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「文明」国「井戸を掘って遊牧民を定住させよう」→井戸の周りに集められた結果、過放牧状態になり草原が壊滅
「文明」国「焼畑農業は野蛮だから文明的な化学肥料を使いなさい」→アフリカの土壌では水によってすぐに化学肥料が流れ出すため、時間をかけて地力の回復を待つ焼畑農業こそが最適だった。結果として酷使された土地は耕作不能に
これによって本来だったら、いつもの凶作ですむはずだった干魃が大災害になってしまった



前頭(下段後半2)

〇葡萄酒 「浅草 神谷バー」(https://tabelog.com/tokyo/A1311/A131102/13003664/)
〇ワッフル 「京橋鍋町 風月」(https://www.tokyo-fugetsudo.jp/about/history)
(注 上野風月堂が創業家にあたり、銀座にあった米津風月堂は暖簾分けによって開業したのち、別会社に経営が引き継がれたとのこと。詳細はWikipediaを参照されたし)

●稲荷鮨 「日本橋 十軒店」(現存せず?)
(注 東洋文庫の『増補 私の見た明治文壇1』に「此の十軒店名物として夜間稲荷鮓(いなりすし)を鬻(ひさ)ぐ露店あり、其の主人露店内にありて絶叫し曰く「十軒店の治郎吉ぢやア!!」と、其の鮓の美なると此の狂態は府下の人口に喧伝せられ、丁稚、権助、人夫等先を争うて喰ふ」との記述あり)


前頭(下段後半1)

●芋田楽 「目白 鬼子母神」(現存せず?)
(注 雀の附け焼の段落を参照されたし)

〇くず餅 「亀井戸(船橋屋)」(https://www.funabashiya.co.jp/aboutus/history.php)
●蒸羊羹 「深川 越後屋」(現存せず?)
(注 『日本歴史地名体系』の「永代寺門前仲町」の項目に「菓子商越後屋」の記述あり)

〇吉田蕎麦 「日本橋 花屋」(https://tabelog.com/tokyo/A1301/A130101/13192026/)
(注 東大関の吉田蕎麦の支店か? 使いまわしとは思いたくない)

●鳥料理 「浅草田圃 大金」(現存せず?)
(注 日本国語大辞典の用例に【〈六代目桂文治〉「鳥料理でも諸君(みなさん)方御承知でいらっしゃいます、浅草の大金、金田〈略〉などと沢山ございます」】との記述あり)

〇鳥料理 「日本橋 末廣(末げん)」(https://g404300.gorp.jp/)
(注 末廣は廃業したが、そこで修行した人が創業した末げんはまだ営業しているとのこと参考)

●茶漬 「浅草 宇治の里」(現存せず?)
(注 古川緑波『浅草を食べる』に「仲見世まで行くと、観音様へ向って右の裏通りに、だるま、宇治の里などという、今で言えば、大衆向きの料理屋があった。」という記述がある)


前頭(下段前半)

〇團子 「日暮里 芋坂」(https://habutae.jp/)
〇桃太郎團子 「浅草蔵前」(https://asakusa-kokusaidori.jp/shop/39/)
〇どぜう汁 「浅草駒形」(https://dozeu.com/)
●鱒料理 「浅草駒形 鱒屋」(詳細不明)
(注 全く検索に出てこない。番付でどじょうとの東西一対を作るためにでっち上げたのか疑うレベル)

●鮒の雀焼 「千住」(特定不能)
(注 雀焼きとは小鮒の背を開いて串に刺し、タレをつけて炭火で焼いたもの)

●雀の附け焼 「目白 鬼子母神」(現存せず?)
(注 東洋文庫の『明治東京逸聞史1』の「鬼子母神の焼鳥屋」という段に「雑司が谷鬼子母神境内の朝蝶屋は焼鳥屋で、その焼鳥と芋田楽とが土地の名物とせられた」とある。後半には店主へのインタビューもあり、鷹のえさとして雀を宮内庁に納めていたが、獲れすぎたために焼鳥屋をはじめたとのこと)

●筍飯 「目黒 角伊勢」(現存せず?)
(注 目黒区のホームページに「角伊勢・内田屋・大黒屋などの店が、「名物筍飯」として客を呼び、正岡子規ら多くの文人墨客も賞味した」との記述あり)

●栗飯 「目黒 大黒屋」(現存せず?)
(注 上に同じ)

●いろは煎餅 「本郷 菊坂」(現存せず?)
(注 本郷三原堂が調べた限り一番菊坂に近い)

〇菊見煎餅 「團子坂」(https://www.kikumisenbei.tokyo/)


 前頭(中段後半)

〇七色唐辛子「日本橋 薬研堀」(https://yagenbori.jp/)
●焼唐辛子「今戸 濱金」(現存せず?) (注 焼唐辛子とは紫蘇巻(唐辛子を紫蘇で巻いたもの)を焼いたものか。詳細はこちらのnoteの記事を参照されたし)

●太々餅 「芝 神明」(現存せず?)
(注 太々餅は芝大神宮のかつての名物だったあんころ餅のこと。詳細は芝大神宮の太々餅についてのレファレンスを参照されたし)

〇言問団子 「向島 言問」(https://kototoidango.co.jp/syohin.html)
〇志る粉 「木原店 梅園」(https://asakusaumezono.foodre.jp/)
(注 本店は浅草にあるが、日本橋木原店(きわらだな)に出店していたものがとりあげられている。詳細は木原店のタイムトラベルガイドを参照されたし)

〇志る粉 「銀座 十二ヶ月」(現存せず?)
(注 東洋文庫の『東京年中行事2』に「『十二ヵ月』の名で聞こえる時雨庵。十二ヵ月と云うは一年の月々に因んで(中略)十二色のお汁粉に名命したもので、首尾よく十二ヵ月を平らげた大甘党の名前と月日とが、麗々と幾十枚となく紙に書いて張ってある。」との記述がある。)

〇櫻餅 「向島 長命寺」(https://sakura-mochi.com/)

●粟餅 「須田町 三好野」(現存せず?)
(注 三井住友トラスト不動産のページに三好野に関する記載あり)

●萩の餅 「新橋 大阪屋」(詳細不明)
(注 秋色庵大坂屋という明治27年(1894年)まで日本橋小網町に店を構えていた菓子屋を見つけたが、東洋文庫の『東京年中行事2』に「お汁粉雑煮の外に萩の餅で名高い大坂屋」との記載もあり、両者が別の店だった可能性もある)

〇饅頭 「赤坂 虎屋」(https://www.toraya-group.co.jp/shops/shop-5)


前頭(中段前半)

〇紅梅焼 「浅草仲見世 梅林堂」(https://www.asakusa-nakamise.jp/store/pop.php?sid=96)
(注 紅梅焼は「小麦粉に砂糖をまぜ、こねて伸ばしたものを梅花などの型に抜き、鉄板で焼いたせんべい」『コトバンク』、老舗食堂というブログに現在は人形焼の販売のみを行っているとの記述あり)

〇玉だれ 「日本橋 榮太樓」(https://www.eitaro.com/)
(注 玉だれは本山葵を原料としたお菓子。詳細は榮太樓のホームページを確認されたし)

●羊羹 「本郷 藤村」(閉店?) (注 食べログの情報による)

〇最中 「上野 空也」(https://tabelog.com/tokyo/A1301/A130101/13002591/) (注 現在は銀座に移転。詳細はぎんざ空也空いろのホームページを確認されたし)

〇雷おこし「仲見世 常盤堂」(https://tokiwado.tokyo/)
〇笹の雪「根岸 笹の雪」(https://tabelog.com/tokyo/A1311/A131104/13285218/) (注 笹の雪は豆富料理店)

●天麩羅 「銀座 天金」(現存せず)
(注 詳細はWikipediaを参照されたし)

〇鯰のすっぽ煮「浅草山谷 重箱(東京赤坂 重箱)」(https://www.jubako.jp/)
(注 スッポン煮とは、「ぶつ切りにした魚をたっぷりの酒と味醂、醤油、砂糖で味濃く煮て、しょうが汁を落とした煮物。スッポンの味をしのばせるところからいう。すっぽんもどき。コトバンク)

〇志乃だ壽司 「蠣殻町 吉益本店」(https://www.shinodazushi.co.jp/)
(注 志乃多はいなり寿司のこと)

〇鶯餅 「日本橋 清壽」(https://seijuken.com/)


前頭(上段)
●甘酒 「人形町 尾張屋」(現存せず) (注 日清紡ホールディングスのホームページに所在地である甘酒横丁の由来が書かれており、「明治の初め頃にこの横丁の入り口の南側に尾張屋という甘酒屋があったことから昔は『甘酒屋横丁』と呼ばれていた。」とのこと)

〇白酒 「神田 豊島屋」(https://www.toshimaya.co.jp/brand)
〇鳥料理 「薬研堀 鳥安」(https://aigamotoriyasu.com/)
〇佃煮 「浅草 鮒佐」(https://www.funasa.com/)
●與兵衛鮨 「両国 回向院」(現存せず)
(注 ミツカンのホームページに昭和5年(1930)頃に閉店との記述あり)

〇けぬき鮨 「日本橋 住吉町」(https://tabelog.com/tokyo/A1310/A131002/13000597/)
●豆腐料理 「上野三橋 揚げ出し」(現存せず)
(注 詳細はWikipediaの揚げ出し豆腐のその他を参照されたし)

●牡蠣料理 「芝神明 大野屋」(詳細不明)
(注 検索しても全くあたらない。一応『和漢三才図絵』の【岩牡蠣】の項目に「武蔵の江戸の近辺に産するものは大きくて味が美味い」との記述あり)


関脇
〇更科蕎麦 「麻生永坂 布屋(更科堀井)」(https://www.sarashina-horii.com/)
(注 布屋に関連する屋号を持つ蕎麦屋は「麻布永坂更科本店」、「永坂更科布屋太兵衛」が存在するらしいが、Wikipediaの更科堀井の項目を参考に創業者一族が経営している更科堀井を採用した)

〇藪蕎麦 「神田 連雀町(かんだやぶそば)」(https://yabusoba.net/)
(注 東京二八蕎麦というサイト内の記事に、創業者の堀田七兵衛氏が藪蕎麦の屋号を譲り受けたとの記述あり)

小結
〇蒲焼 「浅草 前川」(https://www.unagi-maekawa.com/shop/)
●天丼 「新橋 橋善」(現存せず)
(注 詳細はWikipediaを参照されたし)


横綱
〇鰻の蒲焼 「神田 神田川」(https://tabelog.com/tokyo/A1310/A131002/13000346/)
〇鰻の蒲焼 「新富町 竹葉」(https://g201100.gorp.jp/)
〇天麩羅 「浅草公園 中清」(https://asakusa-nakasei.com/)

大関
〇吉田蕎麥 「日本橋 花屋敷(そば所 吉田)」(https://tabelog.com/tokyo/A1301/A130101/13192026/)
(注 花屋敷の屋号の蕎麦屋は見当たらなかったが、東洋文庫の『明治文学回顧録集』に「コロッケ蕎麦など和洋折衷の異色な吉田屋が浜町と新橋とにあった」の記述があり、Wikipediaで コロッケ蕎麦 を確認したところ、銀座で「そば所 吉田」として続いているとのこと)

●鰻丼「霊岸島 大黒屋」(現存せず?)
(注 東洋文庫の『明治東京逸聞史2』内に「鰻は霊岸島の大黒屋、明神下の神田川、田所町の和田平、新富町の竹葉亭。」の記述あり)
【(10/5 18:00訂正あり) 営業していることを示す◯から営業していないことを示す●に訂正しました】



確かそんなこと書いてあったなと思って、聖典(試みの地平線)引っ張り出して確認したら、後半にあるソープ嬢に惚れたって相談者の回答に、

俺自身はソープランドに行ったことがないから、

と書いてあった。

ですめばよかったんだけど、聖典冒頭の、初体験をスムーズにすませる方法は? という相談では、

童貞とヴァージンの組み合わせはけっこうたいへんだぞ。俺はたまたま最初からうまくいったが、それでも二度目はできなかった。ソープランドに行ったよ。

とも書いてあった。

俺が思うにこれは仏教でいうところの方便というものであり、「男」というものを伝えるためにシュレディンガーのソープに出たり入ったりする北方謙三先生は尊いということだ














The Battle for “NoFap”: Myths, Masculinity, and the Meaning of Masturbation Abstention.
https://doi.org/10.1177/1097184X211018256.

ナゾロジーが引用元にしている論文のひとつなんだけど、ざっと読んだ限りオナ禁コミュニティの多義性、政治性が主題なのに、記事では「非科学的」みたいな漂白をしてるのは良くないと思うわ







善処する:かけ引きをうまくやる事 

政策本意:脱党ふせぎのまじない 

陣笠の強硬論:犬の遠吠え 

御高説拝聴:ごちそうして拝み倒す事 

互譲の精神:双方値切り合うこころもち 

最後案:まだまだくずれるあん 

病気見舞:妥協の瀬ぶみ 

脱党を賭しても:泣寝入りを賭する事 

幹部一任:あとでぐずぐずいう事 

考慮の余地無し:物はお試 いばらに花も咲く 

公明正大:独りずもうのかけ声 

緊縮政策:絞りようによってはまだ出る政策 

大所高所:こまかいところはわからぬ事 

小委員会:解散をよける貝 

税制整理案:我党人気引立て案 

自主独往:おいろ気たっぷり(当時、政権欲しさに政党を渡り歩いていた床次竹二郎を皮肉ったもの) 

農村振興:選挙のこやし 

友党:時々寝返りをうつ党  

了解を求める:お獅子(当時首相だった浜口雄幸)が愛想よくなる事 

公正会(昭和期に存在した院内会派):帆立貝の鍋の事



































Excuse the automatic translation.

A letter sent to Macao by the Jesuit missionary João Fernandes in 1564 describes the political system of Kyoto, including Miyoshi Nagayoshi.

According to the letter, Ashikaga Yoshiteru, the Shogun, is the king of all Japan (el rrey de todo Japán), but it is an honorary position.
Among his vassals (criado) was Miyoshi Nagayoshi, who held power in Kyoto.
And Hisahide Matsunaga, a vassal of Nagayoshi Miyoshi, actually ruled Kyoto (el negocio de governar el reyno y hazer justicia).

The Shogun (King of Japan) as an honorary position and the Daimyo (King of the region) who is under him and holds power.
Miyoshi Yoshitsugu, the successor of Miyoshi Nagayoshi, is the king of Kawachi, according to a letter by Luis Frois in 1566

I used this paper abstract as reference .
松本和也「イエズス会宣教師が見た中近世移行期日本の国王と国家」『早稲田大学博士論文』(2012)
https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/10862


関連論文

塚原真梨佳「戦艦「大和」をめぐるテクノ・ナショナリズム言説のメディア史的研究 : 1950年代の軍事雑誌『丸』の分析を中心に」『立命館大学人文科学研究所紀要』(133巻 2022年)
https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/records/18079

同「軍事技術をめぐるテクノ・ナショナリズム言説の構築過程とその特質 : 一九六〇年代ミリタリー雑誌『丸』の事例から」『日本研究』(68巻 2024年)
https://nichibun.repo.nii.ac.jp/records/2000142

同「1970~1980 年代の軍事雑誌『丸』における旧軍技術をめぐるテクノ・ナショナリズム言説の後景化とその要因の分析」『立命館大学人文科学研究所紀要』(139巻 2024年)
https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/records/2000867

ミリタリー雑誌「丸」の記事から戦艦大和に対する評価の変遷をおった論文。 戦艦大和がなんの軍事的成果もえられなかったからこそ、純粋に日本の高い技術の象徴になりえたという記述が興味深かった。
















【論文要旨】
本稿は高度成長期における出稼農民の実態と彼等に対する国民の意識の変化について検討する。高度経済成長期には学歴の向上とあいまって近代的な事務・技術職が増加したが,同時に建設業・下請工業・零細商業等の単純労務職・不安定雇用も増加した。後者の底辺的労働市場の労働者は,すでに農業従事者となっていた者が季節的に労働力需要地に移動して,出稼労働者として働く形態が典型的であった。出稼農民に対する人々の見方は当初は同情的であった。農業所得が少なく生活が困難であるために,一年の半分前後の期間を家族と離れて工事現場に寝泊まりして労働しなければならないという彼等の厳しい状況が,人々の同情を誘ったからである。しかし多くの出稼農民が毎年出稼を終えて帰郷するたびに繰り返し失業保険金を受給しているという事実が広く知られるようになると,こうした同情が薄れ,次第に批判的見方が強まった。彼等が掛金よりもずっと多額の保険金を受け,その結果として失業保険財政が悪化し,一般加入者の掛金が高くなっているという労働省の説明を受けてマスコミがこれを広く報道したためである。農民に対する批判は,米価が政治的理由で不当に高められ食管会計が赤字を抱えていること,農民が税金をごまかしていること等の批判も加わって,強められた。そうした世論の変容と同時に,農村においても就業機会が増加して失業保険金受給の条件が弱まってくるという変化があり,失業保険の受給を既得権と主張していた出稼組合の立場は後退せざるをえなかったし,出稼農民の保険金受給を支援してきた地元市町村,職業安定所の対応も彼等に対して厳しいものに変わっていかざるをえなかったのである。



【キャプション】 

⑲第42師団(虹師団)部隊章 布製 1919年 米国 三の丸尚蔵館蔵 

 

ダグラス・マッカーサーから昭和天皇に秘密裡に贈られた部隊章。保管されていた箱の中に歌が一首記されている紙が同梱されていた。 

昭和天皇にとっては勿論、マッカーサー自身にとってもバレてはいけない交流だったのか、サインは偽名を用いている。 

全体的に劣化し、慣れない日本語で書いたせいもあるのか一部判読出来ない箇所があったものの日付を考えると憲法記念日と考えるのが妥当であろう。 

当時、日本国憲法をめぐって意見の相違があったとされている二人だったが、⑱の片袖を切り取られた米軍服と併せて、歴史の裏で繰り広げられた往時の交流を偲ばせる一品である。



【地理環境決定論と唯物史観】 

茅原すら想定外だったであろう独自のロシア革命解釈を行った李大釗だったが、その外的要因が人間に影響を及ぼすという直感的な類似性のために、唯物史観をも地理環境決定論を介して受容したと思われる。 

しかしマルクス主義の解釈権をコミンテルン・ソ連共産党が握るようになると地理環境決定論に依拠する文明論は左派から排除され、李大釗も茅原を介して影響下にいたヘルダーを批判する論文を出す。 

こうして東西文明の違いについて多種多様に論じられていた論壇は再び、「東西文化の差異は、実際は時間的なものにすぎない。……時間的に遅いか早いかであって性質上の違いではない」という進んだ西洋と遅れた中国という①の文明観に戻ってしまったわけである。 

以上勝手ながら論文の内容簡単にまとめましたが、絶対に原文読んだほうが正確に理解出来るのでそちらを強くお勧めします


【李大釗と茅原華山】 

若き日に早稲田大学で学んだ李大釗は、のちにマルクス主義の紹介を行い中国共産党の結成に関わった人物であるが、彼に影響を与えた人物の一人として博識ぶりと美文で当時の人気ジャーナリストだった茅原華山があげられる。 

茅原は自身の壮大な文明論の集大成として『人間生活史』を著したが、その中で語られた東西文明論の基調をなしたのが、ドイツの思想家ヘルダーの言説を元としたユーラシア大陸中央部の卓地(高原 tableland)によって分断された「南道」「北道」が東西文明の源流となったという説だった。 

この説は当時非常に注目を集めたらしく、李大釗もその説の影響を受けた『東西文明根本之異点』の中で、「南道」は太陽の恵みを大きく受けた自然や同類との共存を基調にした「東洋文明」となり、「北道」はその恵みが少なかったために自然や同類との格闘を基調にした「西洋文明」になったとしている。 

そしてその地理環境決定論的な文明史理解はロシア革命にまで及んでいた。 

東洋文明と西洋文明、アジアとヨーロッパの境に位置する国家であるロシア人こそがその両方の特質を兼ね備えた新文明を創造すると考えていた李大釗は、ロシア革命を地理的にも解釈し,その後ほどなくマルクス主義の研究を始めることになる。 


【地理環境決定論と東西文明論戦】 

梁啓超によって中国に伝播した文明の概念。これらは①②ともに中華民国の論壇の中心的なテーマであった。 

中国共産党創始者のひとりである陳独秀は①のモデルを用いて文明とはつまり西洋のことであり文明開化のためには西洋の新方式に合わせる必要があると主張する 

しかしその手本となるべき「西洋文明」同士によって第一次世界大戦がはじまると、その悲惨さを知ったことで中国には西洋文明とは別の価値のある東洋文明があるのではないかという認識が生まれる。 

そうして起こったのが「東西文明論戦(東西文化論争)」だった。この論争の中で梁啓超が紹介した各文明を地理環境要因で比較する考え方を東洋文明再評価派は好んで用いた。 

そして、その地理的要因でロシア革命を評価したのがもう一人の主役である李大釗だった。 


【梁啓超と福沢諭吉、浮田和民】 

この二種の概念をともに中国に紹介した人物が梁啓超だった。政争に敗れて日本に亡命した彼は、そこで日本の出版物を通して諸学を学んだのちにそれを自国に広める人物でもある。その際①について学んだのが福沢諭吉の『文明論之概略』、②について学んだのは東京専門学校(早稲田大学の前身)の教授である浮田和民が書いた教科書であった。 

この浮田のテキストはヘーゲルやロックといった思想家からの引用も多かったが、浮田は自身の考えとこれらの引用をしっかり区別せず、誤読や誤解、独自解釈も含まれていた。しかし梁啓超はそのままそれらを西洋の思想として吸収していってしまう。その中にはアジアを四つの地域にわけて論じるヘーゲルから着想を得たと思わしき四大文明説も含まれていた。 

戦前、つまり江上波夫氏が提唱する以前から、浮田和民を含めた複数の人物が古代文明には四つの中心があると論じており、これは四大文明説が当時から知られていた概念であるということを意味している。  


【注意】四大文明がどのような経緯で日中両国で使われるようになったか知りたい人は【梁啓超と福沢諭吉、浮田和民】まで読んでいただければ大丈夫です。

前提として文明という言葉には二つの用法が存在する。 

①    【一元的発展モデル】ゴールを含めた一つの歴史の流れを想定し、そのゴールにどれだけ近づいているかで国家としての優劣を論じるという考え方。代表的なものだとヘーゲルが説いた古代オリエントからギリシャ・ローマ時代を経てキリスト教的ヨーロッパそして近代市民国家が誕生、アジアやアフリカはその発展から取り残されているという歴史哲学、そしてマルクスの唯物史観である。 

②    【歴史的多元的発展モデル】世界に古代から複数存在する高度な営みそのものを文明と呼称したもの。世界全体ではなく地域ごとの歴史も含まれる。異なる文明に本来優劣はないが性質の違いを比較するために地理環境や気候、言葉や「人種」などが論じられるようになった。 

ちなみに、これらの地理や環境、気候によってのみ人間の活動が規定されるという学説は「地理環境決定論」と呼ばれ、人種差別や植民地支配の正当化につながるとされ現在の学会の主流ではない。(私見)ここでは全く関係ないがジャレド・ダイヤモンド氏のベストセラー『銃・病原菌・鉄』もその種の問題を抱えているとされる。 

 


石川禎浩『中国近現代における文明史観の受容と展開:兼ねて「四大文明」説の由来を論ず』より

【論文に関する説明と個人的なメモ】 

 

今まで四大文明の起源として考えられていた説

【日本】 

NHKが四大文明という番組を制作するためにその由来を調べた際に山川出版の「世界史」が初出で、世界では他に古代文明をこのような括りで呼ぶケースがないことがわかった。 

その後2009年に「騎馬民族征服王朝説」で知られる歴史学者の江上波夫氏が戦後に提唱した造語であるという論文が発表され、他の歴史学者からの証言も相次ぐ 

【中国】 

言語学など様々な分野の研究者である陳明遠氏が2011年に発表した『四大文明の古国に疑義あり――歴史の常識を覆す』という本の中で、清末期の思想家でもある政治家、梁啓超が根拠もなく言い始めたもので、それがそのまま今日まで広まっていると発表 

(私見)ちなみに、今、youtubeで四大文明は嘘といった趣旨の動画で使われているのは大体こちらの説である。梁啓超は自国を持ち上げるために四大文明を『捏造』したのだと伝えている場合がほとんどで、さらに言うと日本にも縄文文明なる文明があったという内容とセットであることが多い。 

 

どちらの国も自分の国でしか四大文明は用いられていないと考えられていたが、真相はどうだったのか? 梁啓超と中国共産党の創始者のひとりである李大釗、二人の日本と関わりも深い人物たちがどのように思想を深めたのかというテーマの副次的な産物として解明を目指したのがこの論文である。 


日本の学者「『四大文明』なんて言葉使ってるの日本だけだよ、恥ずかしい」 中国の学者「『四大文明』なんて言葉使ってるの中国だけだよ、恥ずかしい」 「えっ?」「えっ?」