🐴 (馬)

Takaaki Umada / 馬田隆明

スタートアップをとりまく思想

なぜいま、スタートアップと思想なのか

日本で「シリコンバレー」と聞いて思い浮かぶのは、GAFAのような巨大テック企業か、「失敗を恐れず挑戦する起業家精神」といったビジネス書的なイメージではないでしょうか。

しかし、いまアメリカのテック業界で起きていること、そしてシリコンバレーが世界から注目されている理由は、そうしたビジネスの枠を超えて、政治や思想の領域にまで及んでいます。

たとえば、いまシリコンバレーの周辺では、次のようなことが起きています。

  • データ分析企業が、軍や諜報機関の中枢に入り込む
  • 著名な投資家たちが「民主主義よりCEOモデルによる統治のほうが優れている」と公然と語る
  • AI企業の経営者たちが「人類絶滅のリスク」と「人類史上最大の豊かさ」を同時に語る
  • 起業家の間で、キリスト教が真剣に語られるようになる

こうした発言や動きは、それ単体であれば「そういう人たちもいる」と片付けることもできます。しかし、片付けられない背景があります。ここ十年ほどで進んだ、ソフトウェア企業への資本と権力の集中です。

プラットフォーム企業が、国家を超えるような力を持ちつつあり、スタートアップで莫大な財を成した個人が、社会的な影響力を持ちはじめています。そして有力な起業家やベンチャーキャピタリストが、その財で政治家を支援し、副大統領を輩出し、政府内の役職まで得つつある。これが今起こっている、政治への影響です。

つまり、シリコンバレーの思想はもはや一部の人々の放言ではなく、実際の資本と権力を伴って、技術やビジネスを超えたところで世界に影響を及ぼしはじめている、少なくともその構造を持ちつつあるということです。

ビッグテックではなくスタートアップや投資家が牽引する思想

興味深いのは、こうした場面で威勢よく発言しているのが、ビッグテックではなく、スタートアップに類する企業群や投資家たちだという点です。GAFAMのようなプラットフォーム企業は、近年の世論の逆風もあってか抑制的な立場を取る一方で、スタートアップや投資家の側は、その発言の勢いを強めています。

その結果、スタートアップはいまや、イノベーションの担い手としてだけでなく、思想的・政治的な存在としても注目されるようになりました。そしてその思想が、少なからぬ人の目に「危ういもの」として映ること自体が、さらに注目を集める一因にもなっています。

いわば、シリコンバレーは経済闘争の舞台から、思想闘争・政治闘争の舞台へと変わりつつあるのです。

スタートアップに関わるのであれば、こうした変動を無視できなくなってきています。

そこで本稿では、スタートアップに関わることが、政治や思想に関わることへと近づいてきたいま、その思想の系譜を、少し長い時間軸で整理していきます。

振り返れば、短い時間軸の間でも、シリコンバレーが注目される「理由」そのものが、時代とともに移り変わってきました。

  1. 2000年代──ソフトウェア「技術」と自由思想が注目されたシリコンバレー
  2. 2010年代──ソフトウェア「ビジネス」と自由経済思想が注目されたシリコンバレー
  3. 2020年代──ソフトウェア「政治」と複数の思想が注目されるシリコンバレー

これをもう少し長い目で見つつ、どういったことが起こっているのかを俯瞰し、そのうえで日本のスタートアップの勝ち筋を探す、というのが本稿の試論です。

本題に入る前に、二つ注意書きをしておきます。

第一に、シリコンバレーの経済的な強さは、思想の強さだけで説明できるものではありません。その背後には、法制度、資本市場、移民、大学といった制度的・実務的なメカニズムがあり、また経営のノウハウや人材といった面も大いに影響しています。加えて、産業クラスターやドル覇権のような世界経済的な構造に支えられている部分も多くあります。ただ本稿では、そうした実務面には深くは立ち入りません。

第二に、本稿では各思想を代表する人物を取り上げるため、極端な人物が多く登場します。しかし、シリコンバレーやサンフランシスコに住む人の多くはそこまで極端ではありませんし、そもそも思想的なことを考えて動いている人自体、おそらく多数派ではないでしょう。大半の人は、経済的・金銭的な動機で動いていると思われます。

それでも極端な思想に目を向ける価値があるのは、単に「声が大きい」からではなく、後述するように、彼らがこの生態系の中で実際に影響力を持っていることと、そしてその影響力を増幅するために、先鋭化したナラティブを使う煽動者の考えでもあるからです。

 

本稿は三つの部分からなります。

第I部では、シリコンバレーの歴史を、主に思想的な面から振り返ります。それぞれの思想がなぜ人を惹きつけたのかの理由と、それがどこで危険に転じたのかという批判の両方を扱います。

第II部では、一段引いて、思想がエコシステムの中で果たしている「機能」と、それらの思想がどんな固有の状況への「回答」として生まれたのかを分析します。そこで一つの鍵となるのが、アメリカの問いは自国の問いでありながら、最先端に立つがゆえにそのまま人類全体の問いになったという構造です。

第III部では、その分析を踏まえて、日本が立てるべき問いを考えます。結論を先取りすれば、日本は国内の課題を解くだけでは足りず、意識的に世界全体の問いを立て、それを解きに行かなければ、世界規模のスタートアップは生まれない、というのが本稿の見立てです。

ここから導かれる本稿の主張は、シリコンバレーから学ぶべき最大のものは、個々の答えやノウハウ(独占論、加速主義、ネットワーク国家)ではなく、自らの問いと思想を持つことではないか、ということです。

 

第I部 シリコンバレーの思想史

国家の子ども (1940–50年代)

シリコンバレーの思想を語る文章の多くは、リバタリアニズムから話を始めます。しかし歴史的な出発点は逆で、テクノロジーを牽引する地域としてのシリコンバレーは国家、それも軍事国家の子どもとして生まれました。

1940〜50年代、スタンフォード大学のフレデリック・ターマンは、大学と軍需産業と連邦研究資金を結びつける仕組みを作り、教え子たち(ヒューレットとパッカードはその代表です)に起業を促しました。初期の半導体産業の最大顧客は国防総省とNASAであり、インターネットの原型ARPANETは国防高等研究計画局のプロジェクトでした。GPSも音声認識も、公的資金と軍事需要なしには存在しません。

この出自は、後の歴史を読むうえで2つの面で重要です。第一に、「政府は無能で、市場だけが革新を生む」という後年の物語は、シリコンバレー自身の歴史と矛盾していること。第二に、2010年代後半からの防衛テック回帰(後述するPalantirやAnduril)は、逸脱ではなく先祖返りだということです。反国家の楽園だった時期のほうが、むしろ歴史の例外でした。

ヒッピーの子ども (1960–70年代)

そこに、正反対の遺伝子が加わります。ヒッピー文化、コミューン運動、そしてスチュワート・ブランドの『ホール・アース・カタログ』です。

ブランドは「われわれは神のごとき存在なのだから、上手くやるべきだ」(We are as gods and might as well get good at it.)という標語を掲げ、国家や大組織による変革ではなく、個人が道具を手にして生き方を設計するというビジョンを示しました。この感覚がパーソナルコンピュータの思想的土壌になったと言われています。実際、スティーブ・ジョブズは後年、このカタログを自分たちの世代のバイブルだったと回想しています。

同時期に育ったハッカー文化は、情報の自由な共有、権威への不信、手を動かす者への敬意というハッカー倫理を確立しました。ブランドが1984年のハッカー会議で語った「情報は自由になりたがる(Information wants to be free)」という言葉は、のちのインターネット文化全体の合言葉になります。

一方で、メディア研究者のフレッド・ターナーは、この経緯を批判的に描いています。反体制だったはずのコミューンの言葉が、いつのまにか「起業」「自己変革」に翻訳され、デジタル資本主義の正当化に転用されていった、という指摘です。国家との対決(Voice)ではなく、道具を持って別の生き方へ立ち去る(Exit)というコミューンの身振りは、サイバースペースやデジタルという従来とは別の場所にExitしつつも、やがて資本主義に回収されて「起業」や「自己変革」へと辿り着き、その先にあるさらなる自由を求めるExit思想の原型にもなったと読めるでしょう。

つまりシリコンバレーは、軍事国家の子どもであると同時にヒッピーの子どもでもあるという、奇妙にねじれた出自を持つ地域です。反権威の美学や反規制的な自由を求める傾向と、巨大権力の実態が平然と同居する現在の姿は、この二重の出自にすでに刻まれていました。

独立宣言 (1990年代)

冷戦が終わり、インターネットが商用化される1990年代に、現在まで続く思想の骨格が出そろいます。

第一に、サイバースペース独立論です。1996年、ジョン・ペリー・バーロウは「サイバースペース独立宣言」で、産業社会の政府に向かって、あなたたちはこの新世界に主権を持たないと宣言しました。ティモシー・メイらの暗号アナーキズムは、暗号技術が国家の課税・検閲・監視を無力化すると説き、これが後のビットコイン、暗号資産、Web3の直接の祖先に連なる系譜です。

第二に、1997年の『主権的個人(The Sovereign Individual)』です。情報技術が国民国家の徴税能力を掘り崩し、才能と資本を持つ個人が国家を「選んで買うサービス」として扱う時代が来る、という予言の書です。後にピーター・ティールやバラジ・スリニヴァサンが繰り返し参照する、退出(Exit)思想の聖典と位置づけられます。

第三に、オープンソース運動です。リチャード・ストールマンの自由ソフトウェア運動が持っていた倫理的・政治的な主張(ソフトウェアの自由は使用者の権利である)は、エリック・レイモンドの『伽藍とバザール』を経て、「オープンソース」という、企業にも受け入れやすい実利の言葉に翻訳されました。倫理の言語が市場の言語へ翻訳されるこの過程は、ヒッピーの言葉が起業の言葉に翻訳されたターナーの物語の、ソフトウェア版の再演でもあります。同時期の雑誌Wiredとケヴィン・ケリーらは、こうした技術楽観主義を大衆的な物語として広める役割を果たしました。

第四に、この時点で既に現れていた批判です。リチャード・バーブルックとアンディ・キャメロンは1995年の論文「カリフォルニアン・イデオロギー」で、この思想潮流を「ヒッピーの自由とヤッピーの起業家精神の奇妙な融合」と呼び、技術決定論が社会的不平等を見えなくする装置になっていると指摘しました。30年前の批判ですが、現在に当てはまる批判でしょう。

第五に、加速主義の誕生です。1990年代の英ウォーリック大学で、哲学者ニック・ランドを中心とするCCRU(サイバネティック文化研究ユニット)は、資本主義とテクノロジーの自己増殖は人間に制御できず、むしろ加速させるべきだという思想を展開しました。当時はアカデミアの周縁の奇怪な思弁にすぎませんでしたが、四半世紀後にシリコンバレーの中心で復活します。

実践的な実験主義と成長 (2000年代)

一方で、シリコンバレーを特徴づけているのは、未来についての大きな構想だけではありません。そこには、抽象的な理念よりも「作る」「試す」「使ってもらう」「学ぶ」ことを重んじる実務志向があります。思想史を語るとき、この地味な系譜を落とすと、シリコンバレーが観念の遊戯場に見えてしまいます。実際には、大きな構想と小さな実験の往復こそが、シリコンバレーが成功した由来であり、1つの行動原理になっています。

その思想を体現していたのが2005年のY Combinatorでしょう。YCはポール・グレアムらによって、マサチューセッツ州ケンブリッジで始まり、その後、マウンテンビューなどシリコンバレー側へ重心を移し、シリコンバレーの中心の一つになっていきます。

もともとハッカー思想で有名だったポール・グレアムは、自分のエッセイやHacker Newsなどを通して起業家を集め、起業のノウハウとともにその思想を伝えていくことになります。YCの標語となった「Make something people want」(人が欲しがるものを作れ)は、顧客の需要を机上の市場分析ではなく、プロダクトへの実際の反応から発見するという態度を端的に示しています。この環境のなかから、LooptでYC最初期のバッチに参加し、のちにOpenAIで知られるサム・アルトマンや、Stripeを生み出すパトリック・コリソン / ジョン・コリソンのような創業者も登場しました。

同じ時期、シリコンバレー周辺で注目されたのがデザイン思考です。とりわけIDEOやスタンフォードのd.schoolは、観察、共感、プロトタイピング、反復を通じて不確実な課題を解く方法論を広めました。これは単に「デザイナーの技法をビジネスに応用する」という話ではなく、ユーザーの行動や文脈から問題を捉え直し、早い段階で試作品をつくり、反応を見ながら解像度を上げていく方法論として、ソフトウェア開発や新規事業開発にも流入していきました。

リーンスタートアップも、それと隣接する実験主義的な方法論として理解したほうがよいでしょう。エリック・リースのリーンスタートアップは、スティーブ・ブランクの顧客開発アジャイル開発、リーン生産の考え方を組み合わせ、不確実な事業仮説を短いサイクルで検証する方法として整理されました。

こうした方法論が作られ、人々の中で自然と広がったこと、人材が集中したこと、そしてシリコンバレーの企業群自体が経営学でいうリードマーケットとなって、そこで人材と技術とノウハウが急激に磨かれる環境が作られたこと。そうした要因がシリコンバレーをソフトウェアという特定の産業で特異的な立場を作り、さらにソフトウェア産業が大きく発展したことで、シリコンバレーが富を集める仕組みを成立させたとみることができます。日本を含めた諸外国やアメリカの他地域がシリコンバレーの方法論を自国に持ち込んでも、第二、第三のシリコンバレーが作られないのは、マーケットを含めたエコシステムがその地域にはないから、というのが理由でしょう。

こうした方法論などのノウハウが蓄積すると同時に、リーマンショック後の緩和マネーがシリコンバレーに流れ込むことで、何人もの成功者が現れ、経済的に豊かになる人たちが増えていきました。加えて「創業者」というブランドの成立や、学園祭のような各種イベントが、テック業界を超えてアメリカのカルチャー全体に影響し始めたのもこの時期です。

思想史の観点から重要なのは、この時期に「実験して学ぶ」という方法論そのものが一つの思想として輸出可能な形に整理されたことです。後述するカーゴカルト問題は、まさにこの「整理された形」だけが世界中に輸出されたことから生じます。

なお、リーンスタートアップの源流の1つとなった「顧客開発」を提唱したスティーブ・ブランクは、シリコンバレーの起源を軍事・冷戦・大学研究との関係から捉え直す「The Secret History of Silicon Valley」でも知られています。そこでは、シリコンバレーが単にカウンターカルチャーやガレージ起業から生まれたのではなく、第二次世界大戦後の電子戦、レーダー、通信、軍事研究、スタンフォードの工学教育と深く結びついていたことが示されています。

さらにブランクは2016年春にスタンフォードで始まったHacking for Defenseにも関わり、Lean LaunchPadや顧客開発の方法論を、国防総省やインテリジェンス・コミュニティの現実の課題解決へ接続しました。つまりブランクは、シリコンバレーの軍事的起源を歴史的に掘り起こす一方で、民生スタートアップの方法論を再び国防・安全保障の領域へ再び接続した人物として興味深い位置にいる人物とも言えます。

成功者の登場と反模倣・反競争 (2000年代)

2000年代から中心的な位置を占めはじめるのが、ピーター・ティールです。PayPalの共同創業者であり、その出身者たち(イーロン・マスク、リード・ホフマンら)は「PayPalマフィア」と呼ばれ、以後のテック業界の人脈の核となりました。

ティールの思想の根には、スタンフォード時代の師、文芸批評家ルネ・ジラールの模倣欲望論があると言われています。人間は自分の欲望を自分で決めているようでいて、実は他人の欲望を模倣している。ゆえに人々は同じものを欲しがって争い、競争は合理的な淘汰ではなく、似た者同士の破壊的な潰し合いになる。『ゼロ・トゥ・ワン』の有名なテーゼである「競争は敗者のためのもの」「独占を作れ」はビジネス指南であると同時に、このジラール理論の応用でもあります。流行を追うな、群れが見落とす「隠れた真実」を探せという逆張りの美学も、同じ思想的系譜に位置づけられます。逆張りの美学は、群れの合意(主流メディア、専門家、通説)そのものへの不信と地続きであり、それがひいては、破滅論や陰謀論との相性の良さにもつながります。

ただしティールの停滞に関する議論は、的を射ている部分もあります。先進国の生産性上昇率が1970年代以降鈍化してきたことは経済学の標準的な観察であり、「空飛ぶ車が欲しかったのに、手に入ったのは140文字だった」という彼の皮肉は、原子の世界(エネルギー、交通、建設、医療)の革新が情報の世界に比べて停滞してきたという、無視できない指摘を含んでいます。

しかし、ティールを経営思想家として位置づけるだけでは不十分です。政治思想の分野でも影響力が強まっているからです。彼は2009年のエッセイで、自由と民主主義が両立可能だとはもはや考えていないと書き、政治を説得するのではなく、政治の届かない場所(サイバースペース、海上都市、宇宙など)を作ることに希望を置くと述べました。政治哲学の論考では、レオ・シュトラウスやカール・シュミットといった、リベラルな近代そのものに懐疑的な思想家の語彙で世界を論じています。

「独占せよ」という事業論と「民主主義を迂回せよ」という政治論は、ある意味で地続きです。どちらも、多数者の競争や合意の場を「消耗」と見なし、そこから抜け出た者だけが価値を作れるという同じ直観の、事業版と政治版だからです。後述するヴァンスやヤーヴィンへの支援は、気まぐれではなく、この思想の一貫した延長線上にあるものと考えられます。

そしてティールは『ゼロ・トゥ・ワン』で、リーンスタートアップやMVPへの過度な信仰に対して、明確な構想、独自性、長期計画の重要性を対置しました。つまり、この時代のシリコンバレーには、短期的な仮説検証と反復を重んじる実験的なリーンの思想と、長期にわたる強いビジョンによって非連続な飛躍を目指す反リーンの思想が、緊張関係を保ちながら共存していたと言えます。この緊張は解消されるべき矛盾ではなく、生態系の健全さだとも言えます。どちらか一方が「敵」を宣言して他方を排除し始めたとき、生態系は痩せ細ります(これは後の章の伏線です)。

シンギュラリティと合理主義 (2000–2010年代)

同じ時期、まったく毛色の違う思想共同体が育ちます。

その前史として触れておくべきなのが、トランスヒューマニズムとシンギュラリティ論です。レイ・カーツワイルは『シンギュラリティは近い』(2005年)で、技術の指数関数的進歩が2045年頃に人間の知能を超える転換点をもたらすと論じ、老化や死さえ技術で克服可能な工学的問題だと位置づけました。人間の生物学的限界を技術で超えるというこの系譜は、ヒッピー時代の「われわれは神のごとき存在だ」という感覚の後継です。GoogleがカーツワイルをAI開発の要職に迎えたことが象徴するように、この「明るい特異点」の物語はシリコンバレーの主流の空気になりました。そこに続くのが、シンギュラリティ・ユニバーシティや、『楽観主義者の未来予測』などで有名なピーター・ディアマンディスでしょう。

これに対して、同じ特異点を「暗い側」から見たのが、エリエゼル・ユドコウスキーのブログ「LessWrong」を核とする合理主義コミュニティです。認知バイアスの克服、ベイズ的思考、そして超知能AIが人類を滅ぼしうるという存亡リスク論が、このコミュニティで練り上げられました。この思想が人を惹きつけた理由は明確です。第一に、知的に誠実であろうとする者に「自分の信念を確率として持ち、証拠で更新せよ」という厳格な作法を与えたこと。第二に、宗教なき時代に「人類の存亡」という最大級の意味を、しかも数式と論証の形で提供したこと。頭の良い若者にとって、これほど魅力的な組み合わせは稀です。

哲学者ニック・ボストロムの『スーパーインテリジェンス』(2014年)がこの問題意識を主流に押し上げ、隣接して育った効果的利他主義(EA)は、限られた資源で最大の善をなすには証拠と計算で寄付とキャリアを選ぶべきだと説き、やがて遠い未来世代の期待値まで考慮する長期主義へと発展しました。OpenAIAnthropicといったAI企業の設立と人材供給には、この界隈が深く関わっています。

この潮流は現在のアジェンダにも大きな影響を与えています。AIの安全性とガバナンスという論点を、規制当局より十年早く、しかも当事者として提起したのはこの人々です。気候変動以外のグローバルリスク(パンデミック対策を含む)に体系的な思考と資金を向けた点も評価に値します。

なお、この時期のシリコンバレーの外の潮流も見ておくと、マット・リドレーの『The Rational Optimist(日本の翻訳タイトルは「繁栄」)』なども発売されるほか、ピンカーの各種合理性に関する書籍や、日本でもベストセラーとなった『ファクトフルネス』などが話題になったほか、『予想通りに不合理』など、行動経済学などによって、人の不合理な行動が合理的に説明できる、といった論も注目を浴びていた、ある意味での合理と楽観とが同時に語られる時期でした。

シリコンバレーに再び目を向けると、称賛ばかりではありません。たとえばFTXの破綻(2022年)です。EAの看板スターだったサム・バンクマン=フリードは、将来の善のために稼ぐという理屈の下で顧客資産を流用し、有罪となりました。目的の壮大さが手段の逸脱を正当化するという構造的リスクの実例です。

次にOpenAIの取締役会騒動(2023年)です。安全のための非営利統治という設計が、商業化の巨大な圧力の前でほとんど機能しないことが可視化されました。

計算機科学者ティムニット・ゲブルらは、超人間主義から長期主義までの思想群を「TESCREAL」と総称し、仮想的な遠未来の人類を優先する語りが、現在のデータ労働や差別や環境負荷といった実害から注意を逸らすと批判しています。この批判自体にも一般化のしすぎという反論はありますが、壮大な物語が、地味な問題や現在起こっている課題を覆い隠すという指摘は、真剣に受け取るべきでしょう。

加速する反動 (2020年代)

2010年代末から2020年代のコロナ禍にかけて、AI安全論への反動として「効果的加速主義(e/acc)」が台頭します。技術発展の意図的な減速こそが、救えたはずの命を奪う最大の悪だという主張です。

代表的な論者はマーク・アンドリーセンです。2023年の「テクノ・オプティミスト宣言」でこの立場をほぼ公式に採用し、技術で解決できない物質的問題は存在しないと宣言します。そして「敵」のリストに存亡リスク論、ESG、技術倫理、脱成長、さらには社会的責任という言葉まで挙げました。

この思想は魅力的でもあり、そして実際の不満とも結びついています。過剰な予防原則が原子力を停滞させ、新薬の承認を遅らせ、住宅とインフラの建設を麻痺させてきたという指摘は、実証研究の裏付けを持つ論点です。成長の停滞は静かに人を害するという感覚も、賃金が伸びない社会に生きる者には切実に響きます。安全や倫理の名を借りた既得権保護が実在することも、否定できません。そして何より、単純で力強く、分かりやすいため、人の心をつかみやすい面があります。

しかし危険も明確にあります。まず系譜の問題です。e/accが参照するニック・ランドは2010年代に「暗黒啓蒙」へ進み、民主主義の否定と人種主義的な疑似科学に接近しました。アンドリーセンは宣言の「守護聖人」リストにランドの名を含めています。制御の放棄を美学化する思想には、弱者の淘汰を必然として受け入れる社会ダーウィニズムへと向かう回路が組み込まれていると見ても良いでしょう。

第二に、リスクの非対称性です。加速の便益はまず投資家や創業者に集中し、失敗のコストは社会に外部化されます。安全論はすべて既得権の言い訳だという語りは、正当な批判と、規制の取り込み(規制の虜)への批判とを区別する言説を壊します。また、こうした新技術の多くは富裕層に裨益しますが、適切な再分配の制度設計がされていなければ、その便益が多くの人まで行き渡るわけではありません。たとえばアメリカでは富裕層の実効税率が低いままですが、これはそうした再分配に反対する富裕層側の動きがあるからであり、権力構造上変えづらい状況が続いています(実際、カリフォルニアの税率が強まる動きが見えると、富裕層はテキサスやフロリダに移転・Exitしています)。

第三に、宗教構造の同型性です。AI破滅論とe/accは激しく敵対しながら、AIを人類史を分岐させる超越的な力と見なす前提を共有しています。片方は黙示録として、片方は救済として語りますが、どちらの物語も、AIを地味な社会的・工学的対象として扱う穏健な中間的立場(おそらく最も生産的で重要な立場)を脇に追いやってしまいます。前節のカーツワイル的な「明るい特異点」、合理主義の「暗い特異点」、そしてe/accの「加速される特異点」は、三つ巴で争いながら、特異点(シンギュラリティ)が来るという同じ神話を囲んで、それぞれが論説を繰り返す中で、その議論が政治や政策にまで実際に影響することで、政治や政策が結果的に足下の課題を無視したり、先送りし続ける状況を作り出しているとも言えます。

通奏低音としてのExit思想

ここで一度、時系列を離れます。1960年代のコミューンから、90年代の暗号アナーキズム、2020年代のネットワーク国家まで、時代をまたいで繰り返し現れる通奏低音があるからです。それが「Exit(退出)」です。

政治学者アルバート・ハーシュマンは1970年の古典『Exit, Voice, and Loyalty』で、組織の劣化への反応を、退出/離脱(Exit)、発言(Voice)、そして忠誠(Loyalty)の三つに整理しました。シリコンバレーの態度の深層には一貫して、発言は遅い、退出せよという傾向があります。スタートアップや起業は大企業からの退出であり、ビットコインは中央銀行からの退出です。Coinbaseの掲げる経済的自由ハイエクの通貨競争論の現代版であり、ティールが一時期支援したシーステディング(海上都市)は物理的な退出の試みでした。そしてバラジ・スリニヴァサンの「ネットワーク国家」は、オンラインで結束した共同体が土地を取得し、最終的に外交承認を得て国家になるという、Exitの一つの究極形を描いています。

Exit思想の効用は、制度の独占に競争圧力をかけることです。国民が退出できると分かっている政府は、競争圧力にさらされ、劣化しにくくなります。暗号資産は、銀行口座を持てない人々への金融包摂や、権威主義国での資産防衛など、実際に果たした役割もあります。

しかし問題も明確です。退出できるのは資産と技能を持つ者だけであり、実質的に主権の民営化と富裕層への再配分になりかねないこと。規制からの退出は、労働・環境・消費者保護という長い闘争の獲得物からの退出でもあること(暗号資産業界で繰り返された詐欺と破綻はその実演でした)。そして最も深いところで、退出の思想は民主的な発言や公共財への投資を放棄させる方向に働くことです。

全員がExitを選ぶ社会では、残された制度を修理する者がいなくなります。ハーシュマン自身が指摘した通り、ExitとVoiceは代替関係にあり、有能な者から先に退出する組織は、発言の質もまた失われていきます。

そしてExitの思想に関連するもう1つの動きが宗教回帰でしょう。Exitした先にあったたゆまない競争環境、資産を得たはずなのに満たされない欲望、そして自由であることに疲れた一部の人や、足下で壊れつつある社会システムや国際秩序の動き、様々な現状を経て、Exitの先にあるのは救済ではなく終末だと悟ったのか、既存の制度からExitを選んだ起業家たちすら、アメリカの最も古い制度であり基盤である宗教というナラティブへと回帰しつつある、というのは象徴的です。

そして宗教以外での確固たる基盤を求める動きが、かつてのシリコンバレーの源流の一つであった、国家との接続です。

権力との融合 (2020年代後半)

シリコンバレー思想史の最新章は、権力との融合です。

カーティス・ヤーヴィンは2000年代後半から、民主主義は失敗したOSであり、国家はCEOが経営する企業のように統治されるべきだと説いてきました。大学・メディア・官僚機構の複合体を「大聖堂」と呼び、その解体と権力の一元化を主張するという、かつてネットの片隅の奇論だったこの思想は、ティールの支援を受けた人脈を通じて、2020年代には政権中枢に近い若手政治家やテック右派の参照点となりました。

副大統領J.D.ヴァンスは、ティールのVCで働き、ティールの資金で上院議員となり、ティール経由でジラールに触れたことがカトリック改宗の契機になったと語られる、この地図の結節点のような人物です。彼はさらに、自由貿易より産業政策を、そして労働者と家族を国家が守るべきだとする新しい保守経済思想も取り込んでいます。

もう一人、この章に不可欠なのがイーロン・マスクです。マスクは特定の思想の論客というより、複数の思想の実演者として重要な位置づけを占めます。火星移住は「地球に何かあっても種は生き延びる」という救済の物語であり、Exit思想の惑星規模版です。旧Twitterの買収は、言論という公共財を一人の所有者の判断の下に置くという、「大聖堂」批判の実力行使でした。そして政府効率化への直接関与は、企業経営の論理を国家に適用するというヤーヴィン的処方箋の、最初の大規模な社会実験と見ることができます。思想史の観点で言えば、マスクは書かれた思想が現実の権力として試される局面を、誰よりも速く体現している人物です。

サム・アルトマンもまた、独自の位置を占めます。彼は「Moore's Law for Everything」で、AIがあらゆる財のコストを下げ、その果実をベーシックインカム的に再分配する未来を描きました。存亡リスクの語彙と、人類史上最大の豊かさの語彙を、局面に応じて使い分ける彼の言説は、安全と加速という対立する二つの物語のあいだで資本と人材を集めるという、この時代のAI企業経営の様式そのものです。

そして、a16zらは、リバタリアン的な反規制の姿勢を保ちながらも、国家から距離を取るのではなく、むしろ国家の政策形成に接近していきます。彼らの近年の思想は、単なる「小さな政府」論というより、官僚制、過剰規制、既存大企業による規制の取り込みを批判し、スタートアップがより速く技術を実装できる環境を求めるテクノ・オプティミズムを中心に、停滞、官僚制、中央計画、規制の取り込みを敵として位置づけるものです。

さらに2024年には「The Little Tech Agenda」という形で、Big Techではなく「Little Tech」、すなわちスタートアップこそがアメリカの技術的優位を支える主体だと位置づけました。彼らは、悪い政策がスタートアップにとって最大の脅威になっていると主張し、規制当局による調査、訴追、M&A阻止、AIやブロックチェーンへの介入、未実現キャピタルゲイン課税案などを、スタートアップとベンチャー投資の成長を阻害するものとして批判しました。その根底には、規制が結果的に大企業だけが対応可能な参入障壁となり、スタートアップを不利にするという見立てがあります。

そのため彼らは、国家を単純に否定するのではなく、国家の力を「スタートアップに開く」方向へ動かそうとします。つまり、リバタリアン的な思想を持つ彼らの政治参加は、国家からの撤退ではなく、国家の規制・調達・産業政策をめぐる競争への参入だったと見るべきでしょう。

政府への関与は防衛にも及びます。a16zのAmerican Dynamismは、航空宇宙、防衛、公共安全、製造、サプライチェーンなど、「国益」に関わる領域のスタートアップに投資する方針を掲げています。ここで国家は、敵対すべき存在というより、顧客、競争相手、重要なステークホルダーとして位置づけられます。さらにa16zは、防衛産業基盤を再構築するために、防衛調達を既存の巨大プライム・コントラクター中心から、より商用技術・スタートアップに開くべきだと主張しています。

ただし、よりラディカルなリバタリアン思想まで視野を広げると、別の主張も存在します。たとえばマレー・ロスバードのような無政府資本主義の系譜では、国家による防衛・警察・司法の独占そのものが批判され、防衛サービスも市場で競争的に供給されるべきだと論じられます。デイヴィッド・フリードマンもまた、『The Machinery of Freedom』で、法や統治機能を含むサービスが、国家ではなく民間の自発的協力によって提供されうると論じました。a16zの立場も、こうしたラディカルなリバタリアン思想を究極の理想としつつ、それを実現するために一時的に政府に関与している、という形である可能性は否定できません。

つまり、現在のシリコンバレーにおけるアンドリーセンたちの立場は、古典的なリバタリアンや無政府資本主義のように「国家の防衛独占を完全に解体する」ものではなく、むしろ、国家安全保障を重視しながら、その内部にスタートアップ、VC、AI、自律兵器、商用技術を深く組み込もうとする新しい動きです。

ここには明白な矛盾があります。反国家・反規制の言葉を使いながら、実際には国家の防衛予算、調達制度、地政学的競争に強く接続していくからです。しかし、その矛盾こそが、現代シリコンバレーの新しい政治性とも言えます。

かつて2011年ごろに「ソフトウェアが世界を食う」という言葉が流行ったあとに起こったことは、ソフトウェアがビットの世界を超えて物理(アトム)の世界へ、フロンティアのサイバースペースではなく、金融などの規制領域に踏み込んでいくことでした。その後のソフトウェアの発展と、リーマンショック後の金融が融合したキャピタリズムの行き着き先として、今やソフトウェアやスタートアップは、そうした規制領域すらも超えて、防衛や公共など、本当に市場化してよいのかすら分からない領域まで踏み込み始めています。

そして80年前とは違い、政府ではなく民間が寄り大きな力を持つようになった今、かつては軍がある種の責任を持って撃っていた銃弾が、今は特定の民間企業が作った武器によって自律的に銃弾を撃ち始めることすら起こりえる状況になりつつあります。

防衛産業とヒッピーという全く異なる遺伝子から始まった矛盾の地は、リベラリズム的な自由主義とリバタリアニズム的な自由市場主義の時代を経て、今度は国家(防衛)と反国家とを融合させて共在させつつあります。矛盾を解消するのではなく、矛盾を内包しつつ、細かな矛盾を無視して、フロンティアを求め続けるのがシリコンバレーの様式なのかもしれません。

そこでは国家を縮小するのではなく、国家の中枢機能を民間テクノロジー企業によって再編しようとする点に、リバタリアン的な自由市場主義と、テクノ・ナショナリズムと、再び防衛産業化したスタートアップ文化との結合を見ることができます。

こうして、リバタリアンだったはずのシリコンバレーの一部が、様々な理由から、強い国家を求める政治潮流と同盟した──これが2020年代最大の思想的転回です。

公平のために言えば、この潮流が指す問題は実在します。米国の統治機構の機能不全、産業空洞化が労働者にもたらした荒廃、既存エリートへの信頼崩壊は、統計にも選挙結果にも表れる現実です。しかし、遅い民主的手続きを有能な経営者の即断で置き換えるという処方箋は、スタートアップの方法論や「Founder Mode」などの成功体験を、社会の運営にそのまま適用しようとする危険な動きです。国家には退出できない住民がおり、失敗しても畳めません。スタートアップの失敗は投資家の損失で終わりますが、国家の失敗は退出できない人々の生活で支払われます。場合によっては、国が荒れると、人の命すら奪われますし、別の国への侵攻というかたちで人の命を奪うようになるかもしれません。権力の抑制と均衡は非効率というバグではなく、数百年の犠牲の上に発明された機能です。

この文脈で特異な位置を占めるのがパランティアです。2003年にティールらが創業し、CIA系ベンチャーキャピタルの出資を受けて育ったデータ統合・分析企業で、顧客は米軍、諜報機関、警察、移民当局、各国政府に及びます。CEOのアレックス・カープはフランクフルト大学で社会理論の博士号を取得した異色の人物で、自著『The Technological Republic』では、シリコンバレーは消費者アプリに知性を浪費してきた、テック企業は西側の防衛と国家的目的に奉仕すべきだと主張します。

国家が優れたソフトウェアを必要としているのは事実であり、安全保障を民間の技術力から切り離しておける時代でもありません。そして冒頭で見たとおり、これはシリコンバレーの原点回帰でもあります。

しかし従来の軍事技術と比べると、情報技術の時代にはいくつか異なった問題があります。個別には合法のデータも統合されれば生活の全体像を再構成できるという監視の問題。国家の暴力(逮捕、送還、攻撃)の判断過程に営業秘密のソフトウェアが組み込まれると、議会や裁判所による検証が困難になるという説明責任の問題。そして、自らを西側文明の防衛者と位置づけ、批判を「ナイーブ」と切り返す語りが、個別の契約や運用への地味な監視の議論を、文明論の踏み絵に吸収してしまうという思想の問題です。

監視と戦争が成長市場になったというインセンティブ構造は、それ自体、とても不穏です。そうした企業の時価総額が上げるには、各国間の対立が高まるナラティブをメディアを通して広めることや、紛争を起こす政治的介入を促進させることになってしまうからです。そして、それは市場主義がある意味でうまく機能していればいるほど、その傾向は高まります。

米国では法を犯した個人は罰金や懲役刑をくらいますが、企業のコンプライアンスは違います。西洋社会には罰則金がコンプライアンスのための費用より低い場合には、法を破って良いどころか、むしろCEOは法を破るべきフィデューシャリー・デューティーを負うと考える人々がいるんです」といった言葉が紹介されたことがありますが、リターンの最大化をするためであれば、まだ定められていない法や倫理を破ること、つまり市場の失敗を最大限活用することが、営利企業にとっての最適解になりえます。(それに対する警告として、ジョセフ・ヒースの『資本主義にとって倫理とは何か』があります。)

そして冷戦期と違うのは、企業や投資家の側が能動的に、こうした防衛や軍事の思想的正当化を語っている点です。

比較的穏健な進歩思想

ここまで先鋭な思想が続きましたが、中間地帯と対抗勢力もいます。

Stripe創業者パトリック・コリソンと経済学者タイラー・コーエンが提唱した「Progress Studies」は、研究者も研究費も増えているのに進歩が減速しているのはなぜかを問い、科学助成や研究組織の設計を実験的に改善しようとする運動です。コロナ禍で研究資金を数日で配ったFast Grantsはその実装例でした。

2020年代半ばには、リベラル側からの応答として「アバンダンス(豊かさ)」論も現れます。住宅・エネルギー・インフラの供給を阻む規制と手続きを、民主主義の枠内で改革しようという議論です。加速主義の問題提起を受け止めつつ民主的統治を手放さないという、真っ当な対案がここにあります(ただし再分配が弱いという批判もあります)。技術と成長を肯定することと、民主主義を迂回することは、本来まったく別の話です。この二つを意図的に混同させる言説にこそ、注意が必要です。

批判の系譜も紹介しておきます。ショシャナ・ズボフの監視資本主義論は、人間の経験を無断で行動データに変換し予測商品として売るビジネスモデル自体を問題化しました。コリイ・ドクトロウは、プラットフォームがユーザーと事業者を順に優遇した後、両方から搾取して劣化していく過程を「エンシット化(メタクソ化)」と名づけました。リナ・カーンは消費者価格だけを見る独占禁止法理を批判してプラットフォームの構造的支配力に切り込み(ティールの「独占せよ」への、法制度側からの直接の応答です)、ダロン・アセモグルらは、技術進歩が自動的に繁栄をもたらした時代はほとんどなく、便益の分配は常に権力と制度の関数だったことを千年の歴史で示しました。

公平を期すため、批判側の限界にも触れます。反トラストの強硬路線は法廷で敗訴も重ね、その萎縮効果が新規参入をも冷やすという反論があります。監視資本主義批判は、広告モデルが無料サービスを通じて実現した便益の側を過小評価しがちです。脱成長論は、成長停滞のコストを最も払うのが弱者だという事実に十分答えていません。重要なのは、批判者の多くが技術の敵ではなく、技術の便益と統制が誰の手にあるかという古典的な権力の問いを立てているという点です。テック肯定か否定かという土俵設定自体が、片側に有利にできています。

ここまでのまとめ──振り子と、その振れ幅

ここまでをまとめます。

第一に、主要人物はこの地図の上で一枚岩ではありません。ティールは退出と権威主義的政治の間を揺れ、アンドリーセンは加速に全振りし、アルトマンは加速と安全の言葉を使い分け、マスクは複数の思想を現実の権力で実演し、カープは進歩派を自称しながら軍事国家と融合し、コリソンは政治的先鋭化から距離を取って制度改良に向かう──という具合に、同じ「シリコンバレーの思想」の中でも立ち位置は大きく異なります。

第二に、歴史全体は国家と市場、カウンターカルチャーと権力のあいだの振り子として読めます。軍の子どもとして生まれ(国家)、ヒッピーの遺伝子を得て(反権力)、独立を宣言し(反国家)、市場で勝利し(市場)、そして今、国家との再融合へ(国家)。ただし振り子は同じ場所には戻りません。1950年代の融合では国家が主で企業が従でしたが、2020年代の融合では、企業の側が思想を語り、人材を政権に送り、統治の形そのものを再設計しようとしています。振り子は往復しながら、振れ幅を拡大しているのです。

第三に、この歴史を貫いて、大きな構想(独占、特異点、ネットワーク国家)と小さな実験(MVP、顧客開発、Fast Grants)の二つの様式が共存してきました。生態系が健全だったのは、両者が緊張関係を保っていた時期です。現在の危うさは、大きな構想の側が「敵」のリストを作り、批判と実験的謙虚さを排除し始めたことにあります。

こうした整理をもとに、次の問いに進みます。

そもそも思想は、この生態系で何の機能を果たしてきたのか、という問いです。

 

第II部 思想はシリコンバレーで何の機能を果たしているのか

思想の五つの機能

こうした思想がどんな機能を果たしてきたかを読み解くと、思想は決して装飾でも副産物でもなく、エコシステムのインフラだったことが分かります。少なくとも五つの機能を指摘できます。

第一に、思想は予測を供給します。

ベンチャー投資の収益はべき乗則に従い、成績はごく少数の極端な成功で決まります。ということは、投資判断の本質は、売上等の証拠が出そろう前に何を信じて張るかにあり、それは定義上、データではなく世界観に依存します。「ソフトウェアが世界を食う」、「AIは電気に匹敵する汎用技術だ」といった言説は、検証済みの事実ではなく、資本を特定の方向に賭けさせるための、ポジションを取った予測であり、ナラティブです。

投資家や起業家は特定のポジションを取り、そのポジションを肯定するナラティブを語ります。特に案件を多く見る投資家は、思想家や予言者のような立ち位置で語るようになります。「ソフトウェアが世界を食う」と言い、ソフトウェアへの期待を高めて、そこに起業家を集めてサービスを提供させ、顧客に危機感を持たせてソフトウェアを購入させる。自らの予言を語ることで投資を正当化するだけでなく、予言を自己成就させるだけの期待を集めることで、大企業の資本がLPという形で入ってくるだけではなく、デザイン思考などの「革命的な仕事術」をノウハウとして学ぼうとする資金までもが集まってくる。予言は、当たるから価値があるのではなく、十分に多くの人を動かせば当たってしまうからこそ、VCはメディアを持ちたがるのでしょう。

逆に言えば、無思想とは思想がない状態ではなく、他人の思想の下流で実行する状態です。検証済みの事実にしかお金を張れないエコシステムは、構造的に二番手にしかなれません。

第二に、思想は人材への意味の供給します。

決定的な差を生む最上位の人材は報酬の限界効用が低く、人生の時間を何に使うかという意味の問いに敏感です。世界を変える、人類を複数惑星種にするといったミッションの語りは、嘲笑の対象になりがちですが、金銭で動かない層を動かすモチベーション源として、機能的には極めて合理的です。

第三に、思想は時間を延ばします。

二十年後の産業や文明の絵を、投資家と創業者と社員が共有しているとき、初めて資本はその長い期間を待つことができます。思想とは、複利が働くまでに必要な年数のあいだ、関係者の忍耐とコミットメントを維持するための時間の社会技術であり、良くも悪くも、人々の時間感覚を書き換える道具です。

第四に、思想は選抜と調整を行います。

思想の語彙は、仲間を見分ける合言葉(シボレス)として働きます。「ゼロ・トゥ・ワン」「PMF」「アラインメント」「e/acc」といった言葉を自然に使えるかどうかで、その人がどの共同体の文脈を内面化しているかが瞬時に分かります。さらに重要なのは調整の機能です。全員が「次はAIだ」という同じ未来を信じているとき、起業家は採用でき、投資家は相乗りでき、大企業は買収を検討でき、メディアは物語を書けます。共有された予測は、ゲーム理論で言うシェリングポイント(調整の焦点)として、生態系全体の協調コストを劇的に下げるのです。シリコンバレーが一つの方向に雪崩を打てるのは、中央司令部があるからではなく、思想が調整装置として働いているからです。

第五に、思想は正統化を行います。

独占の追求、規制への挑戦、防衛産業への参入といった、本来強い社会的抵抗を受ける行為を、進歩や自由や文明の防衛として受け入れさせるナラティブを供給します。そして、ここまで見てきた思想の危険の大半は、この第五の機能の暴走です。

批判というインフラ──免疫系の話

五つの機能を並べると、一つの帰結が導かれます。思想をインフラとして持つ生態系は、批判もまたインフラとして持たねばならない、ということです。

理由は単純で、上の五つの機能はどれも、真偽の検証を内蔵していないからです。予測は自己成就しうるがゆえに、間違った予測も長く生き延びます。意味の供給は、FTXが示したように、手段の逸脱を覆い隠せます。時間の延長は、実らない賭けへのコミットメントを引き延ばせます。選抜と調整は、同じ物語を信じる者だけで閉じた回路(エコーチェンバー)を作れます。正統化は、正当化してはならないものまで正当化できます。

つまり思想という強力な免疫賦活剤には、免疫(’外部からの批判、内部の異論、ジャーナリズム、大学、法制度、そして「その物語は本当か」と問い続ける文化など)が対になっていなければなりません。実際、90年代の「カリフォルニアン・イデオロギー」批判から、ターナー、ズボフ、ゲブル、カーンに至る批判の系譜は、シリコンバレーの外部にいたのではなく、この生態系の健全性を保つ免疫系の一部として機能してきました。

現在の懸念は、まさにここにあります。テクノ・オプティミスト宣言が「敵」のリストに技術倫理や社会的責任という言葉まで含めたことは、免疫系そのものを異物と見なす、いわば思想の自己免疫疾患の兆候です。批判を敵と定義して排除する一派が、経済的・政治的な力を強めていることを思えば、これは生態系自身にとっての長期的リスクです。この点は、日本への示唆でも回収します。

アメリカの問いへの回答としての思想

思想がこれほどの仕事をする資源なのだとすれば、輸入すればよいのでしょうか。そうではない、というのが本稿の見立てです。

思想は真空からは生まれません。特定の場所における、切実な問いへの回答として生まれます。シリコンバレーの思想群は、アメリカという国が建国以来抱えてきた、いくつもの固有の問いへの回答です。

一つめはフロンティアです。1893年に歴史家フレデリック・ジャクソン・ターナーがフロンティアの消滅を宣言して以来、アメリカの自己理解には、開拓すべき辺境がなければアメリカでなくなるという強迫が埋め込まれています。サイバースペース、宇宙、AIは、失われた辺境の代替物として、宗教的な熱を帯びて語られてきました。

二つめは統治不全です。Exit思想やネオリアクションの過激さは、医療費、インフラ、議会、都市の治安に至る統治への信頼が実際に崩れつつあることへの応答として捉えられます。「この制度はもう直せないのではないか」という絶望の切実さが、「ならば外に作る」という回答に説得力を与えています。

三つめは宗教です。アメリカは終末と救済の物語の上に建国された社会であり、世俗化はその物語の形をした空洞を残しました。AI絶滅論と楽園論、長期主義の遠未来、火星移住による種の救済は、この空洞の形にぴったり合うがゆえに動員力を持ちます。

四つめは覇権です。西側の防衛、American Dynamism、対中輸出規制といった思想の根には、「アメリカはナンバーワンである」という自己認識と、中国の台頭による「果たしてナンバーワンでいられ続けるのか」という帝国の不安が同居しています。

アメリカの問いは、なぜ「人類の問い」になったのか

ここで、本稿の後半の鍵となる観察を一つ挟みます。

いま挙げた四つの問いは、いずれもアメリカという特定の場所の、特定の歴史に根ざしたローカルな問いです。にもかかわらず、そこから生まれた思想と事業であるインターネット、スマートフォン、AI、宇宙開発は、世界中の人々の生活を変えました。なぜ、ローカルな問いへの回答が、グローバルな産業になったのでしょうか。

答えは、アメリカが技術と経済の最先端、つまり人類のフロンティアそのものに立っていたからです。最先端に立つ者にとっては、自国の次の問題が、そのまま人類の次の問題です。「情報をどう繋ぐか」「知能をどう作るか」「宇宙にどう出るか」というアメリカの問いは、アメリカがフロンティアにいたがゆえに、放っておいても人類全体の問いと一致しました。シリコンバレーの起業家たちは「人類のために」問いを立てたというより、フロンティアに立っていたために、自分たちの問いが自動的に人類の問いになったのです。彼らの思想が「人類」「文明」「種」という主語を平然と使えるのは、この位置の産物です。

この観察は、二つの重要な帰結を持ちます。

第一に、フロンティアに立たない国は、この「自動変換」の恩恵を受けられません。自国の問いを解いても、それが自動的に世界の問いへの回答になるとは限らないということです。キャッチアップ型の国の問いは、放っておけば「先進国に追いつくには」「国内市場でどう勝つか」という形になり、定義上、ローカルで、定義上二番手の問いに収束します。

第二に、しかし逆も成り立ちます。フロンティアの位置は、人類の問いを立てるための十分条件ではあっても、必要条件ではありません。意識的に世界全体の問いを立てることは、どの位置からでもできるのです。実際、AIの安全性という人類規模の問いは、当初は産業の中心ではなく周縁のコミュニティが立てたものでしたし、気候変動という問いも、覇権国の政府ではなく、EUや科学者、市民のネットワークが世界の問いに押し上げたものでした。問いの射程は、立てる者の位置ではなく、意志と設計で決まります。ここが、次の議論の土台になります。

カーゴカルト問題

回答だけを問いから切り離して輸入する行為を、物理学者リチャード・ファインマンはカーゴカルトと呼びました。滑走路の形を真似ても、飛行機は降りてきません。日本のスタートアップ振興が、アクセラレーター、ピッチイベント、CVC、リーンの手法といったシリコンバレーの仕組みを丁寧に模倣してきたのに、どこかで空転してきたのは、実行力以前に、この構造の問題があるでしょう。

そもそも前提となる問いが違います。日本の統治は劣化と硬直を抱えつつも、アメリカほど崩壊してはいません。皆保険があるため、医療費もアメリカほど高価ではありません。公共交通が機能しているため、Uberのような仕組みへの切実なニーズは同じ形では現れません。日本にとっては公的な仕組みで提供されているものがアメリカでは市場の中で提供されているため、そこに大きな市場が生まれます。さらにアメリカで成功すれば世界市場に自然と繋がり、それが大規模な金融の仕組みによって加速させられるような構造もあります。アメリカはそういう特殊な環境です。

思想的にも、日本にはアメリカほどのExitの切実さもなければ、フロンティア神話も、終末と救済の宗教的空洞もありません。むしろキャッチアップ型の思考様式ゆえに回答を直輸入してしまい、オリジナルな問いを持つことなく、他人の思想の下流で実行する状態を続けてきたのは、構造的に二番手のポジションを取るしかありません。かつてはキャッチアップ型であっても、急速なキャッチアップを行って、日本の経済規模を活用した規模の経済で国内で成長し、後から世界で勝つこともできましたが、今やそうした戦い方は中国の得意分野であり、供給制約が著しい日本が取るべき戦略ではありません。

よって、日本のスタートアップが世界で勝ちきれないのは、努力や制度の不足以前に、他国の問いへの回答を「模倣」するという方法(しかしかつては成功していた方法)の、必然的な帰結でもあると言えます。

 

第III部 日本の問い──世界の問いを、意識的に立てる

「思想がなかった」のではなく「思想が資本に接続されなかった」

「日本のスタートアップの歴史は書けるが、本稿の第I部のようなスタートアップの思想史は書けないだろう」とは多くの人は思うのではないでしょうか。しかし日本に思想の芽がなかったのではありません。いくつかはありました。i-modeやニコニコ動画などがその一例です。日本に欠けていたのは思想の種ではなく、予測を資本に、意味を人材に、物語を時間に変換する回路──思想を機能させるエコシステム側の装置だったと言えます。

そしてもう一つ、芽に共通する限界があったとすれば、それを「世界全体への問い」として語る言葉を持たなかったことです。「日本のユーザーのための最適化」で止まり、「人類のコミュニケーションはこうなる」という賭けの言明にまで昇華されなかった。回路の不在と、問いの射程の短さ。この二つが、日本の思想の芽を国内の現象で終わらせてきた要因だとも言えます。

アメリカはこれが自然とできる環境でした。覇権国だったからです。彼らの問いは世界の問いでもありました。一方、EUは環境や平等などを自国を越えた世界的な問いとして持ち、それを世界の問いへと共有していきました。もしここから日本が一部の領域で世界を狙うのであれば、このような非対称的な構造を踏まえた上で、戦略的に狙っていかなければなりません。

良い問いの 4 条件

では、日本はどんな問いを立てるべきか。まず、良い問いの条件を三つ挙げます。

1. 切実であること──自分たちが当事者として痛みを負っている

2. 普遍性を持つこと──世界もやがて同じ問題に直面する

3. 作ることで答えられること──嘆きや評論ではなく、技術と制度と事業で応答できる

ただし、第II部の観察を踏まえると、ここに重要な注意書きが必要です。条件2の「普遍性」は、放っておいても達成されるものではない、ということです。

アメリカは、フロンティアに立っていたがゆえに、自国の問いが自動的に人類の問いになりました。日本はその位置にいません。だから、日本が国内の切実な課題を懸命に解いても、それが自動的に世界の問いへの回答になるわけではないのです。「課題先進国」という言葉には、この罠が潜んでいます。課題に先に直面することと、その課題を世界の問いとして定式化し、世界に通用する回答を作ることのあいだには、意識的な跳躍が必要です。国内の高齢化対応をどれだけ丁寧にやっても、それが「日本仕様の作り込み」で終われば、ガラパゴスの再演になります。

したがって、三条件に加えて、日本には第四の条件が要ります。

4. 世界全体の問いとして、意識的に立て直すこと──「日本の課題を解く」ではなく「人類がこれから直面する課題を、日本を最初の実験場として解く」と定式化すること

問いの主語が「日本」なら、プロダクトの設計も、採用する人材も、調達する資本も、規制当局との対話も、すべて国内市場に最適化されます。問いの主語が「世界」なら、初日から多言語・多制度・多文化を前提に設計し、世界の資本と人材に向けて思想を語ることになります。第II部で見た思想の五つの機能──予測、意味、時間、選抜と調整、正統化──は、問いの主語のスケールで、動員できる資源のスケールが決まるのです。世界規模のスタートアップは、世界規模の問いからしか生まれません。

日本の問いの候補:国内課題を、世界の問いに翻訳する

以下は結論ではなく、四条件による検証の試みです。各項目で意識したいのは、「日本の課題」を「世界の問い」に翻訳する定式化です。

第一に、縮小のフロンティアです。日本は、豊かさを保ったまま人口が本格的に減っていく、人類史上最初の大国です。切実さは言うまでもありません。しかしこれを「日本の人口減少対策」と定式化してはいけません。世界の問いとしての定式化はこうです──「人類は、拡大を前提とせずに繁栄できるか」です。中国、韓国、台湾、欧州の多くが、時差を置いて同じ曲線を辿ります。労働力の消滅を前提とした自動化とロボティクス、縮む都市のインフラを賢く畳む設計、少ない現役世代で多くの高齢者を支える社会保障の再発明。アメリカのフロンティアが「拡大の中でどう建てるか」だったとすれば、これは「縮小の中でどう成長を発明するか」という、人類がまだ答えを持たない問いです。日本はこの問いの、最初の当事者にして最初の実験場です。そしてその中で、どのように軟着陸し、再配分していくのかという、国内社会システムの挑戦と、それを支える技術開発もしていく必要があります。

第二に、老いと生命の問いです。世界最長寿の社会で「良く老いる」とは何か。これはアメリカの思想が「死の克服」(トランスヒューマニズム)という形で回答した問いに対する、まったく別の回答の可能性です。死を敵として撲滅するのではなく、老いと死を含んだ生を技術でどう支えるか。世界の問いとしての定式化は、「長寿化する人類は、人生の最終盤の尊厳をどう設計するか」です。介護、認知症、孤独への応答は、あらゆる先進国、そしてやがて新興国が必要とする回答になります。

第三に、災害と強靭性。地震、台風、そして気候変動。日本は「壊れることを前提に、それでも機能する」システムを作り続けてきた社会です。気候変動の時代、「気候が不安定化した地球で、社会はどう壊れずにいられるか」という問いを必要としない国はありません。復旧の速さ、減災の技術、危機時の秩序は、日本が世界に先行して蓄積してきた回答の素材です。場合によっては、現在起こっている紛争の後の復興や、今後起こるかもしれない各国での有事後の復興においても、日本の事業が役に立つかもしれません。

第四に、エネルギーと資源の制約です。資源を持たない国が脱炭素と経済安全保障を両立させるという問いは、オイルショック以来の日本の切実な問いであり、省エネ技術という形で一度は世界的な回答を出した実績もあります。世界の問いとしては、「資源の偏在が争いを生む構造を、技術でどこまで無効化できるか」と定式化できます。この定式化が、次の問いに繋がります。

第五に、平和の実装です。これらすべてを束ねる可能性を持つのが、平和という問いです。

世界の平和度は悪化を続け、国家が関与する武力紛争は第二次世界大戦後で最も多い水準に達しています。日本はエネルギー自給率も食料自給率も低く、日々の経済活動と文化活動が「世界が平和であること」というインフラの上に成立している国です。世界平和は、日本にとって抽象的な理想論ではなく、国益に直結するインフラです。

これにも民間にできることは多くあります。各国がエネルギーや水に困らなくなれば資源をめぐる争いは減り(自律)、信頼できる情報空間と文化交流があれば対立の相手を顔のある人間として想像でき(連携)、雇用・教育・医療・交通が人々に「見捨てられていない」という感覚と未来への希望を与えれば国内からの不安定化を防げます(包摂)。再生可能エネルギー、蓄電、代替タンパク、精密農業、水処理、対立を煽らないプラットフォーム設計、AIガバナンス、地域交通、介護、災害対応──これらは個別に見れば別々の事業ですが、「平和の実装」という傘の下では一つの問いへの回答群です。

そしてこの問いは、四条件をすべて満たします。平和の喪失は日本にとって死活的に切実であり(条件1)、平和はあらゆる国が必要とする普遍財であり(条件2)、上に挙げた通り技術と制度と事業で応答可能です(条件3)。そして何より、この問いは最初から主語が世界です(条件4)。「日本の安全」ではなく「世界の平和」を問いに据えるからこそ、そこから生まれる技術と事業は、同じ課題に直面するすべての国に展開できます。全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を確認した日本国憲法の前文は、この問いを立てる正統性を、日本にすでに与えています。覇権の不安から防衛産業へ向かうアメリカの思想とも、統制による安定を語る中国のモデルとも異なる、第三のポジションがここにあります。

 

こうした課題を直視すること。それが課題解決の前提としてあります。課題を回避せざるをえないときもありますが、本当の解決策を生み出すためには、これらの重い課題と真正面から向き合わなければならないでしょう。

ただし、これらは候補にすぎません。重要なのは、どの問いを選ぶかを、シリコンバレーの正解を探すのではなく自分たちから始めること。そして、国内の事情のまま放置せず、世界全体の問いへと意識的に翻訳しきることです。

賭けとしてのスタートアップ

改めて言えば、スタートアップとは、問いに対する賭けであり、その賭けが当たったときの大きなリターンを得るための仕組みです。そして今や賭けの対象は、ビジネスの領域にとどまりません。どういった問いを持ち、どういった未来に賭けるかという、国際社会における思想の競争が始まっています。

アメリカでは、切実な問いに答えようとする様々な思想的な動きが現れると同時に、一部の危険と思える思想が、資本力を背景に現実の権力を得つつあります。その賭けが「当たってしまった」場合、たとえば民主的手続きの迂回が常態化した場合には、テック業界の外にまで及びます。日本で活動する私たちにとって、これは対岸の火事ではありません。世界で戦うスタートアップに関わるということは、この入り乱れる思想の最前線で、自分はどのような考えでどのような立場を取るのかと問われることでもあるからです。

安全保障という生死に関わる問いが再び現実味を帯び、アメリカの庇護の下で生きてきた日本を含む各国が、自らの在り方を問い直されています。日本がどのような問いを持ち、どのような答えを出すかは、理念の問題であると同時に、今後の日本のビジネス環境や、私たちの生活そのものを決める現実の問題です。

たとえばどこの国と組むのかは、私たちの価値観次第であり、それを考えることは、私たちの価値観を改めて考えることが不可避となります。また防衛を超えて、武器の事業やその生産にまで手を出すのであれば、自分や自分たちの周りの人たちがそうした武器で殺されることも同時に考えることになります。「技術的にできるからそうする」「儲かるからそうする」といった発想を超えて、思考や議論をしていかなければなりません。そしてもしそうした領域で金銭やリターンの最大化を狙うプレイヤーを社会が許すのであれば、そうした社会構造を許した世代は次の世代からのそしりを受けることになるでしょう。

一方で、倫理を踏み越えて武器を使ってくるかもしれない相手に対して、どのような対抗策や抑止力を持つのかという現実も考えた上で、私たちはどこで倫理的な線を引くのかということを本気で考えていく必要もあります。

ミドルパワーの国で活動する私たちがどのような問いを立て、どのような思想とナラティブを形作り、それをビジネスへ転化していくのか。それを考えなければ、世界で通用するナラティブは作れません。

そしてその問いへの答えとして、過去の自国のアイデンティティや、自国の防衛、そして「この国には欠点がない」といったような、偽りの安心としての愛国心に向かうこともあるでしょう。しかしそれよりは、新しい未来の構築に向かい、新しい国際的な調和を作るための問いを持ち、できるだけ多くの人を巻き込めるような希望のある答えを出していく努力を、より多くの人がしていくほうが良いのではないかと思います。

戦後の国際秩序にほころびが生じているのなら、新しい構造を作ることは今の世代の仕事です。フロンティアに立っていないからこそ、日本は問いの射程を自らの意志で選ばなければなりません。そしてその選択こそが、日本から世界規模のスタートアップが生まれるかどうかの分水嶺にもなります。

反面教師としてのシリコンバレー

最後に、シリコンバレーから学ぶべきものの中には、成功の型だけでなく、失敗しつつある型も含まれることを強調しておきます。

第II部で見たとおり、思想はエコシステムのインフラですが、批判という免疫系を欠いた思想は暴走します。日本がこれから思想と資本の回路を作るのなら、批判のインフラを最初から組み込むべきでしょう。投資家のテーゼを検証するジャーナリズム、産業と距離を保った研究、起業家共同体の内部での異論の作法。これらを「盛り上がりに水を差すもの」と扱う文化は、短期的には心地よいですが、長期的には過度な純化や間違った方向へと向かいます。

これは「世界の問い」を掲げる場合には、なおさら重要です。すべての事業を「平和のため」「人類のため」と呼んでしまえば、その言葉はすぐに空洞化します。グリーンウォッシュならぬ、ピースウォッシュやヒューマニティウォッシュに陥らないためには、その事業がどれだけ人々の恐怖や欠乏を減らしているか、対立を煽る情報環境や利権構造を作っていないかを厳しく問い、寄与を測る仕組みが要ります。壮大な問いを掲げる者ほど、厳しい検証を歓迎することが、大きな構想や思想を扱う者の作法であるべきです。幸い、後発には後発の利点があります。シリコンバレーが五十年かけて学びつつある教訓を、日本は設計に織り込んだ状態で始められます。

 

まとめ

本稿の議論は迂遠に見えるかもしれません。しかし、こうした思考の積み重ねこそが、今後日本のスタートアップが世界で戦うためのインフラであり、そしてそれを単なる思想にとどめず、世界における実効的な能力として積み上げていくことが、これからのスタートアップに求められているのだと思います。

 

そうしたことを考えて、スタートアップと思想に関するイベントや議論の会を開いていきたいと思っています。日程と場所が決まれば告知しますので、事前告知登録と、アンケートにご協力ください。

https://forms.gle/9FCLfAnSiLq5zkY48