「ゆがみ」が噴出した超円安 通貨危機の「一歩半」手前、避ける術は
歴史的な円安と物価高が暮らしを圧迫する中、日経平均株価は一時7万円の大台に乗せるなど最高値圏で動く。この全体像を、どう捉えればいいのか。金融市場と長年向き合ってきたエコノミストの佐々木融(とおる)さんは、最近の株高は日本経済の復活ではなく、通貨への信頼が揺らいでいることの表れだと警告する。
――この数年間、円安と物価高、そして株価や不動産価格の高騰が同時進行してきました。
「根底には、リーマン・ショック後に本格化し、コロナ禍でさらに膨らんだ『財政ファイナンス』があります。巨額のお金を配る政府の政策を、日本銀行が円を刷って支えた結果、通貨そのものの価値が下落し、深刻なインフレ圧力が生じています」
「そこに、地政学的な対立によるグローバルな供給網の分断も重なり、エネルギーやコモディティー(商品)の価格が引き上げられています。過剰流動性と構造的な供給ショックの連鎖が、資産価格や物価を全般的に押し上げているのです」
「今の株高は、AI(人工知能)や半導体産業が実際に好調だという要因はあるにしても、日本経済の本質的な復活を意味しているのではなく、円の価値が大きく希薄化したことの裏返しという面があります。将来、日経平均株価が10万円に達したとしても、その時の10万円の購買力が今の7万円と同じ価値しかなければ、株式を多く持っていない人の生活はむしろ窮乏しているはずです」
「失敗の構図」にはまり込んでいる
――トルコやアルゼンチンなどとも通じる構図だと指摘しています。
「とりわけトルコは、高インフレにもかかわらず、中央銀行が政治の圧力によって(物価上昇率を差し引いた)実質金利をマイナスに放置し続けた結果、自国通貨の暴落を招きました。日本でも円建てでは企業の利益が膨らみ、税収が増え、株価が最高値を更新していますが、トルコやアルゼンチンがたどった道と、一部で重なるものがあります。両国でもリラやペソ建てでみた株価は、主要先進国とは比較にならないほど高騰していますから」
――物価高を警戒し、日本銀行は1.0%まで利上げしました。
「この程度の利上げでは、まだ十分とは言えません。1990年代前半に今と同程度のインフレ率だった時の政策金利は、2~3%やそれ以上の水準でした。今の物価上昇に対して1%の金利は低すぎ、実質金利はマイナス圏に放置されたままです」
「インフレ率の高止まりが続くという前提に立てば、最終的に到達する金利は、市場の想定よりも大幅に高くなるでしょう。2~3%、あるいはそれを超える水準まで引き上げられるかもしれません。インフレ圧力がどこまで上昇するのかが全く見えていない以上、最終的な着地点を議論できる段階にすら達していないと思います」
――なぜ日銀は利上げに慎重なのでしょう。
「日銀内には、2000年代の利上げ直後に景気が鈍り、批判を浴びたトラウマがあるのだと思います。今回も、利上げ後に中東情勢などの影響で景気が悪化してしまうのではないかと用心深くなっているのでしょう」
「しかし、過去の利上げ直後の景気悪化は、そもそも日銀の判断が慎重になりすぎて『周回遅れ』となり、世界的な景気循環の下降局面に、自らの利上げが重なってしまったためです。今も、その失敗の構図にはまり込んでいます。政府からの政治的圧力が、判断を一層鈍らせてもいます」
「危機時の支出」が逆に格差を拡大
――高市早苗政権は「責任ある積極財政」を掲げて財政拡大をはかろうとしています。
「インフレ率がこれだけ上がっている局面での財政拡大は、火に油を注ぐ行為です。ポピュリズム的な給付に慣れてしまうと、それをやめることは政治的に困難になり、インフレ圧力を高め続けることになってしまいます」
「財政拡大それ自体は、通貨価値の暴落には直結しません。しかし、中央銀行がそのための国債を大量に買い支え、金利を不自然に抑え込む財政ファイナンスに手を染めると、お札を際限なく刷るのと同じ状態になります」
――ただ、危機時の財政支出は生活に困っている人への支援という側面も強いのでは。
「結果として、逆に格差を拡大させていると思います。日銀が支えることによってばらまかれた財政支出は、インフレを引き起こします。物価高騰によって最も深刻な打撃を受けるのは、経済的に弱い立場にいる人や、インフレに連動して収入が増えない人たちだからです」
「一方、低所得者層に配られたお金であっても、彼らが生活のために消費すれば、その資金は企業の売り上げとなり、オーナーや経営者の銀行口座へと流れこんでいきます。ばらまきを行えば行うほど、富は経済的に強い立場にいる人に集中して貧富の差は拡大します」
「都心部に庶民の手が届かない高級マンションが林立し、10億円超の資産を持つ預金口座が急増している現象は、ゆがんだマネーの流れがもたらしたものです」
今の円安の正体は
――様々な政策のゆがみが集中して表れたのが、今の円安だと指摘していますね。
「日銀が実質金利をマイナス圏に放置し続けた結果、『持っているだけで価値が目減りする通貨』である円から逃避しようとする人が増えています。日銀の影響力が及ぶ債券市場とは異なり、世界中の無数の思惑や実需で取引される巨大な為替市場を、当局が完全にコントロールすることは不可能です。金融政策や財政政策のゆがみが、当局では制御しきれない為替市場という唯一の『通気口』から噴出している。それが今の円安の正体です。これは一時的な投機ではなく、日本の構造的な問題として考えなければなりません」
「中東情勢によるエネルギー負担増、高市政権の財政拡張、そしてトランプ米大統領への巨額投資の約束など、いくつもの構造的要因が『さらなる円安』の方向を指し示しています。円に対してドルの需要が圧倒的に強い中で、実質金利のマイナスを放置したまま為替介入をしても、『焼け石に水』の空しい抵抗に終わってしまいます」
――ただ、円安には国内での投資を増やしたり、輸出企業の収支を改善したりといった利点もあります。
「その円安メリット論が、構造改革を遅らせました。これまで、円高は製造業や輸出企業にマイナスで、円安の方が日本経済にプラスになると考える傾向が強かった。しかし、これほどの円安になっても日本企業は国内に回帰せず、海外企業からの直接投資も増えていません。ドル建ての輸出額も伸びなくなってしまいました。通貨安に誘導して、目先の円建てでの利益を膨らませようとした発想そのものが、日本の競争力をそいできたのだと思います」
「見習うべきはスイスです。スイスフランはこの30年間、主要通貨で断トツの強さを保ってきましたが、製造業は高い付加価値を維持し、貿易黒字も拡大し続けています」
トリガーを引くのは日本国民かも
――円は持ちこたえられるでしょうか。
「日本はすでに、通貨危機の『一歩半手前』の危うい領域に足を踏み入れているとみます。単に為替レートが割安なこととの決定的な違いは『通貨価値の下落に歯止めがかからなくなるかどうか』です。現時点では、円は秩序ある下落にとどまっていますが、一線を越えるトリガー(引き金)を引くのは日本国民になるかもしれません。日本の個人や家計が、円に対する信頼を完全に失い、スマホやインターネットを通じて、保有する資産を一斉に外貨へ逃がすキャピタルフライト(資本逃避)が起きた時、日本経済は本当の危機を迎えます」
「家計が持つ円建ての現預金は1千兆円を超えています。国民の多くが『政府の為替介入で円高に振れた瞬間こそ、手持ちの円をドルに替えるチャンスだ』と待ち構えているわけです。為替介入の原資となる外貨準備は、170兆円しかありません。ひとたび円売り・外貨買いの流れに火がつけば、連鎖的な動きは誰にも止められなくなります」
――日本がトランプ米政権に約束した5500億ドル(約89兆円)の対米投資にも注目していますね。
「投資に使うドルを、どう賄うのでしょうか。邦銀はすでにドルを借りすぎていて、5500億ドルという巨額のドル資金を追加で市場から調達するのは不可能です。日本の銀行は国内での資金需要がないために海外へ進出し、非日系企業にまで貸し出してきましたが、その大半の資金は海外の金融機関から市場で調達しています。さらなる巨額のドル調達を強いることはできません」
「結果として、政府系金融機関のJBIC(国際協力銀行)などが、日本政府の保証をバックにして、外貨建て債券を発行してドルを調達せざるを得なくなるかもしれません」
「自国通貨建ての債務であれば、インフレは進むものの、中央銀行がお金を刷ればデフォルト(債務不履行)を回避できますが、外貨建ての債務は円を刷っても返せません。日本が本格的な外貨建て債務を初めて抱え込むことになれば、デフォルトや通貨危機への道を、一歩踏み出すことにつながり得る。この約束をトランプ氏が忘れてくれたまま任期を終え、うやむやになればいいのですが」
必要な構造転換、問われる日銀の独立性
――円の価値を守るにはどうすれば。
「まずは日銀が市場の信頼を取り戻すために実質金利を速やかにゼロ以上に引き上げる利上げを断行することです。ただ、金融政策だけでは限界があります。根本的な解決には、経済構造そのものを『国内で生産し、付加価値を生み出す』ように転換させる必要があります。巨額の貿易赤字を生んでいる食料品、エネルギー、医薬品などの生活必需品について、国内での自給体制や生産基盤を再構築しなければなりません」
――利上げに家計や中小企業は耐えられるでしょうか。
「家計は、住宅ローン債務の総額の4倍以上の現預金を保有しています。実質金利をプラスにすることは、預金金利の上昇を通じて家計全体ではプラスになります。住宅ローンの一面だけをみて利上げを阻む議論は本質をとらえていません」
「私は福岡や長崎、熊本など地方の中小企業の経営者と日常的に対話していますが、彼らが真に苦しみ、悲鳴を上げている原因は金利上昇ではありません。歯止めのきかない円安と原材料高、そして深刻な人手不足です。地方の中小企業の圧倒的多数は、エネルギーや原材料を間接的に海外に頼る輸入型の構造を持っています。円安放置によるコスト高の方が、はるかに深刻です」
――急速な利上げに政治が黙っているとは思えません。高市政権は日銀の審議委員として、利上げに慎重な「ハト派」と目される2人を新たに送り込みました。
「政権の日銀審議委員人事は、偏りすぎなのではないかと思います。新たに任命する2人のうち1人をハト派、もう1人を中道派にするなどしてある程度バランスを取るのならば分かります。今回のような人選は、今後順次任期を迎える審議委員や次の総裁・副総裁人事でも、『ハト派に差し替えられるのでは』と市場に懸念を抱かせてしまいます」
「政治が緩和を求める圧力をかけること自体は珍しいことではありません。だからこそ、中央銀行の独立性が重要視されているのです。日銀の独立性は、日銀のためではなく、我々の財布や預金口座に入っているお金の価値を守るために必要なのですから」
佐々木融さん
ささき・とおる 1963年生まれ。ふくおかフィナンシャルグループのチーフ・ストラテジスト。92年に日銀に入り、為替介入などを担当。JPモルガン・チェース銀行に転じて市場調査本部長などを歴任し、2023年12月から現職。26年1月に「インフレ・円安・バラマキ・国富流出」(日経BP)を出版した。
取材を終えて
そうはいっても、日本はまだ巨額の対外純資産を持ち、自動車など実物を生産する力もある。経済全体の地力ではトルコやアルゼンチンと同列に比べられないのは、佐々木さん自身も認めるところだ。
通貨危機という「レッドカード」に至る可能性や、そこまでの距離感についても、専門家の間では見方が分かれるだろう。急激な利上げというショック療法は、思わぬハードランディングを招く恐れもある。
ただ、危機のシナリオに対する評価に幅はあるとしても、「私たちのお金の価値を誰がどう守るのか」が真正面から問われる局面に、日本経済が入ってしまったのは疑いない。
目先の痛み止めで問題を先送りし続けるのか、構造転換への一歩を踏み出すのか。目の前で進む円安は、市場が突き付けた「イエローカード」にも見える。
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