国語とは、ただ字を並べる学問ではない。人間の痛みに、名札をつけ直す学問である。この先生は黒板に「暑い」とだけ書いた。そして言った。「この一語で終わる者は、まだ夏を知らない」と。なるほど人間は、暑い暑いと騒ぐくせに、その中身を見ようとはせぬ。背中に貼りつくシャツ、台所で黙って汗を拭う母、電気代の紙を畳む父。そこまで書いて、ようやく暑さに人間が宿るのである。
正論も同じだ。
省エネは大切、環境も大切。
だが眠れぬ夜を過ごした者に、涼しい部屋から説けば、それは知恵ではなく刃になる。
人は正論に怒るのではない。自分の苦しみを知らぬ者に、きれいな言葉で裁かれることに怒るのだ。
「主語が大きい文章は、人間を消す」と先生は言った。
若者は、老人は、日本人は。
そう書いた瞬間、一人の顔は消える。国語とは、主語を小さくする技術である。大きな世論の陰から、汗を拭う一人を見つける目である。
文章とは、論破の武器ではない。弱った者の額に置く、濡れた手ぬぐいのようなものだ。
正しさだけでは人は救えぬ。そこに体温が入って、初めて言葉は生きるのである。
国語の先生に、一人、妙な人がいた。夏の終わりの教室である。窓は開いているのに風は入らず、扇風機だけが敗戦後の兵隊のように首を振っていた。生徒たちは皆、机に頬を預け、ノートの上で半ば溶けていた。先生は黒板に、ただ一言だけ書いた。
「暑い」
それから振り返って言った。