油を塗った体に電気コードで「むち打ち刑」、息子たちの前で堂々と不倫、隠し子も…マイケル・ジャクソンを世に出した父による“おそろしい虐待”
幼少期を思い出し泣き崩れ…マイケルの深い心の傷
それでも、マイケルが欲しかったのは「天才監督」ではなくパパからの愛だった。とくに、幼いころ、実の父親から「歌わないなら追い出してやる」と脅され、使い捨てのように扱われた傷は根深かった。 独立したあとも、虐待被害の影響に悩まされた。マイケルが鼻を美容整形していったことは有名だが、そのコンプレックスも、ジョーから「でか鼻」と馬鹿にされつづけていたトラウマからはじまっている。外で大人から怒られる子どもを見かけると、幼少期の体験を思い出して泣き崩れてしまうこともあったという。 1980年代、ソロアルバム『スリラー』が史上最高の売上を記録した20代のころも、1人でよく泣き、道端ですれ違った人に「友だちになってくれませんか」と頼むことすらあった。音楽漬けのなか早くに有名になってしまったため、友情の深め方をよくわかっていなかったし、対等な立場で知り合える同年代すら限られていた。 クイーンのフレディ・マーキュリーのような音楽スターと交友する機会もあったが、家にこもりがちだったため、パーティー好きのロックスターのライフスタイルとは合わなかったようだ。 マイケルが心を通わせられたのは、偏見なく接してくれる動物と子ども、そしてキッズスターのつらさを知っているエリザベス・テイラーやマコーレー・カルキンのような芸能人だった。 1984年のCM撮影事故で大火傷を負ったマイケルが健康状態を悪化させていった一方、ジョーのほうは温和になっていったと伝えられている。それでもマイケルからすれば、父親と一緒にいるものなら恐怖がこみあげて吐き気をもよおし、倒れることすらあった。 父のほうは、息子がなぜ自分をそこまで怖がるのかすらわかっていなかったとも言われている。メディアに虐待被害を話したマイケルに対して「被害者ぶりながらたんまり稼いでるくせに」といった嫌味を返したこともあった。
2009年のマイケルの死の前後、父子の関係は…
父への怒りのあまり部屋で叫びだすこともあったというマイケルだが、40代になったころ「父を許す」宣言をしている。 2001年、世界の子どもたちを支援する慈善家として大学でスピーチした際、自身も親になったことでジョーの気持ちがわかったと明かしたのだ。人種隔離法と大不況のもと貧しい黒人男性として育った父は、やさしい感情表現が命取りになる過酷な世界を生きてきた。だからこそ、子どもたちを「屈辱の人生」から救いたい一心だったのだと。 「今は、父の厳しさすら、ひとつの愛だったのだと思い始めています。もちろん不完全な愛でしたが、それでも愛だった」。幼少期を破壊されてしまった当事者として、悲しい虐待の連鎖を止めるよう訴えかけた。 2003年、マイケルが親しかった子どもに対する虐待疑惑で逮捕されると、法廷で妻と息子を支えるジョーの姿も目撃された(罪状については無罪判決)。 ただし、晩年のマイケルは、父が邸宅までやってきても追い返していたという。 2009年、マイケルが医師による薬物過剰投与で50歳で急逝すると、遺産は家族信託を通じて母と子どもたちに残された。母・キャサリンに次ぐ子どもたちの予備の後見人は、マイケルが子ども時代から慕っていた先輩歌手のダイアナ・ロス。遺言から外されていたジョーは遺産を求めて訴えたが、認められなかった。 キャサリンといえば、不倫した夫に何度か離婚を申請していたが、結局は別居にとどまった。 野心家のジョーは、晩年になっても「汚い言葉づかいをしないラッパー」発掘企画などにチャレンジしていった。2012年頃には、ショッピングモールでマイケル風のイメージを無断使用した香水「ジャクソン伝説」を売りさばく姿を目撃されている。 それでも、ジョー・ジャクソンは「最後まで王」として君臨していた。報道によると、キャサリンから仕送りをもらいながら、すっかり大成した末娘のジャネットに買ってもらった豪邸で暮らしていた。マイク・タイソンやフロイド・メイウェザーといった大物も彼を敬ったと言われている。 2018年に癌で亡くなった際には、三男ジャーメインやジャネットに看取られた。享年89歳。「世界一有名な大家族」の長として、孫の数は20人以上におよぶ。 死ぬまで子育てについて後悔することはなかった。同時に、世間が「キング・オブ・ポップ」を崇めようと侮辱しようと、心やさしい息子だという持論を譲ることもなかった。「マイケルは、いわゆる良い子だったんだ。そういう子だったからこそ、あれほどまでの存在になれたんだ」。
辰巳JUNK