乱暴に要約すれば、「浮気するかもしれないが覚悟しておけ」というフレーズがある。
そのアンサーソングのように語られる、平松愛理の「部屋とYシャツと私」には、こんな一節がある。
「友達の誘うパーティー 愛するあなたのため おしゃれに行かせて」
ふむ、
原始社会で、女にとって性交や妊娠は生命と生活を左右する重大なリスクだった。
女が性交に慎重で、相手の安全性や継続性を重視するのは自然である。
一方、男は一度の性交に伴う生物学的コストが低い。種の保存という乱暴な観点では、機会があれば乱発した方が有利だった。
だが欲求の形が男女で違う以上、男のAVと比較すべきものを、女のAVやホストクラブを左右対称に計上するのはおかしい。
男が家庭の外に求めるものが、性的刺激や新奇性だとすれば、女が外に求めるものは、承認、所属、共感、評判、比較、社会的な自己確認である。
そこで、あの歌詞に戻る。
私はあなたを愛している。
だが、友人社会には参加したい。外の世界にも接続していたい。きれいな服を着て、人に見られたい。他者から評価される回路は残しておきたい。
だが、配偶者一人だけでは満たされない外部欲求という点では、男のAVと同じ構造を持っている(「性欲」ではない、本能的「欲」である)
正確には、排除されない人間関係、相互扶助、評判の維持、情報共有、感情的な支援である。
集団から嫌われること、仲間外れになること、情報網から切断されることは、大きな危険だった。
現代では、それが女子会、ママ友、職場の雑談、SNS、推し活などの形で現れる。
もちろん、すべてが無意味ではない。
だが、噂話、陰口、愚痴、マウント合戦、同調圧力、見栄の張り合いも大量に混じっている。
原始社会では重要だった関係維持の本能が、現代では単なる承認欲求や比較欲に変質している場合もある。
さらに女は安定を求める。
安定した所得、持ち家、広い家、子どもの教育費、老後資金、失業しない夫。
だが、現代の要求がすべて経済合理性に基づいているとは限らない。
本当に広い家が必要なのか。
本当に持ち家でなければならないのか。
友人の家より狭いのが嫌だ。親族に成功していると思われたい。夫の所得や子どもの進学先で、自分の価値を確認したい。
そうした虚栄や比較が、「家族のため」「安心のため」「最低限の生活」という言葉に変換されていないか。
安心したい、友達付き合いは必要、普通の家が欲しい、子どものため、将来が不安。
しかし分解すれば、そこには承認欲、所属欲、資源欲、地位欲、比較欲、独占欲が含まれている。
そう言うなら、男側も同じ論理を使える。
俺だけを愛しているなら、他人からどう見られるかなんて関係ないだろう。
ブランド品も要らない。
家は生涯賃貸な。
すると女は答える。
「そんな男はお断り」
それでいいのである。
誰と付き合うかは自由だ。
男も、化粧やブランドや女子会や持ち家を求めない女を探せばいい。
問題は、個人的な好みを「最低限の倫理」に昇格させることである。
私は価値を感じない。
この論理を採用するなら、女の交友、化粧、ファッション、住宅要求、SNS、推し活も同じように禁止できる。
だが女は、それを認めない。
ではない。
「私には価値が分からないあなたの欲望は不要だが、私が価値を感じる私の欲望は必要である」
というだけである。
もちろん、これは男も同じだ。
逆である。
それらを、男には理解しにくいという理由だけで禁止してはいけない。
同じように、男の欲望も、女には理解しにくいという理由だけで「不要」「不誠実」と断定してはいけない。
AVは一人で完結する。
これらを一括して「最低限禁止」と呼ぶのは、女側の不安を基準に、男の行動をすべて同じ箱へ入れているだけではないか。
だがその交渉は、一方が自分の欲望だけを必要と呼び、相手の欲望だけを不要と呼ぶ形で行われてはならない。
男女平等とは、女の価値観を標準にして男を矯正することではない。
男の価値観を標準にして女を従わせることでもない。
互いに、自分には理解しにくい欲望を持つ存在だと認めた上で、どこまで許容し、どこからを契約違反とするかを交渉することである。
自分の欲望だけを必要と呼び、相手の欲望だけを不要と呼ぶ権力である。
要するに女の人生はイージーモードってこと?
ほなら、お互い浮気オッケーにしときまっか わーいわーい