沖縄に“民間人収容所”が……米軍がつくった理由 戦争孤児だった90歳が明かす、知られざる実態 踏み潰される子も『every.特集』
そんな時、救いの手が差し伸べられます。「ひめゆり学徒隊のお姉さんだね。一緒に軍医のところに(連れて)行って」と神谷さん。戦争で看護要員として動員された、ひめゆり学徒隊。生き残った女学生たちが、孤児院で世話係をしていたのです。
その中の1人が弱っていた神谷さんに気付き、軍医の治療を受けさせてくれました。
元ひめゆり学徒隊とみられる女性が、幼い子どもたちと遊ぶ映像が残されています。学徒隊は戦争で多くの若い仲間を亡くしていました。生き残った女性たちは、「子どもたちのために」と奮闘したのです。
アメリカ軍によってつくられた孤児院は、沖縄の児童福祉の始まりとなっていきました。
収容所の生活では、他にも戦後の歴史に残る出来事がありました。終戦直後の9月、各収容所で市議会議員選挙が行われたのです。アメリカ軍の意向もあり、日本本土より早く、女性の選挙への参加が実現します。
当時の自治組織の会議録には、「婦人参政権付与 賛成十一人」「全委員で女でも自覚を促した方が良かろうとのことで決定した」などとあります。
川満さんは、初の選挙に参加した女性に話を聞いていました。「『アメリカが女性を人間にしてくれた』。こういう話をしてきました。アメリカ軍政府がよかったという話ではないんですよ。あくまで限られた中で、民主主義という部分の空気が与えられた」
戦後の「光と影」を映し出した収容所。終戦後、徐々にその役目を終えていきます。収容所から解放された住民は、故郷へ帰れることになりました。
しかし彼らの前に広がっていたのは、一変した沖縄の姿でした。かつての集落を埋め尽くすように、巨大な米軍基地が出現していたのです。
川満さん
「アメリカ軍はもともと沖縄に、本土決戦のための基地をつくりにやってきたんですよ。基地をつくりながら戦争をして、邪魔な住民を捕まえて、保護して収容所に入れていく」
本土での決戦に向けて基地をつくるため、邪魔な住民を隔離する。民間人収容所は、その役割も背負っていたのです。
孤児院で必死に生き抜いた神谷さん。今では多くの子どもや孫に恵まれた生活です。戦争については、いつもこう語ります。
神谷さん
「戦争をしてはいけないよ。私のように親もいなくなるから。『戦争ほど残酷なものはない』。子どもたちもかわいそうさ」
(6月23日『news every.』より)