仕事をしていて「人間」という言葉を使う機会が、ここ1年ほどで急激に増えた。もちろん、ほとんどの場合は「AI」と対比する形で使っている。
これまで、「人間」を意識していなかったわけではない。むしろそこに関してはUIデザイナーとして常に向き合ってきた。しかしその「人間」とは「ユーザー」であって、「人間」と呼ぶことはほとんど無かった。それどころか、個別の「ユーザー」のことをよく知り、敬意をもつべきものとされてきたはずだ。
ユーザーだけではない。開発者もそうだ。AIを開発者がどう利用するかを考えているときには、やはり「AI」と「人間」が対比される。エンジニアとかデザイナーとかPMとかではなく、そこでは「人間」と呼ばれる傾向があるように思う。
「AI」と対比するときの「人間」という呼び方は、生物の「種」のように感じる。
AIを活用したプロセスを組むなりサービスを構築するなりするとき、どうしても「AIが得意(可能)で人間が不得意(不可能)なこと」「AIが不得意(不可能)で人間が得意(可能)なこと」がそれぞれ何なのかというところに注目してしまう。そして「AIにはこれをやってもらおう」「人間にはこれをやってもらおう」という話になっていく。そのとき、個別の「人間」には目を向けづらい。
こういうとき、同じ文化や社会を共有する存在として「人間」を見るのではなく、超越した存在の視点から、「人間」と「AI」の駒を配置する話をしているように感じてしまう。ひとりひとりの「人間」が、親から生まれ育ち、教育を受け、社会や文化を構成している、人格をもつ存在であるという認識が抜けていないだろうか、自分がそういう言い方をするときにそう思われてしまわないだろうか、と不安になる。
AIは人間とは違う。どこからか集めてきたデータを大量の計算機資源で学習し、膨大な知識をもとに判断を下すことができ、チャットでは人格があるように振る舞っている。しかし、その人格は模倣であるし、社会を構成しているわけでも文化の担い手であるわけでもない。
「人間」のあり方が、AIのあり方に引っ張られてしまっていないだろうか。あるいは、「人間」に対してAIのような存在であることを求めてしまっていないだろうか。ひとりの人間として、AIを使いつつも、ひとりひとりの人間には敬意をもって向きあっていきたい。