産後2ヶ月で気づいた、夫が戦っていた相手。
ある夜の、夫のひとこと
ある夜のことだ。
寝る前のベッドに赤ちゃんを寝かせて、私と夫は、ただその顔を眺めていた。手をうーんと伸ばす。あくびをする。そのたびに2人で「かわいい」「今の見た?」と言い合って、飽きもせずに動画を撮っている。
そんな幸せな時間の途中で、夫がふと、こう言った。
「やっぱり、赤ちゃんとママのつながりって、特別だと思うよ」
嫌味でも、卑屈でもなく、ただ事実を口にするように。彼はときどき、こうも言う。「自分は母乳をあげられないからな」と。
正直に言うと、私はこの口ぐせがあまり好きじゃない。だって、彼はこれ以上ないくらい育児をしているからだ。3ヶ月の育休を取り、ワンオペもこなし、もしかすると私より赤ちゃんと長くいる日さえある。それなのに、自分を一歩引いた位置に置こうとする。
最初は、私と自分を比べて落ち込んでいるのだと思っていた。でも、ちゃんと話してみて、わかった。
彼が比べていたのは、目の前の私じゃなかった。自分の中にある「母親というもの」「父親というもの」の像と、自分を照らし合わせていたのだ。
しかもこの感覚は、退院する前から始まっていた。産後1日目の入院中、彼はもう「さやちゃんと赤ちゃんの関係に、自分が割り込んでいる感じがする」と言っていた。生まれてまだ1日。関わりの差なんて、つきようがない時期に、だ。
つまり夫の「自分はつながれていない」という感覚は、実際の関わりから来ているんじゃない。もっと前の、別のところで作られている。彼が戦っている相手は、どこにもいなかったのだ。
なぜ、これだけ関わっている父親が、誰よりもつながっているのに、「自分はつながれていない」と思ってしまうのか。その理由を、3つに分けてみたい。
「父親もしんどい」は、気のせいじゃない
実感の前に、少しだけ事実を。
昔は、産後のメンタル不調といえば母親のものだった。でも今は、そうじゃないとわかっている。
父親の産後うつは、9〜11人に1人ほど。ある調査では、産後1年で不調のリスクありとされた父親は11.0%で、母親の10.8%とほとんど変わらなかった。
ちがうのは、タイミングくらいだ。母親のピークが産後3ヶ月以内なのに対して、父親は3〜6ヶ月後に、少し遅れてやってくる。
そして父親が転びやすいのは、「こうあるべき父親像」と、自分とのズレ。能力でも愛情でもなく、頭の中の"像"でつまずく。今日の話は、まさにそこだ。
※父親の産後うつの数値は、国立成育医療研究センターの調査および周産期メンタルヘルスに関する報告による。
つながりは、目に見えない
親子のつながりは、目に見えない。「どれだけこの子とつながっているか」を示すメーターなんて、どこにもない。
ところが、母親と父親のあいだには、誰の目にもはっきり見える違いが一つだけある。妊娠、出産、授乳。母親にしかできない、動かせない違いだ。
見えないものを測りたいのに測れないとき、人は、唯一見えている違いを、ものさしにしてしまう。だから「母乳をあげられない自分は、つながりも一歩下だ」となる。授乳という一点が、いつのまにか"つながりの点数表"にすり替わる。
しかもこのものさしは、父親に不利だ。母親には授乳という分かりやすい"証拠"があるのに、父親には同じだけ見える証拠がない。毎日抱っこしても、夜中に起きても、それは指標として残らない。始める前から、負けている。
でも——授乳ですら、母親だけのものじゃなかった。
母乳のあいだ、夫はいつも隣にいた。母乳は、彼には出せない。代わることもできない。「自分にできることはない」と席を立っても、きっと誰も責めない。それでも彼は、離れなかった。渇いたのどに飲み物を渡してくれて、授乳の時間を測ってくれて、母乳が出やすいように圧迫してくれて、いそいそと手伝って、そこにいた。
胸がこんなにも張って痛むこと。たった10分の授乳が、どれだけ長く感じるか。隣で見ていれば、それが伝わる。「わかってもらえている」というだけで、私はずいぶん救われた。母乳は出せなくても、彼はちゃんと、その場にいたのだ。
大事なのは「授乳できるか」じゃない。「どれだけ関わったか」だ。その量なら、彼は対等で、場面によっては私以上。うちはむしろ、私のほうが厳しくて、夫のほうが甘いくらいだ。役割なんて、家庭ごとにいくらでも入れ替わる。
夫が比べていたのは、"母親という型"だった
これがいちばん根が深い。
夫が張り合っていた相手は、目の前の私じゃなく、世間が思い描く"母親像"のほうだった。
世の中には、既製の型が用意されている。「母親=子どもと特別につながる」「父親=外との接続を担う」。人は無意識に、自分を父親の型に、相手を母親の型に当てはめて、型どうしを比べてしまう。実在する2人じゃなく、2枚のテンプレートを。だから「母子のつながりのほうが深い」という答えが、自動で出てくる。
この型は、言葉にもまぎれ込んでいる。たとえば「育児参加」。
誰かの育児を手伝うこと自体は、すばらしい。さっきの、授乳の隣がそうだ。でも、我が子の育児ぜんぶを"参加"と呼ぶと、どこかに「主催者は母親で、父親はゲスト」という前提が忍び込む。我が子の育児に、なぜ父親だけが"参加"なのか。夫がこの話をしたとき、私はつい「参加じゃないでしょ、主体でしょ」と返した。
しかも、この型に根拠はない。「3歳まで母親の手で」という3歳児神話について、1998年の厚生白書は「合理的な根拠は認められない」と書いている。母性神話も、1960年代に広まった通念にすぎないと言われる。「母親は特別」は、真理じゃなく、後から作られた型なのだ。
そして、この型に縛られているのは、父親だけじゃない。私もだ。
私は、親が一般論で語られるのが苦手だ。「子どもを嫌いな親なんていないでしょう」と言われると、引っかかる。私が知りたいのは「親一般」がどうかじゃなく、「あなたがこの子をどう思っているか」のはずだから。「母親だから愛している」も、意味がわからない。私はこの子とどう関わるかを、自分で決めたい。
夫は「父親とはこういうもの」という型のせいで、自分を一段下に感じる。私は「母親とはこういうもの」という型のせいで、勝手に役割を決めつけられる。向きは逆でも、私たちを縛っているのは、同じ一枚の型だ。
彼が戦う相手は、やっぱりどこにもいない。
社会は、知らないうちに父親を遠ざける
3つ目は、誰のせいでもない。
社会が、いろんな人と関わるそのたびに、知らないうちに、父親を子育てから遠ざけていく。悪気じゃない。ただ、仕組みやルールが、母親より父親のほうに距離が空くように、できてしまっている。暗黙に、無意識に。
わかりやすかったのが、入院中だ。
検診でも授乳でも、父親はよく「お父さんはこちらでお待ちください」と言われる。母子が第一で、父はどこか付属品。夫は、普通の服で「どうも」と入っていく自分を、まるで部外者みたいだと感じていた。
でも、これはただの"空気"じゃない。
母子同室で赤ちゃんと過ごし、授乳の部屋や赤ちゃんステーションに入り、助産師さんを質問攻めにできるのは、基本的に母親だけ。男性が入れない場所が、いくつもある。だから、経験と情報が、母親の側にばかり溜まっていく。
入院のたった数日で、夫との差が開くのを実感した。能力じゃない。経験の量と、情報の量の差だ。逐一伝えても、自分で体感したわけじゃないから、伝わりきらない。
誰かが「父親を遠ざけよう」と決めたわけじゃない。それなのに、暗黙のルールに従っているだけで、本当に距離ができていく。そしてその距離が、「やっぱり自分はつながれていない」に、後から"証拠"を渡してしまう。
おかしいのは、社会の言うことだ。一方で「父親も育児に参加を」と言いながら、現場のあちこちで、そっと父親を脇に寄せる。このちぐはぐさが、父親を宙ぶらりんにする。
じゃあ、私たちはどうしているか
3つの理由には、共通の根っこがある。見えないつながりを、見えるものさし(授乳・型・社会がつくる距離)で測ってしまうこと。だから、そこに手を入れていく。
ひとつは、見えないつながりを、言葉にすること。
感じたことを、思うだけじゃなく、口に出す。「パパの顔を見て嬉しそうだね」「さっき、すごく笑ってたよ」。お世辞じゃない。もともと感じていたのに、言ってこなかっただけだ。——とはいえ最初は照れくさくて、「……パパのこと、好きみたいだよ、赤ちゃん」と、妙な棒読みになった。それでも、言わないよりずっといい。
もうひとつは、経験を、意図して渡すこと。
入院中、面会の時間に、私はあえて赤ちゃんにほとんど触れず、できるだけ夫に世話をしてもらった。放っておけば、経験は私に偏る。社会が距離を作ってくるなら、こっちは意識して渡し返す。それだけのことだ。
夫が一つひとつの場面で小さく傷つくのは、それだけ強く関わっている証拠でもある。だから執着をやめる必要はない。「あ、いま実在しない型と勝負して、勝手に負けているな」と気づくだけで、その戦いから一歩、降りられる。
この子は、たぶん気づいている
どれも、夫の心が弱いからでも、私が何かを奪ったからでもない。つながりを"見えない型"で測り、その型に合わせて、社会のルールまでできてしまっている。それだけだ。そしてその型は、母親である私のことも縛っている。
だから、敵は相手じゃなく、型のほう。「どっちが上か」を争うんじゃなく、「2人でこの型から降りようね」に切り替える。見えないつながりは言葉にして、経験は意図して渡し合う。
最近、赤ちゃんが自分の手を見つけた。じっと見つめ、口に運び、世界に手を伸ばしはじめた。その隣で私たちも、お互いを一段下に置かない関わり方を、少しずつ覚えている。
"自分はつながれていない"と感じる父親ほど、本当は、誰よりつながっている。
それはきっと、私がわざわざ言うまでもなく——パパの顔を見て笑う、あの子が、いちばんよく知っている。



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