長嶋さんの熱意に魅せられた ミスターの瞳はエメラルドグリーン、吸い込まれましたね

話の肖像画 元プロ野球巨人軍選手・篠塚和典<2>

巨人の入団発表で長嶋茂雄監督(右)と=昭和50年12月

《諦めていたプロ入り…》

(千葉)銚子商2年生のとき昭和49年夏の甲子園大会で4番打者で活躍(2本塁打、4割2分1厘、チームは優勝)してプロのスカウトから注目されました。しかしその直後、胸膜炎(10月中旬から約3カ月入院)にかかったのです。

練習を再開したのは進路が決まる3年生になった翌50年4月です。ほぼ半年のブランクがあって春、夏はあまり活躍していない。マスコミの評価も優勝した1年前に比べると、「あの病弱な体では」「線が細い…」などと低くなっていた(※高校時代の球歴は後に詳細)。

僕自身、高校生レベルは十分にやっていけたのですが、プロでやるという自信はなかった。そんな事情もあって2、3年鍛えてからと思って社会人野球の日本石油(現ENEOS)に進むことを決めていました。

一応ドラフト候補には挙がっていました。でも直接会ったのは太平洋クラブライオンズ(現西武)の毒島章一スカウトだけ。それでドラフトの1週間ほど前のことです。(銚子商の)斎藤一之監督に呼ばれたんです。

「お前、どうする? プロから誘われたら行くのか」。答えました。「阪神、中日、巨人なら。でも3位以下なら嫌です」って。阪神を1番にしたのは藤田平さん(※56年に首位打者に輝くなど通算2064安打)の広角打法が好きで、憧れてまねもしました。2番目の中日は1年先輩の土屋(正勝)さんが前年の49年に甲子園優勝投手になり1位指名されていました。巨人は小さいころからテレビで見ていたし、長嶋茂雄さん、王貞治さんのファンでしたからね。あのころはみんな巨人ファンじゃないですか。

《内心、巨人は嫌だった?》

でも正直言って巨人はちょっと…という感じはあった。テレビで「巨人の星」(梶原一騎原作、川崎のぼる画による漫画が原作のアニメ作品)を見て育ちましたからね。スポ根(スポーツ根性もの)でしょ。移動するバスの中で、体を鍛えるためと選手全員が足のつま先立ちをしていたとか。練習がきついと思っていたんです(笑)。

すると斎藤監督が「巨人はどうだ? 長嶋監督から話がきてるぞ」って。驚きました。「直接電話があった」と聞いてもまだ不安でね。プロには憧れはありましたが、正直、まだ行く気持ちはなかったんです(※斎藤監督の元には巨人を含め6球団の打診があったという)。

そこで50年11月18日、ドラフト当日を迎えました。午前中は普通に授業を受けていた。昼前ですよ、突然、ピンポンパンポンとチャイムが鳴って校内放送が流れたんです。

「いまわが校の篠塚利夫(当時)選手が巨人にドラフト1位に指名されました」って。もうびっくりしましたよ。もちろんうれしかったです。でもまだまだ不安だった。そうしたらその3日後、突然長嶋さんがやってきたんです。

《社会人野球内定に交渉難航を案じた長嶋さんの〝電撃交渉〟。瞬殺で魅せられた?!》

銚子市内の海鮮料理「一山いけす」で初めて会いました。長嶋さんから「心配しなくて大丈夫。時間はある。3年間、みっちりファームで鍛えてからでも遅くない。必ずレギュラーになれる。俺が保証する」っていう言葉をいただいて一気にテンションが上がったんです。指名されてから1位というプレッシャーがあったが、長嶋さんが言うならやってやろう。その一言でプロへの不安が一気に吹き飛びました。ええ、ミスターの瞳はエメラルドグリーンなんです。吸い込まれましたね。

内定していた日本石油への練習にも参加してました。グラウンドは巨人の多摩川グラウンド(東京都大田区にある多摩川緑地広場硬式野球場)対岸の川崎市にあり、見えるんです。ユニホームももらっていた。背番号は「3」でした。何か不思議な縁があったんですかね(笑)。(聞き手 清水満)

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