識る男
一進一退の回です。
波状的に広がる疑問。
今回は各種表現をより現実的に、数秒先を視る描写はありません。
何でも許せる方、どうぞ宜しくお願い致します。
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今朝の捜査会議も滞りなく終了し、割り当てられたデスクで荷物を整理する五十嵐へと近寄ると、律儀にも彼は作業の手を止めてこちらを見上げて来た。
真っ直ぐな眼差しが言外に昨夜の妹の様子を気遣うので、日下部は敢えて何でもないよう取り繕う。
そうすると彼は何が分かったのか、途端に安堵したような表情となるからおかしかった。
「捜査会議の資料作りまで任せちまって悪かった。昼メシ奢るわ。んでどうだった、個人的な印象でいい、何か気になる点はあったか?」
「そんな、気にしなくて大丈夫ですって、ごちそうさまです。気になる点と言うか…取り敢えず例の示談書を見て下さい。不足していた部分に関しては現場の遺留品の中にあった紙片を組み合わせて埋めてくれたようです」
そう言って五十嵐は資料に記された簡易の示談書ではなく、昨日佐藤の所から貰って来たであろう原本のコピーを差し出した。
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示談書
被害者 園田愛美 (以下「甲」という。)
加害者 中村誠司 (以下「乙」という。)
甲と乙は、20XX年5月15日、東京都新宿区歌舞伎町内のホテルにおいて発生した乙による甲に対する不同意性交等事件(以下「本件」という。)について、以下のとおり示談する。
第1条(事実の認識・謝罪・反省)
乙は、本件について事実を認め、甲に不同意の性交等を行い、甲に重大な精神的・身体的損害を与えたことを深く認識し、真摯に反省する。
乙は、甲に対し、心より謝罪する。今後二度と同様の行為を犯さないことを固く誓う。
第2条(示談金)
乙は、甲に対し、本件による損害賠償金(慰謝料、身体的・精神的苦痛に対する補償を含む)として、金500万円を支払う。
第3条(支払方法・一括払い)
前条の示談金は、20XX年7月31日限り、甲代理人指定の銀行口座へ一括振込により支払う。振込手数料は乙の負担とする。
(振込先:銀行名○○銀行○支店 普通○○○○○○ 口座名義 園田愛美)
第4条(支払い遅延時の措置)
乙が前条の期限までに全額の支払いを怠った場合、乙は当然に期限の利益を喪失し、示談金全額及びこれに対する年5%の割合による遅延損害金を直ちに支払う。
第5条(宥恕)
甲は、本示談金の全額受領をもって乙を宥恕し、乙の刑事処分を求めない。また、甲は本件につき被害届、告訴、告発その他の申告をしないことを確約する。ただし、乙が第6条に違反した場合、甲は自由に刑事手続を行う権利を留保する。
第6条(接触禁止)
乙は、本示談成立後、甲に対し、直接・間接を問わず一切の接触(電話、メール、SNS、第三者経由、付近うろつきを含む)を行わない。違反した場合、損害賠償請求権を留保する。
第7条(秘密保持・情報非開示)
甲及び乙は、本件の経緯および本示談書の内容を、正当な理由なく第三者に口外しない。
甲及び乙は、双方の有する個人情報を正当な理由なく第三者に開示・漏洩しない。
第8条(清算条項)
甲及び乙は、本件に関し、上記金額の全額支払いをもって、損害賠償その他一切の請求をせず、以後いかなる名目をもってしても追加請求をしないことを相互に確認する。甲乙間には本示談書に定めるほか何らの債権債務がない。
甲は本件に関し、乙及び乙の関係者に対し、自己の氏名・住所等の個人情報を開示しないことを条件とし、甲代理人が本示談書の全権を有して署名押印する。
本示談の成立を証するため、本書2通を作成し、甲代理人及び乙が記名押印の上、各自1通を保有する。
20XX年7月2日
(甲代理人署名)
事務所住所 東京都新宿区◯◯
弁護士 山野孝尚 印
所属 東京弁護士会 弁護士登録番号*****
(乙署名)
住所 東京都新宿区◯◯
氏名 中村誠司 印
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「山野……だと…?」
自然と声が強張った。
撲殺事件の被害者と加害者が邪去侮以外で繋がったのだ。
「はい。署名はありますが示談の内容的に中村も弁護士をつけているでしょうから直接面識があったかは定かではありませんが、それでも少なくとも2年前の7月の時点で山野と中村には接点があったという事になります」
「山野が弁護士を辞めたのも2年前つってなかったか。…辞めた理由は?」
「今のところ、自主退会としか…」
立場は真逆だが同じく罪と向き合い、人を救う事を生業とする人間として、働き盛りの弁護士が自らの使命を放棄し所属する弁護士会から自主退会をする理由が日下部には皆目見当もつかなかった。現に山野はその後も邪去侮の中で信者達の法律相談に乗ったりしていたと昨日、死ぬ前に証言していたではないか。
──自ら辞めたと考えるから納得出来ないのか?
例えばこの示談が山野から弁護士という職を奪う原因になったとしたら。もしそうならば考えられる最も自然な形は中村から嫌がらせや圧力等何らかのアクションがあった、という辺りだろう。職を奪われた恨みから中村を殺害した。それならば些か強引だが動機として筋が通る。
「……五十嵐、山野が弁護士を辞めた理由を調べるぞ」
軽く肩を叩いて促すと、五十嵐は分かっているとでも言いたげにとある法律事務所のホームページをラップトップ画面へと表示させた。
嶋法律事務所。
弁護士時代、山野の職場であった場所らしい。
*
事務員に通された相談室の椅子へと腰掛けて待つ事暫し、出された茶が温くなった頃にやっと現れたのは好々爺という表現が適当な老齢の男性だった。落ち着いたダークカラーのスーツと自然に後ろへ撫で付けられたグレイヘアーは上品な印象を与えるのに、胸元を飾るネクタイは某有名画家のヒマワリを彷彿とさせる奇抜なもので、それが彼の茶目っ気を引き立てる一番の要因となっていると思われる。
「お待たせして大変申し訳ありません。僕が嶋法律事務所所長の嶋一秀と申します」
そう言って嶋は丁寧な仕草で日下部と、それから五十嵐に順に名刺を差し出した。二人もそれに合わせて名刺交換を済ませると、ようやく全員が着席しいよいよ本題へと差し掛かる。
「こちらこそ、突然押し掛けて申し訳ありません。今日は2年前までこちらに勤めておられた山野孝尚さんについて、いくつかお聞きしたい事があってお邪魔しました。詳細は捜査中なのでお話し出来ませんが、ご協力いただけますか」
改まった日下部の発言に対し、事務の者から伺っておりますよ。と頷いた嶋は手元に置いてあったタブレットを操作してから日下部達の方へと画面を向けた。
「紙媒体のものもあるんですけどねぇ…ほら、僕みたいな爺にはここまで持ってくるのも重たいですから。今日び便利なもので、この薄いの一枚でうちで担当した案件を半永久的に管理閲覧出来る。今は一番古いので15年前くらいの案件フォルダが検索出来るんだったかな…。テクノロジーの進化と事務員さん達の働きに感謝しなければなりませんね」
画面には山野が担当したと思われる事案のタイトルが日付別にソートされて並んでいた。
拝見します。と言って早速タブレットを手にした五十嵐を横目に、日下部は温い茶を一口啜ってから嶋へと意識を戻した。
「山野さんは、いつからこちらで仕事を?」
「彼は28歳で司法試験に合格して、弁護修習先にうちを選んでくれたんですな。翌年弁護士登録をしてからはずっとうちで…かれこれ13年は頑張ってくれました」
「働きぶりはどうでした?」
「それはもう、真面目で熱心で。立場の弱い人を見ると放っておけない性格なんですよ」
「成る程。…そんな彼が弁護士を自ら辞めた理由に関して、何か心当たりはありませんか?」
「……山野君は、亡くなったんですね?それもきっと自ら」
静かにそう問うた嶋の表情には無念の色が滲んでいた。
少なくとも、彼には山野が自死を迎える結末が見えていたようだった。
「…何故、そう思うんです?」
「…彼が弁護士を辞めた理由をお話ししましょう」
重苦しい雰囲気で、嶋は自身の手元を眺めつつ口を開いた。
「山野君は先程話した通り、真面目で優秀な弁護士でした。性格的なものでしょうな、些か被害者感情に呑み込まれやすいという欠点もあって、若い頃には二次受傷のリスクを一晩かけて説いたものです。しかしそれ程熱心にクライアントに向き合っていたんですね」
タブレットに敷き詰められた文字の羅列を拾いながら、五十嵐が納得したように頷いた。少なくとも彼には山野のその真面目さの片鱗が保存された資料の中から読み取れたのだろう。
「ある日、山野君はとある事件の被害者側の代理人を引き受ける事になりました。結果として彼が弁護士記章を返却するに至った案件です」
「それは…園田愛美さんの…?」
咄嗟に顔を上げた五十嵐に対し、嶋ははて、園田さん…?と考え込むように首を捻った。
無理もないだろうと日下部は思う。日々様々な案件を取り扱う弁護士だ。2年も前の事を、それも特別思い入れがあるわけでもない、自分が担当してもいない案件について、鮮明に覚えている方が稀だ。
そこで五十嵐が当該事案の詳細が表示されたタブレット画面を嶋へと見せるとやっと思い出せたらしい彼は緩く首を左右に振って否定した。
「いえいえ、その件でしたら特にトラブルの報告は受けていない筈ですよ。ちょうどそれと同時期に抱えていた案件だったかなぁ、ストーカー事件だったんですけど、加害者も被害者も男性でしてね。日下部さん五十嵐さん達や我々のような職業であればそう珍しい事でもないでしょう。ですが、世間の皆様にとっては雷に打たれる確率に近いような感覚があるようで…山野君は必死に被害者を守ろうとしていたんですが、その甲斐なく彼は自死を選びました。守る為に聞き出した事件の詳細が彼を追い詰めたのだと、山野君は自分を責めてしまって…それで僕は少し休むよう伝えたんですよ。1週間も休んでましたかねぇ…、次に出て来た時には酷く窶れた顔で辞表をしたためて来ました。それで、事務員さん達もえらく気にしてしまって…しばらくして検索してみたら登録が抹消されていた、という経緯です」
園田愛美さんの記録と、そのストーカー事件の記録を資料として提出願えますか?と問いながら五十嵐は淡々と仕事をしている。
話を聞き終えた日下部の胸中にはアテが外れたモヤモヤと、山野という人間のイビツさが渦巻いていた。
真面目だったが故に弁護士を辞めた男が、邪去侮の掲げる“全ての罪の浄化”に感化されるまでは共感は出来ないが自然な流れと言えばまぁそうなのだろう。だが、だったら自らが示談を取り纏めた相手を2年も経ってから殺害する動機とは一体何だ。
嶋の一言にぼやけた思考が叩き起こされたのは纏まらない考えに疲れ果て、煙草が吸いたいと強く思ったその時だった。
「それにしても誰だったかなぁ……、ソノダマナミ…園田…あ~、はいはい、思い出した。園田愛美さん。何処かで聞いた名前だと思ったらこの間の無差別殺傷事件の被害者リストの中に確かその名前を見ましたよ」
たちまち日下部の顔色が変わり、五十嵐が身を乗り出す。
「無差別殺傷事件って…11月1日に新宿で起きたあの…?」
「はい、そうですよ」
五十嵐の問いに頷いた嶋は本人か、たまたま同姓同名の方かは分かりませんけどね。と付け足して発言を締めくくった。
「そのリストは今ここにありますか?」
「いやいや、ありませんよ。何か力になれる事が無いかと思って犯罪被害者支援のネットワークで公開されていた情報を閲覧しただけですのでね」
そうですか、と返す五十嵐は既に心ここにあらずで、タブレットを握り締めたまま何事か思案しているのだろう、それっきり黙り込んでしまった。
そんな五十嵐をつま先でつっつき当該ファイルの提出を依頼させると、嶋は頷いて立ち上がった。
「はい、では原本を持ってきましょうね。5年間は紙媒体で保管してますので、それもある筈です」
すみません、お願いします。日下部が礼を述べると嶋が抜けた相談室には静寂が満ちて行った。