また逢う日まで
シリーズ第7話。呪術世界の記憶あり日下部×記憶なし日車。距離が近づいた二人ですが、なかなか平穏には行かず……。呪術世界とも現実とも違う並行世界の平和な日本が舞台のお話です。20代くらいの若い二人のイメージ。雰囲気としては現パロに近いです。この世界の住人は一割ほどの人たちが別の並行世界の記憶を持っている設定になっています。
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時間は夜の11時前、日車の仕事帰りの平日だった。酒の席は久しぶりだな、と日下部は思う。誘ったのは日車からで、あまり、酒を飲む習慣のない彼にしては珍しかった。庶民的な酒場のカウンターで気軽に肩を並べ、日下部は香ばしい鳥肉を咀嚼する。日車はあまり飲食せず、煮しめの根菜をつついていた。
「今週末だが、出張に行くことになった」
会う約束だったが、すまない。次の週には会えるだろう――
「ふぅん…どこ?」
ビールを傾けながら、日下部が問う。約束自体はどうでもいい。軽井沢、と日車。仕事もあるが、業界内での情報交換や他地域の事務所訪問、交流会と言う名のネットワークづくりが主な目的なのだという。
「今まではあまりこういう役割はしてこなかったんだが、先輩にもそろそろ覚えろと言われていてな。俺は無礼ギリギリの水準で愛想がないそうだ」
「上におべっか使うのとか、死んでもできなさそう。誰にでも得手不得手ってあるんだな」
「…実は出張と言うのは半分は名目で、ついでに2、3日休養地で休んで来いとボスに言われているんだ」
2週間くらい前に俺のせいでぶっ倒れたからか――
「おまえ、ボスに気に入られてるよな」
世間話の端々から聞き取れる日車の職場環境は悪くなさそうで安心している反面、周囲の嫉妬に気付いてなさそうな様子が若干心配だ。
「君も東京から離れることを勧めていたし、逆にいいかと」
自分が日車に東京から離れるように言った経緯と原因を思い出す。今、この世界で宿儺は普通の人の姿で、凄腕実業家として人生を謳歌している。
「そういや、おまえ、今日宿儺が参加予定のシンポジウム会場の近くをウロウロしてやがったな」
日車がぎょっとしたように身じろいだ。会場のある地域を通りかかったのは仕事の都合で、当たり前だが偶然だ。そのシンポジウムに誰が参加予定だったのか等、日車は知らなかった。彼の仕事とは無関係だからだ。
「見ていたのか?」
「……2日前から尾行してる」
「……きみ、カウンセリング」
「受けてるよ、家入はアレが東京にいる間はストーカーしてもいいと言った。ただ本人の許可を取れって」
「……きみ、仕事は?」
「一月ほど入れてねぇよ。知り合いの道場手伝って小遣いもらってる程度だな」
「あまり、いい状態じゃないな……仕事ができないのは、もう、日常生活に支障がない範囲内じゃあないぞ」
今だけだ、と日下部は言ったが、これまで問題がなかった人が何らかの契機で記憶の混線を起こし、人生が狂っていった事例を、日車は仕事の関係で見知っている。
「例えば……『記憶の中の伴侶』と再会して実際に結婚した夫婦が、生まれてきた子供が『自分たちの記憶の中の子供』とは違うという事実に強いショックを受けて、育てられなくなったり……本当にあった事例だぞ」
「ろくでもねぇ親じゃねぇか」
「それまでは何の問題もない典型的な良識人だったんだ」
「俺だったら、家族が増えただけだと思うがね。俺の『いなくなった妹』と現実の兄貴みたいなもんだろ?」
日下部が育った家族構成は両親と兄の健全な4人家族だ。だが、彼ははっきりと『病弱な妹』の記憶を持っている。それら全てが彼にとっては大事な家族だ。
「確かに……君を疑っているわけじゃない…君は件の親たちより、よほど精神的に成熟していると信じている」
実際、日下部の精神年齢は実年齢に比して高い、年長者のようだ、と日車は評価している。それでも彼が密かに懸念しているのは、何かがトリガーとなって―――最悪、日車の存在がトリガーとなって、この男が『敵』だと認識している人間に対して殺意を抱いたりしないだろうか、と言う点だった。なまじ実行力を伴っているだけに怖い。
(いや、さすがに考えすぎか)
自分たちの出会い、日下部にとっては再会が、良い結果をもたらすのか、悪い結果になるのかは彼らの判断と努力によって決定されるべきものだ。
「君、…今まで現実の生活で、君や君の家族や知り合いが、君の言う『アレ』から実害を被ったことはあるのか?」
いいや、ない。こっちの世界では。と即答が返ってきた。
「俺は宿儺が存在しちゃいけねぇとは言ってねぇよ。警戒してるだけだ」
日下部が言葉を続ける。
「俺の知り合いにな……例によって同じ記憶持ちのヤツなんだが、勘のいい男がいるんだ。そいつにアレの『向こうの名前』を呼ぶな、干渉するなって、言われてんだよ。何かあるといけねぇからって…… 絵空事に聞こえんだろ」
「いや、真面目に聞くよ」
普段、日下部は自分の実在しない記憶について語りたがらないが、たまに口を開く時はどこか諦念を感じさせる雰囲気を醸す。
日下部は日車の顔を見ることなく、ニュースの記事でもボツボツ読むかのように話した。
「あっちとこっちが互いに影響し合って、こっちみたいに平和で安定すりゃあ、向こうの世界にとってはいいんだろうが……人間ってだいたい、こう……和解や妥協は難しいのに紛争はすぐ起きるし、信頼も秩序も安定も築くには時間も労力もかかるのに、崩れるのは一瞬だ。何もかも、簡単に壊れちまうだろ」
結局、もし何らかの干渉があったら、こっちの世界に悪いことが起こるだけなんじゃないか――
「俺じゃなくて、勘のいい知り合いが言ってたことだ……俺にはわからん。柄じゃねぇ」
ビールを飲みほして、日本酒を注文する日下部の姿を見ながら、その言葉を律儀に守っているこの男も、武骨な外見とは違って、深い思考を持っているのだろうと、日車は思う。
「平行世界の構造については、私にも分からない。ただ、彼の評判に関しては、正直、世間のルサンチマン的な感情が大いに関わっているんじゃないかとは思っている」
「あ? 成功者に対する貧乏人の妬み僻みってか?」
「もちろん、君の彼の対する敵意がそうだというんじゃない。世間一般の評判の悪さを言っている。実際、慈善事業に多額の寄付をしてイメージメイキングに勤しむ権力者たちも、やっていることはやっている、と思うんだ…あまり、証拠もなくこんな事は言いたくないが」
日車は世間の評判というものを信用しない。世の権力者たちを擁護するつもりもない。彼がしたかったことは、
―どうすれば、君のその強い警戒心と不安を取り除いてやれるんだ?―
「君も、実際の彼がどんな人間なのかは知らないのだろう?」
「……」
しばらくの沈黙の後、日下部が口を開いた。
「出張先に付いてっていい?」
「……君の為に、どうするのが正解なのかは、正直分からない。ただ、会社持ちの事実上の休暇旅行に個人的な友人を連れ込むのは非常識だ」
「同僚にも、お前にも悟られないようにすれば?」
「私は…君に通常の日常を送ってほしい。あるかどうかも分からない世界の記憶の為に生きるのではなく、君自身の人生を送ってほしいんだ。できれば、仕事には復帰してほしい」
日下部は無言でグラスを煽った。
「…私はそろそろ引き上げるよ…」
明日も仕事がある。日車は席を立ったが、日下部は動かない。家の前まで一緒に来るだろうと思っていた日車は少々戸惑った。
「…俺はもうちょっと飲んでく」
「そうか…気分を害したなら、申し訳ない…」
「違ぇよ。お前の言う通りかもなって思っただけだ」
日下部は振り返らず、日車はそのまま店を後にした。
人が他人を完全に理解するというのは不可能だ。自分の心でさえ、良く分からないのに。日下部のケースを考えれば、幼少期には「実体験のない記憶」の方が、実際に経験したことよりも多い、という時期もあったかもしれない。一割という数字は、世間の認知があろうとも飽くまでマイノリティだ。嘘つき呼ばわりされたり、精神異常扱いされて人生の早い時期に心を閉ざす者も多い。
日下部が自ら平行世界の記憶持ちだと告白した後から、会うたびに乞われるようになった脈を取る行為について考える。おそらく日下部の精神の中の『日車寛見』は彼を残して早世したのだろう。死者への想いに勝てる者などいない。
アルコールで少し上気した顔に冷たい深夜の風が刺さった。携帯にお知らせ音が届く。日下部からだった。
〈見送りに行ってもいいか?〉
日車は口の端に我知らず、微笑を乗せた。