調味師の遺言
第一章 訃報
三嶋遥が灰谷鷹彦の死を知ったのは、学会発表の原稿を直している最中だった。
画面に並ぶ文字列——「味覚認知における語彙獲得の影響:拡張された味覚言語環境下での縦断的研究」——から目を上げると、研究室の窓の外では秋の陽が傾きかけていた。メールの着信音。件名は「灰谷鷹彦氏死去のお知らせ」。
享年九十四歳。老衰。静かな最期だったという。
三嶋は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。灰谷鷹彦。その名前は味覚言語学を志す者なら誰でも知っている。分子調味合成技術の黎明期から第一線で活躍し、生涯で四十七の新しい味覚語彙を提唱した伝説の調味師。そのうち二十三語が国際味覚語彙標準化機構に正式登録されている。「渋明」「甘重」「循味」——いずれも今では標準的な味覚語彙として教科書に載っている言葉だ。
しかし三嶋にとって灰谷鷹彦とは、三年前の学会で一度だけ言葉を交わした老人だった。
あの日、三嶋は「味覚の言語相対性仮説」について発表していた。使用可能な味覚語彙が味覚認知そのものを規定する、という仮説。色彩語彙の研究で知られるバーリンとケイの理論を味覚に応用したものだ。味覚語彙の豊かな言語話者は、そうでない話者よりも微細な味の違いを識別できる——データはそれを示していた。
質疑応答の時間、最前列の老人が手を挙げた。白髪を短く刈り込み、皺だらけの顔に鋭い目をした男。灰谷鷹彦その人だとは、後になるまで気づかなかった。
「名前をつければ味がわかるようになるのか」と老人は言った。「それとも味がわかるから名前がつくのか。先生のご発表では、その因果の向きが曖昧に思えましたが」
三嶋は答えに窮した。
「おそらく……双方向的な関係があると考えています。語彙が認知を形成し、認知が語彙を要請する。その循環的な——」
「循環」と老人は遮った。「便利な言葉ですね。わからないことを覆い隠すには」
会場に緊張が走った。三嶋は頬が熱くなるのを感じた。
「では、伺いますが」と三嶋は言い返した。「名前のない味は存在するのでしょうか。それとも、名前がないから存在しないことになるのでしょうか」
老人は初めて笑った。深い皺が顔中に広がった。
「良い質問だ」
それだけ言って、老人は席を立った。発表後、控室に戻った三嶋のもとに名刺が届けられた。「灰谷鷹彦」とだけ印刷された、何の肩書きもない紙片。裏には手書きで「答えが出たら教えてください」と書かれていた。
三嶋は答えを出せないまま三年が過ぎた。そして灰谷は死んだ。
メールを読み進めると、思いがけない一文があった。
「故人の遺志により、三嶋遥様を遺言執行人に指名いたします」
三嶋は何度かその文を読み返した。意味がわからなかった。一度会っただけの、ろくに言葉も交わしていない相手が、なぜ自分を。
窓の外では陽がさらに傾いていた。三嶋の口の中に、奇妙な味が広がった。これから何かが起こる、という予感の味。まだ味わっていないはずのものが、舌の上でざわめいている。
味覚学の用語で言えば「前味」だった。来るべき味覚体験への予期が、身体的な感覚として先取りされる現象。だがこの場合、何の味を予期しているのか、三嶋自身にもわからなかった。
灰谷の問いは、三年前からずっと三嶋の中に残っていた。名前のない味は存在するのか。存在するとすれば、それはどのような仕方で存在するのか。
そしてその問いは今も、味わう前から予感される味として、三嶋の舌の上にあった。
第二章 集結
灰谷のアトリエは、都心から電車で二時間ほどの山間にあった。
円城薫がタクシーを降りたとき、他の三人はすでに到着していた。沼田静は庭の片隅で枯葉を見つめている。朴載民は玄関先で所在なさげに立っている。灰谷絵美だけが、祖父の家だというのに最も居心地悪そうに、壁に背をもたれかけていた。
そして見知らぬ女がいた。三十代前半、黒いスーツに眼鏡。彼女が遺言執行人の三嶋だろう、と円城は推測した。味覚言語学者。灰谷がなぜそんな人物を選んだのか、円城には見当もつかなかった。
「円城さんですね」と三嶋が歩み寄ってきた。「お忙しいところ恐れ入ります」
「忙しくありません」と円城は言った。「師匠の最期に立ち会うのに、忙しいも何もない」
嘘だった。円城の会社——彼が創業した味覚デザインファーム——は今、来月の新製品発表に向けて修羅場だった。だが灰谷が死んだ以上、すべてを放り出して来るしかなかった。
玄関を入ると、広い土間があった。そこから奥へ続く廊下。かつて円城が何度も歩いた道だ。二十年前、まだ若く傲慢だった頃。灰谷の弟子として、ここで多くを学んだ。
アトリエは土間の奥にあった。白い壁、最低限の家具、そして部屋の中央に鎮座する分子調味合成機。旧式だが、灰谷は最新機への買い替えを頑なに拒んでいた。「新しい機械は賢すぎる」というのが口癖だった。「余計なことを考える。私の舌は私の頭より賢いのに」
五人がアトリエに集まると、三嶋が口を開いた。
「遺言書を読み上げます」
内容は驚くべきものだった。
灰谷の遺産——莫大な調味レシピのライセンス料、未公開の味覚データベース、そしてこのアトリエ——のすべてを、「最後の味を正しく名づけた者」に譲る、と。
「最後の味?」と円城は聞き返した。
三嶋は合成機の方を示した。
「故人が亡くなる直前に設計した味覚データが、あの機械に保存されています。ただし合成に必要なエネルギーと希少素材の問題で、生成できるのは五回分のみです。四人の弟子の方々に一回ずつ、そして審判者である私に一回」
「審判者?」
「はい。どなたの言葉が『正しい名づけ』かを判断する役目を、私が仰せつかっています」
円城は眉をひそめた。味覚の専門家でもない言語学者が、なぜ。
だが異議を唱える前に、絵美が口を開いた。
「おじいちゃんらしいわね」
絵美の声は平坦だった。円城は彼女の顔を見た。灰谷の孫娘。先天的な味覚障害を持ち、味を感じることができない女。彼女がなぜ「弟子」に数えられているのか、円城には昔から理解できなかった。
「どういう意味ですか」と三嶋が尋ねた。
「矛盾してるってこと」と絵美は言った。「名づけよ、と言いながら、名づけることの無意味さを誰より知っていた人だもの」
円城は二十年前を思い出した。灰谷の下で「渋明」という言葉を学んだ日のことを。
渋みの中に透明感がある。そんな矛盾した概念があるものか、と若い円城は反発した。渋みは重く、透明感は軽い。両立しないはずだ。
だが灰谷は言った。「熟した柿を食べてみろ。皮に近い部分を、注意深く」
円城は食べた。確かに渋かった。だが同時に——何か澄んだものが、渋みの奥に潜んでいた。
「今、お前の舌に何がある」と灰谷は言った。
「渋いです。でも……何か透明な……」
「それが渋明だ。言葉が先にあったから、お前の舌がそれを見つけた。言葉がなければ、お前はただ渋いとしか思わなかっただろう」
あの時、円城は震えた。言葉が味覚を作る。その実感を、骨の髄まで叩き込まれた日だった。
以来、円城は言葉を武器にしてきた。新しい味を作り、新しい言葉を与え、商品として世に送り出す。味覚デザインという産業の先駆者として。
だが灰谷は晩年、円城の仕事を批判するようになった。「名づけすぎだ」と。「お前は味を殺している」と。
何が正解なのか、円城にはわからなかった。わからないまま、師は死んだ。そして今、その師が最後に遺した味を、円城は名づけようとしている。
三嶋が合成機に近づいた。
「明日から、お一人ずつ味わっていただきます。順番はくじ引きで決めます。よろしいでしょうか」
異論はなかった。
その夜、円城は灰谷の書斎で眠れずにいた。本棚には味覚関連の書籍がびっしりと並んでいる。その背表紙を眺めながら、円城は口の中に広がる味を意識した。
懐かしさの味。後悔の味。そして——灰谷の声が、今も耳の奥で響いている。
「言葉は味を作る。だが言葉は味を殺しもする」
その言葉は、二十年の時を経てなお、円城の舌に残紋として刻まれていた。
第三章 沈黙の理由
沼田静は、二十年間、味について語っていなかった。
正確に言えば、語ることはある。「塩を取ってください」「食事は済みました」——そうした実務的な発話は行う。だが味そのものを言葉にすること、「美味しい」「甘い」「深みがある」といった評価や描写を口にすることを、沼田は完全にやめていた。
灰谷のアトリエで一夜を過ごした翌朝、沼田は庭に出た。山から降りてくる霧が、庭の木々を白く包んでいる。冷たい空気を肺に満たすと、かすかな土の匂いがした。匂いについては、沼田はまだ語ることができた。味と違って、匂いは言葉にしても死なない気がした。なぜかはわからない。ただの直感だった。
玄関から足音がして、三嶋が出てきた。
「おはようございます。沼田さんは、最初に味わわれる順番でしたね」
沼田は頷いた。くじ引きの結果、沼田が最初、次いで朴、絵美、円城の順となった。三嶋は最後に残された。
「一つ伺ってもよろしいですか」と三嶋が言った。「沼田さんは、なぜ味について語らないのですか」
沼田は三嶋を見た。若い女だ。頭は切れそうだが、まだ何かを完全に失った経験はないように見えた。
答える義理はなかった。だが、灰谷の遺言に立ち会う者として、最低限の説明は必要かもしれないと思った。
「私は昔、料理評論家でした」と沼田は言った。二十年ぶりに、他人に向かって自分の過去を語る。奇妙な感覚だった。「誰よりも言葉を持っていると自負していた。どんな味も、私の語彙で捉えられると」
三嶋は黙って聞いていた。
「ある日、気づいたのです。私は味を殺している、と」
「殺している?」
「完璧に言語化した料理を、私は二度と美味しく食べられなくなっていた。言葉が味を固定してしまう。可能性を閉じてしまう。次に食べたとき、私は料理ではなく自分の言葉を味わっている。舌の上にあるのは、かつて私が与えた名前だけ」
三嶋は何かを考え込むような顔をした。
沼田は続けた。「灰谷先生に相談しました。先生は笑って、ある概念を教えてくれた。『忘味』と」
「忘味」と三嶋が繰り返した。「食べた直後に忘れる味。味覚語彙標準化機構の登録語ですね」
「定義は知っているでしょう。記憶に残らないから、何度でも新鮮に味わえる味。先生はこう言いました。『言葉は記憶を固定する。忘れられない味は、もう変化しない。だが忘味は、毎回生まれ変わる』」
沼田は霧の中に目を向けた。
「私には忘味を作る才能がなかった。私の言葉は強すぎて、味を覚えさせてしまう。だから——言葉を捨てることにしたのです」
三嶋は静かに言った。「それは、味を守るためですか」
「わかりません」と沼田は答えた。「最初はそう思っていました。でも今は——単に、言葉が怖いのかもしれない」
沈黙が降りた。霧の中で、鳥の声がした。
「もう一つ伺っても」と三嶋が言った。「灰谷さんの最後の味を、あなたは名づけるつもりですか」
沼田は長い間、黙っていた。それから言った。
「先生の遺言は矛盾しています。名づけよ、と言いながら、名づけることの空しさを誰より知っていた人です。あれは問いかけなのか、罠なのか、あるいは——」
「あるいは?」
「赦しなのか」と沼田は言った。「私たちの言葉を赦す、という意味なのか」
三嶋は答えなかった。
アトリエに戻ると、合成機が起動されていた。沼田は機械の前に立った。銀色の筐体、小さな吐出口、そこから出てくるはずの液体。灰谷が最後に遺した味。
「準備はよろしいですか」と三嶋が言った。
沼田は頷いた。
吐出口から、無色透明の液体が小さなカップに注がれた。沼田はそれを手に取った。
一口、含んだ。
最初に来たのは甘みだった。だが普通の甘みではない。重さがある。舌が沈み込むような密度。これが「甘重」か、と沼田は思った。灰谷が若い頃に提唱した概念。
次に、広がりが来た。口腔全体に、霧のように味が拡散していく。「口蓋散」の特性だ。密度と拡散が矛盾なく同居している。あり得ないはずの感覚。
そして——時間差で、第二波が来た。甘みが退いたと思った数秒後に、再び甘みが押し寄せる。「遅発甘」。さらにその奥に、周期的な強弱の繰り返しが感じられた。「循味」。
だがそれだけではなかった。それらすべてを貫いて、何か——言葉にできない何かが、舌の上にあった。
沼田は目を閉じた。二十年間、味を語ってこなかった。その二十年分の沈黙が、今、試されている。
灰谷先生、と沼田は心の中で呼びかけた。あなたは何を遺そうとしたのですか。
味は徐々に薄れていった。最後に残ったのは、苦みだった。だが普通の苦みではない。時間差で戻ってくる苦み。かつて沼田が灰谷から教わった「苦響」——苦味が時間差で反響する現象。
だがこの苦響には、何か違うものが混じっていた。過去の記憶の味。灰谷と過ごした日々。若く傲慢だった自分。言葉を失った自分。その全部が、苦みの中に響いていた。
沼田は紙を取り出した。ペンを握った。
二十年ぶりに、味を言葉にしようとした。だが——
書けたのは、一文字だけだった。
「喪」
それ以外の言葉が、出てこなかった。
三嶋が尋ねた。「それが、あなたの答えですか」
沼田は首を振った。答えではなかった。答えられなかったのだ。
「これは味ではない」と沼田は言った。二十年ぶりに、味について語った。「師匠は——味を消そうとしていた」
「消す?」
「忘味よりも深い何か。味を味として成立させない何か。だから言葉にできない。言葉にするための『味』が、最初からない」
沼田は紙をテーブルに置いた。
「喪」という一文字が、白い紙の上で沈黙していた。
第四章 色のある味
朴載民の世界では、味に色があった。
甘みは黄色い。砂糖の甘みは鮮やかなレモンイエロー、蜂蜜の甘みは少し橙がかった黄金色、果物の甘みは透明感のある淡い黄色。同じ「甘み」でも、色合いが違う。
塩味は白。ただし純粋な白ではなく、光の加減で青みがかったり、銀色に輝いたりする。酸味は緑。強い酸味は蛍光グリーン、穏やかな酸味は深い森の緑。苦みは紫。コーヒーの苦みは藍に近い紫、薬草の苦みは赤紫。旨味は橙。出汁の旨味は夕焼けの橙、肉の旨味はもう少し茶色がかった琥珀色。
朴が自分の知覚の特異性に気づいたのは、八歳の時だった。友人に「チョコレートは何色の味?」と聞いて、奇妙な目で見られた。以来、朴は自分の世界を他人に語らなくなった。
大学で神経科学を専攻したのは、自分自身を理解するためだった。共感覚——ある感覚が別の感覚を誘発する神経学的特性。味覚と視覚の共感覚は、比較的稀な部類に入る。朴は自分を研究対象として、論文を書いた。「味覚—色覚共感覚における神経相関:fMRI研究」。
その論文を読んだ老人から、突然連絡が来た。灰谷鷹彦。
ソウルから東京に飛んで会いに行くと、灰谷は開口一番、こう言った。
「君は味を言葉にしない。色にする。それは翻訳なのか、それとも変換なのか」
朴は答えられなかった。考えたこともなかった。
「翻訳なら、原文がある。味という原文を、色という別の言語に訳している。だが変換なら、原文はない。最初から色しかない」
灰谷は朴の目をじっと見た。
「君にとって、味とは何だ。色の原因か、それとも色そのものか」
その問いに、朴は今も答えを出せていなかった。
灰谷のアトリエで、沼田が「喪」の一文字を残して退場した後、朴の番が来た。合成機の前に立つと、心臓が早鳴りした。灰谷先生の最後の味。それは何色だろう。
無色透明の液体をカップに受け取り、口に含んだ。
最初に見えたのは——灰色だった。
朴は驚いた。灰色の味を感じたことは、これまでほとんどなかった。灰色は「色の不在」に近い。味覚でいえば、何の特徴もない無味に近いはずだ。だがこの灰色は違った。確かに色がある。灰色という色がある。
しかも、その灰色には名前がなかった。
朴の共感覚の世界では、色は味覚語彙と結びついている。「甘重」の黄色、「渋明」の茶色、「酸奥」の深緑——それぞれの味覚概念に、対応する色がある。だがこの灰色には、対応する言葉がなかった。名前のない灰色。
さらに奇妙なことが起きた。色が、視覚野ではない場所に見えた。普段、朴の共感覚的色彩は、視野の片隅にぼんやりと浮かぶ。だが今回の灰色は、鼻腔の奥——いや、目の裏側——いや、そのどちらでもない、言葉にできない場所に見えた。
これが「暗香味」なのか、と朴は思った。味なのに、舌ではなく嗅覚野や視覚野で処理される境界的な感覚。さらに——音が聞こえた気がした。灰色の音。「聴味」の感覚。味覚と聴覚が混線している。
朴は液体を飲み込んだ。喉を下っていく感覚。その後に残ったのは、やはり灰色だった。だが少しだけ、色調が変わっていた。灰色の中に、かすかな光が混じっている。夜明け前の空のような灰色。あるいは、夕暮れ後の残光のような灰色。
どちらなのか、朴には判断できなかった。始まりの灰色なのか、終わりの灰色なのか。
三嶋が尋ねた。「何を感じましたか」
朴は目を閉じたまま答えた。
「灰色です」
「灰色……それは、味覚としてはどういう意味ですか」
「わかりません」朴は正直に言った。「でも、灰色にも名前のある灰色と、名前のない灰色があります。これは後者です。言葉で捉えられない灰色」
朴は目を開けた。涙が頬を伝っていることに気づいた。なぜ泣いているのかわからなかった。
「師匠は……味覚を使って、言葉を殺そうとしていたんじゃないでしょうか」
三嶋が息を呑むのが聞こえた。
「どういう意味ですか」
「僕の共感覚は、味を色に変換します。でも色だって結局は言葉です。『赤』と名づけた瞬間、無数の赤のグラデーションが一つに縮減される。色彩語彙も味覚語彙も、同じ問題を抱えている。言葉は世界を切り分ける。切り分けることで、連続的なものを断片にしてしまう」
朴は立ち上がった。足元がふらついた。
「師匠が遺した味は、言葉で切り分けられることを拒んでいます。僕の共感覚ですら、名前をつけられない。だから僕には——答えられません」
三嶋は何かを書き留めていた。朴は彼女の手元を見なかった。見ても仕方がないと思った。
部屋を出る前に、朴は振り返った。
「言葉は檻ですか。それとも翼ですか」
三嶋は答えなかった。朴も答えを期待していなかった。
第五章 不在の味
灰谷絵美は、味を知らない。
正確に言えば、味覚の生理学的メカニズムは機能している。舌の味蕾は正常に発達し、神経伝達も問題ない。ただ、脳の味覚野と言語野の接続に先天的な異常があり、味覚情報が意識に上らない。食べ物を口に入れても、「味」として認識されない。
幼い頃、絵美はそれを不思議に思わなかった。食事とは、テクスチャと温度と色彩の体験だった。カリカリしたもの、もちもちしたもの、熱いもの、冷たいもの。赤いもの、白いもの、緑のもの。それらを組み合わせて、口の中で何かが起こる。絵美にとって、それが「食べること」だった。
異常に気づいたのは小学校に入ってからだ。給食の時間、隣の席の女の子が言った。「このカレー、甘くておいしいね」。絵美には意味がわからなかった。カレーは茶色くて、温かくて、とろりとしている。それは知っている。でも「甘い」とは何だろう。「おいしい」とは何だろう。
祖父の灰谷鷹彦は、絵美の症状を知ったとき、悲しむよりも興味を示した。
「味がわからない。だが食べることはできる。それは興味深いね」
祖父は絵美のために、様々な実験を始めた。味覚データを視覚に変換するデバイス。味覚データを音に変換するデバイス。味覚データを振動に変換するデバイス。どれも中途半端に終わった。
「翻訳では駄目だ」とある日、祖父は言った。「味を他の感覚に置き換えても、それは味ではない。君には君自身の味がある」
意味がわからなかった。味がないのに、味がある?
「味覚とは何かね」と祖父は言った。「舌の上の化学反応か? 脳の電気信号か? それとも、何かを口に入れて飲み込むという、一連の体験全体か?」
絵美は答えられなかった。
「私たちは味覚を、舌の感覚だと思い込んでいる。だがそれは、味覚の一部にすぎない。絵美、お前は舌の味覚を持たない。だが、食べることの全体を体験している。それは一つの味覚だ。名前がないだけで」
祖父は絵美の頭を撫でた。その手の温かさを、絵美は今も覚えている。
「いつか、お前の味覚に名前をつける日が来る。お前自身が、名前をつける日が」
それから二十年が経った。絵美は三十二歳になり、祖父は死んだ。そして今、祖父が遺した「最後の味」を前に、絵美は立っていた。
合成機から液体が吐出された。無色透明。他の弟子たちと同じものが、小さなカップに注がれている。
絵美はそれを手に取った。匂いを嗅いだ。かすかに、何かの香りがする。だが名前はつけられない。
口に含んだ。
舌の上で、液体が広がる。温度は常温。テクスチャはさらりとしている。粘度は低い。
それだけだった。
味は、やはりわからなかった。
だが——何かが起きていた。絵美の体の中で、何かが動いていた。それは舌ではなかった。胃でもなかった。もっと漠然とした、体全体を包むような感覚。
予感、と絵美は思った。これから何かが来る、という予感。
だが何も来なかった。予感のまま、時間が過ぎた。数秒、数十秒、一分。予感だけが持続し、その先にあるはずの味覚体験は、永遠に訪れなかった。
「前味」という言葉を、絵美は知っていた。祖父が提唱した概念の一つ。まだ食べていないのに予感される味。だが絵美にとって、すべての食事が「前味」だった。これから味わうはずのものを、永遠に待ち続けている。味覚体験は、常に「もうすぐ来る」という状態のまま、決して現れない。
祖父の最後の味は、その「前味」を純粋な形で抽出したものなのかもしれない、と絵美は思った。来るはずのものが来ない。その不在こそが、このの味の本質なのかもしれない。
三嶋が尋ねた。「何を感じましたか」
絵美は液体を飲み込んだ。喉を通過する感覚。それだけ。
「前味のまま終わりました」と絵美は言った。「来るはずのものを待っていて、それが来ないまま、消えていった」
「それは……味覚として認識できなかった、ということですか」
「違います」絵美は首を振った。「私はいつも味覚を認識できない。でも今回は違った。前味という形で、確かに何かを感じた。おじいちゃんの味は——」
言葉を探した。
「無有味、という言葉を知っていますか」
「存在しないはずなのに確かにある味」と三嶋が答えた。「味覚語彙標準化機構の登録語ですね」
「私の人生全部が、無有味です」と絵美は言った。「味がないのに、食べることはできる。味がないのに、美味しいとか不味いとか感じることはできる。他の人の表情を見て、間接的に」
絵美は窓の外を見た。山の稜線が、曇り空に溶け込んでいる。
「おじいちゃんは、私のために何かを遺そうとしたのかもしれない。味のない人間にも届く味を。でも——それが何なのか、私にはまだわからない」
三嶋は何かをメモしていた。その手が止まった。
「一つ伺っても良いですか。絵美さんにとって、味とは何ですか」
絵美は考えた。
「他の人が感じているもの」と答えた。「私には直接わからないけれど、確かに存在するもの。言葉や表情や行動を通じて、間接的にしか触れられないもの」
「それは——」
「言語みたいなものかもしれません」と絵美は言った。「私は味という言語を話せない。でも、その言語が存在することは知っている。他の人がその言語で会話しているのを、外側から見ている」
三嶋は黙っていた。
絵美は立ち上がった。
「おじいちゃんは最後に、私にも読める言葉で、何かを書こうとしたのかもしれない。でも——言葉にならなかったんだと思います。言葉になる前に、死んでしまった」
部屋を出る前に、絵美は振り返った。
「答えは見つからないかもしれません。でも、探し続けることには意味があると思う。おじいちゃんは、そういう人でしたから」
第六章 試味
四人の弟子が味わい終えた後、三嶋遥は自分のノートを見返した。
沼田静:「喪」の一文字。「これは味ではない。師匠は味を消そうとしていた」
朴載民:「灰色。名前のない灰色。師匠は言葉を殺そうとしていた」
灰谷絵美:「前味のまま終わった。来るはずのものが来なかった」
円城薫:(まだ未実施)
三人の言葉は、矛盾しているようで、どこかで繋がっているような気がした。味の不在。言葉の死。来ないものを待つこと。灰谷が遺そうとしたのは、何かの「否定」なのだろうか。
円城薫が合成機の前に立った。他の三人よりも落ち着いた様子で、カップを手に取り、一口含んだ。
数秒間、円城は目を閉じていた。それから目を開き、口の中の液体を飲み込んだ。
「甘重」と円城は言った。「それも極めて密度の高い甘重だ。だが同時に口蓋散の性質を持っている。密度と拡散の矛盾的共存」
三嶋はペンを走らせた。円城の言葉は明晰だった。
「さらに遅発甘の構造がある。最初の接触から約七秒後に第二波が来る。その下層には循味——周期的な強弱の繰り返し——が走っている。周期は約二・五秒」
円城は腕を組んだ。
「商品化するなら、『時差の蜜』といった名前が適当だろう。時間構造を持つ甘みという意味で」
三嶋は顔を上げた。「それがあなたの答えですか」
「分析としては、そうだ」と円城は言った。「だが——」
「だが?」
円城は窓の方を向いた。その横顔に、何か苦しげなものが浮かんでいた。
「これで終わりではない、という気がしている。私の言葉は正確だ。だが正確なだけだ」
「どういう意味ですか」
円城は答えなかった。しばらく沈黙が続いた後、彼は言った。
「三嶋さん。あなたは味覚言語学者だ。言葉と味の関係を研究している。一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「言葉で掬い上げられないものは、存在しないのか」
三嶋は答えに窮した。それは三年前、灰谷に問われたのと同じ問いだった。
「私の研究では……」三嶋は慎重に言葉を選んだ。「味覚語彙が味覚認知を形成する、という仮説を扱っています。語彙が増えれば、識別できる味も増える。そのデータは揃っている」
「それは、語彙に対応する味の話だ」と円城は言った。「私が聞いているのは逆だ。語彙に対応しない味は、どうなるのか」
「存在しない……とは言い切れません。ただ、認知されない。意識に上らない」
「では、意識に上らない味は、味なのか」
三嶋は黙った。
円城は続けた。「私は二十年間、味を言葉にしてきた。それを商品にしてきた。師匠はそれを『味を殺している』と批判した。私は反論できなかった。今もできない」
円城はアトリエを見回した。白い壁、旧式の合成機、最低限の家具。
「師匠の最後の味を、私は完璧に分析した。甘重、口蓋散、遅発甘、循味。すべて言語化できた。だが——言語化した瞬間、何かが零れ落ちた気がする」
「零れ落ちた?」
「師匠が遺そうとしたものは、おそらく私の言葉の中にはない。私の言葉は器だが、中身は違う。形は正しいが、魂がない」
三嶋はノートを閉じた。
四人の弟子の言葉が、頭の中で渦を巻いていた。沼田は「味を消そうとしていた」と言った。朴は「言葉を殺そうとしていた」と言った。絵美は「来るはずのものが来なかった」と言った。円城は「言語化した瞬間、何かが零れ落ちた」と言った。
四人とも、灰谷の最後の味を「捉えられなかった」と言っている。その捉えられなさこそが、灰谷の遺志なのかもしれない。
だが、それでは遺言の条件は満たせない。「正しく名づけた者に全財産を譲る」。名づけられないことが正しい答えなら、相続者は永遠に決まらない。
三嶋は自分の役割を思い出した。審判者。誰の言葉が正しいかを判断する者。
しかし今、三嶋には判断する基準がなかった。四人の言葉は、どれも「正しい」ように聞こえた。だが同時に、どれも「不十分」なようにも聞こえた。
合成機が静かに稼働音を立てていた。あと一回分の味が、その中に残されている。三嶋のための一回分。
審判者には試食の権利がある。だが三嶋は迷っていた。味わえば、言語学者として言語化せずにはいられないだろう。それは灰谷の遺志に適うことなのか。それとも、裏切ることなのか。
「三嶋さん」と円城が言った。「あなたは味わうつもりか」
「まだ決めていません」
「師匠があなたを選んだ理由を、考えたことがあるか」
三嶋は首を傾げた。
「味覚の専門家ではなく、言語の専門家を選んだ。味を名づける者ではなく、名づけることを研究する者を。それには意味があるはずだ」
円城は部屋を出て行った。
三嶋は一人、アトリエに残された。白い壁が、夕方の光で薄く染まっていた。
第七章 日記
その夜、円城薫は眠れなかった。
灰谷の書斎に入り、本棚を眺めた。味覚生理学、神経科学、言語哲学、文化人類学——雑多なジャンルの本が、脈絡なく並んでいる。いや、脈絡がないのではない。灰谷の頭の中では、すべてが繋がっていたのだろう。
円城は一冊の本を手に取った。背表紙が剥がれかけた古い本。開くと、活字ではなく手書きの文字が並んでいた。日記だった。
最初のページには日付がある。四十年前。灰谷がまだ五十代の頃だ。
「今日、新しい味覚概念を思いついた。『渋明』と名づける。渋みの中に透明感がある状態。熟柿の皮際に見出した。これで私の提唱した概念は十五になった」
円城は読み進めた。若き日の灰谷の言葉が、そこにあった。情熱に満ち、自信に溢れた言葉。味覚語彙を増やすことで、人類の味覚体験を豊かにできる——そういう信念が、行間から溢れていた。
だが、十年ほど経った頃から、日記の調子が変わり始めた。
「味覚語彙標準化機構が設立された。私の提唱した概念のうち、八つが正式に登録された。喜ばしいことのはずだ。だが——何か釈然としない」
さらに数年後。
「今日、若い調味師と話した。彼は私の語彙を完璧に使いこなしていた。だが彼の料理には、何か欠けているものがあった。言葉は正しい。技術も正しい。なのに、味が死んでいる」
円城の手が止まった。「味が死んでいる」。灰谷が円城に向けた批判と同じ言葉だ。
日記の後半には、より直接的な言葉が並んでいた。
「色彩語彙の研究を読み返した。バーリンとケイの基本色彩語彙理論。言語によって色彩語彙の数は異なり、語彙の数が増えるにつれて、人々は色をより細かく識別できるようになる——そう彼らは主張した。だが私は今、別のことを考えている。色彩語彙が増えたとき、人は世界をより豊かに見るようになったのか。いや、違う。名前のない色を見る能力を、失ったのだ」
円城は息を呑んだ。
「言葉が増えるほど、言葉にならないものは存在を許されなくなる。名前のない色は、もはや『色』ではなくなる。名前のない味は、もはや『味』ではなくなる。私は五十年間、味覚語彙を増やしてきた。だがそれは、名前のない味を殺すことでもあったのではないか」
さらに後のページ。
「私は三千二百一語目の味覚語彙を与えたいのではない。零語目の味——言語以前の味——を取り戻させたいのだ。だが、どうすればそれができる。言葉を使って、言葉を殺すことができるのか。味を作って、味を消すことができるのか」
最後のページ。日付は死の三日前。
「ようやく、答えが見えた気がする。最後の味を設計した。これは味であって味ではない。名前を与えられることを拒む味。言葉にした瞬間、別の何かになってしまう味。私の弟子たちは、これを名づけようとするだろう。名づけられたとき、彼らは何を理解するだろうか。名づけられないとき、彼らは何を失うだろうか」
そして、最後の一文。
「遺言執行人には三嶋遥を選んだ。味覚の専門家ではなく、言語の専門家を。彼女なら、あるいは——名づけないという選択の意味を、理解できるかもしれない」
円城は日記を閉じた。
手が震えていた。
二十年間、自分がしてきたことの意味を、今さらのように突きつけられた気がした。味を言語化し、商品化し、普及させてきた。それは人々の味覚体験を豊かにすることだと信じていた。だが灰谷は違う見方をしていた。言葉を与えることは、言葉にならないものを殺すことでもある。
では、どうすればよかったのか。言葉を使わずに味を伝えることなどできるのか。
円城は書斎を出て、廊下を歩いた。深夜のアトリエは静まり返っていた。合成機の小さなランプだけが、青白く光っている。
その光を見つめながら、円城は考えた。灰谷先生は最後に何を遺そうとしたのか。名づけられない味を作ることで、何を伝えようとしたのか。
答えは出なかった。だが一つだけ、確かなことがあった。
自分の言葉——甘重、口蓋散、遅発甘、循味——は正しいが、十分ではない。形は掬い上げたが、中身は零れ落ちている。灰谷が遺したものは、自分の語彙の外にある。
窓の外が白み始めていた。夜が明けようとしている。
円城は、灰谷の日記を三嶋に見せることを決めた。
第八章 対話
翌朝、三嶋遥は灰谷の日記を読んだ。
読み終えた後、長い沈黙があった。円城は向かいの椅子に座り、三嶋の反応を待っていた。
「灰谷先生は……」三嶋は言葉を探した。「自分が作り上げたものを、否定しようとしていたのでしょうか」
「否定というより、超克だろう」と円城は言った。「言葉の限界を、言葉を使って示す。そういう試みだったのではないか」
三嶋は日記を閉じた。
「私の研究を思い出します。味覚の言語相対性仮説。語彙が認知を形成する、という仮説。でもその仮説の裏側には、語彙にならないものは認知されない、という含意がある。灰谷先生は、その含意と戦おうとしていた」
その日、三嶋は四人の弟子それぞれと、改めて話をした。
沼田静と話したのは、庭だった。枯葉が風に舞い、沼田は黙ってそれを見ていた。
「沼田さん」と三嶋は言った。「あなたは『喪』と書きました。その意味を、もう少し教えていただけますか」
沼田は長い間、黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「師匠の遺言は矛盾しています。名づけよ、と言いながら、名づけることの空しさを誰より知っていた人です」
「矛盾している、と」
「はい。あれは——問いかけなのか、罠なのか、あるいは」
「あるいは?」
「赦しなのかもしれない」と沼田は言った。「私たちの言葉を赦す、という意味なのか」
三嶋は考えた。言葉を赦す。言葉の限界を知った上で、それでも言葉を使うことを赦す。そういう意味だろうか。
朴載民と話したのは、灰谷の書斎だった。朴は本棚を眺めていた。
「朴さん」と三嶋は言った。「あなたは『言葉は檻か、翼か』と聞きました。答えは出ましたか」
朴は首を振った。
「わかりません。でも——一つ思ったことがあります」
「何ですか」
「僕の共感覚は、味を色に変換します。でも、それは『翻訳』じゃない。味があって、それを色に訳しているわけじゃない。最初から、味と色が同時に存在しているんです。分けられないものを、言葉が無理やり分けている」
三嶋は頷いた。
「師匠の最後の味は、分けることを拒んでいました。甘いとか苦いとか、そういうカテゴリーに収まることを拒んでいた。だから僕には灰色に見えた。すべての色が混ざった、名前のない色として」
灰谷絵美と話したのは、夕方だった。絵美は台所で、何か簡単な食事を作っていた。
「絵美さん」と三嶋は言った。「お祖父様のことを、どう思っていましたか」
絵美の手が止まった。
「複雑です」と絵美は言った。「味覚の天才を祖父に持って、自分は味がわからない。子どもの頃は、なぜ自分だけ、と思っていました」
「今は?」
「今は——違う考え方をしています。私は味がわからない。でも、味がわからないからこそ、見えるものがある」
「見えるもの?」
絵美はフライパンの火を止めた。
「他の人が味について語るとき、私はそれを外側から見ています。言葉が、どのように味を作っているか。言葉が、どのように味を限定しているか。中にいる人には見えないものが、外にいる私には見える」
三嶋は息を呑んだ。
「おじいちゃんは、私のその視点を大切にしていました。『お前には味がない。だから、味について自由に考えられる』と言っていました」
「灰谷先生の最後の味は——」
「私には、前味のまま終わりました。来るはずのものが、来なかった」と絵美は言った。「でも今は、それが答えだったのかもしれないと思っています」
「どういう意味ですか」
「おじいちゃんは、味を作ろうとしていなかった。味の不在を作ろうとしていた。来ないものを待つこと。そこにあるはずのものが、ないこと。それが、おじいちゃんの最後の作品だったのかもしれない」
絵美は振り返り、三嶋を見た。
「沼田さんは『喪』と書きました。喪失の喪。でも喪失するためには、まず何かがなければいけない。私には最初からなかった。だから喪失もない。ただ——不在だけがある」
三嶋は黙っていた。
「不在は、否定ではありません」と絵美は言った。「不在は、可能性です。まだ来ていないものが、来るかもしれない場所。おじいちゃんは、その場所を遺したかったのかもしれない」
三嶋は自分の研究を思い出した。味覚の言語相対性仮説。語彙が認知を形成する。だがその逆——語彙がないところに、何があるのか——は、研究の対象外だった。
語彙のない場所。名前のない領域。そこには何があるのか。
絵美の言葉が、三嶋の中で反響していた。不在は可能性である。まだ来ていないものが、来るかもしれない場所。
それは、灰谷が「零語目の味」と呼んだものと、どこかで繋がっている気がした。
第九章 決断
最終審査の日が来た。
七日間の滞在の最終日。三嶋遥は、合成機の前に立っていた。
四人の弟子たちが、部屋の四隅に座っている。沼田は窓際で、相変わらず枯葉を見ている。朴は目を閉じて、何かを考え込んでいる。絵美は壁にもたれて、腕を組んでいる。円城だけが、三嶋をまっすぐに見ていた。
「三嶋さん」と円城が言った。「あなたには五回目の試食権がある。味わうつもりか」
三嶋は合成機を見つめた。銀色の筐体。小さな吐出口。その中に、灰谷の最後の味が眠っている。
「灰谷先生は」と三嶋は言った。「なぜ私を遺言執行人に選んだのでしょうか」
円城が答えた。「日記に書いてあった。味覚の専門家ではなく、言語の専門家を選んだ、と。名づけることを研究する者を」
「名づけることを研究する者」
三嶋は考えた。自分の研究は、言葉が味覚を形成する過程を解明することだった。語彙が増えれば識別が増える。そのメカニズムを、データで示してきた。
だが灰谷は、その逆を問うていた。語彙にならないものは、どうなるのか。名づけられないものは、存在しないことになるのか。
三嶋は三年前を思い出した。学会での灰谷の問い。「名前をつければ味がわかるようになるのか。それとも味がわかるから名前がつくのか」。答えられなかった問い。今も答えられない問い。
だが今、一つだけわかったことがあった。
灰谷が遺したのは、答えではない。問いなのだ。
この七日間、四人の弟子たちは、それぞれの言葉で灰谷の最後の味を捉えようとした。沼田は「喪」と書いた。朴は「名前のない灰色」と言った。絵美は「前味のまま終わった」と言った。円城は「甘重、口蓋散、遅発甘、循味」と分析した。
四人とも、何かを捉えた。だが同時に、何かを取り逃した。
それは失敗なのか。
いや、違う。それこそが灰谷の遺志なのだ。
名づけることの不可能性を、体験させること。言葉の限界を、舌の上で味わわせること。
三嶋は合成機のスイッチに手を伸ばした。
「味わいます」
吐出口から、無色透明の液体がカップに注がれた。三嶋はそれを手に取った。
一口、含んだ。
最初に来たのは——何も来なかった。
いや、正確ではない。何かは来た。だがそれを「味」と呼んでいいのかわからなかった。
舌の上に、確かに液体がある。温度がある。テクスチャがある。だが「味」と呼べるものが、見当たらない。
甘みを探した。ない。酸味を探した。ない。苦みも、塩味も、旨味も、どれも見つからない。
だが「無味」とも違った。何かがある。何かが確かにある。だがそれを捉える言葉が、三嶋の中にない。
言語学者として、三嶋は三千以上の味覚語彙を知っていた。甘重、渋明、酸奥、口蓋散——すべての登録語彙を頭に入れていた。だが今、舌の上にあるものを、そのどれにも当てはめることができなかった。
時間が経った。数秒か、数十秒か、わからなかった。
三嶋は液体を飲み込んだ。喉を下っていく感覚。喉奥沈——喉の奥で開く味——という言葉が頭をよぎったが、それとも違う。
飲み込んだ後、舌の上に何かが残った。残紋——味の痕跡。だがその残紋すら、名前を拒んでいた。
三嶋は目を開けた。四人の弟子が、自分を見ていた。
「どうでしたか」と円城が聞いた。
三嶋は長い間、黙っていた。
言葉を探していた。三千以上の味覚語彙を、頭の中で巡らせていた。だが、どれも当てはまらなかった。
そして三嶋は、一つの決断を下した。
「名づけません」
部屋に沈黙が落ちた。
「名づけません」と三嶋は繰り返した。「私の舌の上に、今、灰谷先生の最後の作品がありました。これを言葉にすることはできます。私にはその語彙がある。甘重に似ている、口蓋散の性質がある、遅発甘の構造がある——そう言うことはできる。でも、それは嘘になる」
三嶋は四人を見回した。
「灰谷先生は、名づけられることを拒む味を作りました。名づけた瞬間、それは別の何かになってしまう味を。だから私は名づけない。名づけないことが、この味に対する唯一の誠実な応答だと思うからです」
円城が口を開きかけた。だが三嶋は続けた。
「遺言の条件は『正しく名づけた者に全財産を譲る』でした。私は審判者として、こう判断します——正しい名づけは、存在しない。灰谷先生は最初から、相続者が決まらないことを知っていた。これは遺産相続ではなく、問いかけだったのです」
沼田が、初めて声を発した。
「それは——答えなのか」
「わかりません」と三嶋は言った。「でも、これが私にできる最善です」
絵美が微笑んだ。小さな、だが確かな笑み。
「おじいちゃんらしい」と絵美は言った。「最後まで、答えを与えない人だった」
第十章 残紋
あれから三年が経った。
灰谷の遺産は信託され、「名前のない味の保存機構」が設立された。三嶋遥は学者を辞め、その機構の司書になった。
機構の建物は、灰谷のアトリエを改装したものだ。白い壁、最低限の家具、そして地下に設置された特殊な保管庫。そこには、言語化を禁じられた味のデータが保存されている。
訪問者は、その味を体験することができる。合成機で生成し、口に含み、飲み込む。だがその味について語ることは禁じられている。言語化しないまま、味だけを持ち帰る。
奇妙な図書館だった。借りられるのは言葉ではなく、沈黙だけ。
ある秋の日、三嶋のもとに一人の少年が訪れた。
十二歳くらいだろうか。黒い髪、大きな目。入口で靴を脱ぐときの仕草が、どこか絵美に似ていた。
「灰谷の味を、味わいたいんです」と少年は言った。
三嶋は少年を見た。「予約はされていますか」
「してません。でも——」少年は言葉を切った。「ひ孫なんです。絵美の息子です」
三嶋は驚きを顔に出さなかった。絵美が結婚したことは知っていた。子どもがいることも、風の便りで聞いていた。だがここに来るとは思っていなかった。
「お母さんは知っているの」
少年は目を逸らした。
「なぜ、味わいたいと思ったの」
少年は黙っていた。答えを探しているようだった。やがて、ぽつりと言った。
「お母さんは味がわからない人です」
「知っています」
「僕は——わかるんです。お母さんの作る料理の味が」
少年は自分の手を見た。
「それが申し訳なくて。お母さんが味わえないものを、僕だけが味わってる。だから、せめて——ひいおじいちゃんが何を作ろうとしてたのか、知りたかった。お母さんのために何か遺したはずだから」
三嶋は少年の顔をじっと見た。絵美の息子。味覚障害を持つ母と、味のわかる子。その間に横たわる溝を、少年なりに埋めようとしている。
「一つだけ約束して」と三嶋は言った。「この味について、言葉で語らないこと。誰にも。お母さんにも」
少年は頷いた。
保管庫に案内した。階段を降りると、空気が変わる。温度と湿度が一定に保たれた空間。中央に、古い合成機がある。灰谷が最後に使った機械。
三嶋はスイッチを入れた。低い稼働音。吐出口から、無色透明の液体がカップに注がれた。
少年はそれを受け取った。手が少し震えていた。
一口、含んだ。
少年の表情が変わった。眉が寄り、目が見開かれ、そして——何とも言えない顔になった。困惑とも、驚きとも、悲しみともつかない顔。
長い沈黙があった。
少年は液体を飲み込んだ。喉が動くのが見えた。それから、また長い沈黙。
やがて少年は目を開けた。三嶋を見た。何か言いたそうだった。唇が動きかけた。
だが、言葉は出なかった。
少年は口を閉じ、深く息を吐いた。
「ありがとうございました」
それだけ言って、少年は階段を上がっていった。三嶋は後を追わなかった。
玄関で靴を履く音がして、扉が開き、閉まった。
三嶋は一人、保管庫に残った。合成機のランプが青白く光っている。あと何回、この味を生成できるだろう。データは永続的に保存されているが、希少素材には限りがある。
少年が何を受け取ったのか、三嶋にはわからなかった。わからないまま、それでよかった。
二週間後、絵美から手紙が届いた。
封筒には「三嶋遥様」とだけ書かれていた。消印は絵美の住所の近くの郵便局。
便箋は一枚だけだった。
ご報告まで。
息子の咀嚼の回数が増えました。
以前は早食いだったのに、
今は一口ごとに長く噛んでいます。
何を味わっているのか、私にはわかりません。
でも、何かを味わおうとしていることは、わかります。
それだけだった。詰問も、感謝も、説明の要求もない。ただ、観察の報告。
三嶋は手紙を読み返した。
絵美は味がわからない。だが「何かを味わおうとしている人間の姿」は見える。三十年以上、味のある世界を外側から観察してきた人間にしか書けない文章だった。
息子は何も言わなかったのだろう。約束を守って、灰谷の味について一言も語らなかった。
だが、身体が変わった。食べ方が変わった。咀嚼の回数が増えた。
言葉にしなくても、身体は嘘をつけない。絵美はそれを読み取った。言葉ではなく、息子の顎の動きから。
三嶋は窓の外を見た。秋の夕暮れ。山の稜線が茜色に染まっている。
灰谷が遺したものは、言葉にならない味だった。それを受け取った少年は、言葉にしないまま持ち帰った。そして今、その味は少年の咀嚼の中に残紋として刻まれている。
絵美には味がわからない。だが、息子の顎の動きは見える。何かが変わったことは、わかる。
それは「伝わった」と言えるのだろうか。
わからない。三嶋にはわからなかった。
だが、灰谷の味は確かに、形を変えて受け継がれている。言葉としてではなく。定義としてではなく。一人の少年の、咀嚼の回数として。
三嶋は手紙を引き出しにしまった。
明日も訪問者が来る。名前のない味を求めて、人々がやってくる。三嶋はその一人一人に味を渡す。言葉を渡すのではなく、沈黙を。
そして彼らは何かを持ち帰る。何を持ち帰ったのか、三嶋にはわからない。彼ら自身にもわからないのかもしれない。
それでいい、と三嶋は思った。



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