本と雑感#2『汝の「欲望」に従って行為せよ』桑原旅人
本書では、精神分析家ジャック・ラカンの提起する、私たちは自身に固有の「欲望」を直視しその現実化を追求するべきであるという倫理観が、彼のテクストおよび講義録から炙り出される。
そのいうなれば「ラカン倫理学」なる定言命法は、アリストテレス以後の通俗的な倫理観とは相容れない。なぜなら、後者は「善」を追求するべしとするのに対し、前者はむしろ「悪」への傾斜をも厭わないからである。フロイトがトラウマへの「固着」を重んじるように、ラカンは対象a(欲望を押さえつけるファルスに対し、対象aは欲望を喚起する)への固執なくして生の引き受けは果たされない、と言う。ラカンによれば、アリストテレス的な倫理観すなわち「善」の理想化は、シニフィアン連鎖の網目から逃れられていない。つまり、他人の目を気にかけ、自身の中に疼いているはずの「欲望」を黙殺し、象徴界にとどまっているようでは、私たちの生ー死において「美」は顕現しないのである。
というのが大雑把な要約であるが、本書の目新しさは、そのようなファルス的ではない「欲望」へのラカンの注目が、従来みなされてきたよりももっと早くに行われていたのではないか?、という見立てにある。著者は、戯曲などの文学作品(『ハムレット』、『アンティゴネー』、『饗宴』、『クーフォンテーヌ三部作』)に対するラカンの解釈を決して軽視せず、そこにラカンの様々なアイディアの先駆的萌芽をみる。この視点は、これまでの研究と比べると珍しいものであろう。
なかでも私が興味深く読んだのは、『饗宴』におけるソクラテスとアルキビアデスの間の「転移」関係についての論述である。ソクラテスは、「不知の自覚」ゆえに、すなわち愛を知っているがゆえに、自己に欠けている何かがアルキビアデスの「欲望」の対象になっていることを知らない。一方でアルキビアデスは、自身の何が他者たちの欲望を促しているかを知らない。このように、愛する人と愛される人はともに別種の「知の欠如」を抱えている。その欠如同士のすれ違いにより、両者の間で「転移」が生じたときにはすでに「愛」は終結しているのだ。著者は以下のようにまとめる。
「愛される者」は、最終的に「愛する者」として持っていないものを与えることになる。そしてこの移行が起きたときに、かつて「愛される者」であった対象は「愛する者」を追いかけるが、かつて「愛する者」であった「愛される者」は二度と振り向かない。なぜなら、もうそこには何もないからである。つまり「愛される者」の「愛する者」への移行という愛の奇跡は、二人の関係の死そのものなのだ。 (省略) その関係は現実界に結ばれる愛であり、その場には長くいられないからである。
そしてこれはまさしく、分析家と分析主体の関係においても起こりうることだ。「転移」によって分析家が分析主体に愛されてしまったとき、分析家は分析を終了させないといけない。これは医療倫理の「無感動」といったマニュアル的義務ではなく、むしろ分析家もまた己の「欲望」を抱くからこその必然的行為である。そのときには、分析家は分析主体の「変容」を「欲望」しなければならないのだ。「変容」とは紛れもなく、己の「欲望」へと向かって走り始めること、である。たとえ調和的な「愛」が望めないとしても、お互いが各々の「欲望」に向かって突き進むこと。それがラカンの考える倫理的な生き方である。
愛とは持っていないものを与えることである。
他にも詳述はしないが、オリアンが、自身の死によって見せるファルス的〈父〉ではない「男らしさ」により、パンセという〈女〉の欲望に殉じ、それによって死んだ〈父〉を賦活させる、という話も面白かった。だが、見ようによっては、それは畢竟「死ぬしかない」という垂直的な死の欲動を称揚することにもなりかねない。そのあたりはまだ私の中では腑に落ちていない。
*画像:コレッジョ『ユピテルとイオ』


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