「愛深くして慎むこと多し」 整体的子育て | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・野口晴哉先生 (野口整体)

 

 “昭和五十年五月――

 松本での三日間の講習会で講演すべく、ベントレーで松本に行ったときのことである。

先生は早速、才能教育研究所の鈴木先生をお訪ねした。鈴木先生は『友あり、遠方より来る』とばかりに喜ばれ、先生と四方山話が弾んでいるうちに、何を思いつかれたか、御自分の揮毫を、どれか私に下さると言われた。

 数ある中から、私は

 「愛深くして為すこと多し」

というのを戴いた。

 ホテルに帰って、壁にかけて眺めていると、いつのまにか先生が後ろに立っていて、私が

 「これ、いいでしょ」と言うと、

 「これは上下型の人のいう言葉だ。僕なら、『慎むこと多し』って書く」

と言った。

 先生は、よく人の意表をつくようなことを、ひょっと言う人だったが、その時も、私は何かハッとして、先生の言ったことの意味が、すぐには理解できなかった。

 

 講習を終えて、帰りの車が、新緑の塩尻峠にさしかかった時、私は始めて、そのことについて、先生に質問した。

 「あの掛軸、何故『愛深くして慎むこと多し』なの?」

 すると、先生は煙草を手にしながら言った。

 「愛が深いと、疑り深くなり、束縛したくなり、相手の迷惑も分からない。それが相手にとって暴力となることだってある。揚句の果ては自分も傷つくことだってあるんだよ」

 

 私は今まで、私の心に画いていた観念的な「愛」というものが打ち壊されて、いきなり現実を突き付けられたような気がした。確かに、愛深き故に起こるいざこざは、この世に絶えない。安珍清姫的深情けから、子供をいつまでも自立させない母親、牛頭を抱えて草を食わせるが如き老婆親切に至るまで、数えればきりがないが、それでも、愛のない化石のような社会よりは住みよいかもしれない。

 先生は、弟子を選ぶときに、整体指導者の素質として、「例えば、子供や動物が懐かないような人、いざという時に自分のことしか考えられない人はとりたくない」と言ったことがある。

先生自身、十二歳のときに関東大震災で焼野原と化した下町で、下痢に苦しんでいた煮豆屋のおばさんを見ていられなくて、つい手をだしたのが最初であった。

 それ以来、病み苦しんでいる人に愉気しながら、時に自分の生命に替えてもと思ったことが何度もあったという。或る結核の少女が、病院に入れられて亡くなる時、同じ時刻に先生も血を吐いたときく、そういう先生の心を感じるからこそ、大勢の人々が先生に自分の命を任せ、頼るようになってしまったのだろう。

 

 しかし、先生の理想は、人をして自分に頼らせることではなく、人をして独り立たしむることにあった。『底にも依らざる人間』になってこそ、人は初めて自由自在になれる。「自立もしていない人間が、自由だの、独立だのというのは可笑しい」とも言った。

 そして弱い人間を強く立たしむる為には、突き放すことすらあった。その時、恨まれても憎まれても、その人の、ほんとうの幸せを思えばこそのことだったろう。

 開閉体癖の人は、他の体癖の人より、愛も深く激しい、しかも密度がある。九種だった先生も、きっとその愛の深さの故に、人の何倍も悩み苦しむことが多かったに違いない。

 もしかしたら『慎む』ということは、先生の自分自身への言葉ではなかったろうか。

 

 かつて子供たちが幼いころ、よく転んだが、先生はすぐに抱き起すことをしなかった。子供が自分で立ち上がってから、抱いて愉気をした。

 「痛いところは、さァ、何処へ飛ばしてしまおうかな?あの高い木のてっぺんか、あの赤い花にしようか」

 子供は俄然、何処にしようかと考える。

 そして「あの高い電信柱」などと答えるときには、もう転んだことも、痛いことも忘れ去っている。

 私はそういう転換のうまさに気を奪われて、もっと大切なことを見失っていたようである。

 それは転んだとき、大人がすぐに助け起こすか、子供が自分で立ち上がるかということの違いである。

 「転んだときに、一度誰かに助け起こされた子は、自分で起き上がることをしないで、誰かが来てくれるまで泣いているようになる。それを大人になってもやっている人は沢山いる」と先生は言う。

 幼児期、特に生後十三ヵ月間は、愛に包まれて育てることの大切さを説きながら、尚『慎む』ということを説くのは、大人の余分な庇いすぎが、生命本来の働きを去勢してしまうことがあるからだろう。

 

 慎むということは、整体法の根底を貫く先生の思想でもある。

 「技術を用いることによって、生命の自然性を乱すことがあってはならない。吾々が技術を体得するのは、例えば痛みを止める技術を身につけていれば、相手が自分の力で経過するよう、平静な心で観ていられるからだ。技術はそれを慎むために研くのだ」

 これは整体のみに限らない。

 「慎むこと、抑えることがあって美しさが出てくる、露骨に示されたものに美はない」

 「努力や、汗の臭いが感じられるものは、芸術とは言えない」

 私はそれまで、和歌や俳句に何故窮屈な型があるのか、あらゆる芸事に何故きびしい修行があるのか解らなかったが、そのことがふと解ったような気がした。また先生が、鉢植えの花よりも、土の匂いを感じさせない生け花を好んだことも解るような気がした。

 

 ある時私が、「若い時は茨の道だったんでしょうね。世間が理解どころか、異端者扱いして……」と言うと、先生が言った。

 「僕の戦いは、外部との戦いではなく、僕自身との戦いだった」と。

 私はびっくりした。先生の眼は外に求めることなく、自己の内面に最も厳しく向けられていたのだ。「自彊不息」とは、先生が十代から一貫して使っていた遊印の言葉である。

しかし、指導するときの先生の一言、一句には、そんな厳しい自己鍛錬のあとも、九種独特のあくの強さも、執拗さも、野蛮さも、微塵も感じられなかった。そこには自由で洗練されぬいた自然さがあり、天衣無縫としか言いようのないものがあった。

 

 人はそれぞれの体癖によって、或ることにこだわる感じがある。

 或る人は人の眼や面子にこだわり、或る人は利害に、或る人は勝敗にこだわる、趙州のように、好き嫌いさえしなければ至道無難という人もある。

 もしも、そういうこだわりが、何かのきっかけでふっ切れたとき、人は自らの体癖をも自由自在に使いこなして『随処に主と作る』ことが出来るのではないか。

 そして、その可能性は、先生自身によって示されている。”

 

(「月刊全生」昭和53年7月号 野口昭子『慎む』)

 

 

 “転んだ子を助け起こすことは、子供に対して親切な行為であろうか。その子は助け起こされたことによって独り立つことを忘れ、助け起こされる快感の為に、又転んで泣くようにならないとは限らない。そして助け起こせば又転び、助け起こさねば泣き声はいよいよ大きくなる

 弱い者を庇いたいのは本能の愛情であるから制することは難しいが、転んだ子供を利用して自分の愛情を満たすことは、愛情ある行為とはいえない。自分で起き上がるのを待って、その立ち上がった勇気を認めれば、その子は七転び八起きする。こうして大人になるのでなければ、何をするのにでも、他の力でしか動けない人間が出来上がってしまう。冷静に起き上がるのを待っている人を冷淡だと批評する人は、自分が自分の愛情に酔っているのではないかと反省すべきであろう。

 愛情というのは、その子が本当に良く育ってゆくように、その子の為に行動することで、自分の満足を追うべきではない。相手がより良くなる為に行動するには、相手を知らなくてはならない、自分を捨てなければならない。自分を相手の中に活かすのではない、自分を殺して相手を活かすのである。しかし自分を自分で殺しているうちは愛情とはいえない。自分を殺すことも忘れて相手を活かすということを考えているうちは本当ではない。ただ自づからそう行動する心にいつも生きているということが愛情というのである。

 しばしば自分の愛情の代償を要求する人がある。又自分の愛情を押し付ける人がある。愛情は本能であり自分の要求を果たすことも本能であるのだから、牛の頭を抱えて草を食はせることも止むを得ないが、愛情のある人は自づから自分を忘れ、その本能まで相手の為には失っている。それを親心という。管理の愛情という言葉でしばしば気取りの変型であって愛情でないことは誰にでも判るが、愛情という言葉でしばしば気取りを使う人も少なくない。困っている人を庇って良い気持ちになっていることなど、自分の見栄を満たす手段に困っている人を利用しているだけで、こういうことが愛情といわれることが多いが間違っている。”

 

(「月刊全生」昭和57年10月号 『野口晴哉語録 愛情』より)

 

野口晴哉著「慎む」より引用、子供の自立を促す育児論

 

*いじめやDV、そしてストーカーなどの加害者は、おそらく幼児期において、転んだ時にいつも親が助け起こしてくれていたのではないかと思います。このような知識が幼いお子さんを持つ親御さんたちの間に広まるだけでも、社会は変わるかもしれません。

 

*幼少期に間違った育てられ方をしたにも拘わらず、すでに大人になっている者たちはどうしたらよいのか、という問題については、母なる存在、根源的なるものとの一体化の感覚を取り戻せるようサポートしたり、宗教的な儀式を体験させて霊的な世界を予感させるように導いてあげるなどの対応があると思います。とはいえ、こういったことは本人の意思に反して強制できることではありませんので、幼少期の育て方の重要性はもっと強調されてしかるべきです。

 

*あと、エドガー・ケイシーはリーディングで、「子どもは否定語ではなく、肯定的な言葉で教育するように、(悪いことを)するな、と言うよりも、(良いことを)しなさい、と言いなさい」、また、「子ども達にギャング映画など見せてはならない、闇の世界に関することは一切ダメだ」、「幼いころにお人形遊びをした子ども、特に女の子は、大人になったら素晴らしい家庭を築くだろう」などと語っており、さらに「10代になるまでに(子供の性格は)ほぼ決まってしまう」として幼少時の教育、そして胎教の重要性について詳しく述べています。野口晴哉先生やルドルフ・シュタイナーが言っておられたことともかなり多く共通しており、体罰も子供に悪い影響を与えるとして否定されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人気ブログランキング
人気ブログランキング

瑞霊の眷属さんをフォロー

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります