中国:就職氷河期のリアル
中国では若者の就職難が深刻化していますが、この社会の変化は統計では見えてきません。
今回紹介するエッセイは、一人の青年が自分より若い世代と出会うことで「努力すれば報われる」社会が崩壊したことに気づく物語です。
今年の卒業生には疲弊するチャンスすら与えられない
卒業の季節がやってきた。
SNSは卒業式の学位服で溢れ始めている。添えられる言葉は、どれも「前途洋々」の四文字だ。私はその一枚一枚に「いいね」を押しながら、ふと自分が卒業したころを思い出していた。
2018年、私は江蘇省・無錫で大学を卒業したが、地元には帰らなかった。
当時の考えはいたってシンプル。
「とにかく生き残る」
それだけだった。
EC系の会社でカスタマーサポートの仕事を見つけた。月給は2000元、試用期間はそこから2割減。初任給を手にした日の夜、私はアパートで計算を始めた。
家賃:1200元
光熱費:150元
交通費:100元
雑費を除いた500元が食費。30で割ると、1日あたり16.6元。
1日16.6元でどう生きるか。朝食抜き、昼は肉まん2つ、夜は家で乾麺。9.9元で買った大袋入りの麺で2週間過ごすことができた。たまに麺へ卵を落とすことができたら、まるで正月のようだった。
朝7時に家を出て、夜10時に帰宅する生活。帰宅して最初にすることは倒れ込んで天井をじっと見つめること。その5分だけが、1日で唯一「自分はあとどれだけ耐えられるだろう」と考えずに済む時間だった。
ともあれ仕事はあった。貧しく疲れてはいたけれど、人生は確実に前に進んでいた。
そんな日々で出会ったのが、小周(シャオジョウ)だった。
彼は3つ上。隣の会社で営業をしていた。ある時、私は夜9時まで残業して、腹ペコで仕方が無かった。ビルの下へ降りて小さな定食屋に入り、今日はちゃんとした食事をしようと思った。
店に入ると彼が座っていた。ピーマンと豚肉炒め、ジャガイモの酸辣炒めをおかずにして、ご飯を食べているところだった。
彼は顔を上げて私をちらっと見ると、こう言った。「泰州の人でしょ?」私は呆気にとられて「どうして分かったんですか?」と聞き返した。彼は「訛りだよ。聞いて分かった」と笑った。
それがきっかけで、私たちは同じテーブルについた。私が「1人で2品は多いから半分分けてください、私は1品追加します」と言うと、彼は「いいよ」と言ってくれた。その日の夜、私たちは3品の料理と2杯の白飯で、2時間近く話し込んだ。
彼は無錫に来て6年になり、これまで4回の転職をしていた。営業職で基本給は3000元。歩合で稼ぐ業種だが、当時は2ヶ月連続で基本給だけだった。
彼は「お前の給料は?」と聞いた。「2000元です」。彼は少し言葉を詰まらせてから「俺の最初の仕事は1800元だった」と言った。
食事し終えると彼はビールをさらに2本注文した。私たちは地元のこと、学生時代のこと、そして、なぜ地元に帰らなかったのか語り合った。
それから、私たちはよく一緒に食事するようになった。食事と言っても、大抵はその定食屋で料理を2品、それぞれ白飯を1杯ずつ、たまにビールを1本つけるくらい。
当時の経済力では、とても立派な食事はできなかった。それでも週に1回は必ず顔を合わせ、油でギトギトなテーブルについては、とりとめもない話をした。
無錫の夜は早かった。地下鉄の終電は10時半。私たちはいつも終電まで話し込み、それぞれ違う改札口へ走っていった。
2023年の初頭、私は無錫を離れた
何か大きな出来事があったわけではない。給料は2年間据え置きだったのに、家賃は年に2回も値上がりした。5年働いて、自分の貯金では、この街のマンションのトイレの面積すら買えないことに気づいた。
ちょうどその頃、地元に近い靖江にいる友人が仕事を紹介してくれた。提示された給料は無錫よりも高く、手取りで1万元を超えた。実家暮らしなら家賃を払う必要もないし、満員電車に揺られる必要もない。私は地元へ戻ることにした。
出発する前、小周が食事を奢ってくれた。いつもの定食屋で、何品かの料理。そしてビールをいつもより2本多く頼んでくれた。彼は言った。
「帰るのもいいさ。給料も上がったんだし、ここで消耗するよりずっとマシだよ」
「小周は?地元には帰らないんですか?」
彼は少し笑って、こう言った。
「俺はもう帰れないよ。ここでマンション買っちゃったし、ローンも残ってる。俺がここを去ったら、誰が返すんだよ」
少し間を置いて、彼は続けた。
「それにさ、慣れちゃったんだ。無錫のテンポ、この『走らなきゃ後ろから突き落とされる』みたいな必死な空気に。疲れるけどさ、これが自分の人生だって受け入れてるよ」
私は長距離バスに揺られて江蘇省・靖江市へと向かった。車窓から無錫がだんだんと遠ざかり、光の海へと変わっていくのを見つめていた。6年。2000日以上の月日。最高の6年なんて言うつもりはない。あまりにも貧しく、疲れ果てていた。
かと言って、無駄だったとも思わない。
小周と知り合えた。この街で一番安くて小さな定食屋にも。他愛のない話に耳を傾けてくれる人がいた。お金がないとき、何も言わずにビールを1本頼んでくれる人がいた。そして、旅立とうとするときに「帰るのもいいさ」と言ってくれる人がいた。それらを知ることができた。
当時、私は30歳手前で、ようやく自分もひと山越えたと感じていた。
月給は2000元から1万元以上になり、ルームシェアから実家暮らし。生活費を計算しながら過ごす日々から、お金を貯められる生活へ。努力すれば報われるサクセスストーリーが訪れたと思った。
でも、後になって気づいた。その考えは半分しか合っていなかった。
靖江に戻ってから、小陳(シャオチェン)という新人と知り合った
転職した会社が新人を何人か採用した。その一人が小陳で、彼は2000年に地元で生まれた。当時、2023年に卒業したばかりだった。
彼は知り合いの紹介を通じてようやくうちの会社に入れたのだという。いくら履歴書を送っても本当にまともな仕事が見つからなかったからだ。
ある飲み会で彼の隣になり、話を聞いて初めて知ったのだが、彼は卒業までに2000通近くも履歴書を送ったのだそうだ。
無錫、蘇州、南京、常州。送れるところには全て送った。
「返事はあったの?」
彼は自嘲気味に言った。
「面接まで行ったのは6社だけです。3社は保険の営業、2社はライブコマースで基本給1800元、残りの1社は『また連絡します』と言われたきりです」
「公務員試験は考えなかったの?」
「考えました。でも、親には大学で相当なお金を遣わせちゃったので…。これ以上、親のすねをかじりながら試験勉強を続けるにはいかなくて」
彼は少し言葉を区切って、こう続けた。
「それに正直なところ、公務員試験は門が狭すぎます。何百人がたった一つの席を奪い合うのに、なぜ自分が勝ち取れるなんて思えるでしょうか」
「じゃあ、今の仕事についてはどう思ってる?」
「すごく満足してます。給料は多くないですけど、学べることがありますから」
彼は急に真面目な顔になって言った。
「先輩、ちゃんとした仕事があって、家に引きこもらずに済んでいるだけで、自分は運がいい方だと思ってます。大学の同級生なんて半分は仕事が見つかっていません」
「実家で公務員浪人をしてるやつ、大学院受験に向け勉強してるやつ、夜中まで求人アプリをスワイプし続けてるやつ…。みんな、外に出て働きたくないわけじゃないんです。出られないんです」
私が「出られないって、どういうこと?」と尋ねると、彼は少し考えてからこう答えた。
「つまり…、履歴書を送っても返事が来ない。面接に行けば職歴がないと言われる。何でもいいから働こうとすると、親から『そんなのまともな仕事じゃない』と言われる」
「公務員試験もダメ、大学院もダメ。大都市に出て一旗揚げようと思っても、家賃を計算すると最初の1ヶ月すら持ちこたえられないと気づく」
「こうして元に戻ってしまう。動きたくない訳じゃない、すべての道が塞がっているんです」
彼がその話を終えたとき、私は2018年の自分を思い出していた。
あの頃、私は2000元の給料で、1200元の部屋に住み、吐き気がするほど乾麺を食べていた。それでも、私は一度だって「道が塞がっている」なんて感じたことはなかった。カスタマーサポートから始めて、少しずつステップアップして、少しずつ給料を上げていけばいいと分かっていたからだ。
道は狭く、険しくはあったけれど、確かに存在していたし、先へ繋がっていた。
今はどうだろう。あの道は残されているのだろうか。
今年の旧正月、小周が靖江に立ち寄った。
奢ってくれるというので行ってみるとテーブルいっぱいに料理が並んだ。私が「大儲けでもしたの?」と聞くと、彼は「何で儲かるんだよ、ただ久しぶりだからさ」と笑った。
彼は今も無錫にいて、同じ会社で働き、住宅ローンを返し続けている。去年末、彼は一人の新人の面倒を見ることになったそうだ。1998年生まれの地元っ子で2年間、仕事をしていたが会社が倒産。
半年間、仕事を探し続けて、ようやく彼らの会社に拾われたのだという。小周いわく、その子は入社してからというもの、命を削るように必死に働いているらしい。毎日残業し、週末も会社に来ている。
小周が「そんなに詰め込むなよ」と声をかけると、彼はこう答えたのだそうだ。
「周さん、僕は必死にならざるを得ないんです。この前失業したとき、半年間探し回ってやっと見つけたのがこの仕事なんです。もう二度と失いたくないんです」
「俺たちのあの頃だって、同じように必死だったじゃないか」と私は言った。
小周は首を横に振った。
「違うんだよ。あの頃の必死さは上に行くため。給料を上げ、昇進するためだった。でも、今のあの子たちの必死さは、下に落ちないためなんだ。必死にしがみつかなければ、今いる場所すら失ってしまう」
彼はビールを一口すすると、私がその後もずっと考えている言葉を口にした。
「俺たちは、もしかしたら『まだ疲弊することができた最後の世代』かもしれない。泥のように疲れるのは確かにキツい。でも、それは自分がまだこの社会に居場所を持っている証拠だったんだ。今の若い子たちの多くは、もはや疲弊するチャンスすら与えられていない」
「疲れたって言えるのは、仕事がある奴のセリフさ。仕事がない人間に残されているのは、ただ底知れない焦燥感だけなんだよ」
当日の夜、家に帰ってベッドに横たわりながら、私は小陳が言っていた「すべての道が塞がっている」という言葉と、小周が言った「疲弊できる最後の世代」という言葉を思い返していた。そして月給2000元で喘いでいた頃の自分が、実は「間に合っていた」のだと、急に腑に落ちた気がした。
何に間に合っていたのか?2000元の給料ではない。あの時代、この社会はまだ、卒業したばかりの若者に対して、1枚の入場券を差し出す度量を持っていた、ということだ。
一番端っこの席かもしれない。それでも中には入れた。そこに座れば、周りの人たちが見えたし、自分もこのシステムの一員だと実感できた。行く場所があり、やることがあり、言葉を交わす人がいて、給料があった。
今はどうだろうか。ますます多くの若者たちが、入り口の外で締め出されている。彼らが優秀じゃないからではない。門が狭くなり、席が減り、チケットの値段が高騰したのだ。彼らだって中に入りたくないわけではない。門の大部分が閉ざされてしまい、外に取り残されたまま、どうすればいいか分からずに立ち尽くしているのだ。
今年の初め、私は出張で無錫を通りかかった。
そして、またあの小さな定食屋に足を運んだ。
店の女将さんは健在で、私の顔を見るなり笑って言った。
「ずいぶん久しぶりじゃない?いつものやつでいい?炒め物2品で」
「うん、いつものやつで」
料理が運ばれてきたとき、私は店内を見渡してみた。客はそれほど多くなく、あちこちに2、3人ずつ。ほとんどが中年だった。かつてのようにスマホを見つめながら一心不乱に白飯をかき込んでいる若者の姿は、ほとんど見当たらなかった。
以前のこの店は、そんな若者で溢れかえっていたのだ。仕事が終わったばかりの奴、面接を終えたばかりの奴、上司に怒鳴られたばかりの奴、給料が出たばかりの奴。
顔には疲労がにじみ出ていたけれど、その目には何かが宿っていた。それは「ひどく疲れてるけど、俺はまだ走り続けてる」とでも言うような目だった。
あの頃のような光景を、私はもう、あまり見かけなくなってしまった。
時々、考えてしまう。もし自分が、今年卒業する世代だったとしたらどうなっていただろう、と。
普通の大学を卒業し、これという専門性もなく、実家にもコネはなく、貯金は1ヶ月すら持ちこたえられない。
そんな自分が、小陳のように2000通もの履歴書を送る気力を持てただろうか。自分には分からない。けれど、彼よりうまくやれたとも思えない。
私が唯一、彼らよりも恵まれていた点があるとすれば、ただ数年早く生まれてきたことだけだ。
だから、SNSで「卒業即失業」の投稿を見かけたり、「公務員浪人2、3年目」の物語を目にしたりしたとき、私の心に湧き上がるのは同情ではない。もっと別の、言葉には言い表せない感情だ。
なぜなら、もし自分が今の彼らの立場だったら、彼らより強くはいられなかったはずだからだ。
私はただ、彼らより早かっただけ。本当に、それだけなのだ。
転職したあとも、たまに小陳と食事をしている。
彼はまだ当時の会社にいて、同じポジションで働いている。少しだけ給料が上がったそうだが、本当に微々たるものだ。それでも彼は、ずいぶん満足そうにしている。
「仕事があって、毎日外に出て、人と話ができて自力で食べていける。それだけで十分ですよ」
公務員試験はもう受けないのかと、尋ねてみた。
彼は笑ってこう答えた。
「もう受けません。あの狭き門の隙間なんてありません。僕は今のこの道を歩いていきます。歩みは遅いですけど、少しずつ前に進んでいます」
その日食べたのは、白身魚の高菜煮込み(酸菜魚)だった。ボーナスが出たからと彼が奢ってくれた。彼がうつむきながら魚の切り身を口に運ぶ姿を見て、私はふと、この若者は公務員試験に合格した人たちよりも、よほど大人らしいのではないかと感じた。
大人になるとは、一体どういうことだろう。
どこかの立派な職場に受かることでもなければ、月にいくら稼ぐことでもない。他人の眼から見て、まともな姿になることでもない。
それは、もう自分は無理かもしれないと思ったときでも、誰かを見つけ、一つのテーブルを囲み、一皿の温かい料理を前にして、ちゃんと座って食べ終えることができること。
そして翌日には、また当たり前のように外へ出ていけること。本当に、そういうことだと思う。
私が乗ったのは最終列車だった。そしてプラットホームには、今も誰かが待ち続けている。
2018年から2023年へ。月給2000元から1万元以上へ。私はもともと、これを「人生がどんどん良くなっていく」ストーリーだと思い込んでいた。けれど後になって、その本当の意味を噛み締めることになった。
それは単に、私が運よく最終列車に間に合っただけだった。
あの最終列車に、私は間に合った。
けれど、彼らの分まで切符を買ってあげることは、私にはできない。
私にできることといえば、小陳の前に座って「すべての道が塞がっている」という話を最後まで聞いてあげること。小周の前に座って「まだ疲弊できる最後の世代」という言葉を最後まで受け止めること。
そして、あの小さな定食屋に座って、がらんとした店内を見つめながら、かつてスマホを見ながら一心不乱に白飯をかき込んでいた若者たちに思いを馳せることだけだ。
そして、それを文章に書き残すこと。
いま、これを読んでいるあなたに向けて。
もしあなたが今年卒業する代で、夜中の2時、3時まで求人アプリをスワイプし続けているなら。
お祈りメールに心を削られ、自分を疑い始めているなら。実家の親から「まともな職場を受けなさい」と急かされているなら。基本給1800元の会社に行くべきかどうか迷い立ち尽くしているなら。
私は、あなたに伝えたい。
「あなたのせいじゃない」
あなたが努力していないからでも、優秀じゃないからでも、仕事を選り好みしているからでもない。ただ単に、門が狭くなり、席が減り、切符が高くなってしまっただけなのだ。
あなたには、焦る権利がある。迷う権利がある。眠れない夜を過ごす権利がある。なぜなら、今の人生の難易度は、私たちが経験した頃とは比べものにならないほど跳ね上がっているのだから。
すでに列車に乗ることができた、あなたへ
もしあなたが私と同じように、数年早く卒業し、あの最終列車に運よく間に合った人なら。どうか軽々しく「今の若い奴らは苦労に耐えられない」なんて言わないでほしい。
あなたが経験してきた苦労なら、彼らだって喜んで引き受ける覚悟がある。彼らに足りないのは、苦労をさせてもらえる居場所だ。
だから今度、SNSで「卒業即失業」の投稿を見かけたときは、どうかそのまま読み飛ばさないでほしい。「いいね」を押すか、あるいは「きっと良くなるよ」の一言を残してあげてほしい。君たちの姿を見つめている人間がここにいると、伝えることはできるはずだ。
あの2品の炒め物は、今もそこにある。
ピーマンと豚肉炒めは数元値上がりしていたけれど、あの女将さんは今も元気だ。私は今でも無錫を通りかかるたびに、あの小さな定食屋に立ち寄って少しの時間を過ごす。料理を2品頼み、白飯をゆっくり平らげる。
何かを懐かしむためではない。
ただ、黙々と白飯をかき込む若者たちが、ほんの少しでも増えてはいないか。この目で確かめたいのだ。
私は、そんな日が再び訪れるのを、ずっと待ち続けている。
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こういうエッセイを読むと、時代と国が違うとはいえ、就職氷河期真っ只中だった自分も未だ恵まれていた方だな、と思います。地元から移動して工場二交代勤務したら貯金が出来るくらいは貰えましたからね。彼等はどうしたらいいのか…
昭和の頃は、仕事は選ばなければ、ありました。そして働けばなんとかなる、時代でした。それがバブル崩壊、失われた三十年の間に、すっかり通用しなくなった。仕事はない、働いても先の展望が開けない時代。他人事ではない、日中両国とも、もはや同時多発現象となっていますね。