卒業式が終わり、学位記をもらった。修士号が降ってくることになった。この3月をもって学生生活をとりあえず終えることになる。良い機会なので学生としての人生を振り返ってみることにする。
といっても、「自分が学生として何を世間に出力してきたか」という話はだいたい以下の記事で書ききってしまっている。
よって、「自分が学生としていかにして生きてきたか」という、もう少し内省的な振り返りをしてみる。別に自分はこれまで何か大したことを成し遂げてきたわけでもないのだが、だからこそこういう節目でもなければ、こんな世間様にとってはどうでもいいような人間のことなど、公共の目に触れる場で書くことは社会的に許されない。勝手な話だが、世間様の目に触れることを意識して自分のことを書く練習をしてみることによって、自分のこれまでの生き方を反省してみたいと思うのだ。
高校まで
小学生の頃からずっと関数電卓で遊ぶことしか考えていなかった(なんで急に関数電卓が出てくるんだと思った方は上の記事を読んでほしい)。中学受験をして中高一貫校に入り、鉄道研究部とコンピュータ部に入った。どこに出しても恥ずかしくない立派な男子校のオタクだった。
中2あたりの頃からちょっとした持病を患い、ホルモンバランスを大きく崩した。主な症状として、授業中に起床していることができなくなった。さらに私の通っていた中高は、以下の記事で紹介されているようなバリバリの管理型の教育方針だった。この教育は私にはまったく合っていなかったらしく、完全にキャパオーバーを起こした。そもそも以前から自学自習の習慣が身についていなかったこともある。当然の帰結として、成績は大いに低迷を始めた。最近のネットスラングで言うところの「深海魚」というやつだった。
それでもやっぱり関数電卓で遊ぶのは好きだった。「コンピュータ部に入っているから」という理由で文化祭の公式サイト制作の仕事を押し付けられ、やったこともないWeb開発をする羽目になったりもしていた。
ひょんなことから、様々な中高のコンピュータ部の人が集まるイベントに参加したのが人生の転機になった。そこで知り合った人たちとの交流のためにTwitterを始めた。イベントで聞いたLTやTwitterのTLでは、同年代の人々が競技プログラミングや様々な開発に興じていた。私もABCに参加してみたこともあったが、全く歯が立たなかった。何が面白いのかもわからなかった。時期的には、ABCがまだ2桁で、A~Dの4問構成だった頃の話である(今からすると考えられない話だ)。
当時のTwitter中高生パソコンオタクの界隈は大半がAtCoder緑色以上だった。2016~2018年くらいだろうか。彼らはだいたい中学受験の難関中高一貫校のコンピュータ部の人たちで、御三家や、それに次ぐような中受トップ校の生徒だった(当時の中高生パソコンオタク界隈は科オリ・数オリ界隈とかなり被っていたため、その影響もあったのかもしれない)。当たり前のように東大理Iとか京大理・工学部とかに入っていく人も珍しくはなかった。彼らのコミュニティが眩しかった。私の通っていた中高は、少なくとも当時は中の下、いいとこ中の中といったランクだった。中学受験を経て既に学歴コンプレックスを獲得していた当時の私にとっては、競プロは尊敬と妬ましさの象徴となった。とはいえ、競技を目的としないプログラムを書くこと自体は楽しかったし、情報技術の知識を頭に入れていくのは面白かった。
競プロerでもないのに競プロの話が長くなってしまったが、競プロは私にとってTwitterプログラマ界隈への入り口だった一方、強い人に対するルサンチマンの根源でもあったし、強い人と同じものを面白いと思えない自分への自虐的感情の根源でもあったので、書かないわけにはいかなかった。余談だが、今でも私は競プロに対する昏い感情を引きずっていて、未だに競プロは苦しみの対象である。大学入学後、アルゴリズム・データ構造の知識を効率よく身につけるためには競プロをやるべきだと痛感したときも、そのほか競プロ的なスキルが必要な状況に置かれたときも、心理的抵抗感が邪魔をして、結局競プロを始めることはできなかった。それでも、競プロerが書いたアルゴリズム・データ構造の解説記事を見かけると、中身は読まずにブラウザのブックマークに入れる癖は高校生の頃から今に至るまで抜けない。自分にないものを希求して補完したいという渇望、トラウマの裏返しかもしれない。私の親族には大学入試の英語で失敗して学歴コンプレックスを抱え込んだ者がいるのだが、彼が英語の参考書を買ってきては読まずに物置で100冊近く積み上げている様を見ると、自分も彼と同じ事をしているような気がして、自分と彼の両方に対していたたまれない気持ちになる。
閑話休題。この頃、私の持病はさらに悪化し、前にもましてホルモンバランスを大きく崩すようになった。本格的に、授業中に起床していられることができなくなった。朝も昼も話にならないほど眠くて、夜になると多少は動けた。だから昼間に失った部分を取り返すように、夜行性の生活をしていた。夜にしっかり9時間寝た所で、日中にまた9時間寝るような有り様だったから、結局同じことである。それなら動ける時には動いていたほうが得だ。当時の私にとって24時間のうち20時間を夜が占めていた。別にいじめられていたわけではなかったし、友達もまあまあいた。だが、1限から6限までずっと寝ていることすらあった私の姿は、だいたいの教員には呆れられていたし、だいたいの同級生にはうっすらバカにされていた。少なくとも、周囲の視線はそう感じられた。うっすらを超えて明確にバカにしてくる者もいたし、笑ってくるやつも結構多かったから、あながち私の被害妄想でもなかったと思う。こっちは寝たくて寝ているわけではないのだが、生理的欲求に身を委ねているという意味では「寝たくて寝ている」のかもしれなかったし、そういう自分が嫌いだった。周囲の視線を意識するのが嫌で、寝ているふりをして机に突っ伏している時間もあった。学業成績も相変わらず低迷するばかりだった。苦しかった。正直学校になど行きたくなかったが、息子を不登校にはさせるまいという両親の涙ぐましい努力により、私は毎朝あらゆる手段によって叩き起こされて、遅刻をしながらも無理やり登校していた。部活などには(寝てばかりなことを多少いじられても許せるくらいには)仲の良い友達もいたので、実質、部活に顔を出すために学校に行っているようなものだった。そんな中で、コンピュータのことを考えていると現実から一瞬でも目を逸らしていることができた。概日リズムはますます狂うばかりだ。他の人はちゃんと朝起きて夜寝れているのに、と思うと余計に嫌になった。感情をまぎらわせるために、さらにコンピュータに夢中になった。関数電卓で色々なことを計算するコードを書きまくった。「関数電卓で数値予報をする」という、我ながら正気の沙汰ではないコードを書いたのもこの頃のことだ。他の人がやらないような何か奇抜なことをして自分の存在価値を作りたいという感情もあったかもしれない。
誰にでも時間は平等に流れるもので、周囲の雰囲気に流されるようにして、私もだんだんと受験を意識せざるを得なくなった。なんとなく、大学は情報系かなと思うようになった。進路選択ではなんとなく理系クラスを選び、数IIIと物理と化学を履修するに至った。しかし私は国語だけは何もしなくても(それこそ、授業を全て寝ていても)得点には困らなかった一方、理系科目はどうしてもまるでだめだった。大手予備校のマーク模試を校内受験した際、文系の上位クラスも含めた中で国語では学年7位のスコアを取ったのに対して、曲がりなりにも理系クラスなのに数学と理科は最下位に近い点数だったこともある(成績が返ってきた時、数学教師の担任には珍獣を見るような目をされた)。こんな有り様なのに、なんで自分は理系にいるんだろうと思った。そんな現実の傍ら、TwitterのTLには同年代の競プロerが活躍している様子が毎日のように流れてきて、眩しかった。苦しくもあった。同級生が受験や勉強の話をしているのを横で聞いているだけで辛かった。「数学が全くできないのに、数学が好き」という矛盾に見舞われていた。
大学に行く動機も希薄だった。「高校を出たら大学に行くもの」程度の認識しかなく、大学に行きたいという熱意とか、大学でこういう勉強をしたいという将来像とか、目標・やる気の類を何も持っていなかった。受験勉強にも全く身が入らず、高3の秋・冬にかけてはWebアーカイブ活動に向けての手動クロールとかをやっていた。結果として全落ちしたが、自分にとっては別にどうでもよかった。何もしたくなかった。この頃の記憶はあんまりない。
浪人
受験勉強をしていると思っていたのに実は手動クロールなんてことをやっていた私に対して、家族は怒り狂った。当然である。正直私は大学に興味がなかったので、この時点で就職することも考えていたが、「こんなやつを雇う人間などいない。どうでも大学は出ないと話にならない」という家族の判断で浪人の許可が出た。今思うととんだ親不孝者としか言いようがないが、当時の私は「嫌だなあ」としか思っていなかった。家族の出した条件は「少なくとも今のお前の脳みそでは何年かけようと理系は無理なので、受験先を文系にすること。それも潰しの効く経済学部にすること」というものだった。とりあえず御茶ノ水の駿台に行くことになった。
当時の私は、理系科目の成績は最悪であったくせに、典型的な理系至上主義者だった。少なくとも興味と適性が一致していなかったことは確かなようだ。文系の科目(もっと言えば、人文学や社会科学)が学問としてどこが面白いのか全く理解できなかった。歴史の読み物くらいはまあまあ好きであったが、自分で勉強しようという気にはなれなかった。理系でないという時点でどこの大学のどの学部にも興味がなく、どこだろうと等しくどうでもよく思えた。精神状態の裏返しなのか、この頃東京が無性に猥雑な街に感じられるようになり、東京を離れたくなった。予備校の受付で渡されたパンフレットを見て、「東京の対義語であるから」くらいの理由で京大文系を目指すクラスに入った。まあ案の定というか、この1年後の京大入試は普通に不合格となったのだが、後述するように、このクラスを選んだことは人生の転機になった。
この頃になっても持病はまだ続いていた。24時間中20時間が夜という状態は脱していたが、それでも15時間くらいはまだ夜だった。予備校の授業中に寝て、周囲の顰蹙を買った(らしい)こともしょっちゅうだった。予備校の同じクラスの人と話すことなどなかったので、後になって風の噂で聞いたことでしかないが。そこらの大学生よりも怠惰な生活を送っていた。神保町の古書店街を冷やかすことを覚えたのもこの頃だった。全国模試を寝てすっぽかし、駿台の教務からかかってきた何回目かの電話で、やっと午後4時に起き出したこともあった。眠さとは関係なく、不意に平衡感覚を失うと同時に、顔面の右半分が引き攣って痙攣することも時々あった。無性に激辛の飲食物を欲するようになり、週5で北極ラーメンの辛さ2〜3倍を大盛りにして食べ、腹が焼けるように熱くなる感覚を楽しんでいた。今思うと、当時の自分はそれなりにストレスを溜め込んでいたらしい。夜中に不安と怒りがこみ上げてきて、床を転がりながらありとあらゆる生命の死を願ってみたこともあった。因果関係があるはずもないが、その翌日に京都アニメーションの放火事件が発生して憔悴した。この事件以降、私のメンタルヘルスは坂道を転がり落ちるように悪くなった。
浪人して得られたものもあった。理系至上主義だった私にとって、言うまでもなく文転はかなり不本意だった。文系の学部で自分が4年間も生きていける気がしなかったからだ。国語と英語くらいしか得意な科目がなかったというのに、皮肉な話だったと思う。人文嫌いを作った原因の1つは、中高の古文・漢文の授業だった(今思うと、古文の担当教師に睡眠のことをちょくちょくいじられていたことへの嫌悪感も、古文嫌いに繋がっていたかもしれない)。動詞やら助動詞やら句型やらの意味不明な表をいくつも丸暗記させられたかと思えば、現代日本語とかけ離れた大量の語彙を丸暗記させられ、果ては品詞分解やら返り読みやらという、およそ人間が文章を読む術とは思えない方法の利用を強制される。言語や語学に興味のある人は「そこが面白いんだよ」と思うかもしれないが、私は人間の言語の体系に関心がなかった(現在は多少なりとも言語に関心を持てるようにはなったが、それはあくまで言語で書かれた内容への関心の延長でしかなく、今でも人間の言語体系それ自体にはあまり魅力を感じない)。私は興味のないものを無理やり覚えることを極めて苦痛に感じる人間なので、もちろんこれらを暗記することなどできなかった。内容面についても、授業で主に扱われるのはだいたい和歌やら源氏物語やらで、男と女がじめじめと乳繰り合っている様など読んでも何も面白くなかった。従ってこんな意味不明な教科など大嫌いであったし、こんな文章を弄んで喜んでいる国文学者どもはおよそ人間ではないか、さもなくば人類の敵かなにかであるように思われた。
高校までは理系なのでそれでもよかったが、文系となるとそんなわけにはいかない。私は吐き気を我慢しながら古文の初回授業に臨んだ。京大文系クラスを担当する古文講師は、水木しげるに磯野波平を描かせたらおそらくこうなるであろうというような、細縁メガネと見事なハゲ茶瓶の頭部が特徴的なジジイであった。この講師は「古文は人間の書いた言語である。品詞分解に頼らず、古文を原文のまま読めるようにならなければならない」「古文単語帳というものは語彙を単純化しすぎていて、まるで古文読解の役に立たない。古文単語を覚えるなら、古語の辞書を頭から尻まで通読して覚えるべし」といったことを語っていた。衝撃だった。古文もたしかに人間の書いた言葉であることには変わりない。であるなら、現代文や英語などと同じようにして、ひとつの自然言語として読み下すことができるはずなのだ。後から知ったことだが、この講師は理系出身ながら大学院で文転し、女子大の文学部で国文学者の職を得ながら予備校も長年兼任しているベテラン講師であった(私立女子大の国文学教授職は、戦後の人文アカデミアにおける伝統的なキャリアパスのひとつであった)。昭和の人文系アカデミア文化と予備校文化の合いの子のような人だったとも言える。ベテラン講師ゆえに喋りが上手で、予備校や大学に関する漫談めいた雑談も交えながら、折りに触れて平安貴族の価値観・生活習慣・人生観などを解説してくれた。古典の世界が身近になった。この講師は、源氏物語などの王朝物語群が大嫌いと公言して憚らなかったのも痛快だった。自分も源氏物語の何が面白いのか全くわからなかったからだ。彼の授業で説話集という概念に触れたことで、平安期の物語というのは源氏物語のような代物ばかりでないと知り、古文の「内容」の面に対しても興味を持つことができた。『宇治拾遺物語』の文庫本を書い、原文を通読することを数回繰り返すことで、古文を通読する時の頭の使い方のようなものはわかるようになった。ともかく、この講師の喋りを通じて「"文系"ってやつも案外おもしろそうだな」と心を開いた面があると思う。古文がわかるようになると、漢文に対する苦手意識も薄れた(この漢文講師もやはり教え方がうまく、そのおかげで漢文を読むときの頭の使い方を理解することができ、そうすると句型を覚えることも苦ではなくなった)。
数学の成績についても、浪人によってだいぶマシになった。文転したことで数IIIを回避することができ、結果として数IAIIBの時点でつまづいていた箇所を集中的にケアできたことも幸いした。「理系科目を伸ばしたいなら駿台がいい」という巷説がよく囁かれるが、少なくとも私の場合は確かにその通りだった。なお、英語については、駿台の授業はまったく私には合わなかった。英文を文法的見地から精読することの重要性はわかるのだが、駿台の英語教育カリキュラムはそれがあまりにも徹底しすぎていて「読解」というより「解体」の域にあるように感じられた。私にとっては、そこに古文の品詞分解に対して抱いたような嫌悪感を覚えずにいられなかった。また、1つの文を読むためだけに日本語による長大な分析を介在させすぎていること、解説されなくても理解できる文に対しても原理主義めいて日本語への全訳を強制されることにも違和感を覚えた。私には「文法知識を学びつつ1人で多読する」という英語学習法の方が合っていたようで、それを実践することにして、そのうち私は駿台の英語構文やら英文解釈やらの授業には出席を避けるようになった(英文解釈の授業を担当していた、ドワーフのようなベテラン講師の言動に様々な不信感を抱いたという事情もあった)。
まあ、全体的に見て私の成績は少しずつ良くはなっていたが、クラスの掲げる第一志望校に通過するための学力へ届くには、悲しいかな成長曲線が緩やかすぎた。メンタルヘルスは最悪のままだったし、そもそも大学に行って何をしたいという目標もなかったので、勉強を続けるモチベーションも著しく低かった。他にやることがないという惰性で予備校に行き、入試対策をしていたように思う。精神状態のせいか発達的な特性によるものかはよくわからなかったが、脳内の歯車に何か挟まってフル回転してくれないような感覚も1年中ずっと抱いていた。そんなこんなで迎えた国立前期は普通に落ち、滑り止めに3つか4つほどの学部を受けた早慶もうまくいかず、最終的に上智大学の経済学部に吸い込まれることになった。上智大学の入試の英語は現代英語全部盛りのような出題内容なので、そこが多読による英語学習と親和性のあった自分の脳の特性とマッチしたのかもしれない。
学部
国立の前期入試の頃から、Covid-19の流行が始まった。最初は半年くらいで収まるものと思っていたが、蓋を空けると学部での4年の間ずっとコロナに振り回されることになった。大学入学と同時にオンライン生活の嵐が吹き荒れたせいで、上の世代が体験していた色々な出会いや学びを諦めざるを得ないタイミングもあった。それはそれとして、40代以上の人に「今の大学生はかわいそうだねぇ」などと言われて殺意を覚えたことも一度や二度ではなかった。貴様らに何がわかるというのか。
Covid-19を受け、上智大学は春学期授業の開始をなんと6月頭にまで伸ばした。春休みの間、大学から課された自習課題もいくらかあるにはあったが、それらも大した量ではなく、ずっと家の中で過ごすばかりの暇な毎日であった。やっと授業期間が始まったかと思えば、必修の経済学の授業はどれもこれもはっきり言って全く面白くなかった。この頃になると、やる気スイッチさえ入れることができれば、全然面白くない授業でもテスト前の一夜漬けで単位をもぎ取れる程度の学力は得ていたので、まあどうにかなった。スイッチを入れられなかった授業は落とした。
経済学という分野に初めて触れてみて意外だったのは、経済学というのが意外と数理的な操作を多用する学問だということだった。入試で数学を課しているとはいっても数学に抵抗のある学生が多いので、本質的に数式の操作を必要とする箇所は、授業でも巧妙に隠蔽されて定性的な説明に留められていた(そのせいで、むしろ理解しにくくなっている箇所もあった)。とはいえ、それでも2変数関数の偏微分くらいは全学生がとりあえず計算できないと困るということらしく、数IIIの微分と簡単な偏微分を扱う経済数学の授業、それに統計学の授業が必修とされていた。一応は数IIIの履修経験があったので、ここで苦労せず単位を取れたのは幸いだった。
1年生の前期で経済学の授業をいくつか受講した結果、経済学だけやっているのでは自分はあと3年間もやっていけないと判断した。扱われている内容はともかくとして、経済学に数学が絡んでいるなら「なぜ数式でこれをモデリングできるのか」を考えることによって、経済学をどうにか好きになろうと努力してみることにした。同時に、卒業に不要な単位であっても興味を惹かれた授業をできるだけ沢山受けることにした。
浪人したことによって人文学・社会科学に対する心理的抵抗は既に取り除かれていたので、人文系の科目も色々と受けてみることにした。第二外国語は、どこでも勉強できるようなものは面白くないと思ったので、ラテン語を履修することにした。上智大学は神学部があるためか、あるいはキリスト教哲学の研究者が多いことによるものか、伝統的に第二外国語としてラテン語が開講されているのだ(ヘブル語・古典ギリシャ語の科目も文学部では開講されているようだったが、経済学部の第二外国語として参入することは出来ないようだった)。さらに、各種の概論系の授業(言語学とか社会学とか文化人類学とか)や、カンタベリー物語を中英語の原文で読解する授業、辞書学(そういう学問が世の中には有るらしい)の入門授業、音声のデジタルアーカイブを使った大正・昭和期の日本文化史、芸術メディアのアーカイブ論などなど、履修登録のたびにシラバスとにらめっこしながら、結構色々な授業を取っていた。特に、文化人類学の授業のおかげで私の人文学に対する抵抗感のようなものは完全に取り除かれたように思う。担当教員は非常に授業の進行がうまい人物で、その語り口のおかげで「数理モデリングしにくい媒体に対して人類はどう立ち向かうべきなのか」ということを考えさせてくれるきっかけをくれた。
理工学部の授業を履修することも忘れなかった。代数学入門とか、数理ファイナンスとか、ルベーグ積分と測度論とか、離散数学とか、正規表現とオートマトンの理論とか、データ構造とアルゴリズムとか、取れるものをそれなりに取っていた。とはいえ、文系科目ほど幅広い履修は叶わなかった。というのも、上智大学の理工学部は他学科履修を許可しない授業が多かったうえに、情報理工学科のカリキュラムははっきり言って貧弱そのものだったのだ。仕方ないので大学教養レベルの解析学や線形代数は独学していたが、正直あまり体系的に学べた気はしない。大学側が理系に力を入れていないことの裏返しなのか、理系学生の質も平均的にはあまり良いとはいえなかった。よく「文系大学生は理系大学生に比べて不真面目だ」という主張があるが、こと上智大学に関してはこれはまったくの誤りだった。授業中に私語をする学生など経済学部や文学部などにはあまりいなかったのに対して、情報理工学科ではどの授業に出ても毎回のように私語がそこら中から聞こえていた。いわゆるパソコンカタカタオタクという類の生物は皆無だった(いるところにはいたのかもしれないが、少なくとも私は4年間でついぞ出会うことはなかった)。優秀な学生はだいたい東京理科大学に吸われていってしまうためかもしれない(上智の情報理工にも真面目な学生は決していないわけではないことは付記しておきたい)。
コロナで通学が制限され、暇な時間が多かったことは、人生の転機のきっかけを作ってくれたりもした。以下、セキュキャン・ネクストの応募課題晒しから引用。
大学入学後、私は2つの体験によってゲームAI・ゲーム情報学に興味を持った。体験の1つ目は、世界最大の盤上遊戯「大局将棋」を対局したことである。私は大局将棋のネット対局サイトの存在を知り、知人とのオンライン対局を試みた。しかし、ゲームの規模があまりに巨大なためにゲームの展開が遅く、先方が飽きてしまったため、結局十数手しか指せずに終わってしまった。この経験で、私は「計算機ならば飽きずに相手をしてもらえる」と考えるようになり、ゲームAI分野や強化学習技術に興味を持つようになった。体験の2つ目は、様々な盤上遊戯の存在と、それらを上手くプレイするゲームAIの実現の難しさを知ったことである。私は大局将棋について調べるうちに、かつての日本では現在の将棋とは異なる様々な古将棋が遊ばれていたことや、世界では古今東西で莫大な数のボードゲームが遊ばれていたことを知った。例えばチェスという一見ごくありふれたゲームを一つ取っても、歴史的変種や現代に生まれたフェアリールールが数多く存在するのである。このような盤上遊戯の世界の多様さ・奥深さを知った私は、「廃れたゲーム・競技人口の少ないゲームを計算機に上手くプレイさせたい」という考えを持つようになった。こうした経緯から、盤上遊戯の変遷を定量的に分析する研究アプローチや、汎用的なゲームAIを目指す「General Game Playing」という人工知能研究の一分野に興味を抱くようになった。
もしコロナで暇な時間ができなかったならば、大局将棋などやってみようとは思わなかっただろう。ちなみに、この「大局将棋のネット対局サイト」とは将棋ったー (shogitter.com) のこと。
B2の秋になると、B3・B4で配属されるゼミかを決めなくてはならなくなった。開発経済学のゼミ、日本の経済成長を分析するゼミ、地方創生を扱うゼミ、学生向けの政策提言コンテストに出るゼミなどが人気のようだったが、どれも興味がなかった。理工系っぽいことができるゼミを探し、最終的に「経済学者の教員がやってる計量経済学のゼミ」「工学出身の教員がやってる統計学のゼミ」の2択に絞って、後者を選んだ。このゼミは、表向きは統計学や数理工学を学べるということになっていたが、実態としては極めて自由で、学問の枠組みで分析できる対象であれば何を勉強してもよいということになっていた。上智大学の経済学部において数学に興味を持つ学生というのは珍獣のようなもので、学年に10人いれば多いほうと言えた。そんな環境で統計学のゼミを開講するためには、こうした寛容な精神が必要なのかもしれない。私は水を得た魚のように、ゲーム情報学の論文や研究紹介のスライドを毎週作って発表していた。指導教員はもちろんゲーム情報学の専門家ではなかったので、ほぼ独学に近い状況ではあったが、自分のやりたいことを自由にやってよい環境の恩恵にあずかることはできた。
Twitterで繋がっている同年代の理系学生が当然のように院進を選択肢に入れているのを見るにつけ、私もミクロ経済学かゲーム情報学かで院進をしたいという気持ちが日に日に強くなっていった。どのタイミングで理系修士への進学を決意したのかはよく覚えていないが、経済学で院進する選択肢とだいぶ悩み、最終的に経済学で院進してもモチベが続かないであろうという確信を得たことはTwitter上に記録が残っていた。
ゲーム情報学をやれる大学というのは、首都圏だと東大と電通大と明治大くらいしかない。しかも、それぞれ対応する研究室は1~2個に限られる。院試対策のキャパシティを考えて、東大でゲーム情報学ができる研究室2つに絞って受験することにした。うち1つは落ち、もう1つに合格した。ゼミの修了のため、「ゼミ論文」という名目の長めのレポートを書くことになった。私はネタにさんざん迷った末に、チェスの状態数を統計的に推計するHaskellのプロジェクトを発見し、これの追試をして提出した。こうして4年間が終わった。
修士
私の配属された研究室は、指導教員のほかに博士学生が1人だけで、修士の同期は自分のほかにたった1人という、かなり小規模な研究室だった。他の研究室の人たちとの交流といったものは実質的にほぼ皆無だった。Twitter、Discordのほか、TwitterのFFの某氏に誘われて入ったコンピュータ系のサークルが結構重要な憩いの場となった。研究室は駒場にあったが、研究科の方針で他学部・他専攻の授業の履修が推奨されていたので、駒場や本郷の色んな講義を履修していた。それでも興味のないことにやる気が出ないタチは相変わらずで、自専攻の選択必修の授業を落としたりしていた。
当初は盤上遊戯の変遷を \frac{\sqrt{D}}{B} という指標に基づいて分析するというテーマを考えていた。
しかし、進学後の指導教員との面談で「その数値は根拠が薄弱なので修論まで持っていくのは難しいかも」というアドバイスがあった(実際、この評価は妥当だった)。General game playingについても、やれることはだいたいやり尽くされていて、何か意味ある研究を2年で出すのは難しそうだということがわかった。そこで指導教員から提案された「5五将棋の弱解決」というテーマに取り組むことになった。この関係で、M1に入ってしばらくはFairy-Stockfishというプログラムのソースコードを読んだりしていた。しかし、なかなか進捗がない。そこで、指導教員から新たに提案されたのが「5五将棋の状態数の推計」というテーマだった。本当に偶然にも、私が学部のゼミ論文で選んだのと同じ内容だった。というわけで、このテーマで2年の間、研究を進めることになった(M1を終えた段階で研究テーマを弱解決に戻す選択肢もあったが、最終的には卒業まで同じテーマで突っ走った)。
このように行きあたりばったりでテーマがコロコロと変わっていったこと、さらに学部でろくな研究活動を経験していなかったこともあって、何をやったらいいのかわからないという感情でいっぱいだった。ゲーム情報学はコンピュータ・サイエンスの総合格闘技のようなところがある。競技プログラミング的な実装力とアルゴリズム/データ構造の知識がないとお話にならない。自分はこの辺のトレーニングを今まで積んでこなかったので、完全に自信を喪失して半分病んでいたときもあった。指導教員の実装力とアイデアを打ち上げる力が卓越しすぎていて、自分の存在意義に悩んだことも十度や二十度ではなかった。M1のときに研究会で賞を頂いたこともあった。しかし私の自認としては、自分の実力が伴わないまま指導教員に手取り足取り指導されてどうにか形にさせてもらったような研究だったので、賞をもらったことがかえって自分の無能さの象徴のように思えた。M2の夏ごろになってからやっと吹っ切れて、研究に全力で取り組めるようになった。この辺りのテーマの転換で色々悩んだせいでM1の後半とM2の前半に特に何もできず時間を無駄にしてしまったのは後悔している。結果的には、指導教員に提案されたテーマをもとに3回も発表して、修論までも書くことになったわけで、人生何があるかわからないものだと思う。
M1の冬ごろから就職活動を始め、結構大変な思いをした。詳しくは以下の記事に書いたので省く。
学生の間にやっておけばよかったこととして、以下のようなものがある。
- もっと大学図書館を使い倒したかった。
- もっと色々な学内外のコミュニティに参加すべきだった。
- もっと色々な授業を受けておくべきだった。
- 特に、指導教員の担当している Open Data Structures (みんなのデータ構造) を自分で実装する授業は、シンプルに勉強のため履修すべきだったかも。後の祭りだが。
なぜD進しないのか
修士2年間を過ごしてみて、D進してみたいなと思ったタイミングは何度かあった。しかし、色々な理由で新卒就職をすることにした。既にD進した(あるいはD進を決めた)知人からは「ゆみやさんもD進しましょうよ」と誘われることもあるし、修士で就職した友人に「お前はそのうちD進してそうだな」などと言われることもある。研究会でよくお会いする某先生には「進学しないのはちょっともったいない気がする」という、それこそもったいないような言葉をかけて頂いた。ともあれ、この決定の背景には以下のような思考があった。
- 博士を取るということは、専攻分野のどこかについては指導教員を超える水準の研究能力を得る必要があることを意味する。しかし自分の指導教員の姿を見ていると、そんなレベルに自分が自力で到達できるか自信を喪失した。
- 私は情報科学の専門教育を学部で受けていない。情報系プロパーでやってきた人に比べて、コンピュータサイエンスの基礎知識や、根本的な数理的能力が劣っていることを実感するタイミングもたくさんあった。この体たらくのまま、あと3年ぽっちで博士を取るのは無理ではないかと思った。
- 修士2年間の成果も指導教員の助力によるところが大きかった。まあ「指導」なのだからそういうものかもしれないが、自分の出来なさを否応なく直視することになり、これでいいのか?と自問自答することも多かった。
- 自分のいる研究室は学生が少なく、1年に1人入ってきたら多い方といったところである。複数人の学生がいる年度であっても、各々が全く異なる研究テーマを選んでいるので、対等な立場で議論できる相手というものがいない。他の研究室の学生との交流も少ない。すなわち、実質的に指導教員とのマンツーマンのようなものである。自分よりも圧倒的な能力を持つ指導教員とのマンツーマンである。指導教員は本当に温厚で懇切丁寧な指導をしてくれる人だが、このマンツーマンを2年続けてきて何度も気が滅入ったことがある。今後も同じ環境に身を置いて博士3年間を過ごすと、決定的に病みそうな気がした。
- 指導教員に「博士進学はオススメしない、少なくともこの専攻でそのまま進学するのはやめたほうがいい」と言われたことも後押しになった。指導教員の挙げた理由は以下の通り。
- 理由は不明だが、この専攻の博士学生は、他の情報系の専攻と比べても中退・休学率がなぜか有意に高い。
- 指導教員は定年が近い。1.の理由から、私が博士進学して休学する事前確率はそこそこ高い。休学して在学年数が延びた場合、指導教員の定年のため研究室を移ってもらわないといけなくなる。そうなると同じ研究がスムーズにできるとは限らず、私のためにならない。
- ゲーム情報学の研究で博士を取っても、少なくともアカデミアには就職先がない。ゲーム情報学の教員を募集している大学・研究機関はまず存在しないので、情報系の他の分野においても研究・指導・教育をできるようにならないといけない。
- 博士を出たとしても、その後の人生をどうすればいいか将来が見えなかった。ゲーム情報学はアカデミアにおいてすら職のない研究分野だというのに、どうして民間就職で雇め口があるというのか。専門分野を生かさない就職もありうるが、20代を犠牲にするのに見合うリターンが得られるほどのキャリアではなさそうだった。
- 家族は私の修士進学を許可してくれ、学費も負担してくれた。しかし私の家族はもうすぐ前期高齢者である。家族と私自身の今後を考えると、とりあえず金を自分で稼いで自分で生活できるようになりたかった。
- 学振とか奨学金の制度が色々あるだろ、と思う人もいるかもしれない。でもそうした支援制度のお世話になるという道は、「授業料を払う学生」という身分を30歳近くまで続けながら生きる息苦しさを伴いそうだった。
そもそも、私はアカデミアに就職したいわけではない。アカデミアの息遣いを間近に感じてはいたいけれど、アカデミアの世界に頭の先まで浸かっていたいわけではない。単に私は趣味で研究したり実装したりしていたいだけなのだ。情報科学の中でも、ゲーム情報学というのは極めて在野性が高い分野である(と私は思っている)。だとすると、D進して自分が得られるメリットというのがどれほどあるのかという疑問も生じてくる。博士があると好都合なこともあるかもしれないが、そうなったらその時に考えよう。とりあえず今は、銀行口座の残高を満足の行く値にまで増やしておきたい。
将来への展望
皆無である。有るわけがない。自分の属する情報系のコミュニティでは、SIerは就職先としてお世辞にも人気とは言えない(大手であってもだ)。周囲の学生は誰も口には出さないが、ぶっちゃけみんな「産業としての存在意義はわかるけど、自分ではSIerには行きたくないよね」と思っているのではないだろうか。情報系の知人たちはみな実装力を身につけてどっかの有名メガベンかGoogleに吸い込まれてしまうか、もしくはD進してしまった。寂しい限りである。
不安もある。自分はSIerの環境にうまく適応できるだろうか。無能を晒すことになりはしないだろうか。先行きは不透明だ。将来のことなど何もわからん。わからん以上は、とりあえず飛び込んでみてから考えるしかない。今までもそうだったし、これからもそうしていくと思う。
ここに書いていない出来事も含めて幼少期からの半生を反省、もとい反芻してみると、私は自分の所属する集団の中でいつも成長が遅れている部類だった。喋るのも、歩き出すのも、同世代の子供より人一倍遅かった。根拠はないが、おそらくこれからもそうであろうという感覚がある。「人間の一生で思考力が一番高まるのは20歳前後」という巷説がある。浪人・留年していない人は大まかに25~27歳を博士課程で過ごす。おそらく多くの人はその辺で知能の最盛期を迎えるのだろう。しかし、私の場合、なんとなく生まれた頃から脳みそにデバフがかかっているような感覚があり、歳を重ねるごとに少しずつデバフが剥がれていっている。今よりもっとデバフが剥がれて人様と同程度に達するのは、なんとなく30歳頃になるような気がしている。
ともあれ、今までの人生よりもこれからの人生の方が長い。それならその分、これからもっと良いものを世界に出力できるよう目指したいと思う。