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『Time of Ring』(第十稿)Part.9

第九幕:浸食


大地がゆっくりと目を覚ますと、
隣には静かな寝息を立てる水原がいた。

窓の隙間から差し込む朝の日差しが、
白いシーツを淡く照らしている。

少し乱れた黒髪にかかる光を眩しそうに避け、
彼女は無防備に大地の胸元へと顔を埋めてくる。

古代メソポタミアでの過酷な戦いを終え、
2156年へと帰還してから半年。

二人は、郊外の小さなアパートメントで暮らし始めた。

時間管理局も、命を削る任務もない。

朝は淹れたてのコーヒーの香りで目を覚まし、
昼下がりには、近所の市場へ
二人で夕食の買い出しに出かける。

「ねえ、今日は少し足を伸ばして、
海沿いの通りまで行ってみない?」

休日の午後。

洗い物を終えた水原が、
エプロンを外しながら
微笑みかけてくる。

「いいな。
ついでにあの店で、
美味いワインでも買って帰ろうか」

「賛成。
最近、あなたの作る料理の腕が上がりすぎて、
私が太っちゃいそうよ」

何気ない会話をして、
肩を並べて街を歩く。

誰も銃を持たず、誰も監視されていない。

夜になれば、二人でソファに深く腰掛け、
一つのブランケットを分け合って古い映画を見た。

映画の途中で微睡み始めた水原が、
大地の肩にそっと寄りかかってくる。

彼女の手が、
大地のシャツの襟元から覗く、
メソポタミアで負った
古い傷跡を優しく撫でた。

「……もう、痛まない?」

「ああ。
綺麗に手当てしてくれたからな」

大地がその手に自分の手を重ねると、
彼女は安心したように小さく笑い、
大地の首筋にそっと唇を落とした。

——ジジッ。

不意に、耳の奥で
不快な電子音が鳴った。

抱き寄せていたはずの水原の体温が、
唐突に消え失せる。

「……え?」

大地が目を見開くと、
そこは暖かいリビングではなかった。

薄暗く、冷たい機械の駆動音だけが響く、
時空艦NOAのコクピットだった。

「……どういう、ことだ」

隣のナビゲーションシートを見ると、
水原もまた、血の気を失った顔で
周囲を見回していた。

彼女の服装は、
先ほどまでの柔らかい部屋着ではなく、
泥と血に汚れた戦闘服のままだ。

コンソールに表示されている日時は、
『メソポタミアから2156年に帰還した、
まさにその数分後』を示している。

「大地……私……」

水原の声が震えていた。

「あなたと、一緒に暮らしていたわよね。
今朝も、二人でコーヒーを……」

「ああ。俺も覚えている。

……全部、幻だったって言うのか?」

「違うわ。あまりにも鮮明すぎる。

これはおそらく……
これから確定するはずだった
新しい歴史の記憶が、
私たちに流れ込んできたのよ」

水原が青ざめた顔でモニターを叩く。

「時空の座標が、
異常な数値を叩き出しているわ。

私たちが変えた未来と、元の未来が、
激しく衝突して混ざり合おうとしている……!」

嫌な予感がした。

大地は立ち上がり、
NOAのハッチのロックを解除した。

転移艇のハッチを開けた大地は、息を呑んだ。

ドックの中は、ただひたすらに「静か」だった。

行き交う局員たちの足音が、不定期に途切れる。

温かい飲み物が入った
陶器のカップを持っていた女性局員の姿が、
大地の目の前で、
陽炎のように不自然に揺らいだ。

次の瞬間、
彼女の服装
が全く見知らぬ灰色の作業着に変わり、
そのまま空間から削り取られるように
フッと消滅した。

カップが床に落ちたが、
割れる音は無かった。

「……何かが起きている」

局長室へ駆け込むと、
藤堂が両手で頭を抱えるようにして
制御盤に突っ伏していた。

彼の右腕もまた、
向こう側が透けて見え、
別の「存在しないはずの腕」の幻影と
重なっては激しくブレている。

「……塗り潰されているんだ」

藤堂は顔を上げず、
声を絞り出した。

「遥か先の未来から、
凄まじい力で
『歴史の上書き』が実行されている。

消滅を拒むクロノスが、
時空ごとこの世界を
初期化しようとしているんだ……」

大地の視界の端で、
部屋の分厚いコンクリートの壁が、
冷たい白銀の金属へと瞬時に切り替わり、
再びコンクリートへと戻った。

足元の床も、
音もなく白い虚無へと変わり始めている。

「走れ、格納庫へ!」

「局長……!」

「行けッ!」

藤堂の叫び声を背にして、
大地は水原の腕を強く引いて走り出した。

背後からは、
足音が全くしない白い虚無が、
壁や床を舐めるようにして迫ってくる。

強固な鋼鉄の扉も、消火器も、
虚無に触れた瞬間に
ただの真っ白な平面へと変わり、
音もなく空間から削り取られていく。

ミシッ……!

天井を支えていた柱が
足元から白く消え去り、
何トンもの巨大な瓦礫が
水原の頭上へと崩れ落ちてきた。

「危ない!」

大地は迷わず水原を抱き寄せ、
前方の床へと勢いよく転がり込む。

二人が直前までいた場所は、
轟音を立てて落ちた瓦礫ごと
白い虚無に飲み込まれ、
完全にえぐり取られていた。

「大丈夫か!」

「ええ……走って!」

息をつく間もない。

足元の床すらも端から白く変色し、
崩れ落ちていく。

大地と水原は、
途切れていく床をギリギリで跳躍し、
迫り来る虚無から逃れるようにして
格納庫の防爆扉を潜り抜けた。

だが、格納庫の床も
すでに半分以上が
白く塗り潰されていた。

その崩落する空間を割って、
巨大な流線型の船体が姿を現した。

船体の側面には、
「NOA2」と刻印されている。

開いたハッチの奥に進むと、
操縦席には、
見知らぬ青年が座っていた。

「こっちだ!
早く乗ってくれ!」

青年が身を乗り出して叫ぶ。

大地は警戒を解かず、
鋭い声を投げた。

「どういうことだ!
この世界が消えかけているのに、
なぜ平然と存在できる!」

青年は操縦桿を握り直しながら、
切迫した声で答えた。

「あんたたちが過去で歴史を変えたことで、
奴の支配から外れた新しい未来が生まれかけた。

俺は、その『新しい歴史』から迎えに来たんだ。

俺のいた未来も、
50万年後のクロノスの介入によって
今まさに消えかかっている」

青年が振り返った。

「俺の名前は航(わたる)。
……あんたたちの息子だ」

「息子……?」

水原が息を呑み、
大地も驚愕に目を見開いた。

先ほどまで体験していた、
あの温かい日常の記憶。

その先に確かに繋がっていたはずの命が、
今、目の前にいる。

「後ろを見ろ!」

航の怒声に振り返ると、
時間管理局という空間そのものが、
無音のまま白い虚無へと
塗り潰されようとしていた。

大地と水原が
ハッチへ飛び乗った直後、
二人が立っていた床も
完全に消滅した。

「……すべての元凶を叩く。」

大地が低く呻くように宣言する。

水原も、静かに、
ブラスターを構え直した。

NOA2は、青白い光に包まれ、
クロノスが待ち受ける
50万年後の未来へと跳躍した。

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