八百万夜行 ― ヤオロズヤギョウ ―

三河筆刀齋(三河蕾花)

第一章 導きと下知

   一


 初夏の爽やかな風が、山を吹き下ろす。青々と茂る草木がそよいで、ざわめき、虫のすだきが山林を跳ね回った。

 蝉が念仏を唱えるかのごとく鳴き、山鳥が美しい声を交わし、川がしぶきを上げてせせらぐ。


 生命が息吹いている。


 その、さんざめく無数の輝きの中を、一頭の雄鹿が蹄を鳴らして駆けていく。

 速度は一定、律動的な弾みと歩幅。

 その鹿へ向けて、矢が射込まれる。

 だが雄鹿は神憑り的にその征矢そやを枝角で弾き飛ばすと、首を振って衝撃を逃がしてみせた。

 矢を射った若者は――鬼の青年は驚きに目を見張った。

 若者の名は愁慈郎しゅうじろう。十七歳。去年、近所の神社で元服した。幼名を吉慈郎きちじろうという。

 この界隈では有名な、弓の使い手である。


「弾いた……? なんてやつだ」

 愁慈郎はすぐに弓を背中にひっかけた。

 鹿が、逃げる。太い首を山の上り坂、てっぺんの方へ巡らせて、かかとを鳴らして駆け出した。


 愁慈郎も、すぐに追いかけた。

 分厚く編み込まれた草履が、下草を踏みつける。

 梔子色くちなしいろ浅葱色あさぎいろ、さらにその中間を彩る萌葱色もえぎいろとが、――檸檬れもんのような鮮やかさから、梢が反射する川面のような青緑色とが――木漏れ日の中で乱れて反射する。

 実った果実、花に、きのこ、草葉。


 命あるすべてが、そこにあるだけで、ただただ、狂おしいほどに煌めいている。

 若者が、美しくも鮮烈な朝陽に焼かれている山の中を、全力で駆けていく。

 草履が土を踏む。腐葉土を踏みつける。枝が砕ける音。

 前方を駆けるのは、やはりさっきの雄鹿である。山の恵みを喰らい、まるく肥えた鹿だ。

 大柄で、これは一筋縄では狩れそうもない。いや、弓を射かけんとして接近を悟られた時点で、狩りは、八割方失敗である。


 ――ならば、それでもかまわん。


 足下、草履の底で、後ろ向きに蹴り出された土が宙を舞った。

 愁慈郎しゅうじろうはいっそ、この追いかけっこを楽しんでいた。

 山に生きる命。その剥き出しの力。若輩の鬼にすぎぬ己が、この巨大な山河に、それが産み落とした命の化身にどこまで食らいつけるか、ひたすらに気になった。


 然り。

 これは狩りにあらず。――ただの力比べに過ぎぬ。


 鹿が、袋小路に入った。三方を崖に囲まれている。来た道には愁慈郎がいる。

 崖上を睨むそいつが、脇に倒れている丸太に気づくまでに、それほど時間はかからない。

 ほどよく崖の上まで渡されている丸太に気づくと、鹿は器用にそれに乗って駆け出す。

 愁慈郎もそれに続いた。しかし鹿が渡り切ると同時に、丸太が砕ける。

「く――」


 落ちる――高さは、せいぜい三尺(九十センチ)程度、だが。着地で下手を打てば、足をやられる!


 咄嗟に、愁慈郎は左手に装備した仕掛け手甲を作動させた。

 巻取り機に巻きつけられている縄を、手首をひねり返して射出。鉤縄だ。鉤が、崖上に生えている木の枝に絡んだ。

 そうして手首を内側にひねると、こんどは縄が巻き取られる。その勢いで愁慈郎は木の方へ飛んだ。


 縄の先に取り付けられているのは、指の動きと連動する仕掛け鉤。

 それを巧みに動かして木の枝から外す。

 指の関節部分には輪があって、それが鋼線で手甲とつながっていた。さらに鋼線は縄の内側に編み込まれていて、指先の動きが、鉤に通じるような具合となっていた。

 このような精緻で緻密なカラクリは、天嵐国てんらんのくにには多い。


 崖の上にはやはり、原生林が広がっている。

 標高はすでに百丈(約三百メートル)。ずいぶんと登ってしまった。


 前方には川が流れている。雄鹿はその強靭な四足で越えたが、愁慈郎は思わず、河原で止まった。

 流れが急だ。また、巨岩の影響で、不規則に流水が曲がりくねっている。

 足を取られれば、あちこちに体を叩きつけられて、死ぬこともありうる。鬼とて、無敵でも、不死身でもない。

 愁慈郎は両のこめかみから生える金剛石の如き角の片方を、指で掻いた。


 雄鹿が対岸で、「もう終わりか?」というふうに小首を傾げてくる。

 その挑戦的な振る舞いに、愁慈郎の闘志に火がつけられた。


「まだまだ」

 さっと周囲を睨む。

 愁慈郎は川面に並んでいる石を捉えた。その上を蛙のように跳躍してみせ、次から次に、石の上を飛び回る。

 きらきらと星屑のように光を照り返す川面。水が珠となって舞い上がり、陽光が虹色に散りばめられる。

 魚が跳ねる。それを、どこからか無音で飛んできた梟が両足で掴んで、しぶきを散らしながら去っていく。

 対岸にわたりきると、鹿はもう先へ進んでいる。


 愁慈郎は諦めず、追いすがる。

 山を駆け上がり、その先に見える、どことなく神妙な大杉の間を抜けた。


 このとき気づいておけばよかったのかもしれない。

 ――愁慈郎は、大杉の間には本来注連縄が巻かれ、通せん坊になっていたことを、知らなかったのである。

 その注連縄が「なにか」によって破られたことを、知り得なかったのである――。



 大杉の先は御神域の森だった。あるいは、禁足地ともいう。

 すなわち、神の御庭だ。許しのある者以外の侵入は決して許されない。まして、そこで狩りをすることなどあってはならぬこと。

 万が一にでもその禁を破れば、打ち首獄門。胴体は試し斬りのすえに捨て置かれる。おおよそ、まっとうな葬られ方などされず、奥津城おくつき(仏教でいうお墓のこと。神道では奥津城という)にも入れてもらえまい。


 愁慈郎も、禁足地の決まり事、それ自体は知っている。けれど、注連縄がちぎれていた事実に気づかぬのでは、ここがどこであるかなど理解のしようもない。


 だが。

(なんだ?)


 森がやけに静まり返っていることに気づいた。

 それに対して、神聖というものを感じ取ったのかもしれない。己は、これでも毎朝、家の神棚に手を合わせるほどには信心深い。

 あるいは、獣狩ししがりの本能がそうさせたのか。


 愁慈郎は、立ち止まってこちらを見つめる雄鹿に対し、背負っていた弓を構えかけたが、手をおろした。

 なんだか、あいつを射るのは良くない気がする。

 愁慈郎は来た道を戻ることに決めた。

「悪かったよ、追い回したりして。すぐにここを出ていく」


 言葉が通じるかどうかなどわからない。だが、やつがここの――神聖な地の主であれば、なにかを介すると思ったのだ。


 それこそ、あの雄鹿は――神獣ではないだろうか?


 愁慈郎は後ろに数歩下がり、そして、

『ぞわり』と、嫌なものが背筋を這うような――うなじの毛穴が開いて、冷たく脂じみた汗が吹き出すのを感じた。


 ハッとして、愁慈郎は左へ飛んだ。

 右奥の藪から、なにかがこちらへ突っ込んできた。それは、黒い瘴気をまとう異質な生物だった。

 土砂を舞い上げて、異形がのたくる。蛇だ。しかし、尋常の、長寿と繁栄をもたらす瑞獣ではない。

 体長は四半町(二十七メートル)ほど。直径は二尺(六十センチ)はあろうか。大蛇のたぐいだ。そこまでならば良い。これくらいの大蛇は、山のあちこちにいる。


 けれど。

 目玉は、左右不揃いに七つあり、口は喉の奥の向こう、腹のあたりまでばっくりと割れ裂けている。

 愁慈郎は、「穢獣ケダモノ――?」と胃の腑を凍らせる思いを口にした。


 穢れ――すなわち、不浄から生じるそれ。

 血の気の赤不浄、骸の気の黒不浄。それらが祓われ浄められることなく放置されると、穢れた獣……すなわち穢獣ケダモノとなって顕現する。

 我が天嵐国てんらんのくににも穢獣ケダモノの出現自体はありうるが――。


(神聖の気配が濃いここで、穢獣ケダモノ? どうなってんだ)

 愁慈郎はここが御神域だと気づいていない。けれど、ただならぬ神気には気づいている。――気付かされている。

 だからこそ、相反する穢れの存在には疑問と、

(まずい)

 という、得体のしれぬ身の危険を感じていた。


 そいつから距離をおいた。

 大蛇が――ケガレオロチが「ギシャァアアッ」と鋭く鳴いて、飛びかかってきた。

 愁慈郎はケガレオロチの側頭部を左の足甲で蹴り飛ばして、間合いを取る。

 普通の蛇であれば、鬼の膂力に耐えきれず、死んでもおかしくない。ときに、熟達した鬼は鉄塊さえ握りつぶすほどの筋力を示す。

 だが、相手は穢獣ケダモノ。若鬼とはいえ、愁慈郎が本気で蹴飛ばしてもなお、藪の中でむっくと起き上がる。


 愁慈郎は鹿を見た。いかなる奇術か、あちらは狙われる様子がない。

(何かの試練ってか? 高みの見物かよ……!)

 愁慈郎は大蛇の頭突きを、今度は右に飛んで避けた。

 矢を射るには相手は素早い。そもそも距離を取れる状況でもない。

 身動きのじゃまになる弓を取っ払って、愁慈郎は転がりつつ、腰に差している大ぶりの刃物を抜いた。

 獣狩山刀ししがりながさという、刃長一尺半(およそ四十五センチ)もあるずんぐりとした山刀である。


 ここがなにやら神気のある場だと察している。そして、おそらくは不浄沙汰はまずいであろうということも。

 だが、易易やすやすと命を捨てる気はない。

 罰せられるのは御免だが、穢獣ケダモノに蹂躙されるのは、恥辱の極みだ。


「来い、首を落としてやる」

 愁慈郎は低い声で喉を震わした。声音は、十七の若者とは思えぬほどにドスが利いている。

 何度も死にかけた――山で、獣に追い回されて、転落しかけて、川に流されて。

穢獣ケダモノ風情に殺られてたまるか)


 ケガレオロチが突っ込んできた。愁慈郎は身を左に開きつつ、紙一重でかわす。

 素早く、右腕を振り上げて、ぐわっと獣狩山刀を振り下ろした。

 ずんぐりとした刀身だが、けれども、刃は恐ろしく鋭い。大獣を毛皮ごと叩き切るほどの威力がある。

 しかし、大蛇の鱗はそれを受け流し、しのいだ。

 流動し続ける蛇の鱗は、勢いが早い。いわば、質量を持った水を切るようなもの。

 激しい金切り音と火花が連続して散り、愁慈郎の脇を、ケガレオロチが過ぎ去ってゆく。


「くそ」

 山刀の刃が、今のやりとりで一気に毀れた。ずく卸しの立派な鋼の刃が、一度の交錯で――。

 大蛇が着地し、幡龍ばんりゅうの如くとぐろを巻いて、こちらを睨む。

 使い物にならない山刀だが――。


 再びの突進を、大蛇は行った。芸のないこと、しかし、単純故に威力は抜群であった。

 まさに液体状の筋肉。自在に流動する質量が、愁慈郎を圧殺せんと迫る。

 一か八かだ。愁慈郎は、相手の頭部めがけて、刃がずだずだに崩れた山刀を打ち下ろした。


 ゴチャッ!


 蛇の額に、潰れた刃先が叩きつけられた。衝撃で突進の狙いが逸らされて、穢獣ケダモノはたまらず脇の大樹に激突した。

 刃物としてはもう使い物にならない。それはわかりきっている。ならば、半貫(約一・九キロ)もある鈍器として扱うことにしたのだ。

 倒れたケガレオロチへ、愁慈郎は、「おらっ!」と気合とともに鉄塊と化した山刀を連打する。


 十はくだらぬほど殴打したか。

 穢獣ケダモノ蛇はたまらずぐったりと力を失い、昏倒。

 殺しきれてはいないが、むしろ、都合がいいと思った。

 穢獣ケダモノは、下手に殺すと、身のうちに閉じ込めている瘴気を吹き出させる。それは、周辺の生命を腐らせ死滅させる猛毒となる。


 この遺体を放置するのはまずいが、愁慈郎には、穢獣ケダモノを祓う浄祓術じょうばつじゅつは使えない。


 しかし。

(どうする、焼き払っちまうか?)

 緊急時の方法として焼くという手段もある。

 幸い、油は持ち歩いている。何かと使えるので、少量ばかり、革張りの筒に入れて持ち歩いていた。

(いや、だめだ。山火事なんか、それこそ重罪だろ)

 どうしたものかと愁慈郎は考えあぐねた。


 そのとき、光が遮られた。ただでさえ木々の茂る森の中である。一瞬、闇に包まれたのかと思った。

 しかし、違った。

 ふわりと何かが降り立った。木漏れ日を極彩色に照り返す大きな翼。黄金色の髪、翡翠のごとく美しい淨眼じょうがん


 女である。

 梟の翼を持つ天狗だ。左手に八尺(二百四十センチ)ほどの杖を握っている。

 女の身丈は愁慈郎よりずっと高い。ゆうに六尺五寸(百九十五センチ)はあるだろう。


「貴様、ここが御神域と知っての狼藉か」

「御神域――いや、そんなことは……」


 女は、打ちのめされた穢獣ケダモノ大蛇を一瞥し、刀印を結んだ。そうして横に二度、さっさっと振る。

 すると大蛇が雷に打たれたように痙攣し、内側から発雷、焼けて塵屑になって消える。


「詳しくは城で聞こう。ついて参れ」

「わ、わかったよ」


 梟天狗の女は怜悧な目つきでこちらを一瞥し、そして、踵を返した。

 愁慈郎は一体どのような事態になってしまうのか、なぜ御神域に入り込んでしまったのか――己の不明を呪いながら、女について行った。

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