人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ツイートまとめ テーマ:陰謀追及の記号学②。陰謀追及の根本は陰謀という禍患を杜(ふさ)ぐに在り。あらゆる思想工作を無効化し得る陰謀追及の記号分析。「名付けの魔術」を破る「正名」。

※以前の記事【ツイートまとめ テーマ:陰謀追及の記号学。記号の主客連関態(主客連関的構造)に着目すべき。「安倍」崇拝、「〇猶同祖論」など各種思想ツール、シンボリズム等..あらゆる思想工作の本質は記号操作である。】
https://kokuhiken.exblog.jp/31659589/
の続きです。


〇我が国の兵書「闘戦経」に「兵の本は禍患を杜(ふさ)ぐに在り」とあり。対処療法的な対応ではなく、災いの根本を防ぐべき。陰謀追及に於ける記号の分析はそういうものになり得ると考えている。記号操作・思想工作の類は次々に出てくるが、仕組み自体を理解しておけば、もはや騙されなくなる。無効化。

〇国際秘密力が仕掛ける情報戦や記号操作について分析するのは彼らと同じ事をやり返す為ではなく、「禍患を杜(ふさ)ぐ」為である。孫子・用間篇は東洋の兵法の情報重視の姿勢として参考になるが、情報戦を仕掛けるのではなく、陰謀追及者の基本姿勢はあくまで「禍患を杜(ふさ)ぐ」という防御にあり。

〇闘戦経に「孫子十三篇 懼の字を免れず」ともあり。計らい(計略も然り)に執着すると「恐れ」を免れない事を指すと解釈する。計らいに執着するのは欲に執着しているからである。であれば「懼の字を免れず」は孫子以上に国際秘密力の謀略体系(弁証法戦略、両建戦術をはじめとする)にこそ当てはまる。

〇記号には表現面と内容面がある。仮に前者を「能記」、「所記」と呼ぶ。記号の分析では能記と所記の違いと両者の関係を意識する事が重要である。能記の同一性を所記の同一性と思い込ませるのが記号操作の主要な手口の一つである。能記だけに注目させて所記(中身)を吟味させないようにする手口もある。

〇日猶同祖論などは「能記の同一性を所記の同一性と思い込ませる」手口の典型である。売国者に「愛国保守」「改革者」等の記号を貼り付けて能記に相応しい所記(実質・実態)を備えているかを吟味させないように仕向けるのは「能記だけに注目させて所記(中身)を吟味させないようにする手口」である。

〇ある能記に如何なる所記が対応させられているかは記号だけを眺めても分からない。記号を用いる主体と客体たる記号の関係(主客連関構造)を見なければならない。記号は「誰かが用いているもの」である。ある言葉(「改革」等)の一般的な意味了解に付け込んで物事の実態を誤魔化す手口が横行している。

〇例えば世間的に「社会をよくする変革」というイメージがある「改革」という言葉(能記)を利益誘導政策や売国政策(所記)に貼り付ける事でその実態を誤魔化す事が出来る。記号は記号を使う主体との関係で意味が定まるので「改革」なる記号が国民にとって「社会をよくする変革」を指すとは限らない。

〇能記と所記の関係を正す事が「正名」である。実態に適合する名称を使う事。これは古の儒学で「実」と「名」の関係の乱れが世の乱れの原因だとする「正名論」(論語子路篇が出典)をヒントにした自分なりの陰謀追及の方法の一つである。物事には実態を反映する相応しい名称(一つとは限らない)がある。

〇「正名」の逆が「名付けの魔術」である。これを強烈な表現として「呪い」と呼ぶ事もある。物事の実態に相応しくない名称を敢えて付ける事で人心を惑わし思考を操る事が出来る。種も仕掛けもある「呪い」である。実と名の関係が乱れると世も乱れる。これを正す事はまさしく禍患を杜(ふさ)ぐ道である。

〇記号操作の分析で「能記と所記」という語を用いているが、必ずしもソシュール言語学の「シニフィアンとシニフィエ」の訳語として使っている訳ではない。「能記=シニフィアン」は言語の表現面(音や文字)を、「所記=シニフィエ」は言語の内容面=意味・概念を指すと理解。両者は言語記号の両側面。

〇ソシュール言語学での「能記と所記」はあくまで言語記号の両側面を意味する。だが、吾人の用法では「能記」はほぼ同じ意味だが、「所記」は意味・概念だけでなく語が示す実質・実態の意味でも用いている。具体的に「火」という語で説明する。火なる語の「ヒ」という音、『火』という文字が能記である。

〇それに対し「燃える現象」「物質が急激に酸化して光と熱を発する現象」という意味・概念が所記である。だが、吾人の用法では実際の火、実物の火も「所記」に入れている。これは儒学の正名論で言う「名」に対する「実」、唯識の「名義相互客塵性」で言う「名」に対する「義」に近いニュアンスである。

〇儒学の正名論では「名と実」「名実」という範疇を用いる。「名」は名称、「実」は実態・実質・実物を指し単なる「意味」「概念」に限らない。唯識は「名と義」の範疇を用いる。名は儒学とほぼ同様に名称などの言語表現を指す。「義」はサンスクリット語で「artha」。意味・概念とともに実物をも指す。

〇義=arthaは「言葉の意味」という側面は勿論あるが、「実利」という意味がある如く語の意味・概念という以上に実物のニュアンスも強いようである。「語の表現面に対する内容面」という以上に語が示すもの即ち「対象」一般を指すと解釈する。吾人はこれに近い意味でも「所記」という表現を使っている。

〇整理。「所記」は①言葉の内容面=意味・概念と②言葉が指し示す実物の両方を含む意味で使っている。ソシュール言語学だと所記は①のみを指すと思われる。儒学の「名と実」の「実」、唯識の「名と義」の「義」は実物の意を含む。意味・概念と実物・対象一般を含む意味で「所記」という語を使っている。

〇唯識で主観を「能取」、客観を「所取」とするように「能」は主観や行為の主体、「所」は客観や行為の客体という意味合いがあるようである。能所=主観と客観。この古い漢語的表現を当てて「意味するもの=シニフィアン」を「能記」、「意味されるもの=シニフィエ」を「所記」と訳したものと推測する。

〇「言葉を記号と捉えるのは近代的思考」という指摘を見たが、吾人はそうは思わない。近代的思考でも言語や観念つまりロゴスを実体視する。言語を記号の一種と捉える考えはむしろ近代の実体論を批判する文脈で出た。丸山圭三郎氏によると記号学を唱えたソシュールは近代科学の実体論的思考を批判した由。

〇記号は「何かを別の何かで表すもの」。であれば意味や思考を表す言葉に記号の性質があるのは明らかである。言葉に記号の性質がある事は言葉の価値を些かも貶めるものではない。我が国の古人は言葉に万感の思いを託して歌を詠み、言葉を空と見た東洋の哲人は言葉を大切に用いて深遠な哲理を書き残した。

〇言葉に記号の性質を見出す事を言葉を何か無機質で無味乾燥なものと見なす事であるかのように思うとしたら、それこそ近代の物質主義的偏見ではなかろうか。主客連関態で機能する記号は人の思想や感情を乗せて只の知覚像(音や色・形など)以上の効果を発揮する。我が国の和歌や俳句を見るとよく分かる。

〇例えば松尾芭蕉の「夏草や 兵どもが 夢の跡」という俳句。句の文字面を見ただけではよく意味が分からない。これは奥州藤原氏の栄華と滅亡という歴史的な背景、滅び去った古人へ向ける暖かな同情、史跡に立った時の感慨、何より「もののあはれ」を知る心など一つの句は主客連関態で情趣が発揮される。

〇俳人の「思い」を託するのが「俳句」である。であれば俳句も「何かを別の何かで表す」という記号の性質を持っている。詩的言語は必ずしも「思い」を説明的に表現するとは限らない。極力言葉を削り落し皆まで言わない事で余情を表現する事が出来る。和歌や俳句の表現形式はまさにそのようなものである。

〇言葉を記号と捉える事が即物的に感じるとしたら、記号を実体視する西洋的な実体論や形而上学的な偏見があるからだと思う。言葉を空(無実体)と観じた龍樹は実体論者から言葉を破壊するものと決めつけられた。「言葉は無実体だから機能する。言葉が実体なら機能しない。」というのが龍樹の洞察である。

〇実体論者は「言葉が無実体なら言葉で「空」を説明する事も出来ないではないか」と非難する。龍樹は「言葉に実体がない(=空)から言葉は機能する。」と反論する。言葉がそれ自体で存在するもの(実体=不空)なら、言葉は言葉を使う者と無関係となり、記号の主客連関態が成り立たなくなり機能を失う。

〇「言葉=実体(他に依らず独存するもの)」なら、例えば「夏草や 兵どもが 夢の跡」という句は詠んだ芭蕉や背景としてある奥州藤原氏の栄枯盛衰の歴史と無関係なものとなる。滅び去った先人への芭蕉の「思い」と全く無関係にこの句があり得るはずがない。このように言葉の実体視こそ言葉を破壊する。

〇本居宣長の「もののあはれ」論は「人が何かを認識して感情を生じる」という一連の機制を理論化した認識論の一種である。歌や俳句は人が何事か(自然であれ人事であれ)を認識し心に生じた感情や感慨、情趣などを詠み込んだもの。まさに主客連関態である。これが日本の古典文芸の根底にある構造である。

〇このように言葉に記号の性質を見出す事や言葉を実体視しない事は言葉の尊厳を冒涜する即物的な見方でも言葉を破壊する虚無的な捉え方でもない事が分かる。それどころか真逆である。言葉に記号の性質を見出し記号が機能する主客連関態に着目する事は真に言葉と人の「思い」とを大切にする見方である。

〇記号が主客連関態で機能するように、歌人や俳人が言葉に乗せる「思い」もまた主客連関態で生じる。何事かを認識する事で「思い」が生じる。何も認識しなければ「思い」は生じない(仏教で認識作用の停止が無執着と並列される所以)。この機制を理論化したものが「もののあはれ」論という認識論だった。

〇自然や人事(歴史や人生)という「客体」を認識した「主体」に「思い」が生じ、それを言語記号という「客体」で表現する。「何かを認識する→もののあはれを感ずる→それを言葉で表現する→それを認識した者に情趣が生じる」という一連の主客連関態の中に和歌や俳句という日本の古典文芸が存在する。

〇「陰謀追及の記号学」として記号の分析をするに際して、言葉を記号の一種として分析するのは情緒を解さない無味乾燥な態度と誤解されるととても心外なので「さにあらず」という事を説明した次第である。直接的には陰謀追及に無関係にも見えるが、「物の見方」というものは幅広く応用が効くものである。

〇「無実体」は西洋思想系の方から誤解を受ける事が多い。実体論が基本の西洋思想には「実体の否定=存在の否定」と映るようだ。だが、龍樹が論証した如く実体の否定は存在の否定ではなく「存在の自性の否定」である。無実体な事物は「ある」のである。無実体は「存在の無」でなく「存在の有様」を指す。

〇日本人の存在観の根底は「成る」である。「有る」の根底に「成る」がある。古語では「ムスビ」。仏教の縁起(=無自性=空)観も「成る=生成」を基調とする存在観である事は増谷文雄氏が指摘した通りである。「ありてある」という「有」(それと裏腹な「無」)の実体観を根底とする西洋思想との違い。

〇旧約聖書の中でヤハウェはモーセに対して「私はありてある者である」と言った。これを存在観の根底に置くのが猶太教。猶太教徒は存在は「成る」のではなく「ありてある」者によって「創造された」とみる。生成と創造の違いである。日本と猶太では存在観の根本が違う。この点でも日猶同祖論は僻事なり。

〇南方仏教の仏僧の書いたものを読むと彼らの世界観も生成観である事が分かる。彼らは存在の構成要素である五蘊を実体ではなく生成変化する「流れ」として捉えている。猶太教などより南方仏教の縁起観の方が余程日本古来の世界観に近い。別に「同祖」という事ではない。東洋では生成観が基調というのみ。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1305553906315874304


(了)


by kokusai_seikei | 2020-10-18 08:17 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)


<< ツイートまとめ テーマ:「妖気... ツイートまとめ テーマ:「情報... >>


「国際秘密力研究」の新着記事をお知らせします!

記事を見逃さないように通知を受け取りましょう
(ログイン不要・いつでも解除可能)

新着記事を受け取る