、言葉を続ける。
「連中は、嘘を巧みに操りあらゆる物を盗み出す。目的のためなら手段は選ばない。価値ある芸術品に秘宝、果ては遺産まで……これまでに彼らが狙ってきたものは様々だが、それらは全て布石であり、フェイク。連中が真に欲しているものは一つしかないと、私は見ている」
「……マコトジュエル、でしょ」
私が先に答えると、
局長は満足そうに口角を上げた。
「流石だ。話が早い」
マシュタンが、私の腕の中で小さく身じろぎする。
——マコトジュエル。
それは世界に一つしか存在しない、巨大で特別な宝石だ。
宝石自体が膨大な力を宿していて、人間たちの『真実に寄り添う心』がひと所に凝縮されたもの。もし悪人がその力を私利私欲の為に利用しようとすれば、世界に何が起こるかは予想もつかない。
だからこそ、キュアット探偵事務所は長年、その存在を秘匿し続けてきた。
「連中は数年前から、ジュエルの転移パターンを追跡している節がある。我々はこれまで、“時空の妖精”の力を借りながら、マコトジュエルを定期的に世界各地へ転移させ続けてきた」
『時空の妖精』……ね。
私も実際に見たことはないけれど。
噂では空間移動はもちろん、現在から過去・未来まであらゆる時代を繋げ、行き来を可能にする程の強大な力を持つらしい。
マシュタンに言わせれば、「会ったことはないけど絶対にアタシの方が可愛い」との事だ。
重要なのはそこなのかという話は兎も角、私もマシュタンに概ね同意である。
「転移……」
「そう、同じ場所へ長く置けば、必ず奴らに嗅ぎつけられる。だからこそ我々は対抗手段としてジュエルの隠し場所を変えてきたのだよ」
局長は杖で写真を軽く示した。
「ローマ」
コツ。
「カイロ」
コツ。
「イスタンブール」
コツ。
「そして前回は、ロンドン近郊」
——成程。大体の話は、もう見えた。
「それで、次は日本?」
「その通り!」
局長は静かに笑った。
それから机の引き出しを開ける。
中から取り出されたのは、一枚の写真だった。
見慣れない街並みに、読み慣れない看板。
夕焼け色の空。そして、美しい海岸線。
「次の転移予定先は、日本——まことみらい市だ」
「まことみらい市……」
私は小さく瞬きをした。
頭に浮かんだのは、
任務の危険性でも、怪盗団の事でもない。
ご飯は口に合うかな、とか。
湿気って凄いのかな、とか。
ちゃんと眠れる部屋はあるかな、とか。
そんな、どうでもいいことだった。
「日本支部には、既に受け入れ準備を進めさせている」
「……長くいるの?」
「日本へのジュエル転移は、おおよそ半年後の予定だ。『今ロンドンにあるジュエルを狙ったところで、また直前でどこかへ転移されるだけ』 ——おそらくファントムはそう考えていることだろう。ならば……」
「狙われるのは転移直後。そういうことね」
「そうだ。近年の執拗な追従から考えるに……奴らが転移先を先読みする何らかの術を得ているのは、最早疑いようもない。風の噂では何らかの新兵器を開発中との話も——」
「ちょっ、ちょっと待って!」
マシュタンが私の腕の中から勢いよく飛び出した。ふわふわの尻尾を逆立てながら、局長の机へ身を乗り出す。
「半年後なんでしょ!? だったら、るるかが今すぐ日本へ行く必要はなくない!? 別に転移直前でも——」
「それでは間に合わないからだよ」
局長は即答した。
有無を言わせない、静かな声だった。
「……間に合わない?」
「うむ」
局長はティーカップを置き、咥えていたシガレットチョコをペン回しのように指先で回転させ始めた。
「日本支部には現在、“名探偵プリキュアの候補生”がいる。奇遇にも君と同い年だ、るるか君」
「候補生……!?」
マシュタンが目を丸くする。
私は黙ったままだったが……正直なところ、驚いた。それもかなり。
——名探偵プリキュア。
それは歴史上でも数えるほどしか存在しない、“特別”な探偵だ。
おとも妖精と共に様々な事件を解決に導く、皆の憧れ。唯一無二の存在。
私自身、幼い頃から何度もそう言われ続けてきた。誰にでもなれるものじゃない。
優れた観察力や推理力だけでは届かない、“何か”を持った者だけが辿り着ける領域。
だからこそ。
自分以外にも、その資格を持つ誰かがいるという事実は、胸の奥へ静かに石を落とされたみたいな感覚があった。
でも、不思議と嫌な気持ちではなかった。
ただ、少しだけ落ち着かない。
まるで自分しか知らなかった秘密のパーティ会場へ、急にもう一人客人が招かれたような。そんな感覚だった。
「ふふ、驚いたかな。この情報は本部内でも一部の者にしか開示していなくてね」
「その子……どんな人なの?」
気づけば、私はそう口にしていた。
局長は私をじっと見つめ、それから静かにもう一枚の写真を机の上へ滑らせる。
写っていたのは、一人の少女。
艶のある青髪のロングヘア。
その編み込まれた片側を、ピンク色の蝶の髪飾りが静かに飾っていた。
柔らかな印象を与える、透き通るような瞳。
落ち着いたネイビーのロングカーディガンに白いブラウス、細身のスカートという装いは年齢よりも少し大人びて見え、背景に映る日本の街並みの中だと、まるで古い洋画から切り抜かれた人物のように浮いていた。
「……綺麗」
気づけば、思ったことがボソリとそのまま口から出ていた。
可愛い、というよりも綺麗。
年齢は私と同じはずなのに、どこか纏う空気が大人びている。
「帆羽くれあ。それが彼女の名前だ」
「帆羽くれあ……」
私はその名前を、小さく口の中で繰り返した。するとマシュタンが、私の肩の辺りまでふわりと浮かびながら写真を覗き込む。
「あらぁ……美人さんねぇ。なんだかモデルみたい」
「うん」
「るるかと並んだら絶対絵になるわ、これ……!あっ、勘違いしないでね?勿論るるかが世界でNo. 1よ♪」
何を想像しているのか、マシュタンは一人で盛り上がっている。……はしゃぎ回るマシュタンも可愛い。
私はそんな彼女を横目で見ながら、再び写真へ視線を落とした。
帆羽くれあ。
名探偵プリキュアの候補生であり、そしてもしかしたら……半年後には私と一緒に怪盗団ファントムに立ち向かうかもしれない相手。
そのはずなのに。
何故だろう。
写真の中の彼女から、探偵特有の"匂い"をあまり感じとれない。
「なんか、普通」
「普通?」
局長が片眉を上げ、不思議そうに聞いてくる。
私は一度コクリと頷いてから言葉を続けた。
「もっとこう……ギラギラしてる人を想像してたから」
「ふむ、ギラギラときたか」
「だって、名探偵プリキュアの候補生なんでしょう?」
自分で言っておいて、少し変な気分になる。
でも実際、そうだった。
もっと雰囲気が鋭くて。
もっと近寄りがたくて。
もっと、“特別”が目に見えるような人だと思っていた。
けれど写真の中の少女は、拍子抜けするほどに普通だ。きっと街ですれ違ったとしても、私は最初、彼女が探偵だと気づかないだろう。
「フッ、想像と少し違ったかな? ……だからこそ君には日本支部で、帆羽くれあ君を見極めてもらう」
「見極める?」
「彼女に“資格”があるのかをね」
局長はそこで一度言葉を切る。
そして静かに、目を据えてから私を見た。
「もし彼女が本当に名探偵プリキュアとなる器なら——予想される半年後の決戦までに彼女を導いてもらいたいのだ」
「彼女にはまだ、おとも妖精もいない。そもそも先程も言ったように、この事務所内ですら彼女の存在を知る者は限られている。極東の小さな支部だからね……まずは見極めの第一歩といったところさ』
「だが本当にもう一人、名探偵プリキュアが誕生するなら大変稀有な事だ。
同時期にプリキュアが二人存在した事例は、今までに数えるほどしかないからね。怪盗団ファントムを迎え撃つには、十全な戦力と言えるだろう」
「……頼まれてくれるかな? るるか君」
そこまで言い終えたところで、部屋に再び訪れる沈黙。
マシュタンが、心配そうにそっと私の顔を見上げた。
私は写真の中の少女を、横目でもう一度見る。
——私が、彼女を導く。
その言葉はなんだか、探偵として事件を任される時よりも、ずっと重みのあるものに感じられた。
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それからは、本当にあっという間だった。
日本行きが正式に決まったその日から、キュアット探偵事務所ロンドン本部は、まるで蜂の巣をつつかれたような大騒ぎ。
「るるかちゃん! 日本って湿気すごいんやろ!? ほな替えの靴下は多めや!」
「……そんなに要らないと思うけど。生活用品なら、日本支部にも用意されてる」
「要る要る! あとハンカチな! 汗拭く用と雨用と、マジック用と……」
「マジック用ってなに……」
ウォッシュが山のような洗濯済みの衣類を抱えて、私の部屋へ突撃してくる。
その後ろではチャティが、ティーポット片手にぴょこぴょこ飛び回っていた。
「日本茶についても勉強しなきゃですねぇ~! 抹茶! ほうじ茶! 麦茶! うーん、ボク、帰ってくる頃には和カフェマスターになってる気がします!」
「チャティは日本、行かないでしょ」
「気持ちです!」
「……そう」
「あと、ボク聞きましたよ! 日本には“メイド喫茶”っていう文化があるらしいです!」
「チャティ、あんたそれ、絶対周りに変な知識吹き込まれとるで」
ウォッシュが即座にツッコミを入れる。
私はベッドの上へぽすりと座りながら、その様子をぼんやり眺めていた。
とても賑やかだ。
部屋の隅ではマシュタンが、何やら真剣な顔で忘れ物チェックをしつつ、短い手でキャリーケースへ必死に荷物を押し込んでいる。
……真剣な顔のマシュタンも可愛い。
「着替えよし! プリキットよし! 常備薬よし! 枕よし!」
「枕、持っていくの?」
「当たり前でしょ。るるかって、自分で思ってる以上に、環境が変わると意外と繊細になるタイプよ」
「そうかな」
「ええ、そうよ!アタシはるるかの事なら、何でもお見通しなんだから♪」
マシュタンは自慢げに胸を張りながら、手元の小さな手帳へチェックマークを書き込んでいく。
その横では、レンチが工具箱を抱えたまま壁に寄りかかっていた。かと思えば彼は懐をゴソゴソと探り、小さな紙袋をこちらへ放って寄越す。
「ん」
「……なにこれ」
「キャラメルだよ。ベイカーストリート駅前の店で、この間買った」
「お菓子?」
「日本行くんだろ。向こうの飯が口に合わなかった時用だよ」
「私、そこまで子供じゃないけど」
「知ってる。けど、お嬢って偏食だからなぁ」
「偏食じゃない。あとお嬢はやめて」
「紅茶や栄養バーで腹膨らませてるような奴が何言ってんだ」
私は紙袋の中を覗き込む。
個包装されたキャラメルがいくつも入っていた。胸焼けしそうなバターの甘い香りが鼻腔を擽る。
……ちょっと重たい。しかも嵩張るし。
それに——
「前から言ってるでしょ。甘いもの、そんなに好きじゃない」
「マジか。人生損してんなぁ」
「別に」
「まぁ、いいや。食わねぇならマシュの字が食うだろ」
「だから誰がマシュの字よ!」
フシャーッと毛並みを逆立てるマシュタンをよそに、レンチはケラケラ笑いながらキャラメルを一つ、自分の口に放り込んだ。
「まぁ、なんだ」
「?」
「あまり気負い過ぎんなよ。別に世界を救うなんて、るるか達だけでやる必要ねぇんだから」
「そうやで。困ったらすぐ帰ってきてええんやからな!」
「あっちに着いても、たまにはお手紙くださいね〜。 あ、美味しい日本茶を見つけたらその都度レビューを書いてもらえると、ボク嬉しいです!」
皆のその言葉は、妙に真っ直ぐだった。
私は少しだけ目を瞬かせる。
でも、名探偵であるはずの私は、皆になんて返せばいいのか分からなくて。
「……うん」
結局、そんな曖昧な返事しかできなかった。
夜がふける頃には大体の荷物は固まった。
結果的に、要るものと要らないものの整理に時間を一番使ってしまった気がする。
窓の外では、ロンドン特有の白い霧が、暖かな街灯の光をぼんやりと滲ませている。
私はベッドへ倒れ込みながら、小さく息を吐いた。
「……疲れた」
ぽすん、と隣へマシュタンが飛び乗ってくる。
「お疲れ様、るるか」
「ごめんね。マシュタンの方が働いてた気がする」
「当然じゃない! アタシはあなたのお供妖精よ。こういうことはアタシに任せておけば良いの♪ それにるるか一人に荷造りを任せたら、絶対に必要最低限ギリギリラインのものしか持っていかないもの!」
「……そんなことないよ」
「あるわよ」
マシュタンはぷくっと頬を膨らませる。
それから、ふと視線をベッドサイドテーブルの上へ向けた。
そこには参考資料として局長から渡された一枚の写真。
そう、帆羽くれあの写真だった。
私もつられるようにそちらを見る。
「……ねぇ、るるか」
「なに?」
「その子、るるかのお友達になるかもね」
私は少しだけ目を瞬いた。
『お友達』
その言葉が、胸のどこかへ小さな針のように引っかかる。
スコットランドヤードの人達とも。妖精達とも。私はちゃんと仲が良いと思う。
でも、それらとは明確に違う響きだった。
「……どうかな」
私とは、きっと生き方も性格も何もかもが違うのであろう、同い年の少女。
——“早く会ってみたい”と、少しだけ心の中で思っている自分がいた。
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「……ここね」
私はキャリーケースの持ち手を握ったまま、目の前の建物を見上げた。
潮の香りを含んだ生暖かい風が、髪をふわりと揺らしていく。
昨日降ったらしい大雨によって出来た水たまりが、夏の太陽を鋭く砕き散らし、眩い白銀の光をアスファルトから空へと跳ね返していた。
早朝に日本へ着いたはずが、もうお昼時。
飛行機を降りた瞬間からずっと思っていたけれど……
——とにかく暑い。
七月初旬の空気が酷く重たい。
湿度が肌へまとわりついてくる感覚がする。ロンドンに立ちこめる霧とは違い、もっと濃密で意思を持った生き物のようなねっとりした空気だ。
それに、人も多かった。
空港では絶え間なく人混みに呑まれかけた。
出口へ行きたいだけなのに流れに逆らえず、あっちへウロウロ、こっちへウロウロ。
日本語のアナウンスが左右あちこちから高速で流れ続け、マシュタンはその度に「今なんて言ったの!?」と小声で狼狽えていた。パニック気味なマシュタンも、可愛かったけど。
一方の私はというと長時間のフライトと人混み、そして時差ボケでぼんやりしてしまい、体力を消耗。
気づけば私達は数十分ほど空港のフロントロビーに座り込んでいた気がする。二人して散々なスタートダッシュだ。
「るるか、ほんとにここで合ってるの?」
胸元に抱えたマシュタンが、きょろきょろと周囲を見回しながら言った。
私は局長から渡されていた地図を軽く見下ろし、小さく頷く。
「住所はここ」
「うーん……でもロンドン本部と比べると、全然イメージの違う建物ねぇ」
「日本支部だし」
「もっとこう……荘厳で煌びやかな感じかと思ってたわ! 黄金の扉とか、木造建築とか!」
町はずれの坂道を少し登った先の山間にある高台。燦々とした日差しに照らされたその建物は、建物全体を包む空気がロンドン本部とは違った。気持ちのいい風が抜けて、木々が揺れる。鳥の声が聞こえる。不思議なくらいに穏やかなロケーションだった。
淡いクリーム色の外壁と赤煉瓦、緑の屋根の組み合わせ。どこか柔らかく、親しみやすい色合い。二階建ての建物は横へ広く作られており、事務所というよりも、どこか大きな喫茶店や洋風の寄宿舎のよう。
大雨によって埃が洗い流されたらしく、全体的に壁面が光り輝いているのも、そのイメージを助長していた。
入口上部には小さなアーチ状の看板が掲げられており、そこには可愛らしい文字で『キュアット探偵事務所』と書かれている。
建物の側面には外階段。そこから直接二階へ上がれる構造になっているらしいが、今は使われてる気配がなさそうだ。
「……行こっか」
私はキャリーケースを引いて水たまりを避けながら、正面玄関へ続く階段を上がっていく。
巨大な木製の開き戸を、意を決してノックした。
「あの、すみません」
……返事はない。
もう一度。
「こんにちはっ」
やっぱり返事はない。
普段声を張るようなタイプではない私なりに、めいいっぱいの大声を出したのに。
これじゃまるで骨折り損だ。
マシュタンが、不安そうに片耳を揺らした。
「留守かしら?」
「でも、今日来るって話は伝わってるはず」
……仕方ない。私は少し逡巡してから、スカートの内ポケットへ手を入れる。
局長から渡されていた、小さな銀色の鍵。
『もし留守だった場合は使いたまえ』
そんな言葉を思い出しながら、私はそれを鍵穴へ差し込んだ。
カチリ。
軽い音を立てて、扉が開く。
「まぁ、留守な以上はコレしかないわね♪」
「……お邪魔します」
事務所の中へ足を踏み入れた瞬間、
ひんやりとした空気が肌を撫でた。
……よくエアコンが効いてる。
廊下を進み、応接室らしき場所へ入る。
ガラス張りのサンルームが併設されているらしく、柔らかな太陽光が壁全体を照らし出していた。部屋自体はまぁまぁ広く、目につくのは木目調の机やソファ、大きな本棚、ホワイトボード。窓際には観葉植物。
どうも数種類のフレグランスやアロマオイルが使用されているらしい。
一面の花畑のような良い匂いが、鼻孔に押し寄せてくる。
そこには確かな生活感があった。
探偵事務所というよりも、誰かの自室のような空気。
脳と目が勝手に部屋の観察を始める。
長年培われてきた、私の探偵としての癖だ。
棚の上はキチンと整理されていた。
書類も五十音順に几帳面に纏められ、本棚も乱れていない。掃除も行き届いている。
……ペン立てに入ったペンの本数。
……メモの筆跡。
……ソファに置かれた薄いブランケット。
全部、一人分。
「ここ、本当に候補生一人で回してるんだ」
自然とそんな結論が出る。お世話役の妖精がいる気配はない。
でも、少なくとも、雑に扱われている空間ではなかった。むしろその逆。
この事務所は、ちゃんと大事にされている。
「うーん、誰もいないわねぇ」
マシュタンがソファへ降り立ちながら言う。
私も何か他の手がかりはないかと部屋の奥へ視線を向けて……その時だった。
——シャァァァ……
ほんの僅かに、小さな水音。
私は目を細める。マシュタンも、耳をぴくりと動かした。
「……るるか?」
私は足音を潜め、静かに歩き出す。
探偵としての性だ。人の気配や生活音、物音がすれば、無意識に身体がそちらへ向かってしまう。
応接室を出てすぐ左に曲がった、その突き当たり。一番奥の部屋の扉を開けてみる。
ここもフレグランスの良い香りがした。
ピカピカに磨かれた洗面台の横では、最新型の洗濯機が唸りをあげて動いている。床に敷かれたバスマット。どうやら脱衣所のようだった。
となると、水音の正体は明白だ。
少しだけ開いた浴室の扉。
その向こうから、水滴が床へ落ちる微かな音がする。中から白い湯気が僅かに漏れていた。
……シャワー中なら仕方ない。驚かれるかもしれないが、大人しく応接室で待たせてもらおう——
——ガチャ。
ふいに、向こう側から浴室の扉が開いた。
「……え」
思わず声が漏れたのは、多分、私の方だったように思う。
湯気の向こうに、一人の少女が立っていた。
濡れた長い青髪。その毛先から水滴がぽたり、ぽたりと落ちている。
絹のように白い肌。
しなやかで細い肩。
鎖骨を伝い、胸元へと落ちていく雫。
身体へ巻かれたバスタオルに沿って、細くて華奢な輪郭が柔らかな湯気の中にぼんやりと浮かんでいた。
写真で見た時よりも、ずっと近い。
ずっと、ずっと生々しい。
シャンプーとリンスの甘い香りが、ふわりと鼻先を掠めた。彼女は、大きな瞳を静かに瞬かせる。
沈黙すること数秒。互いに固まったまま、動けない。
「…………」
結局、先に口を開いたのは、彼女の方だった。
「……あの……どちら様でしょうか?」
耳に心地よい、透き通るような声。
彼女だって驚いているはずなのに、その佇まいは妙に落ち着きはらっているように感じた。
私はパチクリと、一度だけ瞬きをする。
背後では、私を追いかけてきたマシュタンが信じられないものを見るみたいに口をぱくぱくさせていた。
いや。それよりも。
外部の人間が事務所の中……目の前にいるのだ。しかも自分はバスタオル一枚。
本来なら悲鳴の一つでも上がっておかしくない。少なくとも、マシュタンなら確実に飛び上って騒いでいる事だろう。
探偵として、いや、一人の女の子として、この子の警戒心はあまりにも薄すぎる。それとも驚きすぎて動けていないだけ?
とにかく、確かな事は。
湯気の向こうでこちらを不思議そうに見るその少女の瞳は、見惚れるくらいに綺麗だということだけだった。
……あともう一つ。私達は一秒でも早くこの脱衣所から出ていくべきなのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
応接室には、氷の入ったグラスが置かれていた。ガラス越しに差し込む夏の日差しが、その透明な表面を溶かさんがばかりに乱反射している。
対面の席は空いたまま。
冷房の効いた応接室はひんやりとしていて、さっき外で浴び続けた湿気混じりの熱気が嘘のよう。私は座り心地の良いソファへ腰掛けながら、ぼんやりとグラスを見つめていた。
この先、気まずい空気にならないといいけど。
脱衣所の方から聞こえていたドライヤーの音が、不意に途切れる。やがてパタパタと小さな足音が近づいてきた。私達の視線は自然とそちらへ吸い寄せられる。
先刻に衝撃的な出会いを果たしてしまったばかりの、この事務所の主——帆羽くれあが、応接室の入口へ姿を見せた。
当然、もうバスタオル姿ではない。
薄い水色の半袖ブラウスに、白いロングスカート。濡れていた青髪もある程度乾かしたらしく、左側に垂らした編み込みの先にはピンク色をした蝶の髪飾りが結われていた。彼女は入口で一瞬だけ姿勢を正すと、ぺこりと頭を下げる。
「……先ほどは失礼しました」
その声は至って平坦で、落ち着いている。
でも耳だけがほんのり赤いのを、見逃す私ではない。恥じらうのが少し遅い気もするけど。
私は小さく首を横へ振り、彼女に答えた。
「ううん、こちらこそ。勝手に入ったの、私だし」
「いえ……本部から今日来るとは聞いていたんですけど、その……まさか、もう到着してるとは思わなくて。てっきり夕方頃かと……」
「アタシ達が乗る飛行機、予定よりも少し早い便になったからね♪」
「そうだったんですね」
マシュタンが私の代わりに説明してくれる。
くれあはその言葉に頷きながらテーブルの上へ新しいコースターを静かに置いた。
それから冷蔵庫で冷やしていたらしいガラスのピッチャーを持ち上げ、私のグラスへお茶を注ぐ。その動きは、妙に手慣れていた。
おとも妖精もいない以上、きっと普段から依頼人にもこうやってお茶汲みをしているのだろう。
……ふーん、これが麦茶なんだ。
日本の伝統的な飲み物の一つ。
チャティからは、「フィッシュ&チップスによく合うんですよ〜」と教えてもらったことはあるが、実際に飲むのは初めてだ。
琥珀色の液体の中で、氷がカランと涼しげな音を立てた。
「……買い出しに行ってた?」
まずは一口目。麦茶の、香ばしさのあるすっきりとした味わいを楽しみながら、彼女に問う。帆羽さんの口から、呆けたような声が漏れた。
「え?」
私はそのまま続ける。
「その帰り道、工事現場近辺で泥を被ってしまったから、急いでシャワーを浴びた。違う?」
「な、なんでわかるんですか?」
「さっき脱衣所に置いてあった買い物カバン。土汚れが付いてた」
「ええ、確かにシャワーを浴びる前、そこに置きましたけど……」
「ここに来る坂道の途中、大きな水たまりの近くで配管工事をしているのを見たわ。昨日のまことみらい市は豪雨だったって空港のニュースで言ってたし、工事の原因はそれ」
「……」
「そしてカバンに付着してた土汚れの色……独特の黄褐色。あれは山間部特有の、鉄分を含む土が空気に触れて酸化した証拠。汚れが側面だけを中心に広がっていた事を考えると、転んで泥まみれになったとは考えにくい」
彼女が静かに目を見開く。私は淡々と言葉を続けた。
「坂道は直線の急勾配だったし、工事現場近辺にはタイヤ痕も沢山付いてた。なら答えは簡単。あなたはスピードの出た車に、不運にも水たまりに溜まった泥を跳ね掛けられた…… そうでしょう?」
「底はともかく、カバンの上面にも殆ど汚れがついていなかったのは、あなたがとっさに身を挺して覆い被さったから。つまり、中には買ったものが入っていたと想像はつく」
「……すごいですね。当たってます……」
「アタシ達が事務所に入った時点で冷房は来客向けの温度になってたし、お茶も準備しようとした形跡があったわね」
「そう。マシュタンの言う通り。……帆羽さん、私を出迎える準備、してくれてたんでしょう?」
数秒、部屋が静かになる。
やがて、感嘆のため息と共に帆羽さんが言葉を溢した。
「ロンドン本部の名探偵が来日するとは聞いてましたけど……凄い推理力ですね」
「これくらい普通」
「普通じゃないですよ。そこまで正確に行動を当てられるなんて思いませんでした」
「そう?」
私は首を傾げた。
でも実際、本当に特別なことを言ったつもりはない。見れば分かることを、そのまま口にしただけだ。
「ふふん、そうでしょう、そうでしょう! るるかは立派な名探偵プリキュアなんだから!」
「マシュタン……声大きい」
「あら、ごめんなさい」
マシュタンが慌てて両手で口を押さえる。
その瞬間だった。
帆羽さんの動きが、ぴたりと止まる。
麦茶のグラスへと伸ばされていた手も。揺れていた髪も。呼吸さえ、一瞬だけ止まったように見えた。
「……え」
——成程。彼女、やっぱり結びついてなかったのね。日本に来る名探偵プリキュアと、ロンドンで活動している探偵、森亜るるか。
帆羽さんは今この瞬間まで、この二つを別々の存在として認識していたのだろう。
全く、相変わらずロンドン本部は変なところで秘密主義である。彼女は数回瞬きを繰り返したあと、バネに弾かれたようにソファから立ち上がった。
「あなた……もしかしてあの、“天才少女探偵"の……!?」
「私のこと。あんまり好きな呼び名じゃないけど」
「若干、十六歳にしてスコットランドヤードに協力してるっていう……?」
「たまに」
「じゃあ、去年の"ヴィクトリアの輝き"窃盗未遂事件も?」
「うん」
「最近話題になってた倉庫街の人質事件も……」
「七日前のやつなら、そう」
そこまで聞いた瞬間。帆羽さんが完全に固まった。さっきまで落ち着いていた空気が嘘のように、視線が泳いでいる。
「……そんなに驚く?」
「驚くわよ……! まさか、森亜るるかさんが名探偵プリキュアだったなんて!」
思わずという風に、帆羽さんの声が大きくなる。でも彼女はすぐ我に返り、コホンと小さく咳払いした。照れくさそうな笑みと共に、言葉が紡がれる。
「私……貴方の記事、何度か読んだことあるんです。顔写真とかはなかったんだけど……"私と同い年でこんなにも凄い人がいるんだ"って、憧れてたの」
「えぇ!? ちょっと、どういうことよ?るるかの可愛い可愛いベストショットは極東の島国には伝わってなかったってコト?英国新聞社の人達は何してるのかしら、全く!」
「ふーん……」
マシュタンがブツブツと文句を言っているのは今は置いておくとして。
帆羽さんの言葉に、今度は私が固まる番だった。
憧れ。その言葉はあまりにも真っ直ぐに、私の胸に突き刺さった。
「帆羽さん」
「はい」
「……別に敬語はいらない。私達、同い年だし」
帆羽さんが、呆気にとられたようにぱちぱちと数回瞬きを繰り返す。
「でも、あなたはロンドン本部の名探偵プリキュアで……」
「それとこれとは話が別でしょう?ロンドン本部所属なのは関係ないし、別にプリキュアだからって偉いわけじゃない」
顎に手を当てて少し逡巡したあと、彼女は小さく微笑んだ。
「わかったわ。それじゃあ遠慮なく、"るるか"って呼ばせてもらうわね」
「……好きにして」
「私のことも"帆羽さん"じゃなくて、"くれあ"でいいのよ?」
「それは……ちょっと。遠慮しとく……」
「そう?残念」
……いきなり下の名前……ファーストネームの呼び捨てなんだ。
私達の年なら、コレが普通なのだろうか。
別に、全く嫌な気はしないけど。妖精以外の同年代の友人が皆無の私としては、少しむず痒い気持ちになる。
「それじゃあ、アタシも改めて。るるかのおとも妖精こと『占いの妖精』マシュタンよ。気さくに"マシュタン"って呼んでくれていいわ。アタシも"くれあ"って呼ばせてもらうから♪ 」
「ええ。よろしく、マシュタン」
お互いに少し遅い自己紹介を終えたかと思えば、帆羽さんの視線は一箇所に固定された。
正確には——マシュタンを見ていた。
まじまじと。
本当にまじまじと。
まるで美術館に展示された珍しい宝石でも眺めるかのように。
「その……触っても、良いかしら?」
「へ?」
「え?」
私とマシュタンの声が綺麗に重なった。
帆羽さんは今度こそ気まずそうに目を伏せる。
「ご、ごめんなさい。変なこと言ったわね」
「いや、別に驚いただけだけど……どうして?」
「だって、本当に可愛いんだもの」
そう言いながら、彼女はそっと手を差し出した。マシュタンは一瞬だけ、伺いをたてるかのように私を見る。別にマシュタンの好きにしていいのに。
私は小さく頷いた。
「……いいんじゃない?」
「まぁ、アタシの毛並みに見惚れちゃう気持ちは分かるわ!ロンドンでも皆から羨望のマトだったんだから。アタシが可愛いばっかりに、ごめんね!」
得意げに胸を張るマシュタン。
帆羽さんは、小さな子犬でも抱き上げるかのように恐る恐る指先を伸ばす。
ふわり。
紫色のもふもふした毛並みに触れた瞬間、彼女の瞳が僅かに見開かれた。
「凄く柔らかい……」
「当然よ! 毎日のお手入れは欠かしてないもの」
「すごい……」
撫でる。
また撫でる。
さらに撫でる。
ハート形に膨らんだ白い胸毛をかき分けてみたり。ほっぺをマッサージするように揉んでみたり。耳についた雫型の石飾りを指でなぞったり。マシュタンの耳が、気持ち良さそうにぴくぴく揺れた。
「ちょ、ちょっとくれあ?」
「ごめんなさい」
帆羽さんの口から出る言葉と、体の動きはまるで噛み合っていなかった。全然手が止まっていないし。
「思った以上に触り心地が良くて……」
「ふ、ふふん♪くれあも、中々、んっ、撫で方っ、上手いじゃない……」
マシュタンの尻尾が機嫌良さそうに揺れる。
案外満更でもないらしい。
……ちょっと嫉妬しちゃうかも。
私はその光景を眺めながら麦茶へ口を付けた。
それにしても、なんというか。
少し意外だった。写真で見た印象ではもっと大人びていて、落ち着いた人だと思っていたから。
今の彼女は年相応だ。その口元には、遠慮のない無邪気な笑みが浮かんでいた。
やがて帆羽さんは名残惜しそうにマシュタンから手を離すと、小さく息を吐く。
「……いいな」
「帆羽さん?」
「私ね、おとも妖精ってまだいないの」
応接室に静かな沈黙が落ちた。
マシュタンの耳がぴくりと動く。
「本部でもそう聞いた。それは、帆羽さんがまだ候補生だから?」
「ええ。局長さんには『その時が来れば分かる』って言われてるわ」
「ふぅん……」
局長、勿体ぶってる。全く、すぐ曖昧な言葉で誤魔化そうとするのは彼の悪い癖だ。
「でも、るるかとマシュタンを見てると少し羨ましいな」
「羨ましい?」
「だって、すごく仲が良いんだもの」
「……まあね」
私は思わずマシュタンを見た。
マシュタンもそれに応えるように私に視線を向ける。私が妖精達と一緒にいるのは、ずっと昔からだ。特にマシュタンは、そばに居るのが当たり前。相棒であり家族のようなもの。でも、それを特別気にしたことはない。
「私ね。今、一人でこの日本支部を任されてるんだけど……」
帆羽さんはそこで言葉を探すように視線を落とした。両手の人差し指の指先を揃えながら、彼女は小さく笑う。
「べつに、不満があるわけじゃないのよ? 依頼人さんも度々来てくれるし、近所の人達も優しいし。事件を解決するのも好き」
「うん」
「でも、一人で寂しくないかって聞かれたら……」
そこで彼女は少しだけ困ったような顔をした。伏目になって、フローリングの床の方を見つめる。
「……嘘になっちゃうかな」
カラン。彼女の持つグラスの中の氷が小さく鳴った。
私は何も言わない。探偵だから分かる。
今の言葉は相談ではない。ただの、本音だ。
だから余計な慰めは必要ない。
私はグラスを持ち上げ、麦茶を一口飲む。
香ばしい匂いが鼻腔を抜けていった。
「でも、これから暫くは私達がいる」
「え?」
「そうよ、そういえば!」
マシュタンがぽんっと手を叩いた。
肉球が弾む軽快な音が部屋に響く。
「アタシ達、本題を全っ然話してなかったじゃない!」
「本題?」
「私達が日本へ来た理由。局長からそこまでは聞いてないんでしょう?」
「……聞いてもいいの?」
「当然。そのために来たから。マシュタン、お願い」
「オッケー♪」
マシュタンは私が持ってきたキャリーケースの中から、マチ付きの封筒を取り出した。局長から渡された資料。
その中から一枚の写真を抜き出してテーブルへ置く。まるで舞台劇の怪人を模したかのような仮面を被った怪盗達。
「怪盗団ファントム……」
「知ってる?」
「ええ、名前と存在くらいは」
「半年後、まことみらい市へマコトジュエルが転送される予定なの。ロンドン本部は、彼らがそこを強襲するとみてる」
「えっ」
帆羽さんが目を見開く。流石に候補生。
マコトジュエルが悪用されることの重みは理解しているらしい。
「じゃあ、るるかはマコトジュエルの護衛に?」
「その推理は半分正解」
私は静かに答えた。
「もう半分は帆羽さん、あなたよ」
「……私?」
「私達の仕事は二つ。一つは日本での怪盗団ファントムの活動への備え。
そしてもう一つは……あなたを見極めること」
「それは、候補生の私がプリキュアになれるかどうかを?」
「そういうことよ。名探偵プリキュアの先輩がいれば、くれあも心強いでしょう?アタシとるるかが、あなたを導いてあげるわ♪」
「つまり、私達は数日程度の視察に来た訳じゃない。ファントムの野望を止めるまでは日本支部にいる予定。ここでお世話になる。だから少なくとも、その間は帆羽さん一人じゃない」
別に励ましたつもりはなかった。本当のことを言っただけだ。でも、何故か帆羽さんは目を丸くしたかと思うと、口元に優しげな笑みを携える。
「……ありがとう。凄く、凄く嬉しいわ」
「別に。ただの事実だけど」
「ふふ」
「……?」
やっぱり意味が分からない。
でも、悪い気分ではなかった。さっきまであった互いの緊張が、少しずつ解けていく感覚。
エアコンの人工的な風が、帆羽さんの青い髪を美しく揺らす。その向こうで、マシュタンはいつの間にやら彼女の膝の上へ移動していた。
……ちょっとマシュタン。懐きすぎじゃない?
浮気性なマシュタンも、可愛いけど。
ウットリとした表情で帆羽さんに顎の下を撫でてもらっているマシュタンを見ていると、自分の胸の中に形容し難い感情が渦巻くのを感じる。流石に一言、声をかけようとして……
その瞬間。
——バァンッ!!
勢いよく事務所の玄関扉が開く音が響いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
廊下の方から、ぱたぱたぱたっと慌ただしい足音。
「くれあお姉ちゃーーん!!」
満面の笑みを浮かべた元気いっぱいの子供の声が、事務所中へ響き渡る。帆羽さんが思わず顔を上げた。
「あら」
やがて応接室へ、一人の女の子が飛び込んできた。小学三年生くらいだろうか。
肩口で揺れる栗色の髪に、ひまわりを思わせる黄色いワンピース。小さなリュックを背負ったまま、肩で大きく息をしている。
どうやらここまで全力で走ってきたらしい。
部屋へ入るその所作にも迷いはない。
きっとこの事務所へ来るのも初めてではないのだろう。
女の子はそのまま真っ直ぐ帆羽さんへ駆け寄りかけて——
「……あれ?」
ぴたりと足を止めた。
大きな瞳が、まず私の顔へ。そして私の足元から上へ登っていき、さらにもう一度私の顔へ戻る。
「だ、誰……ですか?」
私はグラスを置いた。この国の人々は礼儀やねぎらいの気持ち、そして挨拶を何よりも重んじると聞く。郷に入っては郷に従えだ。
「こんにちは」
「こ、こんにちは……」
私から挨拶すると、女の子も律儀におずおずと頭を下げる。どうも人見知り気味な子らしい。
その様子に、帆羽さんが小さく笑った。
「ひまりちゃん。この人はね、ロンドンから来た探偵さんよ」
「ロンドン!? 外国の人!」
女の子——ひまりちゃんの目がとたんに丸くなる。
ロンドンという単語の響きだけで、外国への憧れが爆発したような反応だった。
「すごーい……日本語上手……」
「森亜るるか。よろしく」
「わ、私は佐倉ひまりです!小学二年生です」
勢いよく頭を下げる。
そして次の瞬間には、視線が再び帆羽さんの方へ向けられていた。
正確には——帆羽さんが抱えているマシュタンへ。
「…………」
ひまりちゃんの目が、きらきらと輝き始める。嫌な予感がした。
マシュタンは完全にぬいぐるみのふりをしているようで、微動だにしない。
だが緑色の瞳だけはこの先の展開を読んでいるように、どこか得意げだった。
「その子、かわいい……!」
あぁ、やっぱり。
「くれあお姉ちゃんの?」
「いいえ。この子はね、るるかのお友達なのよ」
「そうなんだ! きつね?」
「マシュタン」
「名前あるの!?」
「ある」
「すごいすごい!」
何がすごいのかは全く分からない。
でもひまりちゃんは何やら本気で感動しているようだった。
「さ、触ってもいい?」
「……どうぞ」
本来ならマシュタン本人へ聞くべきなのだろうけれど。その目線から伝わってくる気配だけで分かる。今のマシュタンは完全にその気だ。
「アタシが可愛いばっかりに!」オーラが全身から溢れ出ている。
ひまりちゃんは恐る恐るマシュタンへと手を伸ばした。
ふわっ。
紫色の毛並みに触れた瞬間、彼女の顔がぱあっと輝く。
「やわらかーーい!」
「……」
マシュタンはぬいぐるみを装ったまま。
しかし尻尾の先だけが、ほんの僅かにぴくりと動いた。私は見逃さない。
「今、喜んだ」
「え?」
「なんでもない」
ひまりちゃんは気付いていないようだが、私には分かる。マシュタン、完全に機嫌が良くなっている。
帆羽さんに撫でられて、ひまりちゃんに撫でられて。そして二人に揃って褒められて。
気分は最高潮といったところだろうか。
帆羽さんもそのことに気付いたらしく、口元へ手を当てながら笑っていた。
「ふふ、ごめんなさい。近所の子なの」
「常連?」
「ええ。前に何度か依頼を受けたことがあって」
「へぇ……」
「学校の飼育小屋の鍵が消えたとか、公園の花壇を荒らした犯人を探してほしいとか……そんな感じ」
「あとね!」
ひまりちゃんが勢いよくピーンと手を挙げる。マシュタンを離す気配はない。すっかりひまりちゃんに気に入られたようだ。
「ブランコの下に埋められた謎のタイムカプセル探しも!」
「うんうん、あったわね」
「あとあと、夏祭りのくじ引きのズル見抜いたのも!」
「それもあったわね」
「他にもいーっぱい! くれあお姉ちゃんはね、凄いんだよ! 探偵さんだし、お菓子だって作れるし! モデルさんみたいで綺麗だし、あとね、あとね——」
「ひまりちゃん、それ以上言うと私が恥ずかしいから……」
帆羽さんが頬を少し赤く染め、困ったように笑った。ひまりちゃんもそれに釣られて、ニシシと白い歯を見せながら元気よく笑う。
その光景を見ているうちに、私は一つのことに気付いた。この子は、帆羽さんを信頼している。
それもかなり。
事件を解決してもらったからだけじゃない。
きっとそれ以外にも、一緒に遊んだり、話を聞いてもらったりしているのだろう。
だからこの子は困った時、ここへ来るのだ。探偵事務所へ。
ひいては——帆羽さんのところへ。
やがて帆羽さんは改めて姿勢を正し、ひまりちゃんへ向き直る。
「それで?」
「あっ、そうだった!」
ひまりちゃんが我に返る。
そう、この子は依頼人。何か依頼があってこの事務所へ来たのだろう。
「くれあお姉ちゃん!」
「うん」
「今日もお願いがあるの! あのね……」
「落ち着いて。まずは座りましょうか」
帆羽さんは自身の両手でひまりちゃんの両手を包み込み、柔らかく微笑む。
「話はちゃんと聞くから。ね?」
ひまりちゃんは数秒迷ったあと、こくりと頷いた。そして帆羽さんの向かい……私の横のソファへ腰掛ける。
その様子は、まるで先生の前へ座る生徒のようだった。
——なるほど。
この子が帆羽さんを慕う理由が少し分かった気がした。
彼女は探偵というより、近所のお姉さんだ。
だからこの子は困った時、ここへ来る。
きっと他の人もそうなのだろう。
事件を解決してほしいからだけではない。
彼女に、話を聞いてほしいからここへ来る。
そういう依頼人もいるんじゃないだろうか。
「それじゃあ聞かせて。今日は何があったのかな?」
帆羽さんが優しく尋ねると、ひまりちゃんは膝の上で拳を握りしめた。
「……お母さんがね」
「うん」
「お誕生日プレゼントを隠したの」
私は思わず瞬きをした。
帆羽さんも少しだけ首を傾げる。
「今日がお誕生日なのね。おめでとう、ひまりちゃん! それで……隠したって言うのは?」
「うん。最近……お母さん、お仕事で忙しくて。
今日もお休み取れなかったの。
それでね、今朝お仕事に行く前に、お母さんから『ひまりへの誕生日プレゼントはどこかに隠してあるから探してみてね』って言われて……」
「なるほど。一種のゲームだね」
「それで机の上に暗号も置いてあったんだ」
「へぇ、暗号ね…… それ、見せてもらえる?」
今度は私も少し興味を引かれた。
ひまりちゃんはリュックを開き、中から折り畳まれた一枚の紙を取り出して私に渡してくれた。
どうも何度も開いたり閉じたりしたらしく、端が少しよれている。
その紙に書かれていたのは——
『すずな 芝生 野放し 体 迷い 酸素 靴
昼間 ツノ 挫折 木の下』
「……ナニコレ?」
覗き込んだ帆羽さんが目を点にしながら小声で呟く。
「一人で考えてても、全然わかんなくて……」
ひまりちゃんは唇を尖らせた。
少し泣きそうな顔。けれど本当に困っているというよりは、きっと悔しいのだろう。
「だからね」
そこでひまりちゃんはパッと顔を上げる。
キラキラとした期待に満ちた目が、帆羽さんに向けられていた。この人ならきっと解決に導いてくれると確信している空気。
「くれあお姉ちゃんに助けてもらおうと思って!」
——帆羽さんが、露骨に『お願い、協力して!』というアイコンタクトを私に送ってくる。
……いや、そんなに片目をパチパチさせなくてもわかってるから。手伝うから。
そんなわけで。
どうやらこの国での私の最初の事件は、暗号解読になりそうだった。
ひまりちゃんの話をあらかた聞き終えたところで、帆羽さんは優しく微笑みながら言った。
「わかったわ。まずはひまりちゃんのお家に行ってみましょう。暗号の紙だけじゃなく、お母さんが置いていった他の手がかりもあるかもしれないもの」
「うん! 家に行けば、もっとヒントがあると思う!」
ひまりちゃんが勢いよく立ち上がる。その瞳は期待と不安が入り混じった、子供らしい輝きを帯びていた。確かにこのままここにいても、何も始まらないだろう。私は小さく頷く。
「それじゃあ、移動しましょうか」
「ええ。この子の家まで徒歩で五、六分よ。すぐ近くなの」
帆羽さんはそう言って、事務所の鍵を手に取った。私はひまりちゃんからマシュタンを受け取っていつもの定位置、自身の胸元に抱え込む。彼女は得意げに胸を張った。
「よーし! るるかが出張れば、こんな子供向けの暗号なんて一瞬で解決よ!」
「……ん?お姉ちゃん何か言った?」
「何も言ってないよ。 ……ちょっとマシュタン、声が大きい」
「ふふっ」
帆羽さんがくすりと笑う。全く。妖精の存在がバレたら一大事だと言うのに……私は軽く肩をすくめて、キャリーケースを応接室の隅に置いたまま外へ出た。
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事務所の外は相変わらず蒸し暑かった。夏の陽射しが、まだ水たまりの残るアスファルトを照り返し、虹ヶ浜の潮の匂いを帯びた風がゆるやかに吹いている。
ひまりちゃんが先頭に立って腕を振りながら元気よく歩き出し、私たち二人(三人というべきか)はその少し後ろを並んで歩いた。
事務所前の坂道を少し下り、住宅街の細い道に入る。少し大きめの児童公園の前を通り過ぎて右に曲がると、整然と並ぶ一軒家。
ところどころから子供たちの笑い声や自転車のベルが聞こえてくる。
なんというか、ごく普通の日本の郊外の風景だった。
「さ〜がしに〜いくよ〜♪ ふんふふふんふん……」
ひまりちゃんの元気な鼻歌を旗印にしながら数分歩いたところで、帆羽さんが私の横に寄り、小声で囁く。
「……それで、どう? もう暗号は解けたの? 天才探偵さん」
彼女の声には、からかうような響きと、ほんの少しの期待が混ざっていた。私は紫色の瞳を細め、歩きながら答える。
「……まだ」
「あら、そうなの?」
帆羽さんがわずかに目を丸くする。隣でマシュタンが慌てて耳を立てた。
「ちょ、ちょっと待って! るるかに解けない謎なんてないはずよ!? アタシの占いでも、この事件は名探偵が華麗に解決するって出たわ!」
「……今のままじゃ無理。この紙に書かれてる単語、規則性も法則も見えてこないもの」
私は正直に言った。
『すずな、芝生、野放し、体、迷い、酸素、靴、昼間、ツノ、挫折、木の下』——
どの単語にも繋がりが全く感じられない。強いていえば「すずな」や「芝生」「木の下」など緑色を連想させる言葉が多いくらいだ。
単なる連想ゲームのようにも見えるし、頭文字を取ってみても意味不明。並び替えてみるのも、英語に置き換えてみても、しっくりこない。
このパズルを解くには、まだ必要なピースが足りない。マシュタンが私の顔を見上げながら焦ったように小声で続ける。
「で、でも! るるかはいつもこうやって一瞬悩んでから、すごいこと言うんだから! きっと何か見えてるんでしょ?」
「仮説ならいくつかあるよ、マシュタン。でも、上手く繋がらない」
「ふぅん……」
帆羽さんが小さく息を吐き、興味深そうに私を見た。その横顔は穏やかだが、瞳の奥に探偵としての好奇心が確かに灯っているのがわかる。
「私もさっきからずっと考えてるんだけど……全然ダメ。ひまりちゃんが言う『お母さんの手がかり』が鍵になるといいわね」
「うん。そう思う」
私は素直に頷いた。
一人で日本支部を回している帆羽さんにとって、こうして誰かと一緒に事件(とは言っても誕生日プレゼント探しだが)を考えるのは新鮮なのかもしれない。彼女の声には、ほんの少しだけ弾むような響きがあった。
私としても、コレは帆羽さんの仕事ぶりを観察する良いチャンスかも。
やがて、ピョンと元気よく水たまりを一つ飛び越えたひまりちゃんが振り返り、元気よくこちらに手を振る。
「もうすぐだよー! あそこ、ピンクの車が見える家!」
その視線の先には、ごく普通の一軒家があった。白い壁に淡いベージュの屋根。庭には手入れの行き届いた小さな花壇。車庫には、確かに可愛らしいピンク色のコンパクトカーが停まっている。
どこにでもありそうな、けれどひまりちゃんにとっては世界で一番安心できる場所——そんな空気が、陽射しの中に漂っていた。
「お母さんが隠したプレゼント、絶対に見つけようね!」
ひまりちゃんが玄関の鍵を取り出しながら、期待に満ちた目でこちらを振り返った。フンスフンスと鼻息荒いのが微笑ましい。
私は小さく息を吸い、瞳を細めた。
——さて。手がかりは本当にこの家の中にあるのだろうか。
ひまりちゃんの家は、想像通りごく普通の温かい一軒家だった。
玄関を上がると、明るいリビングが広がる。ソファの上にはクッションがいくつか散らばり、壁にはひまりちゃんの幼稚園の頃の写真が飾られていた。リビングと地続きのキッチンには昼食で使用されたのであろうお皿がまだ流し台に少し残っていて、テーブルの上には「お誕生日おめでとう」と書かれた小さなカードが置かれている。
私たちは手分けして家の中を丁寧に探した。
リビングの棚、テレビ台の下、ソファの隙間。
二階にあるひまりちゃんの寝室のベッドの下、勉強机の引き出し、クローゼットの中。
トイレのタンクの上、洗面所、バスルームの洗濯カゴの中まで。
しかし——何も見つからない。
「うーん……どこにもないね……」
ひまりちゃんが肩を落としながらリビングに戻ってくる。マシュタンが私の胸元で小さく首を傾げ、小声で呟いた。
「ねぇ、本当に手がかりは家の中なのかしら? お母さん、意外と意地悪かもしれないわよ」
「ひまりちゃんのお母さん、そんな人じゃないと思うんだけどな……」
帆羽さんが額に指を当てて考え込む。私は落ち着いて部屋全体をもう一度ゆっくりと見回した。うーん、あまりにも捜索範囲が広すぎる。
そもそもこの誕生日プレゼント探しゲームのタイムリミットは、ひまりちゃんの親御さんが帰ってくるまでに設定されている筈だ。だったらそんなに難易度は高くないと思うのだが。
「……手がかりが少なすぎる。暗号自体もまだ繋がらないし、もっと何かとっかかりがないと……」
私が正直に言うと、ひまりちゃんがぽつりと呟いた。
「あ……そういえば」
「どうしたの、ひまりちゃん? 何か気づいた?」
帆羽さんが優しく促す。ひまりちゃんは指を一本立てて、思い出したように言った。
「お母さんがいつも言ってるの。『困ったときは玄関の植木鉢の裏を見るのよ』って。家の合鍵とか、忘れ物したときとかに使うんだって」
「それだわ!」
帆羽さんがパッと顔を明るくする。私も小さく頷いた。今はどんな小さな手がかりでも調べるべきだろう。
「行ってみましょう」
急いで玄関に戻り、ドアの横に並んだ二つの植木鉢を調べる。
右側のオリーブの鉢の裏には……小さな鍵が一つ。おそらくこの家の合鍵だろう。
そして左側のシマトネリコが植えられた大きめの鉢の裏側には……透明なビニール袋で丁寧に包まれた一枚の紙がテープで留められていた。
間違いない、手がかりだ。
本当にあった。ひまりちゃんが興奮した様子でそれを取り、広げる。
そこには、丁寧な字でこう書かれていた。
『さくらひまりちゃんへ。
てがかりは、そのつぎからひとつとばしてよむことよ。がんばって! おかあさんより』
——あぁ、なるほど。そういうことね。
私は瞬時に暗号の意図を察した。わかってしまえば単純な話だ。胸の内で小さく息を吐く。この手がかり自体が、最早答えに等しい。
……さて、どうしよう。ここは帆羽さんに解決を任せるべきだろうか? ならさりげなくヒントを出して——
するとそんな事を考えていた私のその横で、帆羽さんが突然目を輝かせた。
「わかったわ!」
皆の視線が一斉に帆羽さんに集まる。彼女は紙を指差しながら、自信たっぷりに言った。
「この文章は間違いなく手がかりよ。お母さんが娘のひまりちゃん宛に手紙を書いてるのに、フルネーム……しかも全部ひらがなで書かれてるのはおかしいもの。つまりこれは、『暗号を全てひらがなに直せ』って意味だと思う」
「そっか! 『ツノ』だけカタカナなのは……」
「そう、『角』って書いちゃうと、『ツノ』なのか『カド』なのかわからないから。つまり、この暗号は……こうなるんじゃないかな」
「くれあお姉ちゃん、すごい!」
帆羽さんは得意げに人差し指で鼻の下を擦る。その、どこかわんぱくな仕草とモデルのような顔立ちとのギャップが、不思議と印象に残った。
「へぇ……やるじゃない」
「くれあ、冴えてるわね」
感嘆した私とマシュタンの小さな呟きが重なる。帆羽さんは答えに向けてパズルを順調に組み立て始めていた。これなら私の助言は必要ないかもしれない。このまま彼女に任せておけば自ずと解決するだろう。
だが——帆羽さんはさらに勢いよく続けた。
「ひまりちゃん。この住宅街の中に公園があったよね?」
「うん! ここから三分もかからないよ」
「…………え?」
前言撤回。どうやら彼女の推理は大きく脱線し始めたようだ。
「誕生日プレゼントは公園の砂場の中よ。ほら、この手がかりのとおりに暗号を一つ飛ばしで読んだら——」
帆羽さんは暗号の紙を手に取り、指で単語をなぞりながら読み上げる。一文字一文字、まるでピアノの鍵盤を確かめるかのように。
「『す な ば の な か だ よ』……『砂場の中だよ』になるでしょ?」
「くれあお姉ちゃん、すごーい! やっぱりお姉ちゃんは天才だよ!」
「ふふっ、ありがとう。でもこれはるるかと一緒に考えた結果よ」
……あの、私まだ何もしてないんだけど。
帆羽さんが照れくさそうに微笑む。
私は内心で小さく首を振った。気づいて、帆羽さん。そもそもの結論が違うの。その推理は間違ってる……
暗号文に対する彼女の解釈自体は正しい方向性だが、その適用の仕方がズレていた。
公園の砂場という結論は、あまりにも強引すぎる。そもそもその読み方だと後半の文章の意味が通らないし。
しかし、ひまりちゃんがこれほど喜んでいる以上、今ここで水を刺すのも酷だろうか。
そんな思案を巡らせていると、ひまりちゃんが徐に物置の方へ駆け出していく。
かと思えばすぐに戻ってきた。
右手には小さなスコップを二本持ち、もう片方の手には違う道具が握られている。
「はい、これ! るるかお姉ちゃん、使って!」
ひまりちゃんがにこにこしながら、私に"それ"を差し出す。
「……これって」
「熊手! ごめんね、スコップは2つしかなくって……でも毎年、虹ヶ浜の潮干狩りイベントで大活躍してるんだよ」
私は一瞬、言葉を失った。熊手……
ひまりちゃんの純粋な満面の笑みが、ただひたすらに眩しかった。
「さぁ、行きましょう! るるか!」
帆羽さんが勢いよく私の腕を取る。有無を言わせぬ笑顔だった。マシュタンも私の胸の中で楽しげに尻尾を振っている。
「え、ちょっと——」
「お姉ちゃん、早く早く! プレゼント、楽しみだなぁ」
ひまりちゃんが先頭に立って庭門を飛び出し、帆羽さんが私の手を引いてその後に続く。結局まともに抵抗する間も与えられず、私はあれよあれよと言う間に公園へと連行されることになった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
夏の午後の強い陽射しが照りつける中、私たちは再び住宅街の細い道を歩いていく。ひまりちゃんは意気揚々。帆羽さんはスコップを軽く肩に担いで「これで決まりね!」と自信満々だ。
私は熊手を片手に、諦めモードで小さくため息をついた。マシュタンが小声でくすくすと笑う。
「ふふっ、るるかったら。珍しく流されちゃってるわね」
「……そうかもね。どうも他の人と一緒に捜査するとペースが合わないみたい」
私は小さく答えた。
これまで私は、基本的に一人で事件を解決してきた。マシュタンがそばにいることは当たり前だったけれど、推理も判断も全ては自分の頭の中で完結させる。それが何よりも楽だったし、心地よかった。
私に失敗はないから。
間違わないから。
でも今、腕を力強く引いていく帆羽さんの背中を見ていると、なんだか不思議な感覚がする。
確かに彼女は私のペースを乱す……のかもしれない。その推理は直感的で、少なからず強引で、少しずれている。でも、依頼人の助けになりたいという熱意は本物だ。
……この先、半年後。もし彼女が本当に「名探偵プリキュア」として私の隣に立つことになったら——
私はその先の想像を、ふっと胸の奥にしまった。マシュタンが優しい声で話を続ける。
「ふふっ……まあ、いいんじゃない? アタシはるるかが一人で全部背負わなくていいと思う。
くれあみたいな子がそばにいるのも、きっと悪くないわよ」
「……どうしてそう思うの?」
「だって、るるか。あなた、ずっと『一人で大丈夫』って顔してたじゃない。でも今日は、ちょっと違う顔してるわよ」
そんな顔してたかな。考え込む私をよそにマシュタンは私の胸元から顔を上げ、緑色の瞳でじっと私を見つめた。
「アタシは確かにるるかの一番の相棒よ。これからもずっとね。……でも、もしもう一人、るるかの隣に立ってくれるような人が現れたら……それはそれで、悪くないんじゃない?」
最後の言葉に、いつものおどけた響きが混ざる。私は小さく微笑んだ。
「……また占い?」
「いいえ。コレはアタシの直感。でも当たるわよ、絶対ね!」
マシュタンが得意げに胸を張る。その仕草があまりにも可愛くて、私は思わず指で彼女の耳を軽く撫でた。
——隣に肩を並べる誰かがいる未来。
それがどんな形になるのか、まだ私にはよくわからない。
でも、少なくとも今この瞬間、他人に腕を引かれるこの感覚は、嫌なものではなかった。
彼女たちに連れられること数分。
やがて公園の入口が見えてくる。先ほど通り過ぎた児童公園。
入り口の石銘板には、『まことみらい第三公園』と刻まれていた。ひまりちゃんが歓声を上げる。
「着いたよー! ここだよね、くれあお姉ちゃん!」
「ええ。さあ、早速探しましょう!」
帆羽さんがスコップを握り直し、意気揚々と砂場に向かう。ひまりちゃんもその後ろをスキップ気味に追いかけた。私は地面を掘るには頼りない熊手を片手に、少し距離を置いてその様子を見守る。
児童公園は夏休み中の子供たちでそこそこ賑わっていた。ブランコで遊ぶ子、滑り台を駆け上がる子、サッカーをしている男の子たち——
そんな中、徐々に私達に集まってくる周囲の視線。
「何してるの、あの子たち?」
「何か落としたのかしら……?」
母親らしき人々が、度々怪訝そうにこちらを振り返る。
……いくら小学生と一緒とはいえ、読者モデルのような美人が白いスカートをはためかせて、一心不乱に砂を掘り返す光景は異様に映るのだろう。砂の山や城を作っているわけでもないし。
私達以外は誰も遊んでいなかった。
一方で帆羽さんはそんな目線に気づいているのかいないのか、スコップで砂を勢いよく掻き分けながら、明るい声で言う。
「ひまりちゃん、こっち側もお願い! もう少し深く掘ってみて!」
「うん! 絶対見つけてみせるもん!」
二人はいよいよ本気で掘り始めたようで、周囲に砂が四散する。昨日降ったという大雨の影響で、砂は少ししめりけを帯びているのがわかる。
そのおかげで掘り返しやすくはあるのだろうが、帆羽さんのスカートの裾はみるみる砂まみれになり、ひまりちゃんのワンピースも膝のあたりが茶色く汚れていく。
……服、汚れるわよ?もう遅いけど……
私は内心で小さく呟いた。特に帆羽さんはさっきシャワーを浴びたばかりだというのに。
周囲の視線がますます痛い。危篤な目、というよりはトラブルか何かかと心配するような気配がちらちら飛んでくる。マシュタンが私の胸元で耳を動かしながら、くすくす笑った。
「ふふっ、くれあったら本気になってるわね。るるか、助けに行かないの?」
「……今はいいわ。様子を見てる」
私は熊手を軽く握ったまま、一歩引いて二人の様子を静かに観察した。掘れども掘れども、何も出てくる気配はない。
私は瞳を細め、砂場の端に視線を移した。
——やっぱり、正解はここじゃないらしい。
でも今は、二人がこの「誤解」を楽しんでいるように見える。少しだけ、このまま見守るのも悪くないかもしれない。
我ながら妙な気分だ。いつもなら見えた答えを最短最速で相手に突きつけるのが私のやり方だというのに……
帆羽さんが汗を拭いながらこちらを振り返り、笑顔で手を振った。
「るるか! 一緒にやらない? 熊手もあるんだから!」
「…………」
正直なところ、私は服を汚すのはゴメンだ。
ひまりちゃんも「うーん……見つからないなぁ……」と膝を砂だらけにしながら、唇を尖らせている。流石にそろそろ潮時だろう。
二人に暗号の解読方法を教えようとしたその時、砂場の近くの遊具の方から、男の子達が騒ぐ声が聞こえてきた。
「——そういや、お前さぁ」
「ん?」
「ねぇ、ちゃんと風呂入ってる?」
「はぁ? 当たり前だろ!」
「えぇー? お前、姉ちゃんと風呂入ってんのか?」
「んなっ……そういう意味かよ! 引っかけるのやめろって!」
「ハハハハハ!」
ひまりちゃんと同じく小学生くらいだろう。数人で鬼ごっこをしている最中らしく、お互いにからかい合って大声で笑い転げている。
「もう……男の子って、ほんとに馬鹿なんだから」
ひまりちゃんが呆れたように呟いた一方で、その言葉を聞いた帆羽さんの動きがぴたりと止まった。
彼女はスコップを握ったまま、ゆっくりとこちらを振り返る。透き通るような瞳に、何か閃いたような光が宿っていた。
「……帆羽さん、わかった?」
私が静かに尋ねると、帆羽さんは小さく頷いた。口元に、探偵らしい柔らかな笑みが浮かぶ。
「ええ。真実の香り、確かに感じたわ。……るるか、貴方は最初から気がついてたんでしょう?」
「まあね」
そう、図らずしも今の男の子達の何気ない会話は答えへの大きな道標。
どうやら彼女も気づいたらしい。あの暗号が示すただ一つの答えに。
帆羽さんはスコップを砂場に突き刺したまま、ゆっくりと立ち上がった。砂まみれのスカートを軽く払い、彼女はどこか晴れやかな表情を浮かべる。
「ひまりちゃん。もう一度、お家に戻ろっか」
「え……? もう砂場掘らなくていいの?」
ひまりちゃんはスコップを握ったまま、目をぱちくりとさせた。彼女の膝やワンピースはすっかり砂だらけで、汗で額の前髪がぺったりと張り付いている。期待と不安が混じった大きな瞳が、帆羽さんをじっと見つめていた。
「誕生日プレゼントの隠し場所……今度こそわかったわ」
「期待していい。今度こそ見つかる」
私も熊手をひまりちゃんに返しながら、軽く彼女の答えを補足しておく。ひまりちゃんは少し首を傾げ、帆羽さんをじっと見つめた。その大きな瞳に込められているのは、純粋な驚きと期待。
「くれあお姉ちゃんがそう言うなら! ……どうやってわかったの? 教えて教えて!」
「ええ、お家に着いたらね」
ひまりちゃんの声は尊敬の色が濃く、砂だらけの手をぱたぱたと振りながら、帆羽さんの隣にぴったりと寄り添う。
帆羽さんは少し申し訳なさそうに目を細め、ひまりちゃんの頭を優しく撫でた。
「……ごめんね、ひまりちゃん。さっきは私が早とちりしちゃったの。直感頼りじゃなくて、もっとよく考えるべきだったわ」
「ううん! 全然いいよ! くれあお姉ちゃんが一生懸命考えてくれたんだもん!」
ひまりちゃんは首を横に振って、満面の笑顔を見せる。むしろ帆羽さんの手をぎゅっと握り返し、跳ねるように歩き始めたのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
数分後、砂場セットと共に私たちは再びひまりちゃんの家の玄関前に戻ってきた。
道のりは短いとはいえ、こうも一日に同じ道を何度も通ることになるとは。
気づけばそろそろ街もオレンジに染まる頃。ガレージに停まっているコンパクトカーの車体が、まるで今日という日を惜しむように夕日を反射し、茜色の火花を散らしていた。
ひまりちゃんは息を弾ませながら玄関のタイルにぴょんと飛び乗り、期待で目を輝かせながら私たちを見上げる。
「着いたよ! さあ、教えて! プレゼント、どこにあるの!?」
帆羽さんは砂まみれのスカートを気にする様子もなく、優しく微笑む。
いよいよパズルの答え合わせの時間だ。
私の答え、見せてあげる。
「……結論から言うけど。この暗号の中で意味があるのは、後半だけなの」
「へ? どうして?」
私がそういうと、ひまりちゃんは首を傾げる。大きな瞳が交互に私と帆羽さんを往復した。帆羽さんはひまりちゃんにひとつ頷き、ヒントの紙をポケットから取り出して指でなぞりながら説明を始める。
「あのヒントの紙には、『そのつぎからひとつとばしてよむ』って書いてあったよね?」
「うん。だから『すなばのなかだよ』だって……」
「でもね。いきなりそんな言い回しって、少し変だと思わない? その次って『どの次』からなのかわからないでしょう?
これはつまり、『そ』の次からだけを読むってことなのよ。そもそも私の最初の読み方だと、『すなばのなかだよ』の続きが読めないしね」
「つまり……『さんそ』から後だけ?」
ひまりちゃんは一生懸命に暗号の後半を指で追いながら、
「でも、そこから一つ飛ばしで読んでも『く、ひ、ま、の、せ……』だし、よくわかんないよ?」
と首を傾げたまま、期待と困惑が入り混じった顔で私たちを見つめた。
帆羽さんは優しく微笑みながら、ひまりちゃんの目線に合わせてしゃがみ込む。
「ひまりちゃん。もし、銭湯の脱衣所に『ここでは着物を脱いでください』って貼り紙があったら、どうする?」
「え? もちろんお洋服を脱ぐけど」
ひまりちゃんは即答したあと、少し不思議そうに首を傾げる。
何故そんな事をいきなり聞くのかと言いたいのだろう。私はその横から静かに続けた。
「なら、学校の下駄箱に『ここで履き物を脱いでください』って書いてあったら?」
「上履きに履き替える……」
ひまりちゃんはそこで言葉を止めた。
大きな瞳がゆっくりと見開かれ、砂まみれの頰がぱっと赤くなる。
「ああっ!」
彼女は両手をぱんっと叩き、勢いよく立ち上がった。どうやら彼女も気づいたらしい。
「わかった!文字にするとどっちも一緒なんだ!『ここではきものをぬいでください』って!」
ひまりちゃんの声が興奮で上ずる。彼女は暗号の紙を指差しながら、目をきらきらさせていた。私は小さく頷きながら説明を補足する。
「そう。これは所謂『ぎなた読み』。読書力に乏しい日本人が持つ、読書の悪癖の一つよ。そして日本語特有の言葉遊びでもある。一説には『弁慶が、なぎなたを持って』と読むべきところを、『弁慶がな、ぎなたを持って』と誤って読んだ逸話が……」
「……るるかお姉ちゃんのお話、難しいよぉ」
ひまりちゃんがまるでついていけないといった様子で頰を膨らませる。
——む。小学生の彼女には少し難解すぎただろうか。私は内心で小さく肩をすくめた。人馴れしていない自分が、ついペラペラと話しすぎてしまった。マシュタンなら「るるか、難しい話は後にして!」とツッコミを入れてくれそうだけれど……今は彼女も私の胸元でじっとしている。
帆羽さんが慌てて私のフォローをするように明るく笑った。
「つ、つまりね。このヒントは『その次から一つ飛ばしで読む』んじゃなくて、『“そ”の次から”ひ”と”つ”を飛ばして読む』ってことだよ」
「……よって読むべきは『さんそ』の後の、『くつ ひるま つの ざせつ きのした』
から"ひ"と"つ"を抜いた部分だけ。正解は『くるまのざせきのした』——車の座席の下よ」
「えっ……車!?」
ひまりちゃんが目を丸くする。帆羽さんも小さく頷いた。タネがわかってしまえば簡単な暗号だ。小学生に解いてもらうには適したレベルだと言えるだろう。
「きっとガレージの車だよね。さぁ、調べてみよっか?」
帆羽さんがそう言うと、ひまりちゃんは興奮のあまり玄関でぴょんぴょん跳ねながら、壁のフックにぶら下がっていた車のキーを勢いよく掴んだ。
探偵帽子を被った金髪の女の子のストラップが、ひまりちゃんの手元で大きく揺れる。
「これ! お母さんがいつもここにかけてるやつ! 行こ行こ!」
彼女はキーを握りしめ、先頭に立って玄関を飛び出した。帆羽さんが微笑みながらその後を追い、私もマシュタンと一緒にその後ろへついていく。
ガレージに停まっているピンクのコンパクトカーのドアを開け、ひまりちゃんが助手席に潜り込む。しばらく座席の下を一生懸命に探る音が聞こえたあと……
「あったぁぁぁっ!!」
ひまりちゃんの歓声が住宅街に響いた。
彼女が引っ張り出したのは、綺麗な包装紙に包まれた小さな箱。リボンには「ひまりへ お誕生日おめでとう お母さんより」と書かれたカードが付けられている。
「わぁ……! お母さん、こんなところに隠してたんだ……!」
ひまりちゃんは箱を抱きしめてその場でくるくる回る。砂まみれのワンピースがまるで今日一日の努力を賞賛するように夕日の中でふわりと広がり、その顔には満面の笑顔が浮かんでいた。
帆羽さんが優しくその背中を撫でる。
「よかったね、ひまりちゃん」
「うん! くれあお姉ちゃん、るるかお姉ちゃん、ありがとう! 二人とも、ほんとにすごいよ!」
私は静かにその光景を見守りながら、胸の内で小さく息を吐いた。マシュタンも「アタシの占い通りね」と目線で伝えてくる。
——この一件、どうやら無事に解決したようだ。
ひまりちゃんは箱を大切そうに抱えたまま、玄関前のタイルに座り込む。
「開けていい?」
「もちろん」
帆羽さんが優しく頷く。ひまりちゃんはリボンを解き、包装紙を丁寧に剥がした。中から出てきたのは、ふわふわの茶色のクマのぬいぐるみ。首には小さな赤いリボンが巻かれ、おしゃれな緑のジャケットを羽織っている。
「わぁ……! クマさん! かわいい……!」
ひまりちゃんの目がきらきらと輝く。彼女はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、頰をすり寄せた。
「……あれ?」
何かが動いたような、カサリという小さな音。よく見るとぬいぐるみの胸ポケットには、小さく折りたたまれた手紙が入っていた。ひまりちゃんがそれを震える手で開くと——
『大好きなひまりへ
お誕生日おめでとう。
お仕事で忙しくて、ごめんね。
このクマさんと一緒に、たくさん遊んでね。
お母さんより』
彼女の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「うう……お母さん……」
その時、家の前から革靴特有のカツカツという足跡が聞こえた。門が開き、いかにも仕事帰りといった風貌の女性が疲れた様子で玄関前に入ってくる。
スーツのジャケットは少し皺になり、髪も少し乱れていた。目元には疲労の色が濃く、相当忙しかったと見える。
きっと彼女がひまりちゃんの母親なのだろう。
「ただいま。ひまり」
母親が声をかけると同時に、ひまりちゃんが全力で彼女に飛びついた。
「おかえりなさい!見つけたよ、プレゼント!」
「えっ、本当に?あの暗号解けたの?……ってひまり、あなた泥だらけじゃない」
お母さんは驚いた顔で娘を抱きとめ、目を丸くした。帆羽さんが穏やかに微笑みながら一歩前に出る。
「お帰りなさい、佐倉さん。今日は少し長引いちゃいましたね」
お母さんは帆羽さんの顔を見て、ほっとしたような笑みを浮かべた。
「あぁ、くれあさん……本当にありがとう。今日も娘の面倒を見てくれて……いつもすみません」
私は内心で小さく驚いた。
どうやら帆羽さんは、この家の母親ともすでに顔見知りのようだ。
やり取りを聞いていると、どうもひまりちゃんの依頼だけでなく、母親が仕事で遅い日の夕食や宿題の見守りなども、近所のお姉さんとして自然と手伝っているらしい。改めて佐倉さんと呼ばれた女性が深く頭を下げる。
「プレゼント探し、くれあお姉ちゃんが助けてくれたの! でも今日はね、ロンドンから来た探偵さんも一緒だったんだよ!」
ひまりちゃんがそう言うと、佐倉さんの視線が自然と私に向けられる。
私は努めて穏やかに微笑みながら、一歩前に出た。
「……初めまして。森亜るるかです」
お母さんは一瞬驚いた顔をしたあと、すぐにまた深々と頭を下げた。
「探偵さん、助かりました。本当に……今日はどうしても休みが取れなくて」
「……別に、私は何も」
私がそう言うと佐倉さんは顔を上げ、優しいけれどどこか疲れたような笑みを浮かべた。
「それでも嬉しいんです。せっかく娘の誕生日なのに、一緒にいてあげられなかったから。暗号ゲームくらいしか用意できなくて……この子と一緒に遊んでくれてありがとうございます、森亜さん」
その言葉が、妙に胸に残った。
大切な人と一緒にいたい。
会えなくて寂しい。
それでも相手を責められない。
そういう気持ちなら、私にも分かる。
ロンドンを発つ前日……一昨日だってそうだ。まだ記憶に新しい。
ウォッシュが見送ってくれた時の笑顔も。
チャティの少し寂しそうな声色も。
レンチがどこか不器用な励まし方をしてくれたことも。
皆、いつも通りに振る舞おうとしていたけれど、少しだけ寂しそうで。
私は沢山の妖精たちに囲まれて育った。
だから、自分が大切にされていることくらいわかっている。でも、目の前の二人を見ていると、彼女達の間にはそれとは少し違う何かがある気がした。
佐倉さんが泥だらけのひまりちゃんの髪を優しく撫でながら、囁くように言う。
「ごめんね。今年も仕事で……」
「謝らないで。お母さん頑張ってるもん」
ひまりちゃんは、少しも怒っていなかった。
寂しくなかったわけじゃないはずだ。
今日一日、一緒に過ごした私には分かる。
本当は仕事を休んで欲しかった。
本当は誕生日を一緒に過ごしたかった。
それでもこの子は母親を責めないし、佐倉さんもまた、その気持ちに甘えない。
まるで見えない糸のようなものが、二人の間を静かに繋いでいるようだ。
何なのだろう。探偵として沢山の人間を見てきたはずなのに、今の私にはその繋がりを上手く言葉にできなかった。
信頼?
愛情?
それとも母親だからなのだろうか。
……名探偵なのに、分からない。
少なくとも、私にはそう呼べる相手はいない。
そんなことを考えていると、佐倉さんが優しい笑顔を浮かべたまま私たちに向き直った。
「お二人が一緒に調査してくださったおかげで、ひまりもこんなに喜んで……今日はもう遅いですし、ご一緒に夕食でもいかがですか?」
「いえいえ、今日はもうお引き取りします。るるかも日本に着いたばかりですし。ひまりちゃんも今日は誕生日なんだから、家族とゆっくり過ごしてね」
そこまで言った帆羽さんが、不意にこちらを見た。明るいトパーズ色の瞳と目が合う。
彼女は何か言いたげな顔だったが、結局何も言わずに微笑むだけだった。
「うん、今日はありがとう! またね、くれあお姉ちゃん! るるかお姉ちゃん!」
ひまりちゃんはぬいぐるみをぎゅっと抱いたまま、元気よく手を振る。佐倉さんも深く頭を下げてくれた。
「また何かあれば、遠慮なくキュアット探偵事務所までご依頼くださいね」
「はい。本当にありがとうございました。お気をつけて」
私たちは佐倉母子に見送られながら、夕暮れの住宅街を歩き始めた。橙色の空の下、夏の日差しもなりをひそめ、潮の匂いを運ぶ風が少し冷たくなってきたのを感じる。
事務所までの道中、帆羽さんが小さく息を吐いた。
「……よかった。ひまりちゃん、喜んでくれたわね」
「うん」
私は短く答えた。マシュタンが私の胸元で自慢げに耳を動かす。
「アタシの占い通り、名探偵達が華麗に解決したわ! ……まあ、結局はるるかの独壇場だったけどね」
「ふふ、そうね。るるかのおかげで、無事に暗号の答えに辿り着けたわ。今日はありがとう」
「……別に」
私は視線を少し逸らした。
こうも直接的に同い年の子から感謝されるのは、まだ少し慣れない。
やがて坂道の上に事務所が見えてきた頃、帆羽さんがふと立ち止まった。
「今日はもう遅いし……るるか、体をゆっくり休めてね。明日からは本格的に日本支部の仕事も手伝ってもらえると嬉しいな」
「えぇ、わかった」
私は小さく頷いた。
事務所の扉を開けると、ひんやりとした冷房の空気が迎えてくれる。今日一日の出来事が、なんだか遠い出来事のように感じられた。
——日本に来て、初めての依頼。
決して大きな事件じゃなかったけれど。
それは確かに心に残る一日だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
夜更けの離れは、静かすぎて少し息苦しい。私はベッドの中で目を開け、天井を見つめていた。
「荷解きは明日で良いからね」と帆羽さんから与えられた、彼女の部屋の真向かいの空き部屋。
壁際に無造作に置かれたままの私のキャリーケースが、部屋の殺風景さを強調している。
私が今寝転んでいるベッドにはロンドンから持ってきた(正確にはマシュタンがキャリーケースに押し込んだ)白いレースの枕が一つと、備え付けの薄い毛布。
廊下側の壁沿いに配置されている大きな本棚は空っぽで、壁には何の装飾もない。ただ淡いベージュの壁紙が無機質に広がっている。
私の趣味ではない淡い水色のカーテンが閉め切られたままの窓際には、埃が薄く積もった小さなサイドテーブル。
全体的に生活の気配がほとんど感じられない。つい先刻まで空き部屋だったわけだから当然ではあるのだけど。
ベッドの真ん中では、淡い紫色の毛並みが規則正しい寝息に合わせて小さく上下している。
当の本人にそんな自覚はないのだろうが、マシュタンは昔からベッドの中央を陣取る癖がある。おかげで私は、すっかり脇へ追いやられる形になっていた。
丸まった体は脱力し、短い前足をぴったりと胸に引き寄せ、耳の先まで安心しきった様子。夢の中ででも楽しいことでも起きているのか、時折彼女の尻尾の先がふにゃりと小さく動く。緑色の瞳は固く閉じられ、長いまつ毛が影を落としていた。
木目調の天井板が、カーテンから溢れる月明かりをわずかに受け止め、部屋に淡い影を落とす。時計の針は、もう午前二時を回っていた。
時差ボケもあるのだろうか。全く眠気が訪れない。
『るるかって、自分で思ってる以上に、環境が変わると意外と繊細になるタイプよ』……日本に来る前に、マシュタンに言われた言葉をふと思い出す。実際のところそうなのかもしれない。
全く、私以上に私のことを理解しているおとも妖精がいるなんて幸せ者だ、なんて取り止めのない思考が頭をよぎる。
ロンドンとは違う、湿った日本の夏の夜。
エアコンの微かな風音と、中庭の方からかすかに聞こえるキリギリスの声だけが、部屋の中に溶け込んでいる。
……駄目だ。どうしても眠れそうにない。
私は小さく息を吐き、ベッドから体を起こした。薄手の黒いパジャマの上にカーディガンを羽織り、静かに部屋のドアへ向かう。
マシュタンを起こさないよう、足音を忍ばせて。別に喉が渇いているわけではない。ただ、部屋にじっとしているのが耐えられなかった。
少し事務所内を散策でもしよう。
日本支部の夜の空気を感じてみれば、頭の中が少し整理されるかもしれない。
ドアをそっと開け、薄暗い廊下に出る。
意外にも廊下は涼しかった。この事務所は高台に建てられているし、この時間なら案外過ごしやすいのかもしれない。
離れの玄関口、共有スペースの方へ向かうと柔らかな明かりが漏れているのに気付いた。
テーブルの上の小さなダウンライトが、ぼんやりと灯っている。推理するまでもない。私とマシュタン以外に誰か起きているとしたら、犯人は一人しかいない。
ソファに腰掛けていたのは、やはり帆羽さんだった。薄い水色のルームウェアに、膝掛けを軽くかけている。
彼女はカモミールティーの入ったグラスを両手で包み、ぼんやりと窓の外の夜空を見ながらほぅ、と息を吐いた。
その光景は、まるで色彩豊かな一枚のキャンバスから抜け出してきたかのようで。
「……るるか?」
私の気配に気づいた帆羽さんが、ゆっくりと振り向いた。彼女は少し驚いた顔をしたあと、柔らかく微笑む。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「ううん……ちょっと目が覚めただけ」
まぁ本当は一睡もできていないわけだけど。
私は少し迷ってから、彼女のすぐ隣へ腰を下ろすことにした。
……………しばらくの沈黙。
妙に緊張する。こういう時、私達くらいの年代の女の子は何を話すのだろうか。
彼女は、聞いてもいないことを喋ってくるロンドンのおしゃべりな妖精達とは違うのだ。
何か……何か私の方から話題を振らないと。
ふと、今日(正確には昨日だが)帆羽さんが作ってくれた晩ごはんのことを思い出した。
シンプルな和食だったけれど、味噌汁と一緒にいただいた煮物やおひたしは、優しい味がした。忙しい事件捜査の合間に食べる栄養バーやインスタント食とは違う、家庭の温かみを感じる味。
「……帆羽さんの作ってくれた晩ごはん、美味しかった」
思わず口に出すと、帆羽さんは少し照れたように笑った。
「ふふ、ありがとう。時間がなかったから大したもの作れなかったけど……るるかが喜んでくれて嬉しいな。今度、好きなものとか教えてね」
「うん」
そこですぐ会話が途切れてしまう。
あぁ、我ながらなんて口下手なんだろう。再び私達の間には夜の静けさが満ちてしまった。
帆羽さんはカモミールティーのグラスをそっとテーブルに置き、窓の外に視線を戻す。
そのまま少しだけ私の方へ体を寄せて膝の上の毛布を直しながら、彼女はぽつりと呟いた。
「私ね、ここから見る中庭と夜空が好きなの。るるかは……ロンドンでは、こんな夜中に目を覚ますことある?」
「たまにね。でもロンドンは霧が濃いし、夜は景色なんて中々見えないわ。街灯の光が滲んで、世界がぼやけているみたいに見えるの』
「ふーん、るるかってば、意外と詩人なんだ」
「……揶揄わないで」
「ふふ、ごめんなさい。……今日のひまりちゃんのプレゼント探し、楽しかったね。私、人と一緒に推理するのって初めてだったけど、なんだか新鮮だったわ」
「私も、他の探偵と共同で推理するのは久しぶりだった」
「ぎなた読みなんて言葉、初めて聞いたなぁ。どうしてるるかはそんなに日本語が上手いの?」
「小さな頃から色んな国の言語を教わってきたから。本部の表向きな代表として」
「さすが天才少女探偵」
「Pas tant que ça.(それほどでも)」
「まだ初日だけど、私の名探偵プリキュアとしての適正についてはどう思う? やっぱり最初の推理は間違っちゃったし、減点かな?」
とりとめない会話のキャッチボールが、そこで一旦途切れる。私は少しだけ首を傾げ、帆羽さんの横顔を見た。
月明かりが彼女の青い髪を柔らかく照らしている。先ほどまでの少し照れくさそうな表情は消えて、今は真剣に私の答えを待っている。
「……減点なんて、ない」
私は静かに言った。
「ひまりちゃんが困っていたとき、真っ先に『家に行ってみましょう』って提案したのは帆羽さんでしょう?それに、服が汚れるのも構わずに必死で砂を掘り起こして……間違えたときも素直に謝って、ひまりちゃんの頭を撫でてあげてた。あの子の目、すごく嬉しそうだったわ」
帆羽さんが少し目を丸くする。
私はそのまま言葉を続けた。
「私は、これまで真実を最短で出すことばかり考えてきた。でも……でも、『くれあ』は違う。依頼人の気持ちに寄り添って、一緒に喜んだり、行動したり。時には一緒に落ち込んだりするでしょう?
あの優しさは、探偵として……そして名探偵プリキュアとしても、すごく大事なものだと思う。私には、まだ少し足りない部分かもしれない」
推理する時以外でこんなに口数を増やしたのは久しぶりかもしれない。帆羽さんはしばらく黙っていた。やがて、彼女の口元に柔らかい笑みがゆっくりと浮かぶ。
「るるか……ありがとう。そんな風に言ってもらえるなんて、思ってもみなかったわ」
なんだか急に照れくさくなって、視線を帆羽さんから窓の外へ逸らす。中庭に植えられた百合の蕾が月明かりに照らされ、真っ白に光り輝いているのがやけに目立った。
「……別に。ただ、事実を言っただけ」
声が少し小さくなったのが自分でもわかった。
——本当は、ただの事実なんかじゃない。
帆羽さんの、ひまりちゃんに対する優しさ。
依頼人の「気持ち」に寄り添う在り方。
私は今まで、そういうものを「非効率」だと思って避けてきた。答えを正確に、最短で出すことだけを考えていれば、誰も必要以上に傷つかないし失敗もしない。合理的だ。
お金がなくて盗みを働く?そうなる前に助けを求めればよかったのに。
嫉妬心で人を裏切った?なんでそんなことせずに正面からぶつからないの。
でも今日、彼女がひまりちゃんと砂場で必死にスコップを動かしていた姿を見て。依頼人の心に誰よりも寄り添うのを見て。無意識のうちに初めて「それだけじゃ足りないのかもしれない」って思った。
だから、つい口に出してしまった。
……認めたくないくらいに、彼女の優しさが羨ましかった。
そのとき、ふいに左肩を軽く叩かれる。
思わず振り向くと——
帆羽さんが伸ばした人差し指が、そこにはあって。私のほっぺを「つん」とつついた。
「……!?」
柔らかくて、意外と冷たい感触。
私は目をぱちくりとさせたまま、そこで固まる。帆羽さんは悪戯っぽく目を細め、指を引っ込めながら言った。
「さっき……『くれあ』って呼んでくれたよね?
ふふ、すっごく嬉しいな」
………………………あ。
私は頰を押さえながら、慌ててもう一度視線を逸らした。耳の先が熱くなっているのが自分でもわかる。
——なんで、そう呼んでしまったんだろう。
心の中で、自分に問いかける。
今日初めて出会ってから、ずっと「帆羽さん」と呼んでいたのに。
敬語をやめるよう言ったときも、彼女からいきなり距離を縮められたときも、私は確かに一定の線引きをしていたはずなのに。
今日の一件が頭から離れなかったからだろうか。
あんなにも自然に、誰かの「心」に寄り添える彼女を、もう少し近くで感じてみたい……そんな気持ちが、無意識に彼女の名前を口にさせていたのかもしれない。
「……さっきの一回だけ、でしょ。別に間違えたわけじゃないけど……」
「あら、一回だけなの?」
帆羽さんが……いや、くれあがクスクスと嬉しそうに笑う。
……絶対揶揄われてる。わかってはいるけれど、どうしようもない。なんだか居心地が悪くなってソファの上で少し身じろぎした。
かと思えば彼女は悪戯っぽく首を傾げ、私の方へ体を寄せてくる。
距離が、急に近くなった。
その綺麗な青髪から、ほのかにシャンプーの香りが漂う。
自分の心臓の音が、妙にうるさい。
「もっと呼んでみて? 『くれあ』って」
指先で私の肩を軽く突っつきながら投げかけられる、甘えるような声。
彼女の瞳は月明かりに照らされ、きらきらとどこか蟲惑的に輝いていた。
『普段からこうやって依頼人にも接してるの?』『変な人に勘違いされてない?』
……聞きたいけど、聞いたら変に思われるかな。
相手との距離を測って近付くのではなく、気付けば相手の懐に入り込んでいる。
きっと彼女はそういうタイプの人間なのだろう。私は耳まで熱くなって、視線をまた窓の外へ逃がした。
「……く、くれあ」
小さく、ほとんど掠れた声で言ってしまう。くれあの顔がぱあっと明るくなった。
彼女は嬉しそうに笑いながら、今度は私の肩に軽く頭を寄せてくる。
「うんうん。これから私のこと、そう呼んでほしいな」
……だから距離が近いってば。物理的にも、心理的にも。フレグランスのような良い匂いが鼻をくすぐる。私は押され気味に体を少し引こうとするが、ソファの背もたれが邪魔をして逃げられなかった。
「…………くれあ。もう、いいでしょ」
もう一度、ため息まじりに呟いた。
彼女の名前を口にするたび、なんだか胸の奥がくすぐったくなる。顔が熱い。目線が合わせられない。
自分の中で、彼女に対しての壁が崩れ始めているのがわかった。
くれあは満足そうに目を細め、私のほっぺをもう一度軽くつつく。
「可愛い反応ね。るるか、照れてる?」
「照れてない」
即答したが、声が上ずる。いつもの調子で誤魔化せない。くれあはますます楽しそうに笑った。
——はぁ。駄目ね。完全に彼女のペースに持ち込まれてる。
でも、不思議と悪い気分ではない。
彼女といる、今この瞬間の空気が暖かくて、何よりも心地良い。
ソファの背もたれへ体を預けながら小さく息を吐くと、柔らかな明かりが、床へ寄り添うように二人分の影を落としていることに気付く。
くれあと他愛もない話をしているうちに、ついさっきまで頭の中を埋め尽くしていた考え事は、いつの間にか遠くへ追いやられていった。
先ほどまでベッドの中で目を閉じていても
色んなことが頭の中をぐるぐると巡り続け、眠気なんて欠片も訪れなかったというのに。
これからの日本での生活のこと。
半年後の戦いのこと。
今日、ひまりちゃんと母親の間に確かに存在していた、温かな繋がり。
思い返せば思い返すほど、自分の中で答えの出ない問いばかりが増えていく。部屋へ戻れば、また同じように天井を見つめながら、そんなことばかり考えてしまうのだろうか。
そんな考えが頭をよぎった、その時だった。
肩へ寄り掛かっていたくれあが、小さく「ふぁ……」と欠伸を漏らしながら身じろぎする。眠たげに細められた瞳が私を見上げ、少しだけ口元を緩めた。
「もうこんな時間なのね。そろそろ寝ましょうか」
「……うん」
彼女は一体何時から起きていたのだろう。正直なところ、私の方はこのまま眠れるとは到底思えなかったが、一先ず素直に頷いた。
それなのに、くれあはすぐ立ち上がろうとはしない。私の返事を聞いたあとも、どこか考え込むようにじっとこちらを見つめている。
「なに?」
「るるか、まだ目が冴えてるんでしょう?」
不意を突かれ、思わず視線を逸らした私を見て、くれあは困ったように笑う。
「何を根拠に……」
「顔に書いてあるもの」
「そんなわけない」
「それはどうかな? るるかって複雑な考え事をしてる時だけ、少し眉が内側に寄る癖があるでしょ」
「……人の顔を観察しすぎ」
「だって探偵だもの」
悪びれもせずにくれあは笑う。
その笑顔を見ていると、反論する気力まで削がれてしまうのだから不思議だった。マシュタン以外からその癖に言及されたのは初めてだ。こうなればもはや隠す意味もない。私は小さく肩をすくめて言った。
「眠れないのは事実よ」
観念してそう認めると、くれあは「やっぱり」と小さく頷いた。
「無理もないわ。ロンドンから来たばっかりで、環境も急に変わった訳だしね」
「時差もあると思うけど」
「……それならいっそ気分転換も兼ねて、今日は特別な夜にしてみない?」
そう言いながら立ち上がると、くれあは軽く伸びをする。"どういうこと?"と私が反射的に口にする前に、彼女から衝撃的な提案が飛び出した。
「私もるるかの部屋で寝るわ」
「……え?」
思考が、一瞬止まる。
くれあはまるで当たり前のような気軽さで続けた。
「どうにも眠れない時ってね、誰かが近くにいた方が安心できると思うの」
「私、小さい子供じゃないんだけど」
「知ってる」
「じゃあ……」
「子供じゃなくても、不安な夜はあるんじゃない?」
あっさり言葉を返される。否定したい。
でも、できなかった。図星だったからだ。
くれあはそんな私を急かすこともなく、小さく微笑んだまま言葉を続ける。
「もちろん、るるかが嫌だったら無理にとは言わないよ?」
そう言われると余計に断りづらい。正直なところ、決して嫌ではないのだ。
むしろ——。
部屋へ戻って、また一人きりで天井を見つめ続ける自分を想像すると、その方が少しだけ心細かった。
「……マシュタン、案外寝相悪いわよ」
気付けば、私はそんな返事をしていた。
一拍遅れて、くれあの表情がぱっと明るくなる。
「ふふ。それくらい平気」
「あと、狭いと思うし。暑くない?」
「マシュタンは小さいじゃない。きっと大丈夫よ」
「……ティーカップはどうするの?」
「それなら明日、私が片付けるわ」
「…………くれあって案外強引なのね」
「うん、よく言われる」
全然反省していない笑顔に、私は思わず肩の力を抜く。結局、私は彼女にどうあっても敵わないらしい。
「わかった。好きにして」
「うん。それじゃあ、お言葉に甘えようかな」
食い気味な返事が返ってきた。
くれあは嬉しそうにソファから立ち上がると、私の手首をまるでエスコートでもするかのようにそっと取って引く。昼間、公園まで腕を引かれて連れて行かれた時に比べると、その手つきはずっと控えめだった。振り払おうと思えばいつでも振り払えるくらいの力加減。
「行こっか」
「……だから、子供じゃないってば」
彼女の指先から伝わってくる体温が、じんわりと手首から私の体に染み込んでくる。文句を言いながらも、その手を自分から離そうなんて気持ちは微塵も湧いてこなかった。
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カーテンの隙間から差し込む月明かりだけが、わずかに淡く室内を照らしていた。ベッドの中央は、相変わらずマシュタンが陣取っている。その左右に、私とくれあ。
妖精一匹と、人間二人。くれあが言っていた通り、三人で並んで川の字で寝転んでも思っていたより窮屈ではない。肩が少し触れそうなくらいの距離なのに、不思議と息苦しさも感じなかった。ふと、真ん中で丸くなっていたマシュタンの耳がぴくりと動く。
「……んぅ?」
薄く目を開けた彼女は、私とくれあを交互に見上げた。
「もう戻ってきたの……?」
「ごめんね、マシュタン。起こしちゃったかな?」
くれあが申し訳なさそうに尋ねると、マシュタンは眠そうに首を横へ振った。
「だいじょーぶ……。るるかがいなくなった時、一回起きちゃったから……」
そう言うなり、小さく欠伸をひとつ漏らして布団の中でもぞもぞと寝返りを打つ。
「くれあも一緒に寝たいのね……」
「ふふ、今日はお邪魔します」
「どうぞごゆっくりぃ……」
それだけ言うと、マシュタンは私たちの間へ収まるようにもう一度丸くなる。
尻尾だけが満足そうに一度ゆらりと揺れる様子を見て、くれあは小さく笑った。
「こういうのって久しぶり。なんだか落ち着くわね。……るるかは? ロンドンでは、マシュタンといつもこんな感じで寝てるの?」
「……ええ」
私は天井を見つめたまま答えた。
「マシュタンは昔から、勝手にベッドへ潜り込んでくるから」
「勝手には余計よぉ……」
む、まだ寝てなかったんだ。
真ん中からマシュタンの眠たそうな抗議が聞こえた。
「だって、るるか一人だと夜更かしして資料ばっかり読むじゃない。アタシが見張ってなきゃ駄目なんだから……」
「その割にはいつも一足先に寝てるけど」
「……むにゃ」
今度は返事の代わりに寝息だけが返ってくる。まったく、都合が悪い時だけ寝たふりをするのはやめてほしい。
「マシュタンって、本当にるるかのお姉ちゃんみたい」
「ちょっと過保護気味だけどね」
「ふふ、そんなこと言っちゃって。最高のおとも妖精なんでしょう?」
「……もちろん。マシュタンだけじゃない。ロンドンのみんなも、私にとっては家族みたいなものだから」
私はマシュタンを優しく抱き寄せて、胸元に寄せた。三人の体温が、薄い毛布の中でゆっくりと混ざり合う。
「でもこんな風に人間と一緒に寝るのは、多分初めて」
「え?」
「記憶にある限りではね」
部屋が静かになる。
心臓の音が、うるさいくらいに大きい。暗闇の中に、昔の記憶がふとよみがえった。
私は天井へ向けた視線を動かさないまま、小さく息を吐いて言った。
「……私ね、小さい頃にキュアット探偵事務所の玄関で保護されたの。」
「……」
「生まれたばかりだったらしいわ。毛布に包まれて、ただ事務所の前に置かれていたって。添えてあったのは、少しのお金と名前が書かれた紙だけ」
名前からして、日系の人間だったらしい。言葉にしてしまえば、それだけだった。もう何度も聞かされた話だ。だから今さら悲しいとも思わない。
……キュアット探偵事務所で、私は妖精たちに囲まれて育った。
幸運にも、探偵は私の天職だったらしい。周りの大人達にも解けないような謎を解き明かして、沢山褒めてもらえるのは素直に嬉しかった。マシュタンは毎日側にいてくれたし、ウォッシュやチャティ、レンチをはじめ、沢山の妖精が笑顔で声をかけてくれた。
皆は、私にとってかけがえのない家族だ。
種族は違うし、本当の意味で血の繋がりはないけれど、それでも私は彼らを家族だと思っている。
「それからは、ロンドン本部の妖精たちに育ててもらった。だから、自分が一人だったなんて思ったことはないし、不幸だったとも思ってない。」
「……うん」
「むしろ恵まれてたと思う。みんな、本当に優しい子達だから」
「……そうなのね」
くれあは急かすことなく、小さく相槌を投げ返してくれる。それに背中を押されるように、私は胸の奥へ引っ掛かっていた言葉を、少しずつ外へ出していった。
「だから今日、ひまりちゃんとお母さんを見てても別に羨ましいとは感じなかったの。私には、ロンドンのみんながいるから」
そう。
そこに迷いはない。
ロンドン本部は、私の帰る場所だ。
私が大切にしたい居場所だ。
「でも……」
今日の出来事を思い返す。
仕事で帰れなかったことを謝る母親。
寂しかったはずなのに笑っていたひまりちゃん。
互いを責める代わりに、自然と相手を思いやっていた二人。
「あの二人の間には、言葉にしなくても通じ合っているものがあったでしょう?」
「そうね」
「見ていて思った。私とマシュタンの間にも、ロンドンのみんなとの間にも、きっと同じように目には見えない繋がりがあるんだって」
胸の上で眠るマシュタンの背中を、そっと撫でてみる。ふんわりと柔らかな毛並みが指先をくすぐった。
「でも、それはやっぱり親子の繋がりとは、少しだけ形が違う気がする」
「……」
「同じくらい大切なのに、同じものじゃない」
探偵として、これまで色んな事件を見てきた。
血の繋がりがあるからこそ傷つけ合う人もいれば、赤の他人なのに互いを庇い合う人もいる。
信頼なのか。
愛情なのか。
責任なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
「自分と他人を繋ぐものって、きっと一つじゃないよ。るるか」
暗闇の中で、ずっと黙って私の言葉を聞いていたくれあが穏やかな声で口を開く。
「日本支部を任されたばかりの頃はね……この事務所には依頼人なんてほとんど来なくて」
くれあは天井を見上げたまま、小さく息を吐く。その吐息は苦しさからくるものではなく、長い時間をかけて胸の奥へしまい込んでいた記憶を、そっと外へ逃がすようにも聞こえた。
「たまに来てくれた依頼人が帰った後、部屋の明かりを全部落とすとね。この事務所が急に広く感じるの。シーンとして……聞こえるのは、自分の足音と息遣いくらいで」
「最初の頃は、依頼が一つも来ないまま朝になる日もあったんだ。私ってちゃんと名探偵になれるのかな、とか、探偵として必要としてもらえるのかな、とか……そんなことばっかり考えてた」
私は静かに耳を傾けた。
「でもね、そのうち色んな依頼人さんが『ありがとう』って笑ってくれるようになって。用事もないのに顔を見せに来てくれる人もいて…… そういうことを何度も繰り返しているうちに、この事務所が少しずつ『私の帰る場所』になってたの」
くれあは天井から私の方へゆっくりと視線を移した。トパーズ色の瞳が暗闇の中でぼんやりと輝く。
私は昼間のひまりちゃんとのやりとりを思い出した。あれこそが、くれあがこの町で少しずつ積み重ねてきた時間そのものなのだろう。
「親子には親子の繋がりがあるでしょう? 妖精のみんなには、るるかと積み重ねてきた時間があるわ。私だって、この街の皆と色んな繋がりを持ってきた」
「だから、そのどれかが正解で、どれかが違うってことじゃないの。人との繋がりって、きっと少しずつ増えていくものなんじゃないかな」
そこで一度言葉を切ると、くれあは少しだけ照れたように笑った。
「私はるるかと親子にはなれないし、ロンドンのみんなの代わりにもなれないわ。でもね」
彼女は急いで続きを口にしようとはせず、一度だけ毛布の端を指先で整える。その何気ない仕草が、考えをまとめるための小さな間のようにも見えた。
「るるかにとっての、新しい繋がりなら作れる気がするの」
その言葉に、私はゆっくりと瞬きをした。
これは否定でもなければ慰めでもない。
ましてや、「私が家族になってあげる」なんて軽い言葉でもなかった。
くれあはきっと、私が積み重ねてきた時間をそのまま受け入れた上で、それとは別のものを差し出してくれている。
「日本にいる間だけでも、この事務所がるるかが『帰ってきた』って思える場所の一つになれたら、私は嬉しいな」
その言葉は、不思議なくらいすとんと胸の中へ落ちて。胸の奥から暖かい何かが溢れ出した。彼女の言葉が嬉しい。暖かい。今日会ったばかりの人にそこまで言ってもらえるなんて。
マシュタンの規則正しい寝息だけが、小さく毛布を揺らす。
「……なら、私たちも、これから少しずつ時間を積み重ねていけば」
気付けば、そんな言葉が口をついていた。
胸の奥に浮かんだ考えをそのまま声にしていいのか少し迷ったが、止めることはできなかった。
「いつか……相棒みたいに。 ……か、家族みたいに、大切な存在になれるのかな」
くれあは少し驚いたように目を丸くした。
柄にもないことを口走ったのはわかっている。部屋が薄暗くて良かった。今の顔色を彼女に見られずに済むから。
恥ずかしくて、今すぐにでもベッドから逃げ出したいくらいだった。
「ふふ。それ、すごく素敵」
くれあは私の言葉を否定しない。かといって約束もしない。ただ、そうなった未来を自然に受け入れるように頷いた。
「昼間、言ってくれたよね。"帆羽さんは一人じゃない"って。同じだよ。これから、るるかの側には私がいるってこと……忘れないでね」
その言葉に、私は小さく息を吐く。
きっとこれは推理みたいに結論を急ぐものじゃないんだ。時間を積み重ねた先で、振り返ったときに初めて名前が付く関係もある。
だったら……
——『もしもう一人、るるかの隣に立ってくれるような人が現れたら……それはそれで、悪くないんじゃない?』
マシュタンの占いはやっぱり当たる。
私がこうやって日本に来た意味は、半年後の戦いだけじゃないのかもしれない。
その予感だけで、今は十分だった。
「おやすみ、るるか」
「うん、おやすみ……くれあ」
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それからの日々は、あっという間に過ぎていった。
「わぁ……冷たくて、舌触りもすっごく滑らかね……」
「美味しい……! くれあ! これ、これすごく美味しい!」
「気に入ってもらえた? 手作りのアイスクリームよ。今日は桃とチョコミントの2種類作ってみたの」
「甘いもの苦手なるるかがこんなに夢中になるなんて珍しいわね。くれあ、やるじゃない! 洋菓子屋でも開いたら、絶対繁盛するわよ! その時はカワイイアタシがマスコットになってあげる♪」
「なら看板娘はマシュタンで決まりだね。るるかは……店員?」
「……試食担当でいい。毎日でもいい」
——アイスクリームの美味しさを知って。
「……つまり犯行が可能だったのは、あの時試着室の前で黒色のスカートを持って順番を待っていた人物のみ」
「そして、その条件に当てはまるのは、あなただけです」
「……証拠は?」
「あります。あなた、さっき『右の試着室ですよね』と言いましたね」
「それが何だと……」
「私たちは一度も、三つある試着室のどこで財布が盗まれたのかは口にしていない。それを知っているのは、あの場にいた犯人だけでしょう?」
「! ……くっ……」
——共に事件を解決して。
「ご、ごめんね。今日の約束、忘れてた……。埋め合わせは今度必ずするから」
「…………別にいい。そんなに学校の友達との用事が大事なら、そっちを優先すればいいじゃない。私は一人でも捜査する」
「ちょ、ちょっとるるか!?」
「るるか、落ち着いて。ちゃんと話せば、きっと分かり合えるわ。ね? ロンドンの皆ともそうやってきたじゃない」
「……今は話したくない」
「………………だったら、私ももう知らない!」
——くれあと、些細なことで喧嘩して。
「るるか、聞いて! 家入しるくさんの演劇公演チケットが当たったの!」
「……誰それ?」
「えぇーっ!? 知らないの!? 今いちばん人気って言ってもいいくらいの現役高校生俳優なのよ!」
「……興味ない」
「よーし! 今日はるるかにも最近の流行をたっぷり教えてあげるね!」
「なんで私が……」
——彼女に、あちこち連れ回されて。
「いや! 痛くない!」
「アタシの目は誤魔化せないわよ。昨日からずっと頬押さえてるじゃない! アイスの食べ過ぎね」
「ね、るるか。虫歯は逃げても治らないよ?」
「うぅ……やだぁ……!」
「ほら、みんなで行けば歯医者も怖くないわ!アタシとくれあも付き添うから」
「帰る! もうロンドンに帰る!」
——逆に、彼女を振り回してしまったこともあった。
「るるか! 紹介するね! 今日から私のおとも妖精として派遣されてきた、シュシュタン!」
「初めまして。よろしくお願いするでシュ! るるかのことは前から聞いてたでシュ!」
「……私も、話は聞いてる。ロンドン本部の新入りさんでしょう?何度か廊下ですれ違ったのを覚えてるわ」
「ふふっ、今日からはアタシが先輩妖精ね。分からないことがあったら何でも聞きなさい!」
「シュシュ! 」
「これからよろしく、シュシュタン」
——新しい仲間とも、出会って。
「解き放て! 内なる真実の香り! 名探偵、キュアエクレール!…………るるか! 見て見て! 私、本当にプリキュアになれたんだよ!」
「うん。すごく似合ってる」
「これでようやく二人並んで戦えるわね。任せておいて。るるかのことも私が守るから!」
「…………期待してる」
「もう、その間は何?」
「私を守りたいなら、まずは攻撃の単調さから直さないと。次の行動が透けて見えるわよ」
「……るるか師匠の特訓、ついていってみせるわ』
「師匠はやめて」
——ついに、肩を並べて戦えるようになった。
お互いの事を、もっと知り合った。
好きなもの。拗ねた顔。困った時の癖。心からの笑顔。くれあが探偵を目指した理由。パティシエというもう一つの夢。私のロンドン本部での生活。そこに住む、気の良い妖精達のこと。
くれあと一緒に、いくつもの事件を解決した。皆と笑って、悩んで、時には失敗もして。
日本支部は、いつの間にか私にとってもう一つの大切な居場所になっていった。
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吐き出す息は、いつのまにか白くなっていた。
事務所から見下ろす街にはクリスマスソングが流れ、まことみらい商店街のイルミネーションは冬の夕暮れを彩っている。
季節は夏から秋へ、そして冬へと移り変わり、気づけば十二月二十四日。
半年なんて、あっという間。決戦の日がやってきた。
「今さっき、ロンドン本部から連絡があったわ。手筈通り、あと数時間でマコトジュエルを転移させるって。場所は人目につきにくい、山手の湖畔よ」
マシュタンの言葉に、事務所の空気が静かに引き締まる。
私はいつでも出立できるよう、白いブラウスに薄手のコートを羽織ったままソファの端に腰を下ろしていた。隣ではくれあが、いつもの落ち着いた表情で紅茶のカップを両手で包み込んでいる。
「……あと数時間、か」
くれあが静かに呟いた。彼女の声は穏やかだけど、指先がカップの縁を軽く撫でる動きに、わずかな緊張が表れているのがわかった。
「うん。局長の計画通りなら、転移は夜の九時頃。ファントムが動くとしたら、その直後ね」
私はテーブルの上に広げた地図の一点を指で軽く叩いた。湖のほとり、木々が密集した場所。隠れやすいし、逃走経路も多い。ウソノワール……延いては怪盗団ファントムにとっては理想的な舞台だろう。望むところだ。
ふと、くれあが私の横顔をそっと覗き込んだ。トパーズ色の瞳が、柔らかく微笑む。
「大丈夫。私達なら絶対に勝てるわ。この街の皆も——世界も、私達が守るんだから」
「……そうね」
部屋に短い沈黙が落ちる。でも、それは重苦しいものじゃなかった。むしろ、互いの存在を確かめ合うような、穏やかな間。
くれあがカップをテーブルに置き、私の方へ体を少し寄せてくる。この半年で、彼女の距離感にもすっかり慣れてしまった。
「ねえ、るるか。もし……ウソノワールが本当に『嘘』を操るような相手だったら、どうする?」
真剣な問い。私は瞳を細めて彼女に答える。
「嘘を見抜くのよ。私たちは探偵。観察して、事実を繋げて、真実を暴く。それが私たちの武器でしょう? ……それに、私達は一人じゃない。今までみたいに、一緒に考えればいい」
ふと、彼女が私の手をそっと握ってきた。温かい指先が、まるで自らの決意を伝えるように少し力を込めて添えられる。
「るるか、約束よ。ファントムとの戦いが終わったら……事務所に帰ってきたら、アイスケーキでクリスマスパーティをしましょう。私が作るわ。材料はもう買ってあるの」
その言葉に、胸の奥がふっと軽くなった。私はくれあの指を握り返しながら、小さく頷く。
「……ええ、約束。楽しみにしてる」
窓の外で、遠くの教会の鐘が鳴り始めた。
私達の事情など世間は露知らず。クリスマスイブの夜は静かに深まっていく。
私は立ち上がり、コートの襟を整えた。くれあもそれに倣う。マシュタンが私の胸元に、シュタシュタンがくれあの肩の上にしっかり収まる。
「それじゃあ、行きましょう」
大丈夫。私達は最高の名探偵なんだ。
私達二人に解決できない事件なんてない。
——その約束が叶わない未来なんて、その場の誰も想像していなかった。
もちろん、私も。
明日もまた、みんなで笑い合える。
そのことを微塵も疑いなんてしなかったのに。
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湖の水面が、月明かりを冷たく反射していた。山手の湖畔の中央にそびえる古い取水塔。そしてそれに連なる長い橋の上——そこが、今や世界の命運を分かつ舞台となっていた。
風は強く、張り裂けるほどに冷たい。水面のゆらめきは徐々に強くなっていく。
そして。
——ドンッ!!
激しい衝撃音と共に、私は吹き飛ばされた。
「っ……かはっ!?」
橋の欄干に、激しく叩きつけられる。金属が軋む音。髪が乱れ、白いフリルのスカートが夜風に翻る。天と地がひっくり返る。
寒空が否応にも視界に入り、息が詰まるような痛みに思わず顔をしかめた。
私の体から、光の粒子がぼろぼろと零れ落ちていく。
「るるか!!」
すぐ近くでくれあ、いやエクレールの叫び声が響いた。彼女の水色の髪が風に舞う。
だが、間に合わなかった。
私がよろめきながら立ち上がろうとした瞬間、体を包んでいた銀色の光が、まるでガラス細工が砕けるように一瞬で散った。
変身が解除される。
そこに残ったのは、薄手のコートを羽織ったままの、ただの『森亜るるか』。髪を纏めていたリボンは今の衝撃でどこかへ吹き飛んでしまったらしい。前髪がボロボロに乱れているのがわかる。左腕に鋭い痛みが走り、見れば袖口が赤く染まっていた。
「……くっ……」
声が掠れる。立つことができない。膝が震えて、その場に片膝をついてしまう。
取水塔の頂上——そこに、ウソノワールは悠然と立っていた。
豪奢な外套と西洋甲冑を纏い、白と黒の仮面で顔全体を覆った大柄な男。仮面の奥から、怏々と輝く目が冷たくこちらを見下ろしている。
彼はゆっくりと片手を掲げ、掌の上で黒い霧のようなエネルギーを弄びながら、低く笑った。
「その程度か。ロンドン本部が派遣したというプリキュアの力は」
その声には怒気すらない。
まるで舞台役者のように芝居がかった響きを帯びていて、そこには圧倒的な余裕だけがあった。
胸の奥が冷えていく。この半年間、どんな難事件も皆で乗り越えてきた。
どんな時でも、私の隣にはくれあがいた。
だから勝てると信じていた。
なのに。
なのにこんな。
エクレールが私のもとに駆け寄ってくれる。彼女の声も震えていた。
「るるか……! 大丈夫!? ……変身が……」
「……っ……まだ……やれる……」
私は歯を食いしばって立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。左腕の痛みが、頭の芯までじくじくと響く。
半年間、日本で過ごした日々。くれあとの約束。街の人達の笑顔。ロンドンの妖精たちの声。
——色んなものが急にフラッシュバックして、そのすべてが遠く感じられた。
……守らなきゃ。絶対に。こんなところで、負けてられないのに……
マシュタンとシュシュタンが私達の側で必死に叫ぶ声が聞こえる。
「るるか!無理しちゃ駄目でシュ!」
「なんなの、あいつ……強すぎるわ……!」
ウソノワールが、仮面の奥で私達を嘲るように目を細める。
「半年間、候補生を導き、二人で力を合わせた結果がこれだ。真実など、所詮は脆い幻想に過ぎない」
……ヤツはなんでそこまで知ってるの。
胸の奥で、冷たい疑問が浮かんだ。
日本支部の活動内容に、つい最近までエクレールが候補生だったことまで——ロンドン本部ですら極秘に扱っていたはずの情報が、まるで見てきたかのように筒抜けだ。
思えば今日だって、ウソノワール達にとっては奇襲攻撃だったはずなのに。最初からまるで慌てた様子がなかったような……
でも、今はそんなことを考える余裕なんてない。ウソノワールはゆっくりと冬の夜空に向かって両腕を広げた。次の瞬間、その巨体が静かに浮かび上がる。黒い霧が渦を巻き、湖面に巨大な影を落とした。
湖の中心——取水塔の上空に、巨大な宝石が現れる。
マコトジュエル。
人々の真実の心が凝縮された宝石は、輝かしい光を放ちながらゆっくりとそこに佇んでいた。その輝きは美しく、一種の神々しさすら感じさせる。ウソノワールは仮面の奥で満足げに笑い、宝石に向かって手を伸ばしながら呟いた。
「ようやく……我が手に」
取水塔の屋根の影からは、甲高い声が響く。
「サイコー! ウソノワールさまがマコトジュエルを盗った、チョベリグ記念っしょ!」
ピンク色のノースリーブインナーに、切り込みが入った黒のミニスカートを着た奇抜な格好の女性——ファントムの構成員、アゲセーヌが、どこからか取り出したインスタントカメラを構えていた。
私は地面に片膝をついたまま、歯を食いしばった。腕の痛み、胸の奥の絶望、すべてが重くのしかかる。
ウソノワールの指先は、マコトジュエルまであとわずかというところまで近づいていた。
このままでは——本当に、すべてが終わってしまう。
「…………ごめんね」
ふと、すぐそばで弱々しいけれどはっきりとした声が響く。気づけばエクレールはゆっくりと立ち上がり、前を睨みつけていた。彼女の青い髪が夜風に乱れ、その透き通る瞳には、呟かれた言葉とは裏腹に強い決意が宿っている。
……嫌な予感がした。
「エクレール……!? 待って、何する気っ……」
声を上げようとしたが、左腕の激痛で言葉が途切れる。エクレールは振り返り、私に向かって優しく、けれど悲しげに微笑んだ。
「るるか……マシュタン……半年間、本当にありがとう。あなた達と一緒に過ごせて楽しかったわ。……クリスマスパーティの約束、守れそうにないかな」
その言葉が、胸に突き刺さる。
待って、何言ってるの。そんな、もう二度と会えないみたいに……
「シュシュタン!」
「シュシュ!」
シュシュタンが彼女の肩から飛び立ち、二人は同時に輝きを放つ。
エクレールの背中に、巨大な蝶の翅のような光のエネルギーが広がった。淡い水色の輝きが、夜の闇とマコトジュエルの輝きすらも切り裂くように美しく舞う。
「まって……だめ! シュシュタン……くれあ!」
彼女は一瞬だけ私を振り返り、何も言わずに力いっぱい微笑んだ。
そして——
蝶の光を背中に纏ったエクレールは、シュシュタンと共に一直線にマコトジュエルへ向かって飛び出す。水色の光が瞳に焼きつく。決して忘れることのできない、美しい光。
「やめろォォ!!」
ウソノワールが初めて声を荒げ、黒いエネルギーを放つ。しかし遅かった。
それが届く前に、光を纏ったエクレールの体がマコトジュエルに思い切り激突する。
——キィィィン!!
耳をつんざくような高い音が湖全体に響き渡った。マコトジュエルに亀裂が走る。
視界の端で、アゲセーヌが衝撃の余波で吹き飛ばされて湖面へと落ちていくのが見えた。
そして一瞬の静寂の後……宝石は眩い光を放ちながら、粉々に砕け散った。
無数の光の欠片が、まことみらい市へと降り注ぐ。まるで冬の夜空に舞う雪のように。あるいは流れ星のように。
「シュシュタン! くれあ!!」
私は這うようにして立ち上がり、叫んだ。
水色の光の粒子の中で、ボロボロになったくれあの姿が、ゆっくりと橋の舗装へと落ちていく。
変身は既に解けている。いつもの服装で、彼女は静かに目を閉じていた。ピクリとも動かない。シュシュタンの姿も見えない。
ウソノワールは宙に浮いたまま、仮面の奥で低く唸った。
「……愚かなことを……!」
絶望が、冷たい風と共にすべてを包み込んだ。左腕の痛みも、周りの声も、すべてが遠い。頭の中が白く霞んで、思考がうまく繋がらない。
胸の奥が、焼けるように熱かった。
同時に、底知れぬ冷たさが全身を走る。
——嘘だ。こんなの、絶対に嘘だ。
視界が揺れて、くれあの倒れた姿がぼやける。半年間の記憶が、洪水のように溢れ出して頭を埋め尽くす。
初対面の時、湯気の中で見た驚いた彼女の瞳。どんな依頼人の心にも寄り添い、優しく笑う声。私の頰をつついて、悪戯っぽく微笑む表情。
「……だめ……だめ、こんなの……」
「シュシュタン!シュシュタン、どこ? どこいっちゃったのよ!」
私とマシュタンの声が、虚しく湖畔に木霊した。涙が勝手に頰を伝う。喉が詰まって、息が苦しい。彼女は私を守ってくれたのに、私は——何もできなかった。
半ば錯乱した頭で、這うように手を伸ばす。
指先が震えて、彼女に届かない。
その時、宙空に無数の蝙蝠がより集まり、一人の青年が姿を現した。
顔の片側だけを覆うドミノマスク。
片翼の蝙蝠の翼が付いた黒のシルクハットに、夜の闇を纏うようなマント。
「ニジー……!」
マシュタンが息を呑む。あぁ、彼もファントムの構成員だっけ、とぼんやりした頭で考える。ニジーは無言で、ウソノワールの前に小さな本を掲げて見せた。
ウソノワールは仮面の奥でゆっくりと目を細め、そして言い放つ。
「ほう……未來自由の書に、新たな予言が書き込まれたか」
その言葉に、マシュタンが震える声で呟いた。
「……未來自由の書!? アタシ達の一族にだけ、代々伝えられてきた予言書……! 誰にも読めないはずなのに、どうしてアンタ達が……!?」
「世の中には知らない方が良いこともあるのさ、ベイビー」
私はそのやり取りを、ほとんど理解できずに聞いていた。
頭の中はくれあのことだけでいっぱいだ。
彼女の笑顔が、彼女の声が、彼女の温もりが、ぐるぐる回って離れない。
胸が痛い。痛すぎて、張り裂けそう。
ウソノワールはゆっくりと降下し、取水塔の屋根に着地した。
彼は私を真正面から見下ろし、仮面の奥の金色の瞳を細める。
「キュアエクレールめ……よもや自らの心のマコトジュエルを犠牲に、わたしの計画を阻むとはな。だがそれも僅かな時間稼ぎにすぎん」
低く、しかしはっきりと響く声。
黙れ。だまれだまれだまれ。お前に何がわかる?くれあの何が——
「その者の真実、それまでの在り方、生き方……それを定義するものが破壊された時、世界に起こる変化をお前は知っているか?」
ウソノワールは一歩踏み出し、私に向かって右手を突きつける。皮肉にも、その姿は犯人を指し示す探偵のようだった。
「断言するぞ、キュアアルカナ。お前は必ずわたしの元へ来る。お前の仲間……キュアット探偵事務所では、キュアエクレールを救えない。探偵では解決できない事件もあるのだ。それを学ぶがいい」
その言葉が、胸の奥深くに突き刺さり、無理やりゆっくりと捻じ込まれる。
"救えない"?
"探偵では解決できない事件"?
そんなの、認めない。認められるわけがない。悔しさと無力感と、彼女をこのまま失う恐怖がぐちゃぐちゃに混ざって、頭を焼き尽くす。涙が止まらない。唇を噛みしめても、次から次へと嗚咽が漏れる。
ウソノワールは仮面の奥で低く笑い、ゆっくりと右手を振り上げる。
ニジーがすぐさまその傍らに寄り、こうべを垂れた。
「我々は予言に従う。最早ここにいる意味も無くなった。新兵器……ハンニンダーの完成を急ぐぞ」
「ライライサー」
その瞬間、黒い霧が二人の周囲を包み込んだ。ウソノワールとニジーの影が混ざり合い、彼らは夜の闇に溶けるように姿を消す。
取水塔の上空に残ったのは、ただ砕けたマコトジュエルの残光と、冷たい夜風だけだった。
私は這うようにして、倒れたくれあのもとへ。
———やめて。
膝が震えて何度も転びそうになる。左腕の痛みなんて、もうどうでもよかった。
「……くれあ……! くれあっ!」
力無く横たわる彼女の体を、必死に抱き起こす。
整えられた青い髪は乱れ、頰は冷たく、目は固く閉じられたまま。ピンク色の蝶の髪飾りは、縦半分にパッキリと折れてしまっていた。
呼吸はしている。でも、弱い。
シュシュタンの姿はどこにも見えない。
攻撃の瞬間、彼女と一緒にいたはずなのに……どこにいってしまったのだろうか。
「シュシュタン……! どこ……? 返事して……!」
声が震える。マシュタンが私の側で必死に耳を立てて周囲を探すが、返事はない。
———これ以上、見たくない。
胸が締めつけられる。くれあを失う恐怖と、シュシュタンへの罪悪感と、自分自身の無力さと。すべてがぐちゃぐちゃに混ざって、頭が壊れそうだった。
わずかに上下する彼女の胸に、必死で自分の額を押しつける。
「……起きて、お願い……くれあ……くれあ……」
とにかく、彼女の名を呼び続ける。この半年間のすべてが頭の中で渦を巻いていた。
日本で出来た新しい繋がり——それらが全部、指の隙間からドロドロと零れ落ちていくような気がして。
……その時、彼女の瞼が、わずかに震えた。
———お願い、見せないで。
「……ん……」
弱々しい息と共に、くれあが薄く目を開けた。震える瞳が、ぼんやりと私を捉える。私は息を詰め、彼女の冷たい頰に自分の手を重ねた。
涙が止まらない。声が震えて、ほとんど言葉にならない。
良かった。本当に良かった。
マコトジュエルは粉々になってしまったけれど、街中に散らばっただけだ。ウソノワールの手に渡ったわけじゃない。まだ幾らでも手はある。とにかく、今はくれあを安全な場所へ連れて行かないと。
———見たくないってば!
「……良かった! くれあ、目が覚め——」
「……あの……どちら様でしょうか?」
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「———ッッ!」
喉の奥から息を呑み、私は弾かれたようにベッドの上で身を起こした。
シーツが蹴り飛ばされ、枕が床へと転げ落ちる。
「……っ、はぁっ! はぁっ! はぁっ!!」
息が浅く、速く、纏まらない。
肺が十分に膨らまず、空気を貪るように喉が鳴るのがわかる。胸が激しく痙攣し、酸素が足りないのに息を吸いすぎて、頭がクラクラした。
視界の端が白く明滅するなか、冷たい汗が滝のように背中を伝い、シーツを濡らしていく。
私は両手で自分の胸を強く押さえ、指先が白くなるほど力を込めた。それでも息は乱れたまま。自分の意思でコントロールできない。
頰を伝う熱い涙を、乱暴に拭う。
「……っ、ひっ、……けほ……っ!」
掠れた声が、呼吸の合間に何度も途切れながら漏れる。喉が締めつけられるような感覚に、吐き気すら込み上げてきた。
「……またっ、あの日の夢……」
何度眠っても、何日経っても、あのクリスマスイブの記憶だけは私を逃がしてはくれなかった。
乱れた息を整えながら、私はゆっくりと周りを見回す。
高い天井に吊るされた巨大なシャンデリアは無数のガラス片を中空に揺らしていた。足元には深紅の絨毯が敷き詰められ、壁には金の装飾が施された額縁や、仮面舞踏会で使われるような色とりどりの仮面が並ぶ。
そしてベッドサイドの窓。
分厚いステンドグラスには、月や蝙蝠、薔薇を模した幾何学模様がはめ込まれている。
淡い朝日が色ガラスを通り抜け、赤や青、紫の光となって床へ静かに落ちていた。
まるで教会にも似た荘厳さ。
けれど、その静けさに安心感など一欠片もない。それも当然だ。ここは祈りの場所などではなく、怪盗団ファントムが本拠地としているオペラハウス。
そして、この部屋が——今の私に与えられた、自室だった。
「……るるか?」
心配そうに響く、聞き慣れた声。
ベッドから淡い紫色の毛並みが、ふわりと浮かび上がる。マシュタンは眠そうに目をこすりながら近づいてきた。
「顔色が真っ青よ! 息も荒いし……大丈夫?」
彼女は私の膝の上に飛び乗り、小さな肉球で私の頰を優しく撫でる。私は慌てて口角を上げ、取り繕った笑みを浮かべた。
「……平気だよ。嫌な夢、見ちゃっただけ」
声をなるべく落ち着かせて言うが、指先の震えが止まらない。マシュタンは緑色の瞳を細め、私の額に自分の額をそっと押しつけた。
「最近ずっとじゃない……。ちゃんと眠れてないでしょう」
「……大丈夫だから」
「大丈夫って顔じゃないわよ!」
私は何も答えなかった。答えられなかった。あの日ウソノワールが私に告げた言葉。
——『お前は必ずわたしの元へ来る』
それはまるで絶対的な予言のように、現実のものとなった。
私はもうキュアット探偵事務所所属の名探偵プリキュアじゃない。怪盗団ファントムの一員だ。
誰かに操られているわけでも、嘘に覆われたわけでもない。
私は、私自身の意思でここにいる。
「…………ねぇ、るるか」
「何?」
「本当に、これで良かったって思ってる?」
その問いに、胸が軋んだ。
あの日、世界を嘘から守るため、くれあはマコトジュエルと——そして変身にも用いる、自らの心のマコトジュエルを砕いた。
その結果、これまで彼女が歩んできた人生までもが嘘に書き換えられてしまった。
シュシュタンに至っては、あの日からずっと行方不明だ。手がかりの一つも掴めていない。
くれあは今、パティスリーチュチュという街の洋菓子店で働いている。私も、何度か足を運んだ。
頼むのは決まってアイスクリーム。いつも持ち帰り。店の奥でミント色のコックコートを着て働く彼女は、もう私のことを覚えていない。
彼女にとって、森亜るるかはただの『常連客A』だ。ただいつも通りに、お客様に対する笑顔をこちらへ向け、「ありがとうございました」と頭を下げる。
……そのたびに思う。
このままでいい。
くれあが幸せなら。彼女はパティシエという、もう一つの夢を叶えたんだ。私が介入すれば、折角訪れた穏やかな日常を壊してしまうかもしれない。
でも。それでも。
心のどこかでは、どうしようもなく願ってしまう。
——『るるか!』
たった一度でいい。
あの日と同じように、私の名前を呼んでほしい。手を握ってほしい。こっちを向いてほしい。また隣に立って、「私達ならどんな事件も大丈夫」と笑ってほしい。
自分の感情を切り分けることができなかった。二律背反の思いが燻り、私をどうしようもなくダメにする。アイスを受け取り、お金を払い、何も言わずに彼女に背を向け、パティスリーチュチュを後にして。
その繰り返しだけが、今の私に許されたくれあとの関係だった。きっとこれは、あの日何も守れなかった私への罰なんだ。
「……いい。私はもう、引き返せない道を進んでる。だからこそ、今のくれあは巻き込めない」
「……そう」
そういえば、ロンドン本部宛に近況報告の手紙すら出さなくなって、何日経っただろうか。
日本に来た当初は、定期的に送っていたはずなのに。今はもう、何通も滞っている。
最後に書いた手紙の内容なんて、思い出せもしない。
今の私をみんなが見たらどう思うだろう。
ウォッシュは優しすぎるから、私を責めないんだろうな。きっと、悲しそうな顔で「るるかちゃん、なんでそんな道を選んだん?」と尋ねてくるだけ。
チャティの場合は……想定外のことにすぐパニックになる悪癖があるし、「るるかさんがファントムに!?」とこれ以上ないほどに動揺するだろう。
レンチはああ見えて義理人情に厚いタイプだから、珍しく真剣な顔で「お前、本気かよ」と問い詰められるかもしれない。
——以前のくれあならどうかな?
怒るかな。悲しむかな。今度こそ喧嘩じゃ済まない?失望して——もう、二度と顔も見たくないと言われるだろうか。
……駄目だ。こんなこと、考えるのはよそう。
覚悟はしてきたはずなのに、時たまこうやって頭の中がグルグルと空回りして。どうにもならないことで、胸の奥が痛いほどに締めつけられる。
「むしろ、マシュタンは……」
「なあに?」
「どうして、私についてきてくれたの?」
「え?」
「キュアット探偵事務所に残ることもできたはず。ロンドンに戻ることだって」
「…………」
「私はもう、怪盗団ファントムの一員なのに」
探偵も妖精もいなくなった日本支部は、今や完全に空き家状態。
もうすぐロンドン本部から遣いの妖精が派遣され、事務所は閉鎖されるはずだ。
長い間くれあが——そして半年という短い間だったが、私達四人が過ごしたあの場所は、沈黙と共に静かに埃を被っていく。
最早、ウソノワールの野望を止めることができる者はいない。
未來自由の書にも、ヤツにとって都合の悪そうな予言が書き込まれる様子はない。
私が、やるしかないんだ。
たとえ、誰を敵に回そうとも。どんなに後指をさされようとも。
"目的"を果たすまで、諦めるわけにはいかない。
「私といたら、マシュタンの立場が……」
「あのねぇ、流石のアタシも怒るわよ? アタシは確かに可愛い可愛いおとも妖精だけど、それ以前にるるかのお友達じゃない。まったく、すぐ全部一人で背負い込もうとするんだから」
「マシュタン……」
「覚えておきなさい。るるかがどこへ行こうと、何をしようと、アタシは絶対にそばにいるからね」
「……ありがとう」
私はマシュタンの頭を優しく撫でながら、小さく微笑んだ。言葉にしようとすると消えてしまうような淡い感動を、今は胸にしまっておくことにする。
その時、部屋の重厚な扉が乱暴にノックもせずに開かれた。ドンッ、という大きな音と共に、大柄な男がずかずかと入ってくる。
「新人! 起きてるかぁ!」
彼は大見得を切るように扇子を広げ、豪快に声を張り上げた。
銀髪を筆先のように高く盛った大筒状のポンパドール。歌舞伎役者のような派手なメイクと和風の衣装。
ゴウエモン——ファントムの構成員の一人だ。
マシュタンが即座に毛を逆立て、私の膝の上で身を乗り出す。
「ちょっと! 乙女の部屋にノックもせずに入ってこないでよ!非常識にも程があるわ!」
ゴウエモンは扇子をパチンと閉じ、豪快に笑った。
「ハッハッハ! そいつは失敬。だが、このオペラハウスはオレ達の城だろう? ノックなんざ、親愛なる仲間の間には不要なもんよ!」
「なぁにが親愛なる仲間よ……」
……ヤギメールさんとは大違いだ。
マナーよく、度々挨拶を欠かさず尋ねてきてくれた彼のことを思い出す。
ここにはそんな礼儀など、最初から存在しない。私はため息を吐きながら、マシュタンを胸元に抱き寄せた。なるべく平静を装って答える。
「……何の用?」
ゴウエモンは扇子で自分の肩を軽く叩き、ニヤリと笑った。
「ウソノワール様がお呼びだ。いよいよ、この街に散らばったマコトジュエルの回収が始まるらしい。新人、お前も見学しておけ。これからの活動の役に立つぜ」
「予言が書き込まれたの?」
「ああ。『愛情溢るる誓いの地にて、婦人の頭上にこそ輝きは宿る』——だとよ。何処にあるのか、オレには皆目見当もつかんが……ウソノワール様の指示を待つさ」
……マコトジュエルが現れるのは結婚式場ね。加えて『婦人の頭上』から推察するに、宿るのはボンネかティアラ、若しくはウェディングベール等の髪につけるアクセサリー類である可能性が高い。まぁ、わざわざこの男に伝える気にもならないが。
そもそも私は、もう探偵ではないのだ。
ゴウエモンは大仰に肩をすくめ、言葉を付け加えた。
「ニジーの奴は張り切ってたぞ。今日ジュエルを盗りにいくのはアイツかもな。……新人、とにかくお前も準備を整えろ。二十分後に地下劇場へ集合だ。遅れるなよっ!」
そう言い残すと、ゴウエモンは肩に羽織った外套を大袈裟に翻して部屋を出て行った。
扉がバタンと閉まる音が、やけに重く響く。
「にじゅっ……あのねぇ! 女の子の朝の準備は時間がかかるのよ!? 次からはもっと早く呼びにきなさい!」
プリプリと頬を膨らませるマシュタンを横目に、私はベッドの端に座ったまま、静かに目を閉じた。
——ついに歯車が、回り出した。
まことみらい市中に散らばったマコトジュエルの回収。今日から、私は正式に怪盗団ファントムの一員として動く。嘘を使い、人を騙し、大切なものを盗んで。
……わかってる。こんなの、到底許されることじゃない。
それでも、私は——
ゆっくりと立ち上がり、部屋に備え付けられている鏡の前に立った。少し乱れていた前髪を指で整え、紫色の瞳に意識して冷たい光を宿す。
鏡の中の私が、ほんの一瞬だけ揺らぐ。
彼女の瞳は紅く染まり、銀色の髪は金色へ。毛先には薄いピンクのグラデーションが生まれる。着ていた薄手のパジャマは、紫色のしずくを散りばめた、黒を基調とする衣装へ変化していく。
「……『森亜るるか』。覚悟は、できてるの?」
私は小さく頷き、鏡の中のキュアアルカナ・シャドウに向かって、静かに答えた。
「ええ。私は私の目的を果たしてみせる。例え何を犠牲にしてでも……」
相対するもう一人の自分が、私自身を静かに見つめ返してくる。選んだ道の先で待ちうける運命を、この時の私は知る由もなかった。
END
最高です!! もう最高すぎて語彙を失ってしまいます。 本編でるるかがどのような過去を背負っているのか今から見るのが凄く楽しみですが、少なからず今回のような内容の過去を背負っていてほしいと思いました。