(異論のススメ スペシャル)「リベラリズム後」の米国 佐伯啓思
前回のこの欄(3月28日付)で、私は、「揺らぐリベラリズム」と題し、日米における、いわゆる「リベラル」の退潮について書いた。今回、改めてリベラリズムの変質と「その後」について書いてみたい。
というのも、先日、初来日の米国の政治学者、パトリック・デニーン氏と対談する機会があり、記してみたいこともあるからだ。
デニーン氏は、2018年に米国のリベラリズムを痛烈に批判する書物を出版し、米国の「反リベラル派」の代表的知識人とも見なされている。同書は、19年に「リベラリズムはなぜ失敗したのか」という邦題で日本にも紹介されたが、米国では、この「反リベラル宣言」の書物をオバマ元大統領が称賛したことでも話題となった。
また、デニーン氏は、現在、バンス副大統領とも親しく、「トランプ以後」の米国思想の動向を推測する上でも重要な人物である。
デニーン氏のリベラリズム批判はなかなか手厳しいが、決して論争的、イデオロギー的なものではない。それどころか、米国の建国理念にまで立ち戻り、また、西欧の近代思想を踏まえた上でのまっとうな思想的批判であり、私自身の考えも彼にきわめて近い。
「リベラリズム」とは、前回にも書いたが、「個人の自由」「民主的な政治」「平等な人権」「富や幸福の追求」などの価値を何よりも重視する思想で、それは、西欧における、科学革命、市民革命、産業革命などの近代革命と啓蒙(けいもう)主義思想の産物である。
その後、この「リベラリズム」を、もっとも典型的に受容し、おまけにそれを人類の普遍的価値とみたのが20世紀の米国である。
しかも、それは米国の建国に際して起草された「独立宣言」にいう「生命、自由、幸福追求などの平等な権利」ともほぼ一致する。
それゆえ、「リベラリズム」は、ほとんど米国を組み立てている中心的な価値といってよい。
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その「リベラリズム」が、今日、米国でほとんど行き詰まってしまった。問題はいくらでもある。自由な個人によるグローバルな市場競争を説く「ネオ・リベラリズム」は、金融や先端技術分野へ富を集中させて大きな経済格差を生み出し、国家間対立を生み、戦争や国内的分断の一因となった。
また、歯止めのきかない「急進的リベラル」によって、「社会的に抑圧された人々」の権利保護が絶対的な正義とされ、反対意見は政治的に封じられるという何とも窮屈な社会になってしまった。
もともと平均的な庶民に寄り添って、人々の生活を向上させ、寛容の精神をもって社会秩序を形成するはずであった「リベラリズム」が、まったく正反対の思想になってしまったのだ。
しかも、この「リベラル派」の人々は、全米でもトップクラスの大学や法科大学院を卒業し高収入を得る超エリートである。こうした状況の中で、「ふつうの庶民」は「リベラリズム」から離れていった。かくて「リベラルなエリート層」と「反リベラルな庶民層(白人労働者層)」へと米国は分断されたわけである。
では、「リベラリズム」は失敗したとして「その後」はどうなるのか。しかも「リベラリズム」は、建国の時代から一貫して米国を支える中心的な価値であった。とすれば、「リベラリズム」の崩壊後、米国を支える価値観はいったい何なのか。
つまり「ポスト・リベラリズム」の思想は何なのか。これが、今日の米国の問題である。トランプ大統領の登場は、確かに「リベラリズムの欺瞞(ぎまん)」を暴いてみせたが、彼が「次の何か」をもたらすわけではない。トランプ大統領はあくまで過渡期の人物である。
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「ポスト・リベラリズム」の方向はいくつかある。ひとつは、トランプ氏のMAGA(米国を再び偉大に)支持者だ。彼らは、保護政策や関税政策などにより、製造業と白人労働者層の立て直しによって米国経済の再建をはかる。
第二は、シリコンバレーのいわゆる「テクノ・リバタリアン」や「テクノ・ライト」と呼ばれる人たちであり、徹底した技術革新の加速によって経済の次元を一気に引き上げようという。
たとえば、トランプ政権でも一定の影響力を持つとされる投資家ピーター・ティール氏は、もはや、グローバリズムも市場競争も民主主義も機能しない、という。米国の停滞の最大の理由は、半世紀にわたり、米国では本当の意味での画期的で創造的な技術革新がほとんど起こっていない点にあるという。
その結果、グローバリズムも資本主義も世界秩序ももはや破滅の瀬戸際にある。それを突破できるのは、生成AIも含め、きわめて高度な知能による創造的な技術革新だけだ、という。そのためには民主主義も市場競争もむしろ邪魔になる、とさえ示唆する。
さて、第三の「ポスト・リベラル」の主張がデニーン氏に代表されるもので、「カトリック」を軸にした多様な「コミュニティー」や「家族」の再建を説くものだ。
デニーン氏のリベラリズム批判のひとつの核心は、「リベラリズムが文化を破壊した」という主張にある。「リベラリズム」は、抽象的な個人の自由や、これまた抽象的な人権思想や法の支配といった結構な理念を振りかざすが、逆に、人々の日常生活に関わる道徳心や教養や協調の精神などを養うことができない。
確かに、抽象的な自由や平等や権利に頼るよりも、具体的な社会や地域の伝統の中にあってこそ、道徳心の涵養(かんよう)や人格形成は可能となる。また日常の規律や礼儀、他者への共感や信頼、寛容の精神なども、時間をかけた人々のつながりのなかで生まれてくる。
そのためには、それなりに安定したコミュニティーや家庭、学校教育などがきわめて重要となる。また宗教が共通の価値観を育て、教会が人々の交わりの場ともなろう。そこに「文化」がつくられる。文化とは、ある特定の場所と、持続する時間のなかで形成され維持されるものなのだ。
「リベラリズム」は、こうした「文化」を破壊してしまった。それは世界規模の「グローバリズム」を賛美し、伝統・習慣や権威の破壊を唱え、人々のつながりを無視して個人主義を擁護し、過去の遺産よりも未知の将来への期待をかき立てる。そこに、近代「革命」によって生み出された「リベラリズム」の核心がある。
デニーン氏が意図するのは、「リベラリズム」が破壊した「文化」や「地域」をもう一度、再建することであるが、これは米国では、ひとつの伝統をもっていた。
それは、1830年代に米国を訪問したフランスの貴族であり著述家でもあるアレクシ・ド・トクビルが見て取ったものでもあった。彼は、米国社会がうまくいっているのは、地域の小さなコミュニティーが人々を結び付け、徳や責任感や相互の信頼などをもった「市民的精神」が育っているからだという。
しかも、そこには、キリスト教の宗教的精神が生きており、教会が重要な役割を果たしていた。それが米国の民主主義を支えているのであって、もしこのコミュニティーが崩壊すれば、民主政治は多数派の暴政となり、野心家の権力行使の舞台になってしまう。
この考えは、1980年代には、米国では「コミュニタリアニズム(共同体主義)」と称されたが、デニーン氏の思想も明らかにその延長上にある。
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ただ面白いのは、デニーン氏は、彼自身の信仰であるカトリックをきわめて重視している点である。米国の主流は、いうまでもなくプロテスタントにあり、トランプ支持層の福音派の影響力はしばしば指摘される。シリコンバレーのティール氏の「テクノ・ユートピア」にも、彼自身が述べるように、キリスト教の終末論が色濃く反映されている。
バンス副大統領は、もともとプロテスタントであったが、逡巡(しゅんじゅん)のすえに、カトリックへの改宗を決断した。米国の若い知識人層に、カトリックへの接近がかなり見られるともいう。
これまで米国をリードしてきたWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)が担ってきた「リベラリズム」の「次」が求められているのであり、トランプ政権の背後で、米国の思想的な変動が生じており、理想的な理念の失墜の後に、「宗教的な価値観」が広がっている。
確かに、米国では、今日、「グローバリズムとリベラリズム以後」へ向けた、価値観の新たな胎動があるように見える。
では、日本ではどうなのだろうか。本当は、日本も、「文化の衰退」という同じ課題に直面しているはずではなかろうか。
デニーン氏は、訪日中に、日本の小学校を訪問し、子供たちの礼儀正しさに強い感銘を受けたようである。日本には、まだ「文化」がしっかりしていると述べていた。だが、果たして、われわれはそれほど楽観できるのだろうか。
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さえきけいし 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「日本人の精神1 権威と空気の構造」など。
◇佐伯さんの「異論のススメ スペシャル」は随時、掲載します。
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