光教寺
光教寺(こうきょうじ)は、15世紀末から16世紀初頭にかけて加賀国江沼郡山田(現石川県加賀市山田町)に存在した浄土真宗の寺院である。
かつては若松本泉寺、波佐谷松岡寺とともに「賀州三カ寺」と総称され、加賀一向一揆を主導する有力寺院であったが、北陸一向一揆の内部抗争である大小一揆に破れ寺基を破却された。
歴史
[編集]光教寺の創建
[編集]山田光教寺の成立事情については史料によって記述が異なり、現在の光教寺の由緒書や『大徳寺由来記』などでは「蓮如が吉崎御坊に滞在していた頃、文明4年(1472年)に蓮如によって築かれた一宇を前身とする」と伝える[1]。一方、文明18年(1486年)のものとされる江沼郡中宛て蓮如書状が現存しており、この書状では「山田光闡事、江沼郡中として取立られ候…」とある[2]。『加賀市史』などは、文明4年時点では加賀の真宗門徒は未だ弱体であったと見なし、門徒衆が拡大し郡単位の組織が形成され始めた文明18年に「江沼郡中として取立られ」光教寺が成立したと考える方が蓋然性が高いと指摘している[3]。
光教寺の初代となった蓮誓は本願寺八代蓮如の四男で、当初は本泉寺勝如尼の創建した土山御坊(後の伏木勝興寺)に入り、越中教団を取りまとめる地位にあった[4]。しかし文明18年に上述の通り江沼郡に迎え入れられる形で山田光教寺に入り、残された土山御坊は高木場御坊に移転した上で、蓮誓の長男の実玄が継承した。光教寺に入ったばかりの蓮誓の権力基盤は不安定なものであったため、九谷坊(山中町九谷)・瀧野坊(弓波)などを創設して勢力拡大を図った[3]。この二坊は打越勝光寺と密接な関係を有しており、勝光寺との協力の下建立されたようである[3]。
江沼郡の支配
[編集]江沼郡では14世紀時点で既に萩生願成寺(現大聖寺)・河崎専称寺(現大聖寺)・長崎称名寺(現深田)・宮越迎西寺などが存在していたとの記録があり、蓮誓が到来する以前の文明年間前半には額田荘に大規模な真宗門徒団が存在していたことが史料上から確認できる[5]。また、篠生寺には文明18年正月付蓮如御書の写があり、江沼郡における六日講の始まりを伝えている[6]。もっとも、この写しは能美郡の四講御書を参考に製作された偽書とみられているが、おおよそ同時期には江沼郡六日講が成立していたことは確かであると考えられている[6]。
1480年代、加賀国では守護富樫政親が9代将軍足利義尚による六角高頼遠征(鈎の陣)に従軍し、これによる戦費の拡大で国人層の反発を招いていた。一方、加賀国各地では真宗門徒の組織化が進んでおり、前述の通り江沼郡では「江沼郡六日講」が成立していた[6]。その結果、長享2年(1488年)には富樫政親の統治に不満を抱く一向一揆、白山宮衆徒・国人が協力して一揆を起こし、富樫政親を自刃に追い込んだ(長享の一揆)。
長享の一揆時の光教寺の動向は記録がないが、『官知論』には「江沼郡の諸勢越前口へ指遣わし、敷地、福田に陣を取る」とあって、江沼郡勢は越前からの朝倉軍の侵攻に対応していた[7]。江沼郡一揆と朝倉軍との戦いは『加国官知論』や『朝倉始末記』といった後世の書物で様々に語られているが、同時代史料の『蔭凉軒日録』でも「越前よりの合力勢亦其曲なし」として一揆勢に阻まれたことを伝えられている[8]。
長享の一揆を経て加賀国は実質的に若松本泉寺・波佐谷松岡寺・山田光教寺ら「賀州三カ寺」が支配する地域となり、三カ寺は本願寺教団内においても大きな発言力を有するようになった。明応9年(1500年)には、蓮如の死去を受けて本願寺では内部対立があり、その一環として康兼(蓮誓)が真影を加賀国で引き取る事を主張、これに賛同する者も多くあらわれるという事件が起こった[9]。同年6月には真影を載せた御輿の出立日まで決められていたが、蓮淳の手配により中止で追い込まれたという[9]。この事件が後の大小一揆の遠因の一つとなったとする説もある[9]。
江沼郡外への進出
[編集]永正3年(1506年)には細川政元の要請を受けて北陸全土の一向一揆が蜂起したが、この時加賀南部の能美郡・江沼郡一揆は越前国に侵攻している。しかし越前に侵攻した一向一揆勢は九頭竜川の戦いで大敗し、この敗戦によって超勝寺・本覚寺が越前から追い出され加賀国に移転したことが、後の大小一揆の遠因となる。
永正16年(1519年)には本願寺にて各地の新坊造立の停止が定められ、このために光教寺でも九谷坊が廃止されている[10]。晩年の実如は証如の後見を「加州三ヶ所(本泉寺蓮悟・光教寺蓮綱・光教寺蓮誓)・願証寺(蓮淳)・本宗寺(実円)」らに依頼しており、この頃が「加州三ヶ所=賀州三カ寺」の権勢の絶頂期であった[11][12]。なお、大永年間に発給されたと見られる光教寺宛て実如書状では光教寺に対して「光教寺・本泉寺に懇ろに申せ」と述べており、「三カ寺」の中でも光教寺・本泉寺が光教寺より上位であった事が窺える[13]。
大小一揆
[編集]蓮如直系の寺院として大きな権勢を有していた「賀州三カ寺」であったが、大永5年(1525年)に九代実如が死去し、十代証如が継職したことによって大きく情勢が変動する。世代交代によって「賀州三カ寺」が本願寺法主と遠縁になる一方、越前から加賀に逃れた超勝寺実顕が証如の伯母と結婚していた縁から証如と密接な関係を結び、加賀国内にて勢力拡大を図っていた。このような実顕の動向を、後に顕誓は自らの著書の中で「権威に誇り真俗の道正しからず」と批判している[14]。
このような経緯から「賀州三カ寺」と超勝寺・本覚寺は加賀国内で対立を深め、遂に享禄4年(1531年)に「大小一揆」と呼ばれる北陸一向一揆の内部抗争が勃発した。緒戦においては三カ寺方(小一揆派)が優勢であったが、本願寺九代証如が超勝寺援護のため派遣した援軍が到着すると形勢は逆転し、大一揆派は7月中には松岡寺を強襲して蓮綱とその一族を捕虜とし、7月末には若松本泉寺を陥落させるに至った[15]。
一方、最も越前国に近い光教寺は越前朝倉氏も巻き込んで小一揆派の中では最も長く抗戦した。『朝倉始末記』によると、8月17日に超勝寺は能美・石川両郡の兵7千を率いて「山田房主・黒瀬覚道対峙」を目的として能美境に至った[15]。3千余りの江沼郡勢は月津口の山手・浜手・中央の三手に分かれてこれを迎え撃ち、黒瀬覚道が実顕の弟超玄を打ち取ったことで撃退に成功したという[15]。
一方、顕誓はそれまで対立していた朝倉家に救援を求めており、これを受けて朝倉家からは堀江三郎左衛門率いる300の兵が先陣として19日に菅生に到着し、更に22日には朝倉宗滴の息子朝倉景紀率いる8千の兵も菅生に入った[15]。朝倉宗滴自らも軍を率いて能美郡本折に着陣し、10月26日には手取川を越えて番田・土室・藤塚を焼き払ったが、手取川の増水を恐れて一時川の南に戻った。その後、朝倉宗滴は軽海から三坂峠に向い、超勝寺の本拠である山内を攻めようとしたが、河北郡太田の戦いで敗れて越前国まで撤退した。
朝倉勢の撤退により光教寺は孤立無援となり、顕誓を始め残存する小一揆派の有力者たちも加賀国からの退去を余儀なくされた[16]。顕誓は自らの著書でこの間の事情を、「予も力なくまず命をのがれ、武士の憐によって越前へこえ侍り」と記している[16]。また同じく『古今独語』によると、越前への亡命時に顕誓に付き従っていたのは青侍の和泉祐念(下間頼俊か)・出雲守正宗と、和泉祐念の妻及び息子の順信・信秀らのみであったという[16]。このほかにも、呉羽大徳寺所蔵の『大徳寺由来記』によると、顕誓の家老であった三林善四郎・吉田左近らは日谷に城を構えて戦った末に討ち死にしたと伝えられている[17]。
光教寺破却後
[編集]『天文日記』天文5年正月5日条では光教寺顕誓が菅生了願宛ての廻文を出したが、江沼郡中がこれを差し押さえて了願は成敗されるに至ったとの記録がある[18]。この記録によって、大小一揆後も顕誓は江沼郡に影響を及ぼそうとしていたが、江沼郡としては光教寺の再支配を明確に拒絶していたことが窺える[18]。この背景には、大小一揆にて光教寺を支持していたのは黒瀬一党・柴山・一針ら国人・土豪であって、より下層の小領主は超勝寺=本願寺方に味方していた事があると指摘されている[18]。
なお、『天文日記』の記録(天文12年3月22日条・同16年9月14日条・同21年4月18日条)からは光教寺以外に打越勝光寺・新郷専光寺・萩生願成寺・河崎専称寺が小一揆派で、大小一揆終結後にはその門徒が「(本願寺の)直参衆」あるいは「超勝寺下」とされたことが確認できる[19][20][21]。これに関連して勝光寺の寺伝では、「四代祐心は蓮誓より顕誓の後見を頼まれたため、大小一揆時も顕誓に味方して戦い、その際耳を切られたことから『耳そがれの祐心』と呼ばれた。光教寺の陥落後は顕誓と光教寺の寺宝を守って難を逃れた」と伝えられている[22]。
子孫
[編集]顕誓は実如の娘を娶っていたが子に恵まれず、『大谷嫡流実記』などではその家系は断絶したと記される[23]。一方、北陸の寺院の中には顕誓の後裔を称する寺院が散見される[23]。
珠洲郡内浦町小木の法融寺
[編集]開基を顕誓とし、第二代を飛ばして三代慶順が跡を継いだとする[24]。ただし別の伝承では開基を正順なる人物としており、慶順にしろ正順にしろ法融寺の所伝では顕誓の子孫と明記されているわけではない[24]。ただし、法融寺所蔵の裏書には後述する広栄寺所蔵の系譜に合致する人名(順空)が見られ、広栄寺所蔵の系譜に基づけば正順は顕誓の息子となる[25]。
珠洲郡珠洲市大谷町の広栄寺
[編集]広栄寺所蔵の古文書によると顕誓に正順と正尊という二子があり、前者が妙楽寺を、後者が広栄寺を開いたとする[26]。なお、正順と正尊の母は能登穴水城主長谷部信濃(長谷部信、信通とも)の娘とされているが、長谷部氏(長氏)の系譜に該当する人名は見えない[27]。ただし、長氏の出で一向宗寺院に嫁いだ女性については複数の記録があり、長谷部氏(長氏)に所縁があった蓋然性は高い[28]。
なお、法融寺・広栄寺には三河勝髻寺了顕の息子の興予(誓玄)書写の『御文』が残っているが、了顕の親族(諸説あり)には専修寺顕誓という人物がいる。このため、北西弘は法融寺・広栄寺は本来専修寺顕誓の末裔であったものを、後に光教寺顕誓と混同して系譜を作成したのではないか、とする説を提唱している[29]。
富山市呉羽の大徳寺
[編集]大徳寺所蔵の『大徳寺由来記』によると、顕誓に「民部卿 顕能」と「少弐 円順」という二子がおり、顕能は若くして死去したが円順は瑞泉寺六代賢心の猶子となった後、跡継ぎのいなかった大徳寺に入ったという[30]。ただし、『大徳寺由来記』の円順の生没年に基づくと、顕能・円順はそれぞれ顕誓が11歳・16歳の時の子供となるため、この系譜の信憑性は疑わしいものである[31]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ↑ 加賀市史編纂委員会 1978, p. 423.
- ↑ 加賀市史編纂委員会 1978, p. 424.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 加賀市史編纂委員会 1978, pp. 424–425.
- ↑ 草野 1993, p. 276.
- ↑ 加賀市史編纂委員会 1978, pp. 398–432.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 加賀市史編纂委員会 1978, p. 499.
- ↑ 加賀市史編纂委員会 1978, p. 435.
- ↑ 加賀市史編纂委員会 1978, p. 436.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 北西 1981, pp. 210–211.
- ↑ 加賀市史編纂委員会 1978, p. 477.
- ↑ 北西 1981, p. 207.
- ↑ 笠原 1962, p. 391.
- ↑ 北西 1981, pp. 211–213.
- ↑ 加賀市史編纂委員会 1978, p. 478.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 4 加賀市史編纂委員会 1978, p. 481.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 加賀市史編纂委員会 1978, p. 482.
- ↑ 加賀市史編纂委員会 1978, p. 486.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 加賀市史編纂委員会 1978, p. 483.
- ↑ 加賀市史編纂委員会 1978, p. 484-485.
- ↑ 北西 1981, p. 263.
- ↑ 井上 1968, p. 540.
- ↑ 加賀市史編纂委員会 1978, p. 486-487.
- 以下の位置に戻る: 1 2 北西 1981, p. 214.
- 以下の位置に戻る: 1 2 北西 1981, pp. 214–216.
- ↑ 北西 1981, pp. 222–224.
- ↑ 北西 1981, p. 216.
- ↑ 北西 1981, pp. 226–227.
- ↑ 北西 1981, pp. 227–229.
- ↑ 北西 1981, pp. 234–235.
- ↑ 北西 1981, pp. 230–231.
- ↑ 北西 1981, pp. 231–232.
参考文献
[編集]- 井上, 鋭夫『一向一揆の研究』吉川弘文館、1968年。
- 笠原, 一男『一向一揆の研究』山川出版社、1962年。
- 北西, 弘『一向一揆の研究』春秋社、1981年。
- 加賀市史編纂委員会 編『加賀市史 本巻』加賀市、1978年。