「バッドエンドや〜だや〜だ!はっぴ〜なのがい〜〜い!」
ハッピーエンド。何度も繰り返される言葉である。当然、そのほうがいいに決まっている。
悲しいのは嫌だ、苦しいのも嫌い、ハッピーなのがいい。
深夜のボロアパートで彩葉さんに向かってそう訴えることがこの物語の原点であり核である。
2人は、みんな*1は、物語は、ハッピーエンドに向かって突き進んでいった。
このような受け止め方はごく自然であり、かつ、妥当なものであるとおもう。
かぐやさんは、現に、ハッピーエンドを強く求めていたのだから。
その、ハッピーエンドへの願いが、彩葉さんを突き動かしたのだから。
しかし、望むことと、現に起きていることは、あたりまえのことだが、別物である。
望ましいエンディングに向かって、精一杯の力を注いでも、ついぞ至ることはできなかった、ということは決して珍しいことではない。
かぐやさんや彩葉さんが、自らの望む未来の方へ全力を賭けて踏み出していったのが事実であるとしても、それは、あの物語がハッピーエンドであることを帰結しない。
『超かぐや姫!』は、ハッピーエンドを迎えたのだろうか。
もし、ハッピーエンドでないのだとしたら、この作品を観たあとのに残った充実感は、なんと名付けられなければならないのだろうか。
いかにして説明できるだろうか。
屡々、次のような感想が目に付く:
また、一緒に映画を観に行った私の友だちも、「頑張ろうっておもえますよね」と、言っていたとおもう。
私も、そのような感じを素朴に受けた。
しかし、では、なぜ私はそのように感じたのだろうか。
超人的な人間を巡る成功の物語に感化されたから?
社会から見放された人間*2が救われる物語に感動したから?
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
もしも、あの物語が、単純な成功・単純なハッピー・単純な救済の、その先、何か微妙なニュアンスを含みこんでいるのだとしたら?。
もしそうなら、そのニュアンスはどこに宿っているのだろうか。いかにして、『超かぐや姫!』の物語を、私たちは受け取ることができるだろうか?。
注意:
1. 以下では、映画版の『超かぐや姫!』のみを対象に読解を試みます。それ故、他の表現におけるものと齟齬を来す場合がありえますし(といっても私はそれらを読んでいないので、齟齬をきたしているかどうかを判断することはできないのですが)、それらの内容を加味した結果、全体としては、より弱い主張に主張を改めたり、逆に、より強いことが言える、という場合もあるかもしれません。
2. 以下では、登場人物の名前はすべて敬称を除きます。
3. 当然のようにネタバレを行います。そうでなくとも、以下の内容はおそらく一度本作を観たことのある方にしか面白くないとおもいますので、一度ご覧になってから続きを読んでいただけるとよいとおもいます。
否定されるエンディング
ハッピーエンドとは、ハッピーな・エンディングのことである。
では、エンディングとは何か。
例えば、小説なら、最後の一段落、或いは一節とかもっと大雑把に、結末、と呼ばれる、最後の方で提示される内容のことである。
例えば、人生なら、死、というやつがそれにあたるだろうか。
映画ならどうか。
当然、最後の方の内容という理解は可能である。
しかし、映画にはエンドロールというものがある。
最後のシーンが終わり、暗転、流れ出す音楽、空へ昇っていく名前、余韻に浸りながら、呆然と眺める。作品内と現実を彷徨う、まどろみの時間。
作品中の印象的なカットが数枚、思い出のアルバムをひらいていくみたいだ。或いは、走馬灯のよう。
少なくとも映画において、エンドロールは、終わりの到来を告げるという意味で――そして、作品世界から現実世界へ私たちを送り出してくれるという意味で――エンディングと不可分に結びついたものであり、そのような装置である。
映画に終わりがあるのなら、その時にはエンドロールが流れなくてはならないし、エンドロールが流れたのなら、私たちは、その映画は終わったのだと理解しなくてはならない。
どんなに惜しくても、夢の時間は終わる。朝6時の警鐘がタイムオーバーを告げるように、エンドロールが物語の終結を告げている。
そうなのだとすれば、この作品においては、エンディングは2度にわたって否定・拒否・延期されているのだと指摘せねばならない。
1度目はかぐやが月に帰ってしまったあと、いままでの日常に戻る、というエンディングに対する否定があった。
めでたしめでたしの否定、それは内容的には、彩葉の生が実存的な強度を増していくことを象徴するイベントではあるが、ここでは、エンドロールに対する否定こそが、スクリーン上に描かれた形式的表現であったことを確認しておきたい。ひとたび流れ始めたエンドロールが中断され、物語が再開されること。
この意味では、真のエンディングと呼べそうなエンディング、すなわち、彩葉の10年後・復活ライブのあと・2人が暮らしたタワマンの部屋を背景にかぐやがタイトル「コール」をしたあとに訪れるエンディング = エンドロールでさえも、否定されてしまうことになる。
このエンドロールの後、ごく短いが、更なる「蛇足の」映像が上映された。上映期間の延長に伴って、富士登山とたけのこのシーンさえも「追加」された。このようにして、2つ目の・真のエンディングさえも、延期され、或いは否定され、その先に物語が付け足されているのである。こうして、『超かぐや姫!』では、エンドロールが2度に渡って否定される。
形式的な表現としては、今確認したようなエンディングの否定があったが、作品内容にもエンディングの否定が含まれている。
すでに言及した、かぐやによるタイトル「コール」がそれである。
「ねえねえ、このお話、ハッピーエンドだとおもう?
このあとすぐケンカ別れしたりして〜
まだまだわかんないよねっ
あなたの物語もそうでしょ?」
この発言が拠り所としているのは、「現在は、何か結論を与えるものではなく、いくらでも変化し得て、無限の可能性に開かれている」という認識にほかならない。
もちろん、かぐやは(そしてきっと彩葉も)、バッドな未来が実際に訪れるとは全く考えていないだろう。ただし、そのような未来を考えうるということ、ハッピーとは言えないかもしれない未来の可能性が作品内部で言及されていることには意味がある。するとここでも、物語全体を意義付け評価を下す絶対的準拠点としてのエンディングは、否定されているということになる。
「ひとまず!このお話はここでおしまいね」
というかぐやのセリフは、先ほど指摘した物語の構造の中で、また、己の直前の発言との関係によって、「おしまい」すなわちエンディングという概念が、もはや空虚なものに過ぎないことを浮き彫りにしてしまっているのだといわねばならない。
『超かぐや姫!』は、エンディングの存在というものに対する明確な否定性を備えた作品なのだ。
このエンディングの否定は、エンディングの延期といってもよい。
つまり、この作品の示した否定性とは、物語はいくらでも続きを描きうる、そして、それを上演しうる、ということである。
ひとたび終わった「ように見える」物語も、いつその続きが語られるかわからないし、それを、止めることはできない。
このような事情は、当に、かぐや姫にまつわる物語が歩んできた歴史と並行している。
『竹取物語』の結末を微妙に改変した if の世界を語る物語や、『竹取物語』をモチーフとして引用しながら全く別の物語になっているものなど、竹取関連作品は、歴史上、枚挙にいとまがない*3。
物語の続きを書くことは、いかなる物語についても原理的には可能である。しかし、かぐや姫の物語は、その可能性が歴史的に繰り返し実践されてきたという点で、つまり強度の上で、他と異なる。この意味で、かぐや姫の物語は、終結不可能性をもっているのだと言わねばならない。
そして、『竹取物語』に始まるかぐや姫の物語が、付け足され・書き換えられ・参照されていく歴史とよく似た運動が、『超かぐや姫!』に於いて反復されているのである。
してみると、『竹取物語』に沿ったエンディングをひとまずは迎えつつもそれを否定し、その先の物語を創出していく構造は、かぐや姫の物語に連なることを引き受けていこうとする身振りにほかならない。『超かぐや姫!』に於いて、エンディングそのものが空虚なものとして否定されるのはこのような事情によっている。つまり、「かぐや姫の物語に連なることの引き受け」とは、自らが、かぐや姫の物語の終結不可能性の上にあり、そしてそうであるがゆえに、自らも終結不可能なものであるということを正視せざるをえないということである。
このことは、劇中歌の Ex-Otogibanashi にも現れている。
この曲は、作品の内部において、かぐやをかぐや姫に見立てたイメージ・ソングであるのみならず、作品全体との照応関係がある。
すると、この曲はタイトルの時点で、作品全体が Extra な*4物語であることを暗に示してしまっているのだと考えることもできる。
また、この「Ex-」は別の解釈の仕方もあろう。英語の接頭辞としてみれば「前の」と理解すべきであり、この場合、曲のタイトルは、前のおとぎ話、となる。何が、「前のおとぎ話」なのだろうか。複数の理解がありうる。決定できない。しかし、複数に理解できることが重要だ。
つまり、『超かぐや姫!』にとって、『竹取物語』こそが「前の」おとぎ話であり、それに追加されたもの(Extra)が己だということになるが、同時に、『超かぐや姫!』それ自体も「前の」おとぎ話でありえ、Extra なものによって再び語り直されうる存在だということを、このタイトルはすでに含みこんでしまっているのである。
生前「葬」と「卒業」ライブのレトリック
前節において、人生に対するエンディングとは「死というやつ」であろう、と述べた。
生き残った者にとって、死んでしまったひとの死を実感するタイミングは様々あるとおもうが、ひとつ、重要な節目を与えるのが葬式である。
葬式があったなら、そのひとはもういないのだと理解しなくてはならない。
そのひとのいない世界へと、自らを向かわせなくてはならない。
死という劇的な変化・複雑な現象を象徴する一つの結節点として・参照点として、葬式が執り行われるのである。
当然、死んでしまった当の本人は、そこにはいない。もう死んでしまっているから。
すると、生前葬と「通常の」葬式の違いとは、本人がいるかいないか、ということになる。
そのひとの死・そのひとのいない世界を意味づけていく営み。そこに、当の本人が加わるのである。
「今生の別れ」としての卒業ライブは、生前葬というレトリックで屡々語られる*5。
しかも、意味付けの主体が、いなくなる本人であるような生前葬として。
すると、卒業ライブは、本人の意向を尊重して、「超楽しく!運命に向かって走っていく」ようなものとして行われることが多い。
湿っぽくはしない。今までの感謝を伝えて、ハッピーに終わる。
一方で、このようにして執り行われる生前葬の背景には、配信をする者と配信を観る者という非対称的な関係性があることに注意しなくてはならない。
そこでは、控えめながらも、正しい反応と正しくない反応の区別が作り出され、どのような態度で臨むべきかが予め決定されているのであり、「参列者」は、その態度をもって振る舞うのでなければならない。
「泣いている場合じゃないぞ、最後のファンサだ!目に焼き付けろーー!!」という言葉は、当に、卒業ライブに臨むファンのあるべき姿にほかならないのである。
最後の瞬間を・今までそうであったのと変わらぬ姿を、目に焼き付けて、ありがとうと大好きを伝える。哀しみや惜しむ気持ちはよくわかるが、しかし、出番じゃない。
このようなソフトな「抑圧のメカニズム」*6は、「配信文化」の中にあって、突如として生じたものではない。
それ以前から存在する、アイドル的な「卒業」という言葉のなかにすでに、「抑圧のメカニズム」が存在するのであると言わなければならない。
そもそも、卒業、というのは、レトリックにすぎない。
そこでは、卒業していくアイドルたちに対して、卒業を見守るファンは、保護者や教師など、アイドルらの成長を見守り・助ける存在として立ち上がってくる。
卒業していく者は、成長し今羽ばたかんとする者である。
であれば、成長を助けるべきファンたちは、卒業していく = 成長の極点にある者を引き止めることはしてはならない。
こうして、卒業というレトリックもまた、ハッピーに送り出す向きに、ファンらを方向づけることになる*7。
以下に見るように、卒業ライブという形式を採用した時点で、2人の関係はその形式に内在する文法に従わざるをえなくなってしまうのである。
つまり、「卒業」ライブ = 生前「葬」という2つのレトリックによって、2人は、別れを惜しむこと・「一緒にいたい」と言うこと・別れるのが惜しくなるような発言や行動をとることを抑制されてしまうのだ。
「卒業ライブ」という言葉が出てきた花火のシーン以降、2人は、控えめにすれ違い続けている。
彩葉はかぐやを送り出すための音楽作りによって、かぐやと一緒に過ごす時間が減ってしまう。
彩葉は「かぐやを守りたい」といってみんなの協力を仰ぐが、その試みはかぐやに対しては直前まで知らされない。そして、かぐやは、卒業ライブにおけるみんなの登場を受けて、「みんな自由だ」と反応するのだった。ここでは、「彩葉」が「みんな」へと、「守りたい」つまり一緒にいたいという彩葉の感情はみんなが「自由」であることへとズレてしまい、彩葉のもつかぐやに対する個別の想いは、かぐやに伝わっていないのである。
直前の花火のシーンと打って変わって、2人が身体を通じて触れ合うことは*8、再開のときまで一切なく、月人に敗れたあと、2人は物理的に引き離された状態で別れを迎えることになる。
映像表現の上でも、月人との戦闘開始以後は、2人が同時にフレーム内に収まることすら決してないのだ*9。
そして、かぐやが発した「彩葉……だいすき」という言葉が彩葉に対して直接伝えられることも、ない。
そこに彩葉の個別性はない。
このように、二人の間のすれ違い・距離は、映像の上でも、内容においても執拗に描かれている。
かぐやが連れ去られたあと、彩葉が紡いた reply の続きには「本音を聞かせて ただ叶えてみたいから」という一節が出てくるが、この歌詞は、
以上のような感情の抑圧と、それによるすれ違いを踏まえているからこそ、極めて重く・切実に、響くのである。
「同じ明日へ 地図をつなごう」、「心 揺らして 笑顔も シェアして」という歌詞には、レトリックの引力によって引き離されてしまった2人の間の繋がりを取り戻したいという願いが、率直に込められている。
或いは、次のように言うことさえできるかもしれない。
これらの歌詞は、感情を抑圧するレトリックに対する抵抗であり、レトリックの外側、もっと積極的に言えば、合理性の外側を目指す運動にほかならないのだ、と。
しかし、なぜ彩葉はそのような行動を取ったのか。そもそも、なぜ彩葉は音楽を作ることにしたのか。この問いに答えることが、次の議論の出発点となる。
ハッピーは外部に住んでいる
彩葉はなぜ、音楽を作ることにしたのか。ワンコーラスで終わらせた音楽の、続きを。大まかに、2つの仮説を立ててみたい。
一つは、一種の追悼の音楽として作った、という説。
もう一つは、かぐやを取り戻すため、或いは、かぐやに「届く」ように。
前者から考えてみる。
つまり、死をきちんと哀しむこと、去ってしまった人間を、かぐやを、思い起こして、記憶に留めること。
実際、そのような側面があることは否定できないはずだ。
かぐやと過ごした日々が脳裏に浮かんでくるさまは、当にその作業に服している人間の心象に違いない。
しかし、「ハッピーエンドいらない、普通のエンドで結構です」という過去の自分の発言、「これが私のエンディング、超楽しく!運命に向かって走ってく!」という花火大会でのかぐやの発言を反芻しつつも、「そんなわけない」と応答する彩葉は、かぐやがいなくなった状態を、エンディングとして受け入れることを拒否しているのだ。
ここには、ハッピーを目指すという彩葉の決意が現れているのであり、彩葉にとってのハッピーとは、かぐやと一緒にいること・絶たれてしまった2人の間の繋がりを取り戻すこと以外にはありえない。
こうしてみると、彩葉の行動は単なる追悼や祈りにしては、積極的な行動性が高すぎるのである。
では、かぐやを取り戻すための行動なのだろうか。
実はこれにも疑問が残る。音楽を作ることは、確かに、かぐやを想っての行動ではあるだろうが、それが、いかにしてかぐやを取り戻すことに繋がるのかは判然としない。
月人との対戦前、ヤチヨによれば「調べてみたけど、どこからアクセスしているのかもわからな」いということが告げられていた。
彩葉と月の間を繋ぐものは一切存在しないのだといわなければならない*10。
したがって、彩葉にとって、できること、つまり、なんらか妥当だと言えそうなかぐやを取り戻す方法は、ひとつもないのである。
かぐやとの繋がりを取り戻す術は一つもない、したがってハッピーを実現することはできない。
これを、絶望と呼ばずして、なんと呼ぶことができるだろうか。
このようにみてみると、reply の続きを作るという行為は、ハッピーを目指しながら、しかし、ハッピーに結びつくとは全くおもえない行動にほかならないのである。
結果として、彩葉が reply の続きを作ったことは 2 人の再会のための重要な 1 ピースになるのだが、ここまでに描かれた作品内の論理から必然的に導くことができるものではない。
この行動はどのように理解できるだろうか。
私はここで敢えて、理解はできないのだ、という立場を取ってみたい。
つまり、彩葉は、それまでに明かされた論理・そこまでに辿ってきた因果の連関の全く外側にある行動、すなわち彩葉にとって合理化不可能な・説明不可能な行動を取っているのだ、ということである。
しかし、それは、単に説明不可能なのではない。
一般に、意味の体系は、有意味な行動によって再生産・強化される。
その外側に出る行動は、体系そのものを自明でないものとして露わにする。
reply の続きを紡ぐことは、卒業・生前葬のレトリックが隠蔽してきたものを歌詞として表出させることで、そのレトリックを動揺させる行動にほかならない。
「本音を聞かせて」「同じ明日へ地図をつなごう」という歌詞は、レトリックの引力によって押し留められていた感情を、そのまま言葉にしたものだからである。
レトリック・必然的な意味の構造・既存の秩序・これまで辿ってきた因果・その妥当な帰結、これらが揺すぶられているのである。
先ほど確認したように、一切の妥当な未来には、ハッピーな状態は存在しない。
ハッピーな状態が存在するとすれば、それは、妥当さの向こう側、合理的説明の外部、全く不確実な暗闇のなかにしかありえない。
だからこそ、彩葉の行動は説明不可能でなければならないのである。
既存の論理に従った一切の合理的な行動は、ハッピーな状態に繋がらないことがわかってしまっているのだから。
こうして、不合理な行動の先、不確実性のなかに賭けるよりほかにないのである。
ここで、不確実性という言葉の使い方には注意を要する。
不確実というのは、単に、色々な可能性がありうる、という以上のものを意味している。
不確実なものとは、今ここからありうる一切の妥当な未来の外部にあるもの、つまり現在に胚胎する未来の外側に存在するもの、全くの暗闇・連綿と続く因果の先として照らすことのできない暗闇、その中に存在するものを指し示す言葉である。
繰り返しになるが、彩葉は、このような合理性の外部・不確実なものとしてしか存在しないハッピーな状態を目指すために、不合理な行動を取らざるを得ないのである。
このような不合理さ・因果の外側・説明不可能なものは、『超かぐや姫!』に根本的に関わっている。
『超かぐや姫!』冒頭、彩葉は、かぐやを電柱の中から拾い上げたあと、すぐに警察に電話するが、そこで、己とかぐやの間の関係を説明する一切の妥当な言葉が、論理的なつながりが、存在しないことに直面するのである。彩葉にとって、当に、かぐやは、説明不可能だ。
そもそも説明とは、過去の因果連鎖の中に出来事を位置づける試みである。
してみると、彩葉が直面した説明不可能性は、単に彩葉とかぐやの関係が制度的な言語の範疇に収まっていないというだけではない。
全くの外部からやってきたかぐやは、そもそも彩葉の過去とは接続していない(ように彩葉にはみえる)のだから、根本的な意味で説明不可能なのである。
そして、かぐやがやってくるということは、彩葉にとって説明不可能であるばかりか、物語の外側から観察している私たちにとってもまた、説明不可能である。
彩葉があのような状態で生きていたことを含め、かぐやと彩葉が出会う条件というのは、その後のかぐやがタイムスリップし、8000年の時を過ごしてきたことに依っている。
すると、2人の出会いは、過去の(未来の?)2人の出会いに起因するのであり、その根源は無限に後退していかざるを得ない。
それは、運命・奇跡といった、「現在からの合理的帰結の外部」を指し示す名前によってかろうじて指定することが可能である。
つまり、かぐやが彩葉のもとにやってくるという出来事それ自体が、『超かぐや姫!』における最初の、そして根本的な、合理性に還元することのできない出来事(event)なのである。
彩葉は、このような出来事に対して、どう振る舞っていたか。
「どうして私がこんなことを」と言いながらかぐやの世話をし、「ここでは匿えない」と言いながら「迎えが来るまで」と言って家においておく。
それは、「考えるのをやめ」ることに始まる態度であり、否定し切ることも受け入れ切ることもなく、ただその中にある、居続ける、ということにほかならない。
或いは、対峙すると言ってもよいだろう。否定も肯定もせず、外部性を外部性として留めおき続けること。
それは、外部に向かって、自分が開かれていくことを許容する態度である。
許容する ―― この微妙なニュアンスが重要である。
それは、単に未来に向かって革新していこうという態度とも、一切を許す態度とも異なり、今ここにすでにあるものと、全くの外部からやってくるものを接続しようとする試みである。
同時に、外部と内部の接続のためには、内部に対する意味づけも一旦留保しなくてはならない。
そして、このような身振りは、エンディングを否定する映画それ自体の運動と同じなのである。
第1節で確認したように、「物語全体を意義付け評価を下す絶対的準拠点としてのエンディング」が、『超かぐや姫!』に於いては繰り返し否定され、新たな外側の物語の存在が予期されていたのであった。
このような運動の中では、エンディングが否定される度にそれ以前の部分を意味づける準拠点が失われ、そこに付与されていた意味は一旦留保されてしまう。
しかし、それが、今とは根本的に異なる状態、ハッピーな状態を実現しうる唯一の試みでもある。
それまで成立していた意味 = 合理性の向こう側へ歩みだそうとすること、これが、彩葉の身振りであり、同時に映画それ自体の運動なのである。
『超かぐや姫!』に於いては、合理性の向こう側へ歩を進めること、不確実性に開かれていくことが細かいながらもいたるところで描写されていた。
卒業ライブ前、reply の続きに悩む彩葉を前に、かぐやは「壁ドンだって暮らしを盛り上げるプレリュード」という歌をつける。
「これでいいじゃん♫」というかぐやに「いいのかも」と返す彩葉は、それまでに成立してきたものの外部・合理性に還元できないものに対する悪くなさを示している。
くるくると円を描きながらも閉じることのないかぐやの腕輪の造形さえ、このような開かれを象徴的にかたどったものとして理解できるかもしれない。
不確実性に開かれた態度にまつわる表現の密度を考えるならば、次のことを指摘しなければならない。
すなわち、FUSHI によって見せられた8000年の記憶の中に登場してきた人物たち・それらの人々と FUSHI の関わりというのが、当に、このような不確実性に開かれた態度と結びついたものではなかったか。
神功皇后の「汝は縁起よしとぞ」とはまだみぬ縁起を持ち出した語りにほかならない。
「逢い見ての のちの心に くらぶれば」という歌は「昔はものを 思はざりけり」と続く。逢瀬の前からは臨むことのできなかった心象である。
花魁は「ムカつくからさ つらくても笑うんだよ」という。ムカつくことと笑うことには断絶がある。ムカつくから「こそ」辛くても笑うのである。それはムカつきと辛さ・それを支える論理と現状に回収されない(ことを目指した)笑いであると言わねばならない。この意味で花魁の笑いは外部を志向している。
「私には、ここなの」と告げる焼け跡の少女。それまでの秩序が徹底的に破壊された場所で、少女はそれでも「ここ」を選ぶ。過去の論理が通用しない場所で、なおも「ここ」と言うこと。これは、既存の秩序の連関の外側を引き受ける態度にほかならない。
記憶の中に登場する人物が、このような「既に成立していたものの向こう側へ、不確実なままに歩みだそうとする」人物・不確実な未来とその不確実性を肯定する人物なのだとすれば、かぐや = ヤチヨは、8000年間ずっと、彩葉を追い続けていたことになる。
より正確には、彩葉が自分に対して見せた態度の影を追い続けた、ということになる。
だから、彩葉がみたものは、単なる8000年分の歴史ではない。
そうではなく、かぐや = ヤチヨが 8000 年間自分を想い続けていたという事実を、彩葉は目の当たりにしたのである。
ヤチヨが笑い続けていること・その笑顔は、このような 8000 年の蓄積によるものなのであって、辛いから「こそ」笑う態度・既存の論理の外側を目指す態度・彩葉が自分に見せた態度の表出にほかならない。
ヤチヨの笑顔は、今・現在及びそこから導かれる一切の論理的帰結としての未来を遠く超えて、ここではない、全くの外部であるような未来を志向している。
それは、一切の基盤・それを支える理由を、因果を、もたないものであるがゆえに、「底抜けに明るい」のである。
しかし一方で、その無根拠性によって必然的に、ヤチヨの底抜けな明るさは、不安定さと脆弱性を背負いこんでしまうことになる。
自分には現状をどうすることもできないのだ、という世界認識は、「だからこそ外部に賭けよう」という態度にも、「もうだめだ」という絶望・諦めの態度にも同時に接続し、どちらにも転びうる。
してみると、ここでまで議論してきた、外部に向かって開かれていく態度は、やはりその不安定さのゆえに、一種の絶望・諦めの態度をも可能性として抱きこんでしまう。
それが、ヤチヨの笑顔の・彩葉の振る舞いの、複雑性の根源なのである。
すでに確認したように、彩葉の赤ちゃんかぐやに対する振る舞いは、外部を外部として留めおく態度にほかならないが、同時に、かぐやと出会う前の彩葉は芦花と真実から「どこかにふっと消えてしまいそう」な存在として心配されていたのだった。「決まっていることが変わるわけじゃないし、受け入れて覚悟するしか、ない」という彩葉の言葉は、不確実性への開かれと不可分であったのだと理解しなくてはならない。
ヤチヨはいつもニコニコ、「本当に楽しそうに笑う」と説明される一方で、彩葉に正体を明かした直後「おばあちゃんになってしまいました」とひとつの諦念を示すあのシーン、「もう終わっても良かったのに」と嘗ての諦念を述べるあのシーンでも、その表情は「笑顔」なのである。
だからこそ、エンディングを否定する『超かぐや姫!』の運動は優れて積極的な運動であると手放しに称賛することはできない。
否定の反復の先でより深い絶望を招きこんでしまう可能性を、つねにすでに内包してしまっている。
今の状態はハッピーでないと言って、物語の先を描こうとしても、それが成就する保証は、やはりどこにもないのである。
しかしそれでも、作品全体が重きを置いているのは、外部の可能性に賭ける方向の運動であると言わねばならない。
彩葉のいう「このお話にはまだ続きがある」というのは、当にその実践の始まりを示す印象的な言葉であり、このような賭けなくして、彩葉とかぐやとヤチヨが一緒に再び舞台に立つというハッピーな状態は訪れ得なかった。
やはり『超かぐや姫!』は、無根拠なままに・不確実な未来を許容する態度を肯定しているのであり、絶望と開かれの不可分な交錯を捉えたうえで、それでもなお、と言ってみせる強さが描かれているのである。
さて、ここで確認したような、無力感と外部への賭けの不可避的な混合というのは、当に、今を生きる人間が、世界に対して抱く認識と構造的に一致していることに注意したい。
今を生きている私たちにとって、未来のことはわからない。
今この瞬間まで信じていられたことが、次の瞬間には全く意味をなさなくなる可能性に曝されている。
今手元にある、どんな妥当なカードを切っても、未来が好転する兆しは見えない
――そのような閉塞の中にいる人間にとって『超かぐや姫!』が正視してきた無力と外部への賭けの交錯は、自らの認識と共鳴するものとして響きうる。
こうして、『超かぐや姫!』はそのような絶望を生きること、そして、なおも希望に向かって無根拠なままに賭けていかざるを得ない生に寄り添い・肯定する物語として観客の心を打ちうるのではないだろうか。
『超かぐや姫!』を観たあとに残る「頑張ろう」という気持ちは、このような共鳴によるものではなかったか。
もちろん、『超かぐや姫!』は以上でみたような「勇気」の擁護に、完全に成功したのだということはできない。
彩葉の振る舞いが、ヤチヨの笑い方がそうであったように、無力感の中に閉じ込められてしまう可能性もまた否定できない。この作品の提示した肯定もまた、無根拠なものにほかならない。第1節で確認したように、かぐやの発言によって、この作品がハッピーエンドであるかバッドエンドであるかは宙吊りのままに留めおかれている。
しかし、そのような無根拠さを正視し、無根拠さを作品内に描きこむことが、『超かぐや姫!』のもつ、誠実性なのではないか。
この意味で、『超かぐや姫!』は鼓舞し・引き上げるものとしてではなく、寄り添い・支えるものとして体験されるのではないだろうか。
おわりに
以上、『超かぐや姫!』についての考察をおこなってきました。
当然、ここで述べたのとは全く異なる理解の仕方があるものだとおもいますし、そもそも、回収しきれなかったモチーフや演出・描写など挙げればキリがありません。しかしながら、以上の議論は、一定の一貫性をもって、『超かぐや姫!』に付帯しそうな少なくない疑問に答えられるものになっているのではないだろうか、ともおもっています。
もしよろしければ、みなさまの理解も教えていただけると嬉しいです。
コメントや指摘なども歓迎いたします。
ねるにゃー!。
*1:彩葉さんとかぐやさんの周囲にいた人物たち
*2:彩葉さんが置かれている(た)状況は、端的に言って、見放されているとしかいいようがない、とおもう。映画開始時の彩葉さんは、基本的に、能力に還元されてしまっている。
*3:例えば、富士の本地、狭衣物語、東方永夜抄、かぐや姫の物語、など
*4:EXステージ、などのEx。
*5:確かに、そこには構造的な類似がある。実際、そのキャラクターがもう二度と喋らないとしても、そのキャラクターの中にいる「ひと」が死ぬわけではない。加えて、卒業ライブそれ自体がキャラクターの「最期」の瞬間とは限らないのである。卒業ライブの後に、最後の Twitter の更新がある、最後の歌ってみた動画の配信がある、など。そういった場合には、キャラクターそれ自体が、卒業ライブを境に「死んで」しまったとはとてもいうことができない。その意味で、卒業ライブは2重に「生前葬的」である。
*6:配信者と視聴者であれば、それは抑圧でさえなく、単なる価値付けに過ぎないのかもしれない。
*7:尤も、卒業というレトリックには、ファンやアイドルをプロデュースする立場の人間による消費の構造を無批判なままにしておくばかりか、それを愛情と成長の場と「誤認」させ、搾取構造を周到に隠蔽する働きがあることが、最も重大である。この点にはこれ以上ふかく立ち入らない(立ち入れるほど深い知見をもっていない!)が、極めて重要なテーマであり、分析されねばならないとおもう。
*8:例えば、腕輪を受け渡すときに、かぐやが彩葉の右手を両手で包み込む、などは自然に可能だが、そうはならない。
*9:正確にいうと、トランジションの前後で2人がそれぞれ映ることが1度あり、回想でも1回同じフレーム内に映る。
*10:実際には、かぐやからもらった腕輪が、彩葉と月の間の回路となったとみえるが、このことは直接に作品内部で説明されるわけではない。少なくとも彩葉にとっては知る由もないのである。もし腕輪がそのようなものだとわかったとして、『竹取物語』に従うならば羽衣を着せられたかぐやは記憶を失っているはずである。彩葉からのメッセージが、かぐやにとって意味を結ぶかどうかを保証するものは、やはりどこにもないのである。