Bless you
一
「日車ってさ、アクセとかつけるタイプ?」
都内某社。俺と虎杖は、雨から逃れるために近場の喫茶店に逃げ込んだ。
向かい合って座る虎杖から、世間話を振られる。
「……なんだ、藪から棒に」
「いや、さっき一瞬、ネクタイ?が光った気がして」
感の良い彼ならいつかは、気づくだろうと思った。濡れたスラックスの下に、確かに俺は、金色に光る装飾品を身につけている。
「……バレたか?」
ふっと自嘲じみて笑う。
「えっほんとに、つけてたの?」
「まあな」
そっけないふりをして、頼んだ珈琲を、啜る。行ったこともないような南米の豆の香りが苦く薫った。できれば、このままいっそ果てのない場所まで行ってしまおうか。できないとわかりながら、どうして尚更、陋劣な思考しかできないものかと呆れる。
「え〜……マジか意外かも」
あ。と思いついたように虎杖が、眉を顰める。
「……まさかまたグレてる?……とか?」
「いや、……そうかもな」
「どっちよ⁈」
曖昧に濁して返す。彼の機微がころころと変わって、その忙しなさに飽きが来ない。
「俺、普通に心配なんだけど」
腕を交差して、突っ伏す虎杖の目だけが鋭い。堪らず、視線が彷徨う。まるで、迷子のように。
「……君は、優しいな」
本音がどこまでも虚になる。乾いた言葉に真実しかないのに、口に出せば、己の卑近さが泥水のように胸の裡に染み出して、出てきて嫌になる。
「そう……じゃなくてぇ」
ずるずると、交差した腕をカウンター下に隠して、虎杖がテーブルに頭だけ残して、俯く。
「……好きなひと、できたん」
彼にしては、どこか不貞腐れたような声だった。子供らしくて、なぜその態度を取るのかが不明瞭だが、愛嬌すらある。
ふ、と笑んで答える。
「ああ」
二
腹の中が、ぐちゃぐちゃになりそうだった。
今まで、死ぬかも、いや実際、死んだ事もあるけど、それ以上に、何もかもがどうでもよくなるような捨て鉢な気分になった。
俺は、日車のことが好きだ。なのに、今、どこの馬の骨とも知らないやつから貰ったアクセをつけてる事に、反吐が出そうになる。
(いつの間に、ずるい。俺だって、日車の事が好きなのに? なんで? ねえってば……)
どこのどいつだよ。と歯噛みして、嫉妬で内側を、優しく炙られている。顔を上げて、日車を見つめる。僅かに日車が、目を逸らす。
「……相手は? 」
聞きたくないのに、どうして言葉が先に出てくるのだろう。どうしてわかり切ったことを聞いているのだろう。独占欲が、内側から膨張して、爆発しそうになる。増々、自己嫌悪が止まらなくなった。
「……」
「なんで黙るん」
「……すまない、言葉を選んでいた」
「は?言い淀むようなやつなの」
思わず、語調がキツくなる。詰るような言葉を日車に向ける事が、喉に針の筵が突き刺さるようだった。
「誤解だ。まず間違いなく、それはない」
「……あっそ、よかったじゃん」
こんな事を言いたいわけじゃないのに。ぶっきらぼうな態度しか取れない。
(……ガキくせえ)
大人になりきれない自分の青くささが嫌になる。日車が、完全に誤解だと言い切るなら、きっとそうなんだろうな。
(……そうなんだろうか? 本当に? )
循環しない汚水の中で息をするようで、肺が潰れそうだ。日車と同じくして、頼んだ珈琲が、虎杖の掌の中で冷めていくのを感じた。濁った珈琲の湖面に、曇った自分の顔が、心底情けなく映し出されていた。
三
「……何か誤解をしていないか」
「なにが」
虎杖が、先ほどから、露骨に不貞腐れている。
「どんなやつか、と聞いたな」
「……」
虎杖の顔に皺がよる。その皺に、目に、懊悩をみた。
襟元を、寛げて、するりと金色の清い輝きが、自身のはだけたシャツの襟元から、引き摺り出される。
「これに、よく似ている。」
俺が、チェーンから取り出したのは、ロザリオだった。か細い精緻な光から、磔刑に処されたキリストの姿が、神聖でありながら、残酷な美しさを秘めて輝いていた。
「——聖人みたいなやつってこと?」
「俺にとっては、等しいな。」
目の前の彼をみて、思う。
「ただ、眩いんだ。」
雨のせいか、喫茶店も混んできた。がやがやと人混みが、喧騒を交えていく。
「……そろそろ出よう。」
立ち上がった手首を、思い切り掴まれる。
「……虎杖?」
見た事もないような静謐な瞳だった。怒りさえ凪いでいる激情を宿して。
「日車、ついてきて」
握られた手首の熱さが、灼けるようだった。
四
外は、相変わらず雨が降り続けていた。
その中を、傘も刺さずに、虎杖に手を引かれて、ずぶ濡れになりながら、走る。
「っ——おい、っは、いたど、り」
彼は、俺をどこに連れていくのだろう。
水たまりが跳ねて、ネオン街に着く。あたり一面の、水鏡に、妖しいライティングが醸し出される。虎杖が、どんな表情をしているかわからない。それが酷く恐ろしかった。先ほどまで、果てのない国へ逃げる事を願ったが、今はこうして、虎杖との行き場のない逃避行をしている。その一角の暗闇に、連れ出されて、壁に追い詰められる。
「ぐ」
思わず、呻き声がでる。
瞬かせた目に、思いがけない光景が、過ぎる。
虎杖の顔が、拠り所をなくした子供のように、歪んでいた。頬に伝う滴が、雨か彼の雨滴か判別できないくらいに。
「虎杖」
彼の名前を呼ぶ唇が、塞がれていく。
あどけない男の口付けは、震えながら熱を持っていた。
「……俺にしなよ」
驚愕に、身を固めて動けなくなる。雨が乱した虎杖の髪が、ほつれて艶を増す。
「聖人とか、俺と真反対なのは……わかってる。」
息も絶え絶えになりながら、虎杖は、悲痛な告白をする。
「でも、やっぱり諦めらんない。」
首元に、埋められる虎杖の顔や吐息が、熱い。動揺で服の下のロザリオが、不安定に揺れる。
「……俺、日車のことが好きなんだ」
五
ある時、ふと、そのロザリオが目についた。それは、自分の罪の輪郭をなぞる心地だった。虎杖悠仁。彼と出会ってから、日増しに、己の醜悪さを掻き立てるその高潔な魂を宿した瞳に、惹かれる己がいた。分かりきっているのに、恋とは、始末があまりに悪いもので、後悔が、必ず罪の香りをさせる時は、いつも彼に、慕情のざわめきを、感じた。
気づくと、その店を出ていて、ロザリオを買っていた。装飾品とは、無縁の人生だったが、なぜか彼と重なる神聖さを、十字架にかけられた救世主にみた。
特段、信仰深いわけでもなし、また神が、自分を、お救い下さるなんて、都合のいい救済が、俺に下されるとは、微塵も思っていなかった。
なのに、どうしてだろうか。いや、既に答えは明白だった。俺は、彼に、そう。虎杖にやつれる程の恋をしていた。愛と認める事が、何より恐ろしい程に烈日めいた恋慕が、一層、自分の醜さを、白日の下に晒される心地だったのだ。
俺は、罪深い。この十字架は、彼への想いを、墓まで持っていきたいから、身につけるようになった。彼の、仕草や、飽きない表情、明るい髪、時折、憂うような声色、根底に滲む誠実さ、弱さごと彼を作る輪郭すら、美しくてならなかった。ただ、それらを見つめるだけで、俺は、幸福になってしまう。
(……いけないのに。)
俺にとっての、救済の光を、穢すなんてあってはならないのだ。
六
(あーあ)
ぼんやりと、日車の首筋に顔を埋めて、伽藍堂になった心地だった。雨音が、作り物めいて遠く、聞こえる。揮発する日車の肌の匂いが、芳しくて苦しい。シルバーウッドのような清楚すら感じる端正な香り。いつもと逆だ。
(日車、今どんな顔してる? )
今日は、俺の方が日車の顔を見れない。怖かった。無理矢理にキスするような男なんて嫌われて当然だ。けれど日車が誰かの恋人になるのは、あまりに辛くて、どうにかなりそうだった。俺を見ていて欲しかった。それでも、
(日車が、他の男のものになるのが、俺には我慢が効かないんよ。)
ふと、何もかもに虚しさが立ち込めて、日車の方を見遣った。
そこには、赤面したまま当惑した日車がいた。怯えるでもなく、侮蔑でもなく。ただ、恥じらいもって、虎杖を信じられないものを見る目で、こちらを見ていた。日車の目に、道ならぬ恋をみた。
「……ひょっとしてさ」
「虎杖」
間髪入れず、歯を食いしばるように、日車は、遮ろうとした。聞いて終えば、全て変わってしまうと日車は、恐れていた。
「日車も俺とおんなじ?」
胸元に翳された十字架ごと、彼を引き寄せる。今を逃せば二度とないだろう。
チェーンを、指に引っ掛けて、弄びながら、焦ったく問うた。
「俺のこと好きだったりする?」
日車は、俯いた。雨音にかき消えそうな声で呟く。
「……そうだ。」
罪状を認めるように、重苦しい告白だった。青ざめるような震えた声に似合わず、日車の耳は赤く染まっていた。
「……この十字架は、どうしたん。」
一番、最初に優しくこう尋ねればよかったのに。余裕がないばっかりに、激しい嫉妬から、ここまで拗らせてしまった。
「……君の気持ちに応えてしまう事が怖くて、俺が、買った。……すまない。」
耐えられないとばかりに、日車は、唇を、引き結んだ。
「そっか。」
今しかないと思った。日車を、抱きしめて、上背のある身体が、強張る。
「とっくに、好き同士じゃん、俺ら」
伝う雨が、迷いを流していく。覚悟は、お互いのしがらみを背負うと決めた。見苦しい嫉妬も、幼さ故の無理解も、全部、いらない。とっくに欲しいものなんて決まっている。顔を上げて、告げる。
「日車、俺の恋人になってください。」
どこまでも、晴れ渡るような澄み切った笑顔で虎杖は、日車に告白した。
七
「返事、聞かせて」
こつんと、日車の額に顔を寄せる。
「……どうして」
日車の言葉を、取りこぼさないように、耳を傾ける。
「どうして、君は、そう俺を見捨ててくれないんだ……」
「好きだから。他にも理由が、欲しいなら俺は、全部、日車にあげるよ。」
日車の頬に手を伸ばす。
「日車、乱暴にしてごめん。だから、やり直させて。……お願い。」
虎杖の触れる日車の頬が熱い。その事が、何よりの答えだった。
「……君が、そう望むなら。」
俺も、と日車は、罪に喘ぎながら呻いた。
「俺も、君が、好きだ。……触れられるのも君でなければ嫌だ。なのに、穢したくなくて……俺の曖昧さが招いた事態だ。」
「俺だって、嫉妬した。日車が、他の男のものになるのは嫌だって、みてて欲しかったんだ。俺のこと。俺の目を見れない日車が、好きだからさ」
ふは、と俺は吹き出した。いもしない恋人を、想像して、空回って、妬いて。二人して雨のなかおかしな程、ずぶ濡れになっている。
「お互いさまだね。」
「……お互いな。」
日車の顔には、既に苦悶のしわはなかった。
ただ、どこか安心して微睡むようなうっとりとした顔だった。
「日車、キスしていい?」
「……ああ。」
お互いの輪郭を、確かめるようにキスをする。例え、罪の轍が、二人を苛んでも誰にも止められない恋情が、やがて愛に変わる瞬間だった。
八
雨足が去り、濡れ鼠になった二人は、どことなく歩いた。
「……っと、とりあえずコンビニ寄る?こんだけ、濡れたままだと気持ち悪くね?」
「そうだな。ひとまず、それで——」
日車が、言葉を切り上げて考え込む。
「? 日車? 」
「いや、君がよければだが」
俺の部屋にこないか。少しだけ、上擦った声で、日車の声が優しく夜を撫でる。
「へっ……えっ⁈いいの……?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「……いいも何も、恋人なのだろう?なんら不自然ではないはすだ。」
「いや、そうだけど、そうじゃなくて……あああもう!」
頭をがしがしと搔く。
「俺、結構やましいよ?」
覚悟していて、と日車にふっかける。我ながらとんでもなく無防備な相手を恋人にしてしまった。
「期待している。」
ふ、と心からの慈しみが、溢れた日車の顔が忘れられそうになかった。
九
結局のところ、彼には敵わなかった。重苦しい恋慕を掬い上げて、共にある事を望んでくれた。満ち足りた眩いひと。改めて、虎杖にはそう思い知らされる。首元に飾られたロザリオは、太陽に照らされて、新しい諦念の墓標となる。これからの彼との人生を、許されずとも生きていく。十字架は、罪に輝かず日車は、人知れず手離したのだった。