Text by Yui Sato
いまからおよそ600年前の室町時代、日本の芸能史、ひいては世界の演劇史に消えない足跡を残した天才たちがいた。観阿弥(かんあみ)、そしてその息子である世阿弥(ぜあみ)である。
彼らが大成させた「能」(当時は猿楽と呼ばれた)は、現代では格式高い伝統芸能として知られている。しかし黎明期において、それはアバンギャルドで生命力に満ちた「最先端のポップカルチャー」だった。
この中世の熱狂を、圧倒的なビジュアルと演出、そして瑞々しい感性で描き出した漫画が、三原和人の『ワールド イズ ダンシング』だ。同作のアニメ版が、2026年7月から放送を開始する。
なぜいま、世阿弥なのか。なぜ私たちは600年前のダンスに心を揺さぶられるのか。作品の誕生秘話から、能という芸能の特異な魅力、そして作家としての根底にある哲学までを、三原にじっくりと語ってもらった。
彼らが大成させた「能」(当時は猿楽と呼ばれた)は、現代では格式高い伝統芸能として知られている。しかし黎明期において、それはアバンギャルドで生命力に満ちた「最先端のポップカルチャー」だった。
この中世の熱狂を、圧倒的なビジュアルと演出、そして瑞々しい感性で描き出した漫画が、三原和人の『ワールド イズ ダンシング』だ。同作のアニメ版が、2026年7月から放送を開始する。
なぜいま、世阿弥なのか。なぜ私たちは600年前のダンスに心を揺さぶられるのか。作品の誕生秘話から、能という芸能の特異な魅力、そして作家としての根底にある哲学までを、三原にじっくりと語ってもらった。
苦し紛れの「世阿弥」との出会い
現代の読者を中世へ引き込む『ワールド イズ ダンシング』だが、驚くべきことに、三原は能や世阿弥に対して特別な愛着や知識を持っていたわけではなかったという。「おかしいですけど、もともと詳しかったわけではまったくないんです」と、三原は明かす。
「前の連載が終わったあと、次はどうしようかという打ち合わせを担当編集と何度も重ねていきました。でもなかなか形にならなくて、だんだんと追い込まれていくわけですよね。編集部側からも『どうするんだ、いい加減に何か形にしないか』という、目に見えない……というか明確な圧力を感じていました(笑)。そんななか、苦し紛れに出てきたのが『世阿弥』というキーワードだったんです」
歴史的な大天才をテーマに据えた動機としては、一見すると不純に思えるかもしれない。しかし、この「追い詰められた状況」こそが、奇しくも作中で生きるために踊り、表現の限界に挑み続けた観阿弥・世阿弥の緊迫感とシンクロしていくことになる。
テーマが決まると、三原は貪欲に取材と研究を開始した。「調べだすと歴史や芸能の奥が本当に深すぎて、とてもじゃないけれど追い切れなかった」と振り返る。まずはインターネット検索からスタートし、徐々に専門書へと没頭していった。さらに、本作の監修を務める能楽師の川口晃平との出会いが、作品にリアリティと肉体性を与えることになる。
「川口さんにお会いさせてもらって、いろいろとお話を伺ったり、実際に能楽堂に連れていってもらったりしました。本格的なお稽古とまではいきませんが、ちょっと体験させてもらったり、実際の舞台を見させてもらったりして。その時に感じた空気感が作品づくりに生きています」
作中で一際目を引くのが、登場人物たちのエッジの効いたキャラクターデザインだ。のちに世阿弥となる主人公の少年・鬼夜叉(おにやしゃ)は、中性的な魅力を持つ美少年として描かれている。このデザインについて、三原は「世阿弥のデザインは正直、完全に僕の趣味です」と笑う。
「僕は昔から少年を描かせていただく機会が多くて、世阿弥というキャラクターのなかにも、自分がおもしろいと感じる少年らしい危うさや美しさを詰め込みました」
一方、その父親である観阿弥のデザインは、荒々しくダイナミックな男として表現されている。この造形は、世阿弥自身が残した伝書などから着想を得たものだ。
「川口さんにお会いさせてもらって、いろいろとお話を伺ったり、実際に能楽堂に連れていってもらったりしました。本格的なお稽古とまではいきませんが、ちょっと体験させてもらったり、実際の舞台を見させてもらったりして。その時に感じた空気感が作品づくりに生きています」
作中で一際目を引くのが、登場人物たちのエッジの効いたキャラクターデザインだ。のちに世阿弥となる主人公の少年・鬼夜叉(おにやしゃ)は、中性的な魅力を持つ美少年として描かれている。このデザインについて、三原は「世阿弥のデザインは正直、完全に僕の趣味です」と笑う。
「僕は昔から少年を描かせていただく機会が多くて、世阿弥というキャラクターのなかにも、自分がおもしろいと感じる少年らしい危うさや美しさを詰め込みました」
一方、その父親である観阿弥のデザインは、荒々しくダイナミックな男として表現されている。この造形は、世阿弥自身が残した伝書などから着想を得たものだ。
「記録をいくつか読んでいくなかで、観阿弥は身体が大きかった、という記述を見つけました。そこからイメージを膨らませていったんです。それに実は世阿弥の姿も、もしかしたらそれほど大きく外れてはいないんじゃないか、という気はしています。彼は小柄でよく動く、素早い人物だったと言い伝えられているんですよ」
漫画を読み進めると、ストーリー構成は細部まで計算され尽くされているように思える。だが実際の連載は驚くほどの「ライブ感」で進行していたそうだ。「余裕はまったくなかった」と三原は苦笑する。
「一話一話、その場の勝負という感じではありました。作中でいくつかの能の演目を使っていますけど、実はその回を描く直前までは、次に何をやるか、どの演目をモチーフにするか、まったく決めていなかったんです。いま振り返ると、ちょっと恐ろしいですね」
ざっくりとした全体の方向性や向かうべきゴールは頭の中にありつつも、キャラクターたちが「いよいよ舞台に上がらなければならない」という状況に追い込まれてから、三原自身も物語に合致する演目を厳選していった。
「自分なりに能楽の資料を作って、『鬼夜叉が生きていたこの時代にはどんな演目があったのか』をピックアップして、タイムラインを整理しました。調べてみると、当時はまださほど多くはなかったんですよ。観阿弥が新しく作ったものや、もっと古い『田楽(でんがく)』から取り入れたものなど、いくつか限られていた。そこからチョイスしていったのですが、不思議なことに、物語の流れにきっちりとうまい具合にはまっていく感覚がありました」
漫画を読み進めると、ストーリー構成は細部まで計算され尽くされているように思える。だが実際の連載は驚くほどの「ライブ感」で進行していたそうだ。「余裕はまったくなかった」と三原は苦笑する。
「一話一話、その場の勝負という感じではありました。作中でいくつかの能の演目を使っていますけど、実はその回を描く直前までは、次に何をやるか、どの演目をモチーフにするか、まったく決めていなかったんです。いま振り返ると、ちょっと恐ろしいですね」
ざっくりとした全体の方向性や向かうべきゴールは頭の中にありつつも、キャラクターたちが「いよいよ舞台に上がらなければならない」という状況に追い込まれてから、三原自身も物語に合致する演目を厳選していった。
「自分なりに能楽の資料を作って、『鬼夜叉が生きていたこの時代にはどんな演目があったのか』をピックアップして、タイムラインを整理しました。調べてみると、当時はまださほど多くはなかったんですよ。観阿弥が新しく作ったものや、もっと古い『田楽(でんがく)』から取り入れたものなど、いくつか限られていた。そこからチョイスしていったのですが、不思議なことに、物語の流れにきっちりとうまい具合にはまっていく感覚がありました」
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米紙が注目 日本の伝統芸能「能」が生活に息づく佐渡島を訪ねて |
能楽というタイムカプセルを開いてみると
『ワールド イズ ダンシング』の舞台である南北朝・室町時代を、三原は「とにかくおもしろい時代」と評する。監修者の一人である歴史学者の清水克行の著作などを読み込むうちに、三原は室町の風俗や文化の虜になっていった。
そうしてこの時代にどっぷりと浸かった結果、彼のなかにユニークな文化的感覚が芽生えたという。それが、「江戸は野暮だ」という感覚だ。
「室町の文化を知れば知るほど、後世の『江戸文化』がなんだか野暮ったく感じられるようになってしまったんです。江戸の文化って、どこかごちゃっとしていて、ちょっと油っぽいというか……。たとえば能と歌舞伎の違いを考えるとわかりやすいかもしれません。
歌舞伎も非常に魅力的ですが、ちょっとポップすぎる、デコラティブすぎるような気がしてしまう。室町の文化を知った後だと、あの過剰なポップさが少し油っぽくて野暮ったいな、という感覚になってしまって。江戸以前の時代が持っていた、無駄を削ぎ落とした『奥ゆかしさ』のほうに、僕は格好良さを感じます」
現代の私たちが能楽堂で目にする能は洗練されていて、静寂のなかに張り詰めた緊張感がある。美しく「行儀の良い芸術」として完成されているものだ。しかし、三原が作中で活写した室町時代の「猿楽」は、それとは異なる様相を呈している。
「室町時代の人々はそもそも、戦乱や飢饉が日常の隣り合わせにあって、生きるのに必死で、文化をかしこまって鑑賞するような余裕はなかったと思うんです。だからこそ、その表現は非常にシンプルで必要最小限のものだった」
かつての能、つまり猿楽は「かしこまった舞台ではなかったのだろう」と三原は考える。
「当時としては相当新しい、最先端の表現だったはずです。観阿弥と世阿弥という天才二人が、誰も見たことのない新しいこと、楽しいことを精一杯やっていた。客席も静かに観ているわけじゃなくて、みんなで野次を飛ばしたり、ご飯を食べながら観たり、なんなら朝からずっと酒を飲んで居座っている人がいるような、もの凄く猥雑で生命力にあふれた雰囲気だったと思うんですよね。
僕自身、当時の様子をちょっと理想郷的に美化して考えてしまっている部分もあるかもしれません。でもそこには失われてしまった『古き良き日本』の、剥き出しの魅力がいっぱい詰まっていると感じるんです」
また観阿弥は単なる芸術家ではなく、自分たちの座をより大きく広めようとし、大衆の心に届く作品を試行錯誤して作り続けていた。それは現代で言えば、「より多くの人にうける漫画、多くの観客を動員できる映画や音楽を作ろうと奮闘しているクリエイター」と同じ精神構造だと、三原は親しみを込めて語る。
かつての能、つまり猿楽は「かしこまった舞台ではなかったのだろう」と三原は考える。
「当時としては相当新しい、最先端の表現だったはずです。観阿弥と世阿弥という天才二人が、誰も見たことのない新しいこと、楽しいことを精一杯やっていた。客席も静かに観ているわけじゃなくて、みんなで野次を飛ばしたり、ご飯を食べながら観たり、なんなら朝からずっと酒を飲んで居座っている人がいるような、もの凄く猥雑で生命力にあふれた雰囲気だったと思うんですよね。
僕自身、当時の様子をちょっと理想郷的に美化して考えてしまっている部分もあるかもしれません。でもそこには失われてしまった『古き良き日本』の、剥き出しの魅力がいっぱい詰まっていると感じるんです」
また観阿弥は単なる芸術家ではなく、自分たちの座をより大きく広めようとし、大衆の心に届く作品を試行錯誤して作り続けていた。それは現代で言えば、「より多くの人にうける漫画、多くの観客を動員できる映画や音楽を作ろうと奮闘しているクリエイター」と同じ精神構造だと、三原は親しみを込めて語る。
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「源氏物語」を書いた紫式部の声を聞きたくて、京都を旅した米国人作家 |
権力への接近、難解さという生存戦略
では、それほどまでにポップで大衆的だった芸能が、なぜ現代の私たちにとって「難しい」「わかりにくい」ものになってしまったのだろうか。三原はこう考える。
「おもしろい人たちが、おもしろいことを始める。そうすると、周りの人たちが『あそこで何かおもしろそうなことをやってるぞ』と集まってきて、一大ムーブメントになる。そこまでは大衆のものです。
それが現代の能の様式になっていったのは、偉い人に近づいていったり、あるいは権力者に見出されていったりしたことが大きいのでしょう。権力と密接に結びつくことで、能は大衆の手を離れ、純化され、ある種の特殊なルールのなかで『こねくり回されすぎた』んだと思います。
大衆から離れて孤高の芸術になっていったからこそ、現代の大衆である僕たちが一見して『わからない』と感じるのは、むしろ自然なことではないでしょうか」
しかし、ここに文化のパラドックスがある。大衆性を捨て、権力の庇護下で様式を固定したからこそ、能は生き残ることができたのだ。
「たとえば江戸時代の激変、幕末のペリー来航といった、それまでの日本のあり方を根底から覆すような大事件の荒波のなかで、多くの大衆芸能の記録が失われてしまいました。だけど能は、特権階級の式楽として守られ固定化されていたがゆえに、奇跡的に中世のデータをそのまま保持する『タイムカプセル』となって現代まで残ることができた。これは他の文化を見渡しても、特殊な例かもしれません」
三原にとって、そんな能の最大の魅力は、タイムカプセルに保存された姿形や動き、すなわち徹底的に洗練された「ビジュアル」そのものにあるという。
「どう考えても、能の動きって日常生活から見たら不自然ですよね。すり足で歩き、独特の角度で手を構える。ですが、何百年も何世代も突き詰められたその動きには、見ていて理屈抜きに『気持ちいい』と感じるものがあるんです。無駄を極限まで削ぎ落とした立ち姿、歩き方、手の出し方、ちょっとした角度のつけ方。そういうディテールのなかに、人間の身体が放つ絶対的な気持ちよさがある。
僕のような初心者にとっては、ストーリーの理解よりも、そういった動きや雰囲気、ビジュアルの良さから入るほうがイメージが湧きやすいんです。人によって能楽への入り口はいろいろあると思いますが、僕はあの削ぎ落とされた美しさに能の魅力があると感じています」
「伝統文化を守ろう、後世に残そう」というスローガンは現代において、一種の絶対正義として語られがちである。しかし、中世の芸能の世界へ深く入り込み、作品として昇華させた三原の視線は、驚くほどフラットでフェアだ。「文化を残す意義」について問われた彼は、物を作る人間としての「身も蓋もない本音」を隠さない。
三原にとって、そんな能の最大の魅力は、タイムカプセルに保存された姿形や動き、すなわち徹底的に洗練された「ビジュアル」そのものにあるという。
「どう考えても、能の動きって日常生活から見たら不自然ですよね。すり足で歩き、独特の角度で手を構える。ですが、何百年も何世代も突き詰められたその動きには、見ていて理屈抜きに『気持ちいい』と感じるものがあるんです。無駄を極限まで削ぎ落とした立ち姿、歩き方、手の出し方、ちょっとした角度のつけ方。そういうディテールのなかに、人間の身体が放つ絶対的な気持ちよさがある。
僕のような初心者にとっては、ストーリーの理解よりも、そういった動きや雰囲気、ビジュアルの良さから入るほうがイメージが湧きやすいんです。人によって能楽への入り口はいろいろあると思いますが、僕はあの削ぎ落とされた美しさに能の魅力があると感じています」
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能楽は、観れば観るほど深掘りしたくなる「大人のエンタメ」です |
「残す」のか、「残る」のか
「伝統文化を守ろう、後世に残そう」というスローガンは現代において、一種の絶対正義として語られがちである。しかし、中世の芸能の世界へ深く入り込み、作品として昇華させた三原の視線は、驚くほどフラットでフェアだ。「文化を残す意義」について問われた彼は、物を作る人間としての「身も蓋もない本音」を隠さない。
「作品を連載している時に、ずっと思っていたことでもあるのですが……。当時、観阿弥たちの『猿楽』と並んで、あるいはそれ以上に絶大な人気を誇っていた芸能に『田楽』がありました。当時は田楽のほうが人気があったと言ってもいいくらいです。
でもいまの時代、田楽はあまり残っていませんよね。その他にも歴史の濁流に消えていったもの、僕たちがその存在すら知りもしない芸能や文化が、過去には無数にあったはずなんです。すごくおもしろくて素晴らしい、それでも消えていってしまったものが。
そういう歴史の冷酷な状況を見たとき、物を作る人間としては、消えていくのはもうしょうがないんじゃないかと思ってしまう部分もあるんです。本当に、身も蓋もない言い方になってしまいますが」
私たちが「能を残さなければならない」と強く思うのは、それが「奇跡的に残っているからに過ぎない」と三原は言う。絶滅危惧種の希少な動物を見て、人間が「もったいない、残さなきゃ」と切実な気持ちになるのと同じ心理だ、と。
「もし能が過去に消え去っていたら、僕たちはその存在すら知らずに生きていた。残っているからこそ価値を見出している」
でもいまの時代、田楽はあまり残っていませんよね。その他にも歴史の濁流に消えていったもの、僕たちがその存在すら知りもしない芸能や文化が、過去には無数にあったはずなんです。すごくおもしろくて素晴らしい、それでも消えていってしまったものが。
そういう歴史の冷酷な状況を見たとき、物を作る人間としては、消えていくのはもうしょうがないんじゃないかと思ってしまう部分もあるんです。本当に、身も蓋もない言い方になってしまいますが」
私たちが「能を残さなければならない」と強く思うのは、それが「奇跡的に残っているからに過ぎない」と三原は言う。絶滅危惧種の希少な動物を見て、人間が「もったいない、残さなきゃ」と切実な気持ちになるのと同じ心理だ、と。
「もし能が過去に消え去っていたら、僕たちはその存在すら知らずに生きていた。残っているからこそ価値を見出している」
ドライとも言えるまなざしだが、それではなぜ、三原はこの「なくても生きていける」芸能を、やはり「なくても生きていける」漫画という形で描くのだろうか。
「戦争や経済の悪化などで社会情勢が厳しくなってくると、芸能や伝統文化、あるいは僕たちが描いている漫画のようなエンターテインメントは、真っ先に『不要不急のもの』として切られる筆頭になります。
『ワールド イズ ダンシング』の冒頭でも、主人公の鬼夜叉が『こんなもの(芸能)はなくても生きていけるんじゃないか』という主旨のセリフを言いますが、合理的に考えればたしかにその通りなんです。そしていまの僕たちの社会の感覚も、このセリフのように合理的になりすぎているように思います。
生きるために必要な栄養を摂取して、適量の睡眠を取ればいい。その合理的な計算式に従ってさえいれば、人間はある程度の寿命まで問題なく生きていけるでしょう。この極端な合理性の物差しで見たら、能も漫画も芸術も、たしかにいっさい必要ないんですよね」
「ですが」と、三原は言葉を選ぶ。
「戦争や経済の悪化などで社会情勢が厳しくなってくると、芸能や伝統文化、あるいは僕たちが描いている漫画のようなエンターテインメントは、真っ先に『不要不急のもの』として切られる筆頭になります。
『ワールド イズ ダンシング』の冒頭でも、主人公の鬼夜叉が『こんなもの(芸能)はなくても生きていけるんじゃないか』という主旨のセリフを言いますが、合理的に考えればたしかにその通りなんです。そしていまの僕たちの社会の感覚も、このセリフのように合理的になりすぎているように思います。
生きるために必要な栄養を摂取して、適量の睡眠を取ればいい。その合理的な計算式に従ってさえいれば、人間はある程度の寿命まで問題なく生きていけるでしょう。この極端な合理性の物差しで見たら、能も漫画も芸術も、たしかにいっさい必要ないんですよね」
「ですが」と、三原は言葉を選ぶ。
「僕ら人間って、そうではないですよね。合理的な生存条件だけで生きている人なんて、ほとんどいないじゃないですか。ということは、僕たちは生存に必要のない『何かしら』を、本能的に、強烈に必要としているんだと思うんです」
テクノロジーの発展によって、現代社会は「世界のすべてを解明し、すべてをわかっている」という傲慢さに陥っているのではないか──三原はそう指摘する。だが人間が「いらない」と切り捨てるもののなかにこそ、本質的な価値が隠されていることもある。三原は最近目にしたニュースを例に挙げた。
「たとえば親知らずや盲腸は、進化の過程で残った、人間にとって不要なものと言われていましたよね。痛むなら抜けばいい、切ればいいと。でも近年の医学の進歩で、盲腸や親知らずには生理的役割があったり、有用な機能を持ち得ることがわかってきた。
自分たちがいらない、合理的ではないと思い込んでいたものが、実は生存の根底を支える大事なものである可能性がある。僕たちはいろいろなことを『わかっている』気になっていますが、全部をわかっているわけなんて、絶対にないじゃないですか」
室町時代の人々は、現代人のように科学的なロジックで考えていたわけではないだろう。しかし彼らは、「わからないものはわからない」として、受け入れて生きていた。その「わからなさ」の不可侵の領域に、猿楽という芸能が寄り添っていたのである。
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日本の美と伝統を守る老舗呉服屋は「度重なる危機」をどう乗り越えてきたのか |
「わからなさ」を愛しむ
テクノロジーの発展によって、現代社会は「世界のすべてを解明し、すべてをわかっている」という傲慢さに陥っているのではないか──三原はそう指摘する。だが人間が「いらない」と切り捨てるもののなかにこそ、本質的な価値が隠されていることもある。三原は最近目にしたニュースを例に挙げた。
「たとえば親知らずや盲腸は、進化の過程で残った、人間にとって不要なものと言われていましたよね。痛むなら抜けばいい、切ればいいと。でも近年の医学の進歩で、盲腸や親知らずには生理的役割があったり、有用な機能を持ち得ることがわかってきた。
自分たちがいらない、合理的ではないと思い込んでいたものが、実は生存の根底を支える大事なものである可能性がある。僕たちはいろいろなことを『わかっている』気になっていますが、全部をわかっているわけなんて、絶対にないじゃないですか」
室町時代の人々は、現代人のように科学的なロジックで考えていたわけではないだろう。しかし彼らは、「わからないものはわからない」として、受け入れて生きていた。その「わからなさ」の不可侵の領域に、猿楽という芸能が寄り添っていたのである。
作中で、鬼夜叉は田楽の演目である「獅子舞」に出会うシーンがある。そもそも「獅子」とは何なのか、この舞いはいったい何を表現しているのかと困惑しながらも、彼はそこに「血と土の匂いがする」と、言葉にできない本質を感じ取る。
「何かはわからないけれど、たしかにそこにある、と感じる感覚は重要だと思うんです。理解できないからと、わからないものをどんどん切り捨てていったら、最終的には自分の意思で立てなくなってしまう気がします」
三原は、この「わからないものを受け入れる」という感覚を、自身の個人的な音楽体験に重ね合わせている。
「たとえば音楽を聴いているとき、まったく理解できない、構造もジャンルもよくわからない音楽に出会うことがあるんです。最初は『なんだこれ、わかんないな』と思う。でも、なんかいい予感がする、これは絶対にいいものだ、きっと僕の知識や感性が追いついていないだけで、これは素晴らしいんだろう、と感じる音楽がある。
そういう時、僕はその音楽を飽きるほど聴き続けるわけです。そうして何年も聴き続けていると、ある時突然、頭の中で『あっ!』と腑に落ちる瞬間が来る。これはいい、って不意に気づくんです」
「何かはわからないけれど、たしかにそこにある、と感じる感覚は重要だと思うんです。理解できないからと、わからないものをどんどん切り捨てていったら、最終的には自分の意思で立てなくなってしまう気がします」
三原は、この「わからないものを受け入れる」という感覚を、自身の個人的な音楽体験に重ね合わせている。
「たとえば音楽を聴いているとき、まったく理解できない、構造もジャンルもよくわからない音楽に出会うことがあるんです。最初は『なんだこれ、わかんないな』と思う。でも、なんかいい予感がする、これは絶対にいいものだ、きっと僕の知識や感性が追いついていないだけで、これは素晴らしいんだろう、と感じる音楽がある。
そういう時、僕はその音楽を飽きるほど聴き続けるわけです。そうして何年も聴き続けていると、ある時突然、頭の中で『あっ!』と腑に落ちる瞬間が来る。これはいい、って不意に気づくんです」
この感覚を頼りに、三原は世阿弥が『風姿花伝』でたびたび言及する「花(はな)」という概念を探った。それは観客が思わず「ああ、よい」と魅力を感じる瞬間、あるいは美の根源について考察する際などに、世阿弥が使う表現だ。「秘すれば花なり」の花である。
「世阿弥が言う『花』について僕自身も考えながら、探り探り描いていきました。でも、彼の言う『花』って結局何を指しているんだろう。いまもわかりません」
結論づけるとつまり、文化や芸能を楽しむことは人間にとって必要な「栄養」なのだろうか? そう問うと、三原は「なかなか難しいですが、そういうわかりやすい結論かと聞かれると、ちょっと違うと言いたい自分がいます」と首を傾げる。
「人間にとって本当に必要なのかどうか、それすらも僕にはわからないし、探り続けている途中です。必要ないのかもしれない。でも、その『わからない』という余白、わからなさがある限り、芸能や文化はあったほうがいい。
人はお手軽で、わかりやすくて、すぐに答えが出るものばかりを求めがちです。何かわからないものがあると、すぐに既存の名前やレッテルを与えて、安心しようとする。でも、そういうお手軽な感覚をちょっと変えてみませんかと、この作品で提案したかった。
「世阿弥が言う『花』について僕自身も考えながら、探り探り描いていきました。でも、彼の言う『花』って結局何を指しているんだろう。いまもわかりません」
結論づけるとつまり、文化や芸能を楽しむことは人間にとって必要な「栄養」なのだろうか? そう問うと、三原は「なかなか難しいですが、そういうわかりやすい結論かと聞かれると、ちょっと違うと言いたい自分がいます」と首を傾げる。
「人間にとって本当に必要なのかどうか、それすらも僕にはわからないし、探り続けている途中です。必要ないのかもしれない。でも、その『わからない』という余白、わからなさがある限り、芸能や文化はあったほうがいい。
人はお手軽で、わかりやすくて、すぐに答えが出るものばかりを求めがちです。何かわからないものがあると、すぐに既存の名前やレッテルを与えて、安心しようとする。でも、そういうお手軽な感覚をちょっと変えてみませんかと、この作品で提案したかった。
あえてわからないまま、わからない音楽をずっとわからないまま聴いていくように、その『わからなさ』のなかに身を置いてみる。そうすることで、頭でロジックとして理解するのではなく、感覚的にはっとするような瞬間が来るかもしれない」
三原はそう語りつつ、一人の表現者としての思いを口にした。
「このはっとする瞬間は、来てもいいし、来なくてもいいんです。来るならその人に必要なことだったのだろうし、来ないなら必要がないから、その人のなかから消えていくだけ。歴史のなかで文化が残るか消えるかも、そういう風に自然に決まっていくものなのでしょう。
それにしても現代の僕たちは、あまりにも早いスピードで、わからないものを『不要なもの』として切り捨てすぎているんじゃないか。もうちょっと、切り捨てないほうがいいんじゃないかな。そんな思いを抱えながら、僕は漫画を描いていた気がします」
『ワールド イズ ダンシング』というタイトルが示す通り、同作の核心にあるのは「ダンス(舞)」、すなわち肉体の躍動である。2026年7月、これがアニメーションという「動く芸術」へと翻訳されることについて、三原は期待と好奇心を寄せている。
三原はそう語りつつ、一人の表現者としての思いを口にした。
「このはっとする瞬間は、来てもいいし、来なくてもいいんです。来るならその人に必要なことだったのだろうし、来ないなら必要がないから、その人のなかから消えていくだけ。歴史のなかで文化が残るか消えるかも、そういう風に自然に決まっていくものなのでしょう。
それにしても現代の僕たちは、あまりにも早いスピードで、わからないものを『不要なもの』として切り捨てすぎているんじゃないか。もうちょっと、切り捨てないほうがいいんじゃないかな。そんな思いを抱えながら、僕は漫画を描いていた気がします」
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にいさとる「ケンカしてもわかり合うことを諦めない漫画を描きたかった」 |
時空を超えた文化のバトン
『ワールド イズ ダンシング』というタイトルが示す通り、同作の核心にあるのは「ダンス(舞)」、すなわち肉体の躍動である。2026年7月、これがアニメーションという「動く芸術」へと翻訳されることについて、三原は期待と好奇心を寄せている。
「漫画のなかでは、能の筋書きを伝えるために手を変え品を変え、表現を試みてきました。詞章(うた)の現代語訳を画面にどう定着させるかなど、いろんな実験をしてきましたが、それがアニメーションになったときに、どうまとめられるのか。一人の観客として本当に楽しみです。また、僕が漫画で詰めきれなかったところをアニメのスタッフの方々がどう解釈してまとめてくださるのかも、とても楽しみにしています」
三原が描く『ワールド イズ ダンシング』は、単なる過去の再現ではない。600年前に世阿弥が生み出し書き残したものが、時空を超えて一人の漫画家に伝わり、それがさらに新しい作品になって世界中の人たちに伝わっていく──伝統文化が持つバトンの繋がりそのものを可視化した作品とも言えるだろう。
私たちはなぜ生きるのか。なぜ生存に必要のない舞いを踊り継ぎ、その美しさに心を震わせるのか。答えはすぐには出ないかもしれない。だがあえて「わからない」まま、この世界にいまなお残る舞いの世界に身を浸してみる価値は大いにあるはずだ。
その「わからなさ」に触れたとき、世阿弥の見た枯れることのない花が、あなたの心にも一輪咲くかもしれない。
三原が描く『ワールド イズ ダンシング』は、単なる過去の再現ではない。600年前に世阿弥が生み出し書き残したものが、時空を超えて一人の漫画家に伝わり、それがさらに新しい作品になって世界中の人たちに伝わっていく──伝統文化が持つバトンの繋がりそのものを可視化した作品とも言えるだろう。
私たちはなぜ生きるのか。なぜ生存に必要のない舞いを踊り継ぎ、その美しさに心を震わせるのか。答えはすぐには出ないかもしれない。だがあえて「わからない」まま、この世界にいまなお残る舞いの世界に身を浸してみる価値は大いにあるはずだ。
その「わからなさ」に触れたとき、世阿弥の見た枯れることのない花が、あなたの心にも一輪咲くかもしれない。
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「異常こそ素晴らしい」 伊藤潤二が語る、創作の原動力と藤本タツキの才能 |
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