『Time of Ring』(第十稿)Part.1
プロローグ:長い眠り
5グラム…、120グラム…、0.1グラム…。
その日、あかりは
都内にある大学の実験室で、
計量のアルバイトをしていた。
それは発掘された鉱物を計量するだけの、
簡単なお仕事…のはずだった。
あかりの目の前には、
分厚いグローブボックスがあり、
その中に置かれた計量器の上には、
ピンク色の結晶体が乗っかっていた。
奇妙なことに、
重さを示すはずの計量器の針は、
さっきから狂った羅針盤のように
ぐるぐると回り続けている。
あかりは怪訝な顔で、
手元の資料に目を落とす。
「…ク…ロ…ニウム?」
再び計量器に目をやっても、
針は一向に止まる気配を見せない。
「もー、どーなってるのよこれ!
何グラムって書けばいいの?!」
苛立ちまじりに声を上げ、
あかりはグローブボックスに備え付けられた
分厚いゴム手袋へと両腕を突っ込んだ。
そして、無造作に結晶体へと手を伸ばした、
その瞬間だった。
——バチッ……!
鋭い音と共に、青白い火花が散り、
分厚いゴム手袋が、
手首の先で唐突に弾け飛んだ。
「きゃっ!」
か細い指が結晶体に触れた途端、
あかりの視界はぐらりと傾き、
辺りが真っ暗になった。
そしてそのまま
深い眠りへと落ちていった。
最初に届いたのは、
肉が焦げたような
ひどく乾いた匂いだった。
広陵とした大地に
熱風が吹き荒れている。
そして目の前には、
天まで届くかのような
炎の壁が迫っていた。
「一歩も退くな…!」
重苦しい声が響き、
隣に立つ仲間の皮膚が
異常な熱によってひび割れていく痛みを、
なぜか自分の皮膚の表面で生々しく感じていた。
足元に視線を落とす。
二本足で立ってはいるが、
そこにあるのは人間の足ではなく、
オリーブ色の硬質な鱗にびっしりと覆われた
異形の足だった。
ふいに、肺が酸素を求めて大きく痙攣した。
深夜二時。
久我山大地(25)は、
無機質な消毒液の匂いの中で目を覚ました。
硬いプラスチック製の椅子に
座り込んだまま眠っていたせいで、
首の付け根の辺りに鈍い痛みが走る。
ここが国立医療センターの
集中治療室の前であり、
先ほどの狂気じみた光景が
夢であったと脳が認識するまでに、
数回のまばたきが必要だった。
ガラス越しの無菌室。
その中央に置かれた白いベッドの上で、
妹のあかりが静かに横たわっている。
十七歳の彼女は、今日で三週間と二日、
目を閉じたまま一度も目覚めていない。
規則正しく刻まれる心拍モニターの無機質な電子音だけが、
彼女が辛うじて生きていることを証明していた。
すべては、大学の実験室で起きた事故だった。
未同定の結晶体——通称「クロニウム」に、
あかりが素手で触れてしまったこと。
直後にあかりは意識を失い、
それ以来、あかりの全身の細胞は
原因不明の緩やかな崩壊を続けている。
『クロニウム』
その単語を思い浮かべるたび、
決まって先ほどの熱い夢の最後に現れた、
白っぽい人影の輪郭が
脳裏に焼き付くように浮かび上がる。
これ以上、ここでただ祈っているだけなら、
このまま妹は消えてしまう。
大地は冷たいガラスから額を離し、
足早に病院を後にした。
向かった先は、
都内の外れにある古い雑居ビルの地下だった。
クロニウムの特性について
唯一言及していた異端の元大学教授、
韮山健太郎の私設研究所だ。
エレベーターで地下へ降り、
重厚な防音扉を開けると、
そこには無数のサーバーラックが立ち並び、
冷却ファンの音が唸りを上げていた。
「妹さんは今、
歴史の奥深くに生じた『バグ』のせいで、
過剰なデータを受信して
脳がパンクしている状態だ」
白衣を着た韮山は、
モニターから目を離さずに
淡々と告げた。
「なぜ、あんたにそんなことが分かる?」
「実はな、
俺も昔、妹さんと同じように
『夢』を見たんだ。
別の時代の出来事や、
見たこともない技術をな。
その夢で見た知識を拝借して、
こうして悠々と研究を続けてるってわけだ。」
韮山は自嘲気味に笑うと、
デスクの引き出しから
一枚のカードキーを取り出した。
「郊外にある展望台の廃屋を
丸ごと買い取ったんだ。
その地下に
『第一量子物理学研究所』という
本命のラボを作って、
極秘の研究を進めている。」
『マスターの言う通りですっ!』
不意に、スピーカーから明るく、
少し舌足らずな可愛いらしい声が響いた。
モニターには、
デフォルメされた小さなキャラクターが
ピョンピョンと跳ねている。
『わたし、超高度AIのクロノスです!
本体は第一量子物理学研究所にあって、
今はネットワーク経由で
モニター越しにお話ししてるんですよ。
えっへん!』
「妹さんを救うには、
歴史のエラーを根本から修正するしかない。
……クロノス、あれの説明を」
『はーい!
展望台の地下には、
わたしたちが作ったタイムマシンの
試作機があるんです!
それを使って
過去のバグを取り除いちゃえば、
妹さんも助かりますよ!』
「タイムマシン……?
本気で言ってるのか」
呆気にとられる大地に、
韮山は先ほどのカードキーを放り投げた。
「俺は普段はここにいるか、
または、その展望台の地下かの
どちらかにいる。
覚悟が決まったら、
このカードで入ってきてくれ。
ちなみに、そこにあるのは非常用の…」
大地が韮山の指さしているカプセルに
目を向けた、その時だった。
ズズンッ……!
突然、上の階へと続く防爆扉が、
重い衝撃音を立てた。
「……なんだ?」
韮山が怪訝な顔で眉をひそめ、
通路の方へと様子を見に出て行く。
奥の部屋に残された大地は、
壁のセキュリティモニターに目をやった。
次の瞬間、
大地の全身の血の気が引いた。
鋼鉄の扉が、中央からドロドロに赤熱し、
溶け落ちようとしていたのだ。
その直後、
爆音と共に扉が吹き飛び、
強烈なプラズマの閃光が
通路を舐め回した。
舞い上がる粉塵の中から現れたのは、
純白の完全密閉スーツに身を包んだ
五つの人影。
顔面を覆うバイザーの奥で、
縦に割れた黄金色の瞳孔が
不気味に光っている。
夢で見た、あの化け物たちだ。
「ヒィッ……!?」
モニターの中で、韮山が腰を抜かし、
這いずるようにして逃げ惑う。
だが、白い兵士の一人が
無言で筒状の兵器を構え——
青白い閃光が走る。
激しいノイズと共に、
カメラの映像が完全に途切れた。
(やべぇ……!)
重い足音が、
確実にこちらへ近づいてくる。
逃げ道はない。
大地は咄嗟に、
先ほど韮山が指さしていた
緊急用のカプセルの中へと
身を隠した。
そして、手動でハッチを閉め、
内側からロックをかけた。
ガシャァァンッ!!
奥の部屋のドアが蹴り破られた。
大地は息を殺し、
薄いスモークガラス越しに外を窺う。
白いスーツの兵士たちが、
無言で部屋の中を物色し始めた。
一体の視線が、不自然に鎮座する
カプセルの方向へと向く。
(見つかる——)
『緊急事態ですっ!
侵入者を検知!
大地さん、一時退避モード、
起動しちゃいますね!』
クロノスの緊迫した、
けれどどこか呑気な声が
カプセル内のスピーカーから響いた。
プシュゥゥゥッ!
カプセル内に
白く冷たいガスが
急速に噴き出すと同時に、
床の鉄板が
真っ二つにスライドした。
カプセルは音もなく、
暗い地下の格納サイロへと
垂直に降下していく。
肺が凍りつくような極寒のガスの中、
大地は深い眠りへと落ちていった。
第一幕:失われた未来
それからどれだけの時間が流れたのか。
意識が戻った大地は、
カプセルの内側から
ハッチを力任せに蹴り開けた。
そしてカプセルから這い出し、
外の空気を思いっきり吸い込んだ。
むせ返るような鉄錆と
乾いた土の匂いが
肺に入ってきた。
見上げると、
斜めに崩れ落ちた瓦礫の隙間から、
鉛色に濁った空が見える。
どうやらここは、
あの雑居ビルの地下深くにあった
格納サイロの底らしい。
足元の瓦礫を踏み越えて
地上へと這い出た大地は、
目の前に広がる光景に言葉を失った。
赤黒いスモッグが
荒野全体を重く覆い、
地平線の彼方には、
深緑色の不気味な光沢を放つ
巨大な塔の群れがそびえ立っている。
そこに向かって伸びる
荒廃した道路の上に、
何人かの人たちが
列をなして歩いていた。
皆一様に灰色の作業着を着ていて、
後頭部には、バーコードが刻まれている。
彼らは誰一人として言葉を発さず、
ただ機械のように
一定の歩幅で行列を作り、
歩き続けていた。
その時、
列の中を歩いていた老人が、
突然痙攣を起こし、
力尽きたように
膝から崩れ落ちた。
だが、誰一人として
立ち止まって助けるものはいなかった。
驚く様子すら見せず、
ただ道に転がっている石ころでも避けるように、
無言で老人の横を通り過ぎていく。
異様な光景に背筋を凍らせながら、
大地は記憶の地図を頼りに
街の中心部へと急いだ。
目指すのは、あかりが眠っていた
「国立医療センター」だ。
しかし数時間後、
辿り着いたその場所は、
見る影もなく崩壊した
廃墟と化していた。
かつて病室があったはずの階は
完全に崩落し、
鉛色の空が覗いている。
「嘘だろ……」
絶望しかけた大地の目に、
瓦礫の奥深くへと続く
太い非常用の電力ケーブルと、
微かに点滅する
『地下・緊急凍結保存区画』
という案内板が飛び込んできた。
大地は夢中で瓦礫を退け、
厳重に封鎖された地下区画の扉を、
鉄パイプでこじ開けて侵入した。
非常用電源の赤いランプだけが点滅する
冷え切った地下室。
その最奥に、
医療用コールドスリープ装置が、
分厚い防弾ガラスの向こうで
静かに稼働し続けていた。
霜に覆われたポッドの中では、
十七歳の姿のままのあかりが、
静かに目を閉じていた。
細胞崩壊の進行を止めるため、
病院のシステムが
彼女を強制凍結したのだ。
そして、
計器の隅に表示された現在時刻を見て、
大地の呼吸が止まった。
『2126年』
自分はあのカプセルの中で、
100年もの間、
冷凍睡眠させられていたのだ。
ここであかりを解凍しても、
崩壊したこの世界に
彼女を救える医者はいない。
根本の原因——
歴史のエラーそのものを断ち切るしかない。
大地のポケットの中には、
韮山から託された
『展望台』へのカードキーが、
しっかりと握りしめられていた。
大地が重い足取りで地上へ出た、
その時だった。
「やめて!
この子には触らないで!」
乾いた銃声と、
女性の悲痛な叫びが
スモッグの空気を引き裂いた。
大地が声のした廃道へ飛び出すと、
そこには純白のスーツを着た
レプティリアンの兵士たちが、
銃口から煙を上げながら立っていた。
足元の血だまりの中に、
一人の若い女性が倒れている。
その女性の腕の下から、
五歳くらいの小さな女の子が這い出し、
動かなくなった母親を揺さぶって
泣き叫んでいた。
兵士のバイザーが赤く点滅し、
泣き叫ぶ少女の頭部に
銃口が向けられる。
大地の身体は、
理屈よりも先に動いていた。
「うおおおおおっ!」
瓦礫を蹴り飛ばし、
大地は兵士の側面に
弾丸のようなタックルを見舞った。
不意を突かれた兵士がたたらを踏み、
銃弾が明後日の方向のコンクリートを削る。
大地は反転し、
泣き叫ぶ五歳の少女を小脇に抱え上げると、
崩れかけたビルの外階段へ向かって
全力で駆け出した。
『……不適合者ヲ発見。
排除スル……』
背後から無機質な合成音声が響き、
直後に銃撃の雨が降り注ぐ。
「やっべぇっ!」
大地は少女の頭を胸に押し当て、
錆びついた鉄骨の足場を蹴って
隣のビルの屋上へ跳んだ。
着地の衝撃で膝が軋み、
肩を掠めた銃弾が衣服を焦がす。
「こわい、
お母さんが、
お母さん……っ!」
腕の中で少女が
パニックを起こして暴れる。
「目を閉じろ!
絶対に離すな!」
大地は少女を強く抱きしめ直し、
屋上の縁から眼下の瓦礫の山へと
スライディングで滑り降りた。
鋭い鉄筋が太ももを引き裂き、
激痛が走るが、
止まれば二人とも蜂の巣だ。
迷路のような路地裏を
泥まみれになって逃げ回るが、
ついに巨大なコンクリートの壁に
追い詰められた。
前と後ろからは、
三体の白い兵士が
銃を構えて迫ってくる。
万事休すかと思われた瞬間——
足元のマンホールの重い鉄蓋が
下から吹き飛んだ。
暗がりから飛び出してきたのは、
古びたレザージャケットを着た
大柄な男だった。
男は兵士の足元に向かって、
銀色の筒を転がす。
強烈な閃光と鼓膜を破るような爆音。
兵士が体勢を崩した隙に、
男は大地の手首を掴み、
少女ごとマンホールの下へと
強引に引きずり込んだ。
暗く、ひどい悪臭のする地下水路を抜け、
分厚い隔壁を開けた先。
そこには、
武器の手入れや通信機器の操作を黙々と行う、
作業着を着た七、八人の男女の姿があった。
「俺は藤堂だ。
あんた、いったい何者だ?
レプティリアンの治安部隊に
素手で挑むなんて、
正気の沙汰じゃないな」
レザージャケットの男——藤堂は、
呆れたように、
しかしどこか感心したような目を
大地に向けた。
「なんなんだよ、あいつらは。
爬虫類みたいな顔だった」
藤堂は首を傾げながら、
話を続けた。
「知らないのか?
人類の歴史を乗っ取った地底人だよ。
今は奴らの天下だ」
大地は息も絶え絶えに頷きながら、
腕の中で震え疲れて眠ってしまった
少女の頭を撫でながら口を開いた。
「……藤堂。
郊外にある『展望台』を知らないか?」
「第四セクターにあるが、
あそこはずっと廃墟だったはずだ。
なぜそんな場所を……」
「そこの地下に、
奴らの歴史を覆すものがある。
……タイムマシンだ」
藤堂が息を呑む。
数時間後、
藤堂率いる数名の決死隊の護衛のもと、
大地たちは荒野を抜け、
不気味にそびえ立つ
展望台の廃墟へと辿り着いた。
瓦礫で埋もれた地下への隠し通路。
その最奥に、
埃を被った頑丈なセキュリティゲートがあった。
大地はポケットから
カードキーを取り出して、
ドアの前でかざした。
すると、
ピピッ、という電子音と共に、
100年間、閉ざされていた分厚い鋼鉄の扉が、
重々しい駆動音を立てて開いた。
中へ踏み込むと、
そこには広大な空間が広がり、
中央には青白く発光する
巨大なリング状の機械が鎮座していた。
そしてその傍らで、
無数のサーバー群が
静かな羽音を立てて
稼働を続けている。
ここが韮山の残した本命のラボ、
『第一量子物理学研究所』だ。
『わああっ!
侵入者……じゃなくて!』
不意に、中央の巨大モニターが
パッと明るくなり、
あの舌足らずで可愛いらしい声が
地下の空間全体に響き渡った。
デフォルメされたキャラクターが、
画面の中でピョンピョンと跳ね回る。
『大地さん! 大地さんですね!?
待ってましたよー!
カプセルの生体信号が途絶えてから100年……
わたし、ずーっとここで計算しながら
待ってたんですから!』
「クロノス……。
お前、ずっとここで動いてたのか」
『えっへん!
完全に外部から切り離された省電力モードで、
歴史の変数とバグの発生源を
ずーっと解析してました!』
藤堂たちが信じられないという顔で
巨大なリングとモニターを見上げる中、
クロノスは次々と
ホログラムの座標を展開していく。
『歴史の歪みの根源、
最初のターゲットを割り出しました。
座標:十四世紀、
フランス・パリ近郊です!』
「中世か……
そこで何をすればいい?」
『はいっ!
当時のヨーロッパでは
ペストが大流行していました。
奴らはそのパンデミックに便乗して、
人間の歴史に介入するための
最初の地下拠点を
ある修道院に作ったんです』
画面に、古い修道院の図面が
赤くハイライトされて映し出される。
『大地さんのミッションは、
レプティリアンの拠点を物理的に破壊し、
歴史のバグを消去することです!』
クロノスから説明を受けた藤堂は
カモフラージュ用に集めていた古い布をかき集め、
一着の粗末な修道士のローブを仕立てて
大地の前に置いた。
さらに、小さな布袋——
未来の強力な解熱鎮痛剤と
抗生物質が偽装された石の粉末——を手渡す。
「一緒に行けないのは残念だ。
俺たちはここで、
この施設とAIを死守する。
気を付けてな」
大地は軽く頷くと
無言でローブを羽織った。
妹のあかりを救うため、
そしてたった今、
理不尽に母親を奪われた少女の悲劇を
なかったことにするため…
大地は、
青白い光を放ち始めた時空のリングへと、
その身を投じた。



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