『難儀なヤツ』というのが男への第一印象だった。一般人として至極真っ当に生きてきた人間が、突然、呪いのテロに巻き込まれ、死に場所を求めたが彼にとって満足の得られる結果にはならなかった。それならば、と法で裁かれる事を望み、奔走したが、結局東京の地へと戻され、混乱極まる状況の後片付けのため呪術師として働かされてしまっている。
日下部は改めて彼を迎えた時の事を忘れられずにいた。絶望し、生気を失った虚ろな目を向けられるとばかり思っていたのに、再会した彼の目は真っ直ぐ日下部を見つめていたのだ。彼は、まだ何も諦めていなかった。
しかしながら、東京での彼の生活は率直に言って破綻していた。一食や二食平気で抜かし、一切眠っていない事がありありと分かる目の下に深く刻まれた隈を見て、元来の性分として放って置く事ができなかった。ある種の彼へ対する罪滅ぼしだったのかもしれない、と後になって思う。
高専にいる間は、昼食に誘い無理やりにでも食べる機会を与え、一緒の任務後にも夕食を共にした。最初は訝しげな顔をされたが、彼が断ることは無かった。律儀な男だ。だが、日下部を見つめる瞳は鋭く、食事を共にしている時なんかは目が合わない事などザラだった。最近は減ったが、嫌味をチクチク言われる事もあったくらいだ。態度から察するに日車は日下部を嫌っているのだろう。無理もない。
しかし、そんな日車の態度を日下部は咎めなかった。別に日下部が手を下した訳では無いし、日車がこうして呪術師をやらされているのは主に総監部のせいだが、その末端の末端に属している日下部へ矛先が向くのは仕方が無い事だ。それでも、日下部は彼を放っておくことなどできなかった。
場所は変わり、いつものごとく呪霊を祓い終え、後は山を下るだけの最中、ふと日車の予定を思い出す。たしか、夕方には高専へ帰還するはずだ。今から高専に戻れば丁度顔を合わせる事になるだろう。もし会うことができれば夕食に誘おう、と決心した。
「っ!?」
茂みからガサリと音が鳴り、刀に手をかけるや否や、勢い良く猿のような生き物が日下部めがけて飛びだした。
「ッ!サトリか!へぶっ!」
害がないと判断した脳が防ぐ事を忘れてしまったようで、サトリが日下部の顔に思い切りダイブした。日下部はそのまま後ろへひっくり返り、頭を地面に打ち付けてしまった。痛みに悶えていると、頭の中に様々な言葉が流れ込み始めた。殆んどは何を言っているかは分からないが、あまりの喧騒に耳を塞いだ。言葉は脳に直接届いているようで、耳を塞ぐ意味はなさなかった。サトリはいつの間にか走り去っていた。ポケットから携帯電話を取り出し、補助監督官へ連絡を入れた。
高専へ戻って直ぐに家入のところへ駆け込んだ。家入は呆れたような面倒そうな表情を浮かべ、日下部を見つめた。
『サトリですね。日下部さんならもう分かっていると思いますが、サトリと接触した事で相手の心の内の声が一時的に聞こえるようになってしまっているようです。時間経過でもとに戻るとは思いますが、まあ、くれぐれも大人しくしておいてください。』
「せめて喋ってくんない…?」
家入は、じっと日下部を見つめているだけで、言葉は一言も発していない。脳に直接語り掛けられる経験に慣れず、おずおずと意見したが、帰って来たのはため息だけだった。
『どうせ聞こえてるんだからいいじゃないですか。さあ、用が済んだなら出て行ってください。』
半ば追い出されるように医務室を後にし、ため息をついた。ここへ来るまでの間もひっきりなしに人の言葉が脳に流れ、日下部は疲弊していた。家入の言うように今日は大人しく家へ帰ろうと玄関口へ向かった。
「日下部。」
良く通る声に呼ばれ、ビクリと肩を揺らした。じんわりと背中に汗が伝う。きゅっと唇を噛み、恐る恐る振り向いた。そこには今一番会いたくない相手である日車が立っていた。日下部は小さく深呼吸をし、襲い来るであろう日車からの罵詈雑言に耐えるための覚悟を決め、振り向いた。
「…いま戻ったのか。」
『任務で怪我をしていないか心配だ』『好きだ』『かっこいい』『顔が好き』『目を合わせるのが恥ずかしい』『側にいたい』『好き』
「オアーーーーッッッ!!!」
日車から与えられる言葉の数々の意味を理解し、日下部は顔から首まで真っ赤に染め、その場へ崩れ落ちた。そんな日下部を見て日車は肩をビクリとはねさせた。片膝をつき、蹲ってしまった日下部の背に触れた。
「大丈夫か…?」
『任務で何かあったのか』『気に障る事をしてしまっただろうか』『嫌われた?』『嫌わないでほしい』
「嫌わねぇよ!!!」
「っ何の話だ!?」
日車は混乱した。もちろん日下部も混乱していた。今まで自分を嫌っていると思っていた相手が自分へ好意を寄せていただなんて微塵も考えていなかったからだ。
『嫌われていなかった』『嬉しい』『思考を読まれている…?』『怖い』
察しの良さまで天才なのか、察しが良いから天才なのか、と失礼ながらドン引きしつつポソポソとサトリに遭遇した事、相手の思考が読める事を説明した。説明していくにつれ、日車の頬が色づいていく。聞き終えると、耳まで真っ赤にして日下部同様固まってしまった。
蹲る日下部の側で膝をつき、固まる日車の姿は傍から見ればかなり滑稽だった。学生達、特に2年生に見られようものなら直ぐ様その姿を拡散され、高専中の笑いものにされていただろう。しかし、時間も時間な為、幸い誰も通りかかる事はなかった。
先に羞恥の波から脱した日下部は恐る恐る顔を上げた。その間も日車の思考は流れていたが、早口すぎて理解する事はできなかった。顔を真っ赤にし、取り乱している姿に心臓を掴まれるような感覚がした。いつの間にか、無意識の内に日下部も日車に惹かれていたらしい。それならばすべき事は一つしか無い。上体を起こし、未だに硬直している日車の腕を取った。
「日車。」
「ッ!」
「お前の口から聞かせてくんない?」
日下部の言葉にハッとし、思わず目を合わせてしまった。少し引いたと思われた体温がまた、みるみる上昇していくのを感じた。
「っ知らない…!」
「なあ、頼むよ。」
「っぐ…!」
日車はまたパニックになった。完全に日下部のペースに呑まれてしまった。ニヤニヤと楽しそうに笑い、こちらを観察する日下部へ一周回って怒りを覚えた。
「怒んなって。」
こちらの思考をまた読まれたのだろう。日車は奥歯をグッと噛み締め、俯いた。その瞬間、日下部の大きな手が日車の頬へ添えられる。日車の抵抗むなしくまた視線がかち合うように誘導される。
「頼む、お前の言葉で聞かせてくれ。」
思考が溶けて消えてしまいそうになるような甘い声で囁かれ、日車のキャパシティはもう限界だった。
「うるさい!」
「いでっ!」
ガベルを手にし、呪力は込めずに思い切り日下部の頭を殴りつけ、逃走した。日下部が頭を押さえて起き上がる頃には日車の姿は無かった。高専内を探し回り、文句の一つでも言ってやろうとしたが、結局日車は見つからなかった。また、サトリの効果についても日車を探している間に消えたようで、その晩は静かに過ごす事ができた。
この1件から日車は徹底的に日下部を避け始めたようで、高専内にいる事は分かっていても一目会うことすらできなくなってしまった。一度だけ、虎杖と話している姿が見え、捕まえることに成功したが、その間、一切視線は合わず、日下部へ告げられた言葉と言えば、「忘れてくれ。」の一言のみだった。そこで「はい、そうですか」と食い下がる訳にもいかず、日車と同じ気持ちでいる事を伝えれば、返ってきたのは「信じる事はできない。」との言葉のみである。思わず渇いた笑みが漏れた。日下部の心の内を知りもしない日車は、逃げるように日下部へ背を向けた。
怒りを覚えた日下部は、最終手段を使用する事へ決めた。ピリピリと個人用の携帯電話がタイミングよく鳴る。その相手は今まさに連絡を取ろうとしていた相手であった。こちらの動きはすべてお見通しのようだ。相変わらずおっかない女性だ。
「…頼みがある。」
「珍しいじゃないか。君がそんなことを言うのは。」
ぎゅっと目を瞑り、覚悟を決めると冥冥へ依頼をかけた。
決戦の日は近い。財布に少々、いや、かなりの痛手を負ってしまったが、後悔はしていない。これで日車と一緒になれるのであれば安いものである。冥々から貰った情報を頼りに人の寄り付かない高専の廊下へ向かった。
一方で日車は、慣れた足取りで人気のない高専内の道を通り抜けていく。徹底的に日下部を避けはじめてから数週間たった。今日の任務は無事終了し、あとは家路につくだけだ。小さく息をつき、廊下へ足を踏み入れた瞬間、左腕を掴まれ、抵抗する間もなく空き教室へ連れ込まれてしまった。身体が強張り、心臓が跳ねる。壁へ押しやられ、己を引きずり込んだ犯人が逃げ道を塞ぐため、空いている方の手で扉を閉められ鍵をかけられてしまった。どこか冷静な自分の脳の一部が「監禁罪」と呟いた。
「…なんのつもりだ。」
「そりゃこっちのセリフだ。ちょこまか逃げやがって。」
表情を歪め、ここへ引きずり込んだ男を睨みつけた。その男、日下部は口元に笑みを浮かべてはいるものの、その額には青筋が浮かび、目は完全に座っていた。
「何を…っ!」
「動くなよ。」
日下部の大きな手が日車の右耳へ伸ばされる。イヤフォンのような機器が耳へかけられ、驚いて外そうと試みるも両手を取られ、それは叶わなかった。
『聞こえるか?』『いまお前の耳についてんのは、サトリを元に作られた、相手の思考を読める呪具だ。主に呪詛師相手に使われるんだが、ちょいと拝借したっつーワケだ。』
「……そんな簡単に拝借して良いものなのか。」
「おっ、ちゃんと聞こえてんな。」
「誤魔化すな。」
ジロリと睨み上げる大きな目。その下にはくっきりと隈ができていた。最後に会った時と比べると頬がこけ、やつれてしまっている。
『随分痩せたな』『心配』『俺のせいか』
「君のせいじゃない。」
「うお、そうか、思考読まれてんだったな。この感覚は慣れそうにねぇや。」
「……」
「ちゃんと飯、食ってるか?」
「……余計な御世話だ。」
困ったような笑みを浮かべる日下部から目を逸らした。その間も日下部の思考が頭に流れ込み、おかしくなってしまいそうだった。
『意地張ってる』『かわいい』『叱られた猫みてぇ』『顔真っ赤』『もう逃さねぇ』『意外とまつ毛が長い』
「うるさい!」
「何も喋ってませんけど?」
「君は意地が悪い…!」
赤く染まる頬を隠すように、ギッと日下部を睨みつけた。目の前の男はニヤニヤと余裕な笑みを浮かべており、日車はさらに苛立った。この場から逃げようにも両の手首を大きな手で掴まれているため、呪具を外すことすらできない。
「日車。」
「…っ」
『逃げるな』『世話焼かせてくれ』『応えてほしい』『俺を見てくれ』『守りたい』
「好きだ、日車。」
嘘偽りない真っ直ぐな言葉に息を呑んだ。無意識に吐いた吐息が震えていた。もう逃げる事はできないと悟り、静かに身体から力を抜いた。
「……日下部、離してくれ。」
『えっ』『何で?』『応えてくれないの?』『何故』『言葉が足りなかったか』『伝わってないのか』『不安』
表情にこそ出ていないが、分かりやすく大混乱する日下部の脳内に小さく笑みを溢した。
『笑った』『久々に見た』『かわいい』
「…っ!…大丈夫だ。もう逃げたりしない。」
おずおずと名残惜しそうに離れる大きな手にほっとしつつ、四十近い男へしきりに『かわいい』と思考している日下部へ対し「君、眼科へ行ったほうが良いぞ。」と嫌味を吐いた。
「日下部、すまない。」
「もしかしてこれ、フラれる感じ…?」
『嘘だろ…!』『嘘だと言ってくれ…!』『この期に及んで?』『やだー!』
「最後まで聞け!」
騒がしくなった日下部の脳内に喝を入れる。ムスッと唇を引き結び、息を吐く。しっかりと目を合わせ、日下部に向き合った。
「初めて会った時から君のやさしさに触れ、いつの間にか君に惹かれていた。この想いは墓までもっていくつもりだったんだ。それなのに、君は、君というやつは…!」
落ち着いて話しだしたつもりではいたが、いつの間にか怒りを覚え、自分でも驚くほどに感情が高ぶっていた。日下部は飼い主に怒られた犬のような表情を浮かべ、不安げに日車を見上げていた。日車はその表情にめっぽう弱かった。眉間に寄ったしわを押さえ、呼吸を整えた。今度はじんわりと罪悪感に襲われ、喉がヒリヒリと痛み始めた。
「俺は裁かれるべき人間だ。その時が来たら、君をおいて俺は行く。君に対して不誠実だってわかっている。それでも、君が好きだ…好きになってしまったんだ。…隠したまま行くつもりだったんだ。それなのに何故…なぜ、君は暴いてしまったんだ…」
それはまるで懺悔のような愛の告白だった。日下部はたまらず肩を震わす日車を抱きしめた。日車は大人しくその腕に納まり、日下部の肩に額をこすり付けた。
「お前の信念を阻むような事はしねぇ。いつか終わりが来たって構わねぇ。むしろ俺の方が先にポックリ逝っちまう可能性だってあるしな。いでッ」
縁起でもない言葉に日下部の背中をつねり上げた。たいして痛みなんて感じていない癖して痛がるそぶりをする日下部の背をさらに叩きつけた。
「…日車、応えてくれるか。」
甘い声に抗う術など持ち合わせていない。コクリと静かにうなずけば日下部の腕の力が強まった。
『よかったぁ』『あったけぇ』『これでダメならもうどうすりゃいいんだって思った』『抱きしめ返してくれた』『かわいいなコイツ』
日下部から安堵の言葉が次々流れ込み、日車は少し反省した。あそこまで避ける必要はなかった、大人げない事をしてしまったと自分を恥じた。ダイレクトに届く日下部の言葉に、じわじわと耳が赤くなるのを自分でも感じた。
『冥冥への借金どうしよ…』
突然流れ込んだ爆弾のような言葉に顔の熱がサッと引いた。ガバリと勢いよく顔を上げ、日下部を上目遣いで睨みつけた。
「待て。借金ってなんだ。」
「あッ、やべ。」
呪具を先に回収しとくべきだった、と後悔の言葉まで日車に読み取られた日下部は、この後すべてを洗いざらい吐く事になってしまったのだった。