沖縄に“民間人収容所”が……米軍がつくった理由 戦争孤児だった90歳が明かす、知られざる実態 踏み潰される子も『every.特集』
6月23日、沖縄の地上戦が事実上終結しました。生き残った住民は約30万人でしたが、その大部分が「民間人収容所」へ隔離されることに。そこはまさに、戦後の「光と影」を映し出したところでした。収容所に入った人の証言から、知られざる実態に迫ります。
1945年4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸。民間人を巻き込んだ熾烈(しれつ)な地上戦が始まりました。当時9歳だった神谷洋子さん(90)は、こう振り返ります。
「お母さんは艦砲(砲弾)が落ちて、亡くなって、飛ばされて」
──その瞬間を見た?
神谷さん
「そう。(母の)着物の切れ端が残っていた」
沖縄南部の防空壕で、艦砲射撃によって母と弟を亡くします。その後はひとり、戦場をさまよったといいます。
神谷さん
「(周囲の大人に)助けてくださいと言っても、聞いているかわからない。大人はみんな一生懸命、(自分の)家族を見ていた。私は誰も手を伸ばす人がいないから、ずっと逃げるしかない」
来る日も来る日もひとりで逃げ続け、気が付くとアメリカ軍に保護されていたといいます。そして、トラックである場所へ連れて行かれました。
神谷さん
「(保護された人は)何千人もいる。この車は南部行き、この車は中部行き…。私は怖くて何かわからなかったけど、最後に乗ったら中部に(着いた)」
そこは、大規模な民間人収容所でした。アメリカ軍は、生き残った住民を管理下に置くため、地上戦のさなかからこうした場所をつくっていたのです。
一体、どんな場所だったのか。沖縄戦に詳しい専門家に、案内してもらいました。沖縄国際大学非常勤講師の川満彰さんは、沖縄市内の住宅街を見下ろす場所に立ち、「ここら辺一帯が、コザの収容地区だったんですよ。コザの民間人収容地区」と教えてくれました。
ここに、神谷さんが入った収容所がありました。当時1万人以上が収容されていたといいます。こうした場所は北部を中心に、12か所につくられます。生き残った住民の大部分、30万人以上がそこで暮らし始めます。
収容所といっても、実際は集落一帯を使った“地区”と言えるほどの大規模なものもありました。住民たちは自由に外に出ることも許されず、食料の配給もわずかで、飢えに直面。不衛生な環境により、感染症に苦しみます。
川満さん
「ストレートに言えば、人権がない状態ですよね。女性は米兵の性暴力の相手にさせられたり(もあった)」