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【再録】さざなみ/Novel by 鎧A / 幻飯

【再録】さざなみ

22,618 character(s)45 mins

日下部×日車の短編、決戦後に温泉地での軟禁と療養を強制されている日車さんの話です。
小説本「夜が明けなくてもいい」の発行から一年ほど経ったので、特に気に入っていた作品を再録します。お手に取っていただいた皆様、ありがとうございました。
書いた当時は原作が完結していなかったため、矛盾が多くありますが、ご容赦ください。

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私事が忙しく投稿も滞っていましたが、今後も地道に書いていきたいと思います。

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 老爺が運んできた朝餉は、漆塗りの膳に比べて簡素である。茶碗一杯の白米、豆腐と葱の味噌汁、南瓜と挽肉の煮物。渋谷事変以降、日本の物流は弱り切っていて、地域によっては米もあまり食べられないという。山深いこの辺りでも、魚などはほとんど食卓に上らない。だから艶やかに炊かれた白米の貴重さを、それが必要な人の多さを理解しているのに、半分も食べられずにどうしても箸が止まってしまう。反転術式で再生した胃袋が、消化を拒んでいるかのようである。
 新宿での決戦の後、生死の境を彷徨いながら結局死に損ねた俺は、半月ほどを高専の病室で過ごしたのち、都市を離れての療養を余儀なくされた。療養と言えば聞こえは良いが、要するに軟禁である。呪術を用いて非術師を殺した人間は呪詛師と呼ばれ、その多くは死刑となる。しかしそんなことはさせたくない、と病室を訪ねてきた日下部が言った。総監部も御三家も多くの術師が死んだ。呪術界を再編する隙に、決戦に関わった術師たちの規定違反を無効にする。それまでの間、安全な場所で体を治してほしい。
 そう言われて、山中の温泉地にある旅館に起居している。主に長期滞在の湯治客を泊める小さな宿で、自炊のための調理場などもあるが、毎食を用意してもらっている。たった一人で旅館を経営する老爺は窓であるという。他に客もなく、二階の広い一室を与えられている。
 茶碗の上に揃えて箸を置く。窓の外に目を向けると、松の枝に烏が止まっていた。目が合うと羽繕いを始めたが、飛び立つ様子はない。呪詛師にも呪術師にもなり得る今の自分は監視対象であるらしい。脹相も似たような立場であるが、彼は療養の必要もなく、また虎杖の側にいることを望んだので高専に軟禁されていると聞いた。その虎杖も死刑判決を受けているが、既に乙骨によって殺されているため今のところは何の制限もない。禪院に至っては、拘束が不可能であるので建前では行方不明、実際のところ高専や忌庫も好きに出入りしているという。適当なものである。
 一時間も経たずに、老人が膳を片付けに来た。半分以上も残された食事を見て、彼が少し考える素振りを見せ、嗄れた声で言った。
「…お昼はどうなさいますか」
「要りません。すみません」
「分かりました。夕食は七時頃お持ちします」
 老人の皺だらけの手が、慣れた様子で膳を片付け、机を拭く。他に客はいないから、彼は俺のためだけに飯を作り、風呂を掃除しているのだと思うと、居た堪れなくなった。
「俺一人のために面倒でしょう。申し訳ない」
「いいんです。お客さんが一人はいた方が管理もしやすいし」
「しかし」
「ここには以前から、怪我された呪術師の方が時折湯治に来るもんで慣れています。代金も高専から十分貰っております。お客さんが気にすることはなんもありません」
 わずかに訛った声がきっぱりと言った。机を拭き終えた老人は、風呂はいつでも入れますんで、と告げながら部屋を後にした。そうなるともう、自分に残された仕事は湯に浸かり、体を治すことばかりである。

 日に二度、十五分ほどずつ温泉に浸かる。浴場は狭く、流し場も三人分しかないが、いつでも独占している。掛け流しで二十四時間入れるというそれは単純泉で、浴槽に体を沈めると透明な湯が音を立ててタイル張りの床へ溢れた。浴場は高い所に明かり取りの窓があるくらいで、景色も何もない。目を閉じて肩まで浸かると、自然と溜息が漏れた。
 高専ではなくこの小さな宿での軟禁となったのは、家入の提案である。反転術式で再生した肉体はたびたび痛みを訴えた。病室に縛り付けることは出来るがそれでは治らない、どのみち長期の療養が必要ならいっそ湯治にしたらいい、と彼女が言い、日下部と伊地知が方々を調整して宿を用意した。三人も、他の誰も口にはしなかったが、その先に期待されているものをなんとなく察している。もし死刑を免れるのであれば、彼らは俺や脹相に呪術師をやらせたいのである。だから、俺に体を治せ、と言うのは善意と期待の両方だった。彼らにすれば合理的で、当然の判断である。
 目を開けると、傷付いた自分の身体が湯に浮かんでいる。両の太腿に走る切り傷、胴体を横断する格子状の傷、そして右の二の腕と左の肘下に、ぐるりと一周した傷。まるで両腕のパーツを取り替えたかのように、そこから先は少しだけ、肌の色が赤みがかっている。新しい手を伸ばして顔に触れると、額から目の下まで真っ直ぐに走る傷が分かる。他に客がいなくて良かった、と思う。普通の生活では負いようのない奇妙な、目立つ傷が全身に残っている。もう銭湯には行けないだろう。
 再生した肉体は、時折ひどく痛む。食べた後に腹が内側からじくじくと痛み、吐いてしまうこともしばしばある。それよりどうしようもないのは腕で、ある種の幻肢痛と言うべきか、新しい腕があるにもかかわらず失った腕が痛むのだ。腕がない、と脳が訴えて締め付けるように痛む間、新しい腕は全く無視されていて、触れてもまるで感覚がない。動かすことも出来ない。両腕が同時に痛む時が最悪で、布団の上でただじっと身体を丸めて耐える。そして体力を消耗した結果、後で腹まで痛くなることがある。昨晩は片腕で済んだが、痛みが引いた後も汗をかいて寝苦しく、眠りが浅かった。
 瞼の重さを流すように湯を掬い、何度も顔を洗う。手足を伸ばして、少し熱い湯に体を委ねる。水面下の腕は屈折した光に歪んで、赤く、やはり他人のもののように見えた。
 この宿がたびたび呪術師に利用されてきたのであれば、先達も同じ湯に浸かり、同じように浴場の壁や自分の身体を眺めて過ごしたのだろう。彼らは傷を癒して、また呪術師に戻れたのだろうか。戻れたとして、今もまだ、生きているのだろうか。水色のタイルが張られた浴場に、無数の亡霊たちの足跡があるような気がする。浴槽からあがると、新しい足跡がひとつふたつと刻まれた。

 朝飯を食べ、午前の湯を済ませてしまうと、あとは夕食まで全くやることもない。通信機器の類は一切与えられていない。宿のロビーまで降りていけばテレビや新聞はあるが、わざわざ得たい情報がある訳でもない。何度か見たが、東京周辺の被害状況や復興の方針の話がほとんどで、そういうものを見ていると、どうしても回游のことや決戦のことを思い出してしまった。
 やることがないので、丸一日、部屋で起き上がれずぼーっとしていることもあれば、少し歩いて温泉街へ行くこともある。そういう生活とも呼べないような生活を、一週間以上は繰り返している。宿は温泉街の大通りからは少し離れた場所にある。もっとも、街を歩いたところで旅館も土産物屋も飲食店も、休業中のところが多い。事変の影響で客がほとんどいないのである。真冬でもあるので、地元の人間もあまり好んでは出掛けない。昨日の昼は体調が良かったので散歩し、珍しく若い夫婦が歩いているのを見かけたが、すれ違った後で背中に視線を感じた。観光客もいない中で、顔に傷のある見知らぬ男一人がふらふら歩いていれば、警戒されても仕方ないだろうと思う。どこかでマスクや帽子を調達した方がいいのかもしれない。それなりの現金が入った財布を最初に渡されていたが、今のところ全く使っていなかった。
 今日は、雪も降っているので外出は諦めることにした。ぼんやりと窓の外を見る。二階と言えど景色を売りにしている訳でもないので、見えるのは特に面白味もない雪景色である。宿の主人の車しか無い駐車場、申し訳程度の植栽、その向こうに道路を挟んで小川、後は山ばかり。その視界のほとんどを白が埋め尽くす。雪が、際限なくはらはらと空から落ちてくる。岩手の雪よりもずっと細かいが、今のところは五センチ程度しか積もっていないようだ。窓を開けると、松の木に止まったままだった烏と目が合った。烏がガァ、と一声鳴いて飛び立つと、白い景色に一点、墨を落としたような黒が生まれた。

 ある朝、食事を持って来た老爺が、今日は高専から人が来るそうですんで、部屋にいてください、と言った。風呂にも行かずに窓から外を眺めていると、昼前になって二人歩いてくるのが見えた。家入と日下部であった。あまり雪かきの行き届いていない駐車場を、二人がざくざくと音を立てながら歩いてくる。真っ先に視線に気付いたらしい日下部がこちらを見て片眉を上げた。いつものトレンチコートを着て、刀袋を肩に提げ、手に何か持っている。大人しく待っていれば、間もなく二人が部屋に通された。開口一番、よお、ちょっと痩せたか、と日下部が言った。
「そうかもしれない。君も窶れたんじゃないか」
「お前ほどじゃねえよ」
 彼の目の下に薄っすらと浮いた隈が、溜め込んだ疲労を感じさせた。コートを脱いだ二人に備え付けのハンガーを渡し、茶を淹れようとしたが、すぐ帰るからいい、と制止される。
「街から歩いてきたのか?憂憂の術式だろう?」
「そうだけど、なんか手土産でも買ってくかってことになったんで商店街の入口に送ってもらったんだよ」
 はいこれ、と日下部に手渡されたのは、黄色い水仙の花束であった。殺風景な部屋に甘い香りが漂う。
「……少し意外だ」
「失礼だな。まあ饅頭とかでいいかと思ってたけど、土産物屋が全部閉まってた」
「花屋はやっていたのか」
「あんまり花無かったけど、やってたよ。あと古本屋」
「そういう訳で、私からはこれ。退屈だろうから」
 家入が黒い往診鞄の中から、古本を数冊取り出した。その一番上に置かれたのは、堀辰雄の「風立ちぬ」であった。視線を向けると家入が肩をすくめた。
「一周回って面白いかなと思って」
「……まあ、ありがとう。大事に読む」
 本を受け取って机の上に置くと、家入は鞄の底から続けて聴診器を取り出した。
「今日は医者の仕事に来たんだ。調子は?」
「相変わらずだな。腕が一番酷く痛む」
「痛み止めは効いてる?」
「大抵は効くが、両腕が痛いときは飲むのも難しい」
 日下部が座布団の上で胡座をかきながら、心なしか神妙な顔をして聞いている。構わず浴衣を脱ぐように促され、両袖から腕を抜いた。その手を家入が取って、脈が測られる。
「感覚はあるかな」
「今は分かるが、痛んでいる間は触感が鈍るような気がする」
 捲り上げて、と言われて中に着ていた肌着を持ち上げる。格子状の傷が露わになり、日下部が微かに顔を歪めた。首の左右から順に聴診器が当てられて、異常は無かったのか、家入が下ろしていいよ、と言った。続けて鞄から血圧計が出て来て、腕を通す。機械が小さな音を立てて、肘の上を締め付けていく。
「食欲は」
「食べてはいるが、あまり入らない。食べ過ぎると腹が痛くて吐く」
「皮膚が痛い?内側から痛い?」
「内側だな。胃のあたり」
 血圧計のベルトを通された下に、ちょうど腕の傷跡があって、むず痒い。テープで固定されている接木のような気になる。古い腕と、新しい腕と、どちらの血圧なのか、機械が音を立てて数字を出した。
「低血圧だな……食事は無理しなくていい。散歩程度でいいから、出来るだけ運動するように」
「努力する」
 家入が聴診器と血圧計を鞄にしまい、姿勢を正した。
「CTで分かってたことだけど、一ヶ月以上経って生きてるなら、内臓の反転術式には問題はない。腕も異常はない。痛みは肉体の慣れの問題だ」
「……慣れ、か」
「そう。反転術式を使える人間は数が少ないけど、普通はもっと小規模なことからやる。爪が剥がれたのを治すとか、傷口を塞ぐとか。日車さんは初めての再生で大掛かりなことをやったせいで体…というより頭がまったく付いてきていない」
 浴衣に再び袖を通し、前を合わせる動きを新しい手指が淀みなくこなす。その動きを、ふっと糸が切れたように出来なくなる時がある。
「幻肢痛の感覚もそのせいだな。反転術式使いにしか生じない、珍しい症状だ。とにかくリラックスして、新しい肉体を精神に納得させるしかない」
 リラックス、と鸚鵡返しに呟くと、家入が顔を覗き込んできた。
「夜は眠れているか?」
「……あまり」
「夜中に起きる?寝付きが悪い?」
「寝付きが悪い」
 家入が、腕を組んで少し考えた後、一度閉じた往診鞄を開けて引っ掻き回し、錠剤のシートを取り出した。
「これは睡眠導入剤。毎日夕食後に一錠、アルコールとは飲まないように」
「……分かった」
 受け取ったシートの束は厚く、一ヶ月分ほどはありそうだ。
「気負わなくていい。同じ薬を、一部の術師や補助監督にも出してるよ」
 反転術式では、人の心までは治せない。決戦が終わった今、家入の仕事はこうしたことばかりなのかもしれない、と想像した。薬をじっと見つめていると、彼女が幾分声を低くして付け加えた。
「……あとこれも一応言っておくが、最近の睡眠薬は大量に服用しても苦しむだけで死なない」
「そうか」
 文庫本の上に薬を置くと、家入が今度こそ鞄を閉じ、固い留め具を締めた。入れ替わりに、日下部が座布団ごと近寄ってきて、伝えづらいことを誤魔化すように後ろ頭をばりばり掻いた。
「お前の処遇はまだ決まらん」
「……まあ、そうだろうな」
「東京や京都の大御所は大体死んでるんだが、地方の名士みたいな連中がな。五条たちがクーデターを起こしたと思ってるやつすらいるんだよ。今お前らの話持ち出したら突かれまくるわ。もうちょっと隠れててくれ、悪いな」
「構わない。君に殺されても文句の言えない立場だ」
 日下部が盛大に顔を顰めたが、一旦聞かなかったことにしたらしく、胡座をかいた膝の上に頬杖をついた。
「…お前のところ行くって言ったら、虎杖が俺も行くってめちゃくちゃうるさかった。手紙くらい書いてやれ」
「……住所を知らない」
 なんか、書くもん、と言いながら辺りを見回した日下部が、部屋の電話の横にボールペンと黄ばんだメモ帳を見つけて破り取り、すらすらと住所を書き付けた。
「あいつも今は寮暮らしだから、高専の住所で届く」
「ありがとう。彼は元気か」
「元気過ぎるんで毎日呪霊退治だよ。お前と足して二で割りたいね」
 そう言って日下部が、畳に手を付きながら立ち上がった。家入も一度脱いだコートを再び羽織り、大きな鞄を持ち上げて言った。
「副作用や新しい症状があったら、窓の爺さんに言ってくれ。出来るだけ早く来る」
「もう帰るのか」
「温泉ぐらい浸かりたいけど、忙しくてな。まあ俺は顔見に来ただけだ」
 同じくトレンチコートを着込んだ日下部が、ポケットに手を突っ込んで、いつも舐めているのと同じ飴を取り出した。
「また来る」
 飴を握らされて、手が触れ合う。分厚い、刀で作ったタコが目立つ手だった。見送りに立ち上がろうとすると、いいよ、寝てろ、とどこか子供をあやすように肩を押さえられた。二人が部屋の襖を閉じて出て行き、話し声が廊下を遠ざかっていって、自分と水仙ばかりが取り残される。日下部が、風立ちぬって飛行機作る話じゃねえの、と家入に聞いていた。
 窓からずっと見下ろしていると、来た時と同じ雪の積もった駐車場を、足跡を遡るようにして二人が歩いて行った。日下部がちらりと振り返り、目が合った。刀袋を提げた右手が少しだけ上げられる。俺も手を上げたのを見届けて、彼はそれきり振り返らなかった。
 君に殺されても、と言った時の彼の顰めた顔を思い出す。顔に残った傷が引き攣れてわずかに皺を描いていた。そんな顔をしていても、彼は俺を殺そうと思えば殺せる男であると知っている。彼の掌の分厚さは、人の命を奪ってきた厚みである。窓のサッシに手を掛けると、指先から冷えていった。日本刀の刃の冷たさを思う。もし自分が死刑になるのであれば、彼に任せたい。学生達や、見知らぬ他人よりはずっと、楽に逝けそうだ。
 その夜は、生まれて初めて睡眠薬を飲み、花瓶に生けた水仙の匂いに包まれながら眠りについた。

Comments

  • 球体タマネギ
    Mar 29th
  • もったり馬

    願わくは花の下にて春死なん……という和歌を思い出しました。春の陽気がもたらす安穏さと不安定さにここで死んだ方が幸せかと思いながら、これから続いていくだろう2人の移ろう季節を感じました。本当に静かに降りしきる雪のような素晴らしい文章を読めて感動しました。ありがとうございました。

    July 29, 2025
  • ユージ
    July 26, 2025
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