「静謐な祈り」はむしろ乱すべき
6月23日は慰霊の日である。沖縄において組織的な戦闘が終結したとされる日で、毎年沖縄全戦没者追悼式が開かれている。(ただし、この解釈には批判もある)
こうした戦争関係の式典があるごとに話題となるのが、首相に対する野次である。今年の沖縄全戦没者追悼式では高市首相のスピーチの際に野次があったことを複数の出席者が明かしている。
こうした野次は今年特別にあったものではない。私も、2年前の広島の平和式典で玉木が野次を否定していたことを批判している。
野次があった、という語りがされるとき、決まってセットとなるのは「静謐な祈りを妨げるな」という要求である。これは一見すると正論のように見える。厳粛な式典において、声を上げること、ましてやスピーチをしている人に対して野次を飛ばすことは無礼な行為だとされているためだ。
だが、本当にそうだろうか。私はここで、むしろ、「静謐な祈り」は妨げられなければならないと主張する。
その理由は無数にある。この記事では、その無数の理由のうち、私が扱えるものを列挙し、「静謐な祈り」を貴ぶふりをする政治家たちの欺瞞を暴くことを試みる。
「静謐な祈り」を妨げるべきこれだけの理由
「平和を祈っている」という嘘を暴く必要があるから
静謐な祈りを妨げるべき最大の理由は、現在の政権やその政権を支持する人々による、自らは平和を祈り戦争を回避するために尽力しているという欺瞞を否定する必要があるからだ。
客観的な事実として、現在の高市政権は戦争の回避を試みていない。それはいわゆる台湾有事発言ひとつとっても自明である。台湾有事が日本の集団的自衛権行使の理由となるとしたこの発言は中国の警戒心を大きく引き上げた。当然だ。中国にとって、台湾はあくまで中国の一地域であり、中国本土と台湾の間にある問題はあくまで国内の扮装である。それに対し日本が軍事力を行使するということは、中国の内政に干渉することである。帝国時代の行為を思えば、中国侵略の再来と思われても仕方がない。
台湾が中国の一地域であるという立場は日本も是認している。現在の日本は台湾との国交を認めていない。はっきりとそうは言わないが中国の主張も否定しないという外交上の事情が入り混じったかたちとはいえ、台湾は国ではないというのが事実上の日本の立場であり、それが長年続いてきた。
高市の台湾有事発言のきっかけとなった質問は、単にこれまでの政府見解を高市政権も維持するか確認したに過ぎない。高市はこれまで通りだと発言すれば終わった話だ。だが、高市はそうしなかった。言い間違いだと逃げて撤回してもまだ何とかなるはずだったが、現在に至るまでそうしなかった。もう言い間違いでは済まないだろう。高市は自身の失言で国家間の武力的緊張が高まっても放置している。こういう首相が平和を祈ると口にするなら、嘘だと疑うのが民主主義国家の市民に求められるリテラシーだ。
高市政権ひいては第二次安倍政権以降の自民党が平和を希求していない証拠は無数にあるが、ここであげるのは避ける。そんなことをしていては来年の追悼式が来てしまう。重要なのは、高市を始めとする政治家たちが明らかに平和に関心を持っていないのに、恥知らずにも追悼式では平和を求めるふりをしたということだ。
この状況下で野次が起こらなければどうなるだろうか。高市が何の妨げもなく厚顔無恥なスピーチを読み切ったとすれば、彼女が平和を祈っているという虚偽が既成事実となってしまう。しかし、そこに彼女を批判する野次が飛べば、少なくとも「平和を祈った」というまっさらな物語を高市は手に入れられなくなる。
高市のような政治家がこうした追悼式に出席するのは、単に立場上の義務であるという以上に、自分は平和のために諸々の政策を行っているという、戦争政治家の常套句を事実であるかのように脚色するためだ。もし野次のひとつも起こらなければ、報道は単に高市が平和のスピーチをしたということだけを伝え、彼女が平和を求めているというフィクションがそのまま流布しただろう。首相に対して野次を放った市民はそれを防いだ。NHKは野次部分を編集したが、わざわざ編集しなければならなかったという汚点を残した。
故に、戦争政治家にとって「静謐な」祈りは妨げられなければならない。
単なるトーンポリシングに過ぎないから
祈りそのものというよりはヤジに対する非難に対応するものだが、我々は野次を否定し「静謐な祈り」を貴ぶ政治家の戯言を鼻で笑わなければならない。なぜなら、それは単なるトーンポリシングに過ぎないからだ。
トーンポリシングとは、主張の内容ではなく言い方や態度に着目して相手を否定する詭弁である。丁度、追悼式で発せられた言葉について中身を論じることなく野次であることだけをもって否定しようとする、玉木や小泉のような手合いの主張がこれにあたる。
こうした手合いは前提として、追悼式では静かにすべきだという主張を自明視しようとする。だが、そんな前提はそもそもない。むしろ、政治家が目の前で話しているなら肉声の野次ひとつ程度は自由に許されてしかるべきだ、というのが日本における判例ですらある。もちろんどのような場でどのような相手に対しどのような発言方法がいいのかは場合により、議論も必要だろう。だが、式典中は黙らなければならないという主張は少なくとも自明ではない。小泉のような戦争政治家が思っているよりは。
玉木や小泉の手合いがバカバカしいのは、彼らが式典以外の場所で沖縄県民の声に耳を傾けたことなど一度もないことからもうかがえる。辺野古新基地の工事が県知事によって違法だとすら指摘され、工事自体も碌に進捗していないにもかかわらず強行され続けていることからも明らかだ。政治家が、式典中に声を挙げるのは避けるべきだと主張するなら、他の場所で声を聞かなければならない。政治家が市民の声に耳を傾けるべきだという前提は、式典中は静かにしなければならないという前提よりずっと自明だからだ。だが、彼らはそれをしない。
言い換えれば、彼らのような戦争政治家は、ことごとく市民が声を上げる場面を無視しながら、ごく僅かに残った自分が無視できない場面で声をあげられたら無礼だと門前払いをしているということになる。この主張が理不尽であることは子供でも分かる理屈だ。
国会議員の役割は市民の代弁者である。その任を全うするには、市民の声を聞かなければならない。それをしないということは単なる職務怠慢であろう。議員としての仕事ができないならすぐさま辞めるべきだ。誰も、彼らに政治家であることを強制していないのだから。
追悼のかたちを強制など出来ないから
先に、式典中に静かにしていなければならないという主張が自明ではないと書いた。これに関連して、「静謐な祈り」を守れという主張は、そもそも戦没者の追悼をするスタイルを他者に押し付けていると指摘しなければならない。
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