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ヤンキーガール/Novel by ろがぴ

ヤンキーガール

12,821 character(s)25 mins

横柄も 青い恋も 一緒に燃やすから

中等部の杏山カズサと柚鳥ナツの出会いの話

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  ヤンキーガール


 そいつは屁理屈ばかりで周りを困らせる、変な奴だった。
 今思い返せば、あの頃の私は誰かと話すのが怖かったんだと思う。言葉にすれば何か大切なものが壊れてしまいそうで、だから黙っていた。黙っているのに飽きたら、殴った。それだけのことだった。
 中等部三年の秋、私は教師たちから腫れ物のように扱われていた。
「杏山さんは今日も欠席ですか」
「いえ、教室にはいるようですが……」
 職員室の前を通りかかると、そんな声が聞こえてくることがあった。私の担任は四十くらいの女で、眉間に寄った皺が取れることのない人だった。私が授業中に机に突っ伏していても、肩を揺すって起こすことはない。私が教室を出ていっても、背中に声をかけることはない。そういう人だった。
 別にいいと思っていた。関わらないでくれる方が楽だった。
 生徒が銃器を持ち歩くのが当たり前のこの街では、実力が物を言う。成績がよければ偉い、喧嘩が強ければ偉い。そういう単純な世界だ。
 私はどちらでもなかった。成績は悪かったし、喧嘩はそこそこ強かったが、それを誇りに思ったことは一度もなかった。拳を振るうたびに、何かが削れていくような感覚があった。何が削れているのかは、分からなかった。
 教室の一番後ろの窓際の席。そこが私の居場所だった。授業が始まると机に顔を伏せる。頬に当たる木の冷たさ。腕を枕にすると、自分の吐息だけが耳に届く。窓の外では風が木の葉を揺らしていて、その音が波のように遠ざかったり近づいたりした。
 クラスメイトたちは私のことを避けていた。私も避けていた。それでよかった。
 その日も、いつものように数学の授業中に目を閉じていた。
 教師の声が水の底から聞こえてくる。黒板にチョークが滑る音。誰かが消しゴムを落とす音。笑い声。ため息。そういうものが全部、ガラス越しに聞いているみたいに遠かった。
 夢は見なかった。ただ暗闇の中にいた。何も考えなくていい暗闇。何も感じなくていい暗闇。
 どれくらい経ったのか分からない。
 額に鋭い痛みが走った。
「痛っ」
 声が勝手に出た。顔を上げると、目の前にピンク色の髪があった。
 柚鳥ナツ。
 同じクラスの、変な奴だった。
「起きたかい」
 柚鳥は穏やかな声で言った。その声は妙に近くて、耳の奥まで届いた。教室を見渡すと、もう誰もいなかった。窓の外は夕焼けに染まっている。オレンジ色の光が教室の床を這っていた。
「……何だよ」
 私は顔を背けた。額がまだじんじんと熱を持っていた。
「寝ていたから起こしたんだ。デコピンで」
 柚鳥は私の机の前に立ったまま、少し首を傾げた。影が私の机の上に落ちた。
「このまま寝ていたら、夜になってしまうだろう」
「ほっとけよ」
「ほっておけない」
 即座に返された。私は顔を上げて柚鳥を睨んだ。柚鳥は困ったような顔をしていなかった。ただ、じっと私を見ていた。その目は何かを値踏みするような冷静さがあった。
「教師も人間なのだから、寝られたら不快だろう」
「知るかよ」
「授業で起きていられないほどの事情があるのかい」
 その言葉に、何かが切れた。
「うっせーよ」
 私は立ち上がった。椅子が床を引きずる音が響いた。机が大きく揺れて、教科書が一冊、床に落ちた。鈍い音がした。柚鳥は一歩後ろに下がったが、顔色は変わらなかった。
「お前に何が分かるんだよ」
 声が震えていた。自分でも分かった。震えているのが悔しくて、私は机を蹴り飛ばした。金属の脚が床を擦る音が教室に響いた。机が倒れた。ノートが散らばった。ペンケースが転がって、中身が飛び出した。
 柚鳥は何も言わなかった。ただ黙って、散らばった私の荷物を見ていた。
 沈黙があった。
 長い沈黙だった。
 窓の外から、遠くで誰かが笑う声が聞こえた。部活動の声だろうか。明るい声だった。
 私はカバンを掴んで教室を出た。廊下を走った。足音だけが響いた。階段を駆け下りた。息が切れた。誰ともすれ違いたくなかった。
 校門を出るとき、背後から柚鳥が追いかけてくる気配はなかった。
 当たり前だ。誰が私を追いかけるものか。


 家に帰っても誰もいなかった。
 鍵を回す音が、静まり返った家に吸い込まれていった。ドアを開けると、昼間から締め切られていた空気が、まるで水の中のように重く顔にまとわりついた。換気扇の音もエアコンの音もしない。人が生活している家には必ずある、何かの気配が、ここにはなかった。
 靴を脱ぎ捨てて、リビングに向かった。
 大きなソファ。ガラスのテーブル。壁にかけられた抽象画。全部が雑誌から切り抜いたみたいに綺麗に配置されていた。ソファのクッションは膨らんだまま、誰の形も残していなかった。
 冷蔵庫には、いつものようにメモが貼ってあった。マグネットで留められた白い紙。ママの几帳面な文字。
『今週は出張です。お金は引き出しに入れておきました。何かあったら連絡してください。母より』
 メモを剥がして丸めて、ゴミ箱に投げ入れた。小さな音がした。
 引き出しを開けると、五万クレジットが入っていた。新札だった。銀行から下ろしてきたばかりなのだろう。いつも通りだ。パパからのメモはなかった。パパはママよりもっと家にいなかった。愛人のところにいるのか、仕事で海外にいるのか、私は知らない。知ろうとも思わない。
 学校に通えるくらいのお金はある。それだけで十分だった。
 私は二階の自分の部屋に上がった。階段を上る足音だけが響いた。ベッドに倒れ込んで、天井を見上げた。白い天井。何の飾りもない。照明のカバーに、小さな虫の死骸が一つ、張り付いていた。
 柚鳥ナツの顔が浮かんだ。
 あいつは何なんだ。
 教師も人間だから、だと? 授業中に寝るなと言いたいのか。そんなの分かってる。分かってるけど、起きていられなかった。起きていたら、何か考えなきゃいけない気がして、それが嫌だった。勉強のこと。将来のこと。自分のこと。全部が重くて、目を開けていられなかった。
 私はベッドから起き上がった。部屋を出て、また階段を降りた。誰もいないリビングを通り過ぎて、玄関に向かう。外に出ると、もう夜だった。
 街灯が一つ、また一つと点いていく時間帯だった。
 スマホを取り出して、メッセージを送った。
『今から行く』
 すぐに返信が来た。
『了解。コンビニ前な』


 コンビニの前には、いつものメンバーが集まっていた。
「おー、カズサ」
 タバコの煙を吐き出しながら、レイカが手を上げた。同じ三年生で、髪を金色に染めている。私よりも背が高くて、喧嘩も強い。煙が夜風に流されて消えていった。
「よう」
 私は軽く手を上げて返した。レイカの隣には、もう二人いた。どちらも私と同じくらいの年齢で、制服のスカートを短くして、派手なメイクをしている。
「今日も学校サボったの?」
 一人が聞いてきた。
「いや、行った。つまんなかったけど」
「だよね。学校なんて、つまんね」
 もう一人が笑った。私も笑った。本当は笑いたくなかった。でも、笑わないと話が続かない気がした。
「とりあえず、何か買おうぜ」
 レイカがコンビニのドアを開けた。自動ドアの開く音。店内から明るい光が溢れた。私たちも続いた。
 白い照明。有線から流れる音楽。冷蔵ケースのモーター音。レイカは迷わず酒の棚に向かった。私は菓子の棚を見た。
 チョコレート、グミ、ポテトチップス。
 どれもパッケージは派手だったが、どれもピンとこなかった。手に取っては戻し、手に取っては戻した。最終的に、チョコレート菓子を一つ選んだ。別に食べたいわけじゃなかった。ただ、何も買わないのも変な気がした。
 レジに持っていくと、店員はちらりと私を見て、何も言わずに会計をした。ピッという音。レシートが出る音。
 外に出ると、レイカたちはすでに缶ビールを開けていた。プルタブを開ける音が、夜の静けさの中で妙に大きく聞こえた。
「飲む?」
 レイカが私に缶を差し出した。
「いい」
 私は首を振った。レイカは肩をすくめて、自分で飲んだ。
 コンビニの前のベンチに座って、私はチョコレートを食べた。包み紙を開ける音。口に入れると、甘かった。甘いだけだった。何の感動もなかった。噛んで、飲み込んだ。また一口。噛んで、飲み込んだ。
「なあ、カズサ」
 レイカが言った。
「あんた、最近元気ないよな」
「そう?」
「そうだよ。前はもっと、こう、ガンガンいってたじゃん」
「別に」
 私はチョコレートを口に運んだ。レイカは私の顔を覗き込んだ。タバコの匂いがした。
「何かあった?」
「何もない」
 レイカはそれ以上聞いてこなかった。それがありがたかった。
 どれくらいそうしていたのか、分からない。ただ、夜風が冷たくて、街灯の光が妙に眩しかった。風が吹くたびに、コンビニの看板が小さく軋んだ。
 その時、コンビニのドアが開く音がした。
 振り返ると、そこに柚鳥ナツがいた。


 柚鳥はカバンを肩にかけて、コンビニから出てきたところだった。手には小さなビニール袋を持っている。中には何か箱が入っているようだった。
 私たちの視線が合った。
 柚鳥は少し驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻った。私は目を逸らした。心臓が一度、大きく跳ねた。
「あれ、知り合い?」
 レイカが聞いてきた。
「いや」
 私は短く答えた。でも、柚鳥はこちらに近づいてきた。足音が近づいてくる。
「こんばんは、カズサ」
 柚鳥は私の前で立ち止まった。レイカたちが柚鳥を見た。品定めするような目つきだった。柚鳥はレイカたちにも軽く頭を下げた。
「友達かい?」
 柚鳥の問いに、レイカが先に答えた。
「そうだよ。あんたは?」
「同じクラスの柚鳥ナツだ」
「へえ」
 レイカは興味なさそうに缶ビールを飲んだ。柚鳥は私を見た。
「塾の帰りなんだ。新作のプリンが出たから買ってきた」
「……そう」
 私は顔を背けた。柚鳥は袋の中を見せた。本当にプリンが入っていた。容器に貼られたシールが街灯の光を反射した。
「カズサ、少し話せるかい」
「話すことなんかない」
「そうか」
 柚鳥は少し考えるような顔をした。それから、私の隣に座った。レイカたちが少しざわついた。
「何だよ、お前」
 私は柚鳥を睨んだ。柚鳥は動じなかった。
「君は今、何をしているんだい」
「見れば分かるだろ」
「友達と話している」
「そうだよ」
 柚鳥は少し間を置いた。その間が妙に長く感じた。
「それは楽しいかい」
 その問いに、私は答えられなかった。
 喉の奥で言葉が引っかかった。楽しい、と言おうとした。でも、言えなかった。
 柚鳥は袋からプリンを取り出した。スプーンも一緒に入っていたらしい。蓋を開けて、一口食べた。小さな音がした。
「美味しい」
 柚鳥は満足そうに言った。それから、私を見た。
「カズサ、君はカントという哲学者を知っているかい」
「知らない」
「そうか」
 柚鳥はまた一口、プリンを食べた。
「カントは『根本悪』という概念を提唱した。人間には生まれながらにして悪への傾向があるという考えだ」
「だから何だよ」
「その中で、カントは『心の転倒』という言葉を使った」
 柚鳥はプリンを食べながら続けた。スプーンが容器に当たる小さな音。
「人間は自己愛や傾向性、つまり個人的な欲望や利害を優先してしまう。本来なら道徳法則に従うべきなのに、それを自分の満足のための条件にしてしまう。それが心の転倒だ」
「何が言いたいんだよ」
 私は苛立ちを隠せなかった。レイカたちも黙って聞いていた。タバコの煙だけが静かに上っていた。
「君は今おそらく、自分の寂しさを埋めるために、ここにいる」
 柚鳥の言葉が心の底に沈んでいった。
「それは悪いことじゃない。でも、それが君を本当に満たしているかい」
 満たされているか、と問われて、私は答えられなかった。
 満たされていない。それは分かっていた。でも、他にどうすればいいのか分からなかった。
「ごちゃごちゃうっせーんだよ」
 私は立ち上がった。柚鳥も立ち上がった。
「君にはまだ手を差し伸べてくれる優しい人がいる」
 柚鳥は静かに言った。
「そんな人がいるうちに、不良なんてやめるべきだ」
「うるせえ」
 私は柚鳥の胸ぐらを掴んだ。制服の生地が手の中で皺になった。柚鳥のプリンが地面に落ちた。プラスチックの容器が転がって、白いクリームが広がった。
「お前に何が分かるんだよ。お前は、お前は……」
 言葉が続かなかった。何を言いたいのか、自分でも分からなかった。
 私は拳を振り上げた。
 柚鳥は目を閉じなかった。ただ、じっと私を見ていた。その目に何も映っていなかった。恐怖も、怒りも、軽蔑も。
 拳を振り下ろした。
 柚鳥の頬に当たった。鈍い音がした。柚鳥は少しよろけたが、倒れなかった。
 沈黙があった。
 長い、長い沈黙だった。
 遠くで車が通る音がした。風が吹いた。コンビニの看板が軋んだ。
「カズサ」
 レイカが私の腕を掴んだ。
「もうやめとけ」
 私は柚鳥から手を離した。柚鳥は頬を押さえていた。でも、泣いていなかった。ただ黙って、私を見つめていた。
「……行こう」
 私はレイカたちに言った。レイカは頷いた。
 私たちはコンビニの前を離れた。足音が遠ざかっていった。振り返ると、柚鳥はまだそこに立っていた。地面に落ちたプリンを見下ろしながら。
 街灯の光の中で、柚鳥の影が長く伸びていた。
 私は前を向いて歩いた。でも、胸の奥が妙にざわざわしていた。呼吸をするたびに、何かが引っかかった。
 きまりが悪かった。
 それだけだった。


 翌日、学校に行くのが嫌だった。
 朝、目が覚めたとき、最初に思い出したのは柚鳥の顔だった。私に殴られても、ただじっと見ていたあの顔。何も映していなかったあの目。
 ベッドから出たくなかった。天井を見つめた。白い天井。照明のカバーの中の虫の死骸。それを見つめているうちに、時間だけが過ぎていった。
 でも、起きた。
 制服を着て、メイクをする。鏡を見ると、いつもの自分がいた。濃いメイク。猫耳。ピンクのメッシュ。全部、いつも通りだった。
 それなのに、何かが違う気がした。
 鏡の中の自分が、少しだけ歪んで見えた。
 朝食は食べなかった。冷蔵庫を開けても、何も食べたいものがなかった。牛乳のパック、ヨーグルト、作り置きの惣菜。どれも誰かが買ってきて、誰も食べないまま賞味期限が近づいているものばかりだった。
 結局、水だけ飲んで家を出た。
 学校までの道のりはいつもより長く感じた。足が重かった。空は灰色で、雨が降りそうだった。湿った空気が肌にまとわりついた。
 校門をくぐるとき、誰かとすれ違った。知らない顔だった。よかった。
 教室に向かう途中、廊下を歩いていると、角を曲がったところで、誰かとぶつかりそうになった。
「あ」
 声が出た。相手も立ち止まった。
 柚鳥ナツだった。
 柚鳥は昨日と同じ格好だった。頬に、薄く痣ができていた。私がつけた痣。青紫色に変色していた。
 私は目を逸らした。そのまま通り過ぎようとした。
「カズサ」
 柚鳥が名前を呼んだ。
 私は足を止めなかった。止めたくなかった。でも、体が勝手に止まった。足が動かなくなった。
「何」
 振り返らずに言った。
「昨日は言い過ぎた。すまなかった」
 その言葉に、私は振り返った。
 柚鳥は頭を下げていた。本当に、申し訳なさそうな顔をしていた。
「……は?」
 私は声を出した。何を言っているのか、理解できなかった。
「君の事情も知らないのに、勝手なことを言った。それは私の傲慢だった」
 柚鳥は顔を上げた。頬の痣が痛々しかった。でも、柚鳥の目はまっすぐ私を見ていた。
「だから、謝りたかったんだ」
 私は何も言えなかった。
 謝られるとは思っていなかった。殴られたのは柚鳥の方なのに。悪いのは私の方なのに。
 喉の奥が熱くなった。
「別に……いいよ」
 私は視線を逸らした。
「私も悪かった。殴って、ごめん」
「いや、いいんだ」
 柚鳥は首を振った。
「私が君を怒らせたんだから」
 沈黙が流れた。
 廊下に、遠くで誰かが笑う声が聞こえた。教室から漏れる話し声。窓の外で鳥が鳴いた。
 私は歩き出そうとした。
「待って」
 柚鳥が私を呼び止めた。私は立ち止まった。
 柚鳥は制服のポケットから小さな紙切れを取り出して、それを私に差し出した。
「これ」
「何?」
 私は紙切れを受け取った。そこには、携帯電話の番号が書かれていた。几帳面な文字だった。
「私の番号だ」
「君と話してみたい。今夜電話をかけてくれ」
「……何で」
「君と話していると、面白いから」
 面白い、と柚鳥は言った。私を殴られて、それでも面白いと言った。
「私は全然面白くない」
「そうかな」
 柚鳥は少し笑った。その笑顔に、嘘はなかった。
「じゃあ、つまらなくてもいい。君と話したいんだ」
 私は紙切れを握りしめた。紙が手の中で少し湿った。
「……あっそ」
「うん」
 柚鳥は頷いた。それから、また頭を下げた。
「じゃあ、また」
 柚鳥は私の横を通り過ぎていった。足音が遠ざかっていった。靴が床を踏む音。それが角を曲がって、聞こえなくなった。
 私は廊下に立ち尽くしていた。
 手の中の紙切れが、妙に温かかった。


 その日の放課後、私は他校の不良と喧嘩をした。
 きっかけは些細なことだった。街で肩がぶつかった。相手が因縁をつけてきた。私は無視しようとした。でも、相手がしつこかった。
「おい、聞いてんのか」
 相手は私の腕を掴んだ。三人いた。全員、私より背が高い。タバコの匂いがした。
「離せよ」
 私は低い声で言った。
「離してほしかったら、謝れよ」
「私は何も悪くない」
「は? お前がぶつかってきたんだろ」
 違う。ぶつかってきたのは相手の方だった。でも、言っても無駄だと分かっていた。こういう連中は、最初から喧嘩をする理由を探しているだけだ。
 私は相手の手を振り払った。
「おい」
 相手が私の胸ぐらを掴んだ。
 私は殴った。
 相手の鼻に拳が当たった。骨に当たる感触。相手は鼻を押さえてうずくまった。血が指の間から滴った。
「てめえ」
 残りの二人が私に向かってきた。
 一人目の顔面を蹴った。二人目の腹を殴った。息が抜ける音がした。
 でも、三人目が後ろから羽交い絞めにしてきた。腕が首に回される。息が詰まった。
「離せ」
 私は暴れた。肘を相手の腹に叩き込んだ。一度。二度。相手が呻いて、力が緩んだ。
 その隙に逃げようとしたが、最初に殴った相手が立ち上がってきた。鼻血を流したまま。
「この野郎」
 相手が私に掴みかかった。私はよろけた。
 地面に倒れた。背中を打って、息が止まった。スマホがポケットから飛び出した。宙を舞って、地面に落ちた。ガラスが割れる音がした。
「あ」
 声が出た。
 スマホはそのまま、相手に踏まれた。
 画面が完全に割れた。蜘蛛の巣のようなひびが走った。もう使えない。
「ざまあみろ」
 相手は笑った。血の混じった唾を吐いた。私は立ち上がって、もう一度殴ろうとした。
 でも、やめた。
 私はスマホを拾って、その場を離れた。
「おい、待てよ」
 相手が追いかけてきたが、私は走った。角を曲がって、路地に入って、相手を撒いた。
 息が切れた。肺が痛かった。壁に寄りかかって、スマホを見た。
 画面は真っ黒だった。何も映らなかった。押しても、何も反応しなかった。
 最悪だ。


 夜、レイカたちと街の壁に落書きをしていた。
 スプレー缶を持って、壁に適当な文字を書く。「Fuck」とか「Cath Palug」とか。特に意味のない文字だった。スプレーの音だけが夜に響いた。塗料の匂いが鼻についた。
「カズサ、スマホ壊れたんだって?」
 レイカが聞いてきた。
「うん」
「新しいの買えば?お前んち金あるだろ」
「そうするつもり」
 でも、今日は買えなかった。もう店が閉まっている。明日にでも買いに行こう。
 レイカたちは笑いながら落書きを続けていた。私も笑おうとした。でも、笑えなかった。
 胸騒ぎがした。
 何か、大事なことを忘れている気がした。忘れ物をしたような、でも何を忘れたのか思い出せないような。
「私、帰る」
 私は突然言った。
「え、もう?」
「うん」
「まだ早いじゃん」
「明日早いから」
 嘘だった。明日も別に早くない。でも、そう言って私はスプレー缶を置いた。
「じゃあね」
「おう、また明日」
 レイカたちに手を振って、私は歩き出した。
 家に帰る途中、何度も立ち止まった。
 何だろう、この感じ。
 胸の奥が、ざわざわしている。落ち着かない。
 家に着いた。ドアを開けた。やっぱり誰もいなかった。
 リビングに入って、ソファに座った。
 テーブルの上に、パパの書類が置いてあった。仕事の資料らしい。英語で書かれた契約書のようなものだった。私には関係ない。
 それから、ふと気づいた。
 ポケットの中に、紙切れがあった。
 柚鳥ナツの電話番号だった。
 ああ、そうだった。今夜電話をかけてくれ、と柚鳥は言っていた。
 私はソファから立ち上がった。階段を上って、自分の部屋に入った。
 ベッドに倒れ込んで、天井を見上げた。
 電話をかける、なんて無理だ。だって、スマホは壊れた。それに、何を話せばいいのか分からない。
 私は目を閉じた。でも、眠れなかった。
 柚鳥の顔が浮かんだ。頬の痣。穏やかな笑顔。
 君と話していると、面白いから。
 そんなこと言われたって、困る。
 私は何も面白くない。何も持っていない。
 でも。
 私は起き上がった。部屋を出て、階段を降りた。リビングに戻った。
 固定電話の子機が棚の上に置いてあった。薄く埃を被っていた。私はそれを手に取った。冷たかった。
 紙切れを広げた。番号を確認した。指が震える。
 何でこんなに緊張しているんだろう。
 ただの電話なのに。
 私は番号を押した。ボタンを押す音が一つ一つ響く。呼び出し音が鳴る。
 一回。
 二回。
 三回。
 切られるかもしれない。そう思った。
「はい、柚鳥です」
 声が聞こえた。私は息を呑んだ。
「……私」
「カズサ?」
「うん」
「電話してくれたんだね」
 柚鳥の声は、思ったより近くに聞こえた。耳に直接届くような声だった。
「……スマホ壊れたから、家の電話」
「そうなんだ」
 柚鳥は笑った。優しい笑い声だった。
「今、何してるの?」
「映画を見てた」
「映画?」
「うん。『ホーム・アローン』。知ってる?」
「聞いたことある」
「面白いよ。ちょうど今の君にピッタリだろ」
 何がピッタリなのか分からなかった。でも、聞かなかった。
「柚鳥は、普段何してるの?」
「勉強したり、映画を見たり、本を読んだり」
「真面目だね」
「そうかな」
 柚鳥は少し考えるような間を置いた。
「カズサは?」
「……特に何も」
「趣味とかあるだろう」
 趣味。
 そう言われて、私は考えた。
「スイーツ、かな」
「スイーツ?」
「甘いもの。好き」
「へえ」
 柚鳥は興味深そうに言った。
「どんなのが好き?」
「マカロンとか、プリン、とか」
 その言葉が出た瞬間、昨日のことを思い出した。地面に落ちたプリン。白いクリームが広がっていく様子。
「プリンか。昨日買ったやつ、美味しかったよ」
 私が落としたプリン。
「……ごめん」
「いいよ。また買えばいいし」
 柚鳥はあっけらかんと言った。本当に気にしていないようだった。
「ねえ、カズサ」
「何?」
「映画、見る?」
「映画?」
「うん。一緒に見ようよ」
「今から?」
「そう」
 電話しながら映画を見る、なんて考えたこともなかった。
「でも、私、『ホーム・アローン』持ってない」
「じゃあ、他のでもいいよ。家にDVDとかない?」
 私はパパの書斎を思い出した。
「あるかも」
「じゃあ、探してみて」


 私は書斎に入った。
 普段は入らない部屋だった。ドアノブを回すと、少し重かった。中に入ると、本とインクの匂いがした。
 本棚にはビジネス書が並んでいて、机の上には書類が山積みになっている。ペンが何本も転がっていた。
 でも、隅の方に、映画のDVDが並んでいる棚があった。私はそこに近づいた。
「何かある?」
 電話の向こうで柚鳥が聞いてきた。
「ちょっと待って」
 私はDVDの背表紙を見ていった。
『ゴッドファーザー』『タイタニック』『ローマの休日』
 どれも見たことがなかった。というか、タイトルも知らないものが多かった。パパが好きな映画なのだろうか。それとも、ただ並べてあるだけなのか。
 それから、一つ目に止まった。
『雨に唄えば』
 なぜか、その文字が目に飛び込んできた。
「雨に……なんとかえば、ってやつがある」
「なんとかえば?」
「字が読めない」
「唄えば、だね」
「そう、それ」
「『雨に唄えば』か。いい映画だよ」
「これ見る」
「うん。それがいい」
 私はDVDを持って、リビングに戻った。テレビの前に座って、DVDをセットした。プレーヤーを起動する音。ディスクが読み込まれる音。
「準備できた?」
「うん」
「じゃあ、一緒に再生しよう。せーの」
「せーの」
 私は再生ボタンを押した。画面が明るくなった。音楽が流れ始めた。古い映画特有の、少し擦れたような音質だった。
「始まったね」
 柚鳥の声が聞こえた。
「うん」
 私は画面を見つめた。映画が始まった。古い撮影スタジオ。撮影に悪戦苦闘する俳優たち。人々の笑顔。
 でも、私は柚鳥の声の方が気になっていた。電話の向こうで、柚鳥も同じ時間を過ごしている。それが不思議だった。
「ねえ、カズサ」
「何?」
「君は今、不安かい?」
 突然の質問に、私は戸惑った。
「……何で?」
「哲学者のキルケゴールが言ったんだ。『不安は自由のめまい』って」
「どういう意味?」
「人間は自由だから、不安になる」
 柚鳥は少し間を置いた。
「選択肢が無限にあるから、どれを選べばいいか分からない。それがめまいのような感覚を生む」
 私は黙って聞いていた。画面では、人々が歌い踊っていた。でも、私の耳には柚鳥の声だけが届いていた。
「同い年の私が言うのも変かもしれないが、君は自由だ」
「大空に飛び立つ鳥のように、これからの人生、どうにでもできる」
「でも、その鳥は空が広すぎる故に、どこに飛べばいいかわからなくなるんだ」
 柚鳥は続けた。
「カズサ」
「君は今、君の人生を、これからを不安に思っている。そうだろう?」
「そうでないなら、なぜ──」
 柚鳥は少し声を落とした。
「私に、電話をかけた?」
 私は何も言えず、呼吸が浅くなった。
 不安。
 そうだ。私は不安だった。この先どうすればいいのか分からない。何を選べばいいのか分からない。誰と一緒にいればいいのか分からない。
 分からないことだらけで、だから目を閉じていた。考えないようにしていた。
 でも、柚鳥は言った。
「──でもね」
「映画を見ている時間は、自由はないかもしれないが……」
「不安もない」
 柚鳥の声が優しかった。
「それは、きっと、すごく楽しい時間だから」
「だから、今は映画を楽しもう」
「……うん」
 私は小さく答えた。声が震えた。
「じゃあ、私は切るね。また明日」
「もう切るの?明日?」
「うん。学校で会おう。映画の感想を聞かせてね」
「……うん。分かった」
「おやすみ、カズサ」
「おやすみ」
 電話が切れた。
 リビングに、映画の音だけが響いていた。
 私は画面を見つめた。雨の中で、男が歌っていた。笑顔で、傘をさすのもやめて、歌っていた。水たまりを踏んで、跳ねて、回って。
 楽しそうだった。
 本当に、楽しそうだった。
 私は、初めてちゃんと映画を見た。途中で眠くなったが、最後まで見ようと思った。でも、結局、途中で寝てしまった。
 ソファの上で、映画の音を聞きながら。


 翌朝、私はいつもより早く目が覚めた。
 最初、どこにいるのか分からなかった。天井が違う。自分の部屋じゃない。
 リビングだった。ソファの上だった。
 テレビの画面は真っ暗になっていた。DVDはとっくに終わっていた。
 カーテンを開けると、外は晴れていた。青い空だった。雲が一つ、ゆっくりと流れていった。
 鏡を見た。いつもの自分がいた。でも、昨日とは少し違う気がした。何が違うのかは、分からなかった。目が少し腫れぼったかった。
 私は制服を着て、階段を降りた。リビングのテーブルの上に、DVDが置いてあった。
『雨に唄えば』
 昨日、途中まで見て寝てしまった。最後まで見られなかった。でも、見たシーンは覚えていた。雨の中で歌う男。笑顔。私も、あんな風に笑えるのだろうか。
 家を出て、学校に向かった。
 道を歩きながら、私は昨日のことを思い出していた。柚鳥との電話。映画のこと。キルケゴールのこと。
 不安は自由のめまい。
 私は、そう、きっと不安だった。今は少しだけ、分かる気がした。
 ただ、今日は少しだけ、前を向いて歩いている気がした。
 学校に着いて、教室に向かった。
 廊下を歩いていると、前から誰かが来た。
 ピンク色の髪。
 柚鳥ナツだった。
 柚鳥、いや、ナツは私に気づいて、手を振った。私も手を振った。自然に、手が上がった。
「おはよう、カズサ」
「おはよう、ナツ」
 ナツは私の隣に並んだ。一緒に歩き始めた。
「映画、見た?」
「途中まで」
「途中まで?」
「寝ちゃった」
 ナツは笑った。
「それでいいよ。どこまで見たの?」
「ええと、雨の中で歌ってるとこ」
「ああ、あのシーンね。いいよね」
「うん」
 私たちは並んで歩いた。廊下の窓から、朝日が差し込んでいた。床に光の帯ができていた。
「あの映画、最後まで見たら、また感想教えてね」
「うん」
「楽しみにしてる」
 ナツは笑顔で言った。私も、少しだけ笑った。
 教室が見えてきた。ナツと私は、一緒に教室に入った。クラスメイトたちが、私たちを見た。驚いたような顔をしている人もいた。
 でも、私は気にしなかった。
 窓の外では、鳥が鳴いていた。青い空が広がっていた。
 私は自分の席に座った。一番後ろの窓際の席。ナツも、自分の席に座った。
 それから、授業が始まった。
 私は、今日は寝なかった。
 窓の外を見た。空が青かった。雲が流れていった。
 教師の声が聞こえた。黒板にチョークが滑る音。誰かの小さな笑い声。
 全部が、少しだけ近くに聞こえた。
 まだ不安は消えていない。
 これから何を選べばいいのか、まだ分からない。
 でも、今日は起きていられる気がした。
 それだけで、十分だった。
 私は教科書を開いた。ページをめくる音。文字が並んでいる。読めない漢字もあった。でも、読もうとした。
 ナツがこちらを見て、少し笑った。
 私も、少しだけ笑い返した。
 窓の外で、また鳥が鳴いた。
 授業は続いていた。


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