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裁く男/Novel by you

裁く男

7,400 character(s)14 mins

※僅かながらレイプ被害者について描写がありますトラウマ等が刺激される可能性がある場合、お読みにならないようご注意ください。

今回は日下部さん以外の登場人物は創作キャラとなります。
何でも許せる方、どうぞよろしくお願いします。

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 警察署の目と鼻の先で歩道橋の上から女性が飛び降りた事件から早いものでもう三日も経った。その間一度たりともアパートに帰る暇がなく、体力には多少自信があった日下部ですら流石に少し堪え始めている。四十を目前にして無理は利かなくなって来たようだ。そんな風に同僚刑事と自虐ネタで笑い合いながら缶コーヒーを呷っていると、思い詰めた表情の五十嵐が歩いて来るので何気なくこれを呼び止めた。
「五十嵐、コーヒー飲むか?ちったぁ息抜きもしねぇと、オマエの方が潰れちまうぜ」
 “潰れる”という単語に大袈裟に肩を揺らした五十嵐がその場に立ち止まると、地雷を踏んだ事に気付いた同僚は、これが片付いたら飲みでも行こうぜと言い残してそそくさとその場から離れてしまった。
 心底面倒臭い事に若手のホープは案外と繊細に出来ているらしい。日下部は零れそうになる舌打ちをコーヒーと共に飲み干してゴミ箱へと空き缶を放り込んだ。
 やがて薄暗い廊下に日下部さん…とか細い声が染み渡るとそれを一度無視して喫煙室の方へと歩き出す。俯きながら後を追って来るのを確認して中へと入り込むと、壁際にあるヒップバーに尻を預けてヤニで曇ったガラスへ背を向けた。
 懐から取り出したソフトケースから一本抜き出した煙草を銜え、慣れた動作で火をつける。そしてゆっくりと一服、有害物質を摂取した所でようやく口を開いた。
「どうした、怖い顔して」
 ガラス越しに問うと忸怩たる思いに押し潰された様子の五十嵐が衝突的に握った拳を振り上げて、それから縋るように開いた掌を擦り付ける。
 一枚障害を隔てて尚充分に熱が伝わるような錯覚を覚え、日下部は紫煙を吐くフリをして低い天井を仰いだ。
「何であの時、俺に路肩へ寄せて停車するよう言ったんですか」
「…何でって、あの女が落ちて来るんじゃねぇかと思ったからだな」
「……、あのまま走っていれば、少なくともトラックに撥ね飛ばされるよりはずっと衝撃が少なかった筈だ。もしかしたら彼女も、辛うじてまだ生きていたかも…」
 それ本気で言ってんのか?と、思っている事がそのまま口から出てしまい、日下部は慌ててフィルターを噛んだ。
 あの高さから飛び降りて、走る車にブチ当たれば誰だって死ぬ。それこそスイカが砕けるように簡単に。そんな事はある程度分別がつくなら小学生のガキにだって分かる筈だろう。
 第一、トラックの運転手だって目の前の歩道橋に様子のおかしい女がいるのを分かっていて、更にアクセルを踏んでいるのだから、彼が罪悪感を抱く必要などないだろう。オマエの後悔は無意味だ。そう一喝出来たならどんなに楽だろうか。そう思いながら、それでも諭すような言葉を探すのは日下部の悲しい性なのだろう。
「もしもあのままオマエが走り続けている所に女が落ちて来たら、世間様はそりゃお祭り騒ぎでオマエの事を批難したろうな。しかもよりにもよって警察署の真ん前だ、責任だなんだと無責任な奴等からこぞって声高に騒ぎ立てるだろうよ。あの女も信者だった。それも前歴がある。中村の一件と、それからこの間の通り魔とも関連があると思わねぇか?それなのに真相に一番近い所にいるであろうオマエが世間からバッシングを受け、体裁が何より大事な上の連中は保身に走ってオマエは捜査から外される。一体誰が得すんだよ、黒幕だけだろ」
「分かっています!!言われなくたって充分分かってんだよそんな事はッ…!…でもっ!あの場に居た野次馬達は損傷の激しい御遺体を奇声を上げながら我先にとこぞって撮影していたじゃないか。見たでしょうあの吐き気のするような悍ましい顔を。あんなのは人間じゃない!人の皮を被っただけの化け物だ!あの運転手だって、毎日繰り返し報道されて家族の顔まで晒されて…あそこで俺が止まらなければ、少なくとも彼の人生は壊されなかった…」
 その叫びは慟哭に似て、長い廊下の隅々まで染み渡った。
「落ち着けって、んなアツくなったって済んだ事は変わらねぇ、変えられねぇんだよ。良いじゃねーか、俺が止まれつったんだ、運転手の人生も、女の尊厳も、俺がブッ壊したって事で。オマエはただ指示に従っただけ、なら罪悪感を抱くべきは俺だ」
「違っ、俺は別に責任転嫁がしたいわけじゃ…、……っ、日下部さんは何故そんなにも冷静で居られるんですか…」
「何故って…、この胸糞悪ぃシナリオを書き上げた犯人をさっさととっ捕まえてこのイカれた事件を終わらせてぇからだよ」
 オマエも同じ気持ちじゃねぇのか?そう問いながら汚れたガラスの向こうにいる五十嵐を見遣る。
 彼は少しの間緘黙し、それから己の頬を両方から挟むような形で同時に張った。バチンと乾いた音が響き渡り、その表情に暗く垂れ込めていた影をすっかり消し去った五十嵐が其処には居た。
「すみません、取り乱しました」
 おう。と頷きがてら煙草を揉み消して、日下部は喫煙室を後にした。

 妹の担当をしているケアマネージャーから連絡があったのは歩道橋事件から一週間を経過した後の事だった。
 刑事は足で稼ぐとはよく言ったもので、今日も今日とて外へ捜査に繰り出していた日下部は、ハンドルを握る手が震えるようになった五十嵐を助手席へと追いやった事で、すぐに出られなかった電話へ折り返す為にコンビニの駐車場へと入った。
 ディスプレイに映った名前を見た途端、話の結末が二分化されて想像される。すると自分でも思いの外険しい表情を作ってしまったのかもしれない。特に何かを頼んだわけではなかったが、彼は飲み物買ってきますねと言って車を下りて行った。常日頃、人の顔色をよく見ていて抜け目なく気が利く男なのだ。
 折り返してみれば予てより打診していた施設が再度の受け入れを承諾したのだという報告だった。何でもオーナー直々に受け入れ可能の連絡を寄越して来たらしく、電話口の女性は興奮気味に良かったですねと何度も繰り返した。
 彼女の語気に熱がこもればこもる程、日下部はと言えばその報告を至って冷静に受け止めていた。妹にとって、否、日下部にとっても、これは決してゴールではない。再度代わり映えのない日常という地獄に身を投じる為のリスタートに過ぎないのだから。
 とは言え受け入れ先が決まったのは素直にありがたい。悩みの種がやっと一つ解消され、日下部は何処か事務的に、しかし決して投げやりではなくありがとうございますと繰り返して電話を切った。
 切った所で少し前にコーヒーを手に戻っていた五十嵐の視線が言外に何事かと問うのは仕方の無い事で、狭い車中で逃げ場が無い事も相俟って、ごたついたプライベートを明かす事で一時的な相棒である青二才の信頼やら仲間意識やらが満たされるならと運転中のBGMにほんの触り程度、妹の事を話した。
 その整った眉間に皺が寄ったのは現在入院中の病院施設について話した時だった。
「んで昨日行った楡原記念病院、今はあそこに入院してんだわ」
「楡原記念病院…ですか。成る程、それで下田美咲の事件捜査に加わっていなかったにも関わらず院内の造りにやたら詳しかったんですね」
 五十嵐は納得したように頷いた。

 下田美咲は件の歩道橋飛び降りの当事者だ。
 出身は福島県郡山市。今から5年前の18歳の時に大学進学の為に上京し、その年の5月に参加したサークルの合宿で先輩らにより無理矢理酒とレイプドラッグを飲まされ、複数人から強姦の被害を受ける。更にはその時に撮影されたと見られる動画を脅しのネタにその後も複数回に渡り同メンバーらから関係を強要。同年12月には全裸でアパートの一室に閉じ込められ、約一ヶ月にも及ぶ監禁生活の中、不特定多数の人間を相手に売春まがいの事までさせられていた。
 連絡が取れなくなった事を不審に思った親御さんが捜索願を提出したのが12月の末。しかし一連の事件は急転直下、最悪の結末を迎える事となる。
 美咲が主犯格である家主の男を刃物で切り付けて殺害してしまったのだ。
 凶器となった刃物は前日に客として訪れていた悪趣味な男が美咲を脅す為に持ち込んだもので、刃渡り15センチ程のサバイバルナイフ。
 通報を受けて警察官が駆け付けた時、殺害された被害者は下半身を露出しており、今まさに美咲を犯そうとしていた所を返り討ちにあったといった様相だったという。
 保護後すぐに行われた検査の結果、美咲の腹には子供が居る事が判明した。両親は強く堕胎を希望したが惨い事に子供は既に7ヶ月を迎えていた。
 立ちはだかる司法の壁により堕胎する事も叶わずに日に日に膨らむ腹を見て、彼女は何を思ったのだろうか。察するに余りある。

「正当防衛が成立し不起訴となった所で心の傷は消えませんからね…、強姦した犯人らも5年からせいぜい10年程度で簡単にシャバに出て来るわけですし。心神耗弱状態の美咲は自殺未遂の末に腹の子を流産。その後楡原の精神科病棟にて療養し、両親の反対を押し切って退院後すぐに邪去侮の梯子会が管理する寮に入所しています。日下部さん…俺は…」
 やめろ、その先は聞きたくない。何故だが猛烈にそう思った。
 しかし願いも虚しく五十嵐は止まらなかった。
「俺は楡原記念病院の関係者に邪去侮の梯子会と関わりの深い人間が居ると考えています」
「……何で、そう思うんだ」
「看護師の証言によると入院中、美咲は両親の面会すら拒絶しています。通信手段は病棟の決まりで元から持ち込めませんし、他の入院患者を始め外部との関わりも全て拒否。看護師や医師に関しても特定の数名による対応しか受け入れず、随分と手を焼いたと言っていました。極端に社会から孤立した状態で、退院後に住まう場所を決めているわけです。だから接触する機会があったその数名の中に、邪去侮の人間が居る筈なんです」
 恐らく、高い確率で五十嵐の推論は当たっているのだろう。だからこそ、日下部はその続きを否定したい気持ちに駆られている。
 妹が現在入院しているのも精神科病棟なのだ。もしも万が一、事件の捜査が進む事で妹にどんな些細な事でも不利益が齎されるような事態になれば──。
「………、妹さんが、施設に移れるのはいつなんですか?」
 感情を押し殺したような声色に、日下部は思わず真正面を向いたまま瞠目した。
 沈黙が齎す静寂に潰されそうになり、ハザードを上げ、路肩へ寄せた車を完全に停車させてから恐る恐る五十嵐へと向き直ると、あの穢れを知らない誠実な眼差しが真っ直ぐ此方を射抜いていた。
 喉がカラカラに渇いている。答えてはいけない。私情を持ち込んではいけない。これは仕事だ。一日でも早く、この異常から抜け出さなければ。食い止めなければ。突き止めなければ。人々を、助け、守らなければ。
 その人々の中に、妹は含まれていないのだろうか?
 妹は、誰が守ってくれるのだろうか?誰も守ってくれなかったから今の現状が漫然と横たわっているのではないのか。
 ほんの少し、コマを前に進めるのを遅らせるだけだ。
 恣意的な情報操作に他人を巻き込んで良いのか?
 いや…
 でも…
 言葉が張り付いてなかなか出て来ないのを潤すように貰ったコーヒーを流し込んだ。
「…2週間後、12月1日だ」
「わかりました」
 ただそれだけ言って、五十嵐は押し黙った。

 捜査に進展があったのはそれから三日後の朝の事だった。
 中村殺しの犯人を名乗る男が自ら出頭して来たのだ。
 間の悪い事にそんな時に限って一旦家へ戻っていた所で、連絡を受けて急ぎ駆け付けると取調室に居たのは四十代半ばの窶れた男だった。
「それで、罪を裁く為に殺したと?」
「はい…」
 対面に座る刑事の問いかけに消え入りそうな声で呟く男を特殊ガラスの向こうから睨んでいると、一足先に駆け付けていた五十嵐が日下部の姿を認めて近寄って来る。
 お疲れ様です。と形式的な挨拶をしてから当たり前のように隣に並ぶ姿に、最早嫌悪感すら抱かなかった。
「やっこさん、何だって?」
「…彼はジャッジマンなのだそうです」
「ジャッジマン?何だそりゃ…」
 耳馴染みのない単語に素直な疑問を露わにすると、珍しく五十嵐の方から煙草に誘って来るのでこれを快諾する。
 煙草を喫まない男を連れて入る喫煙室は心なしかいつもよりもクリーンな気がした。

「彼の身元は山野孝尚。2年前まで東京弁護士会に所属していた元弁護士です」
「ほーん、弁護士先生。それなのにジャッジマン、裁く男か」
 銜え煙草のまま不服の声を漏らすと立ち昇る煙が徹夜続きの眼球を撫でて行って少し滲みたので天井を仰ぐ。
 五十嵐はそんな日下部の挙動に関心を示す事なく淡々と言葉を続けた。
「現在は無資格ながら邪去侮の梯子会に所属し、同会員から寄せられる法律関係の相談に乗ったり、時に助言をしたりしていると…本人はそう言っています」
 また、邪去侮の梯子会だ。
 何処までも影のようについて回るくせに、追い掛ければ逃げて行く。茫洋としていて全体像が不明瞭な存在に日下部は辟易していた。
「今回の犯行について動機は支離滅裂な発言が多くて詳細についてまだハッキリしないですが、生まれ変わっても罪は罪だ。法が裁かないから自分がやるしかない。と言った主旨の発言を繰り返しています。凶器は小型の木槌で…」
 不意に五十嵐の声が途切れ、代わりに脳内へビジョンが流れ込んで来た。

 喫煙室のガラスの向こうにバタバタと廊下を慌ただしく駆けていく同僚の背中が見えた。
 酷く焦っているように見受けられる。
「クソッ、何処に隠し持ってやがった」
「早く吐かせろ!!」
「一体何飲んだ!おい!山野!!」
 男達の怒声が響き渡る。
 慌てて喫煙室を飛び出すと、遠く廊下の先にある取調室から意識を消失し、全身を痙攣させた男を引きずり出している所だった。
 間違いない。あれは、山野だ。

「聞いてます?日下部さん」
 五十嵐の声に急激に現実へと引き戻される。
 慌てて煙草を揉み消し外へ飛び出すと、取調室へ向かって駆け出した。
 背中に五十嵐の困惑した声が掛かるのも構わずに走ると、あと少しで目的地という所で同僚が血相を変えて飛び出して来たのでこれを捕まえた。
「何があった!」
「山野が…急に苦しみ出して…」
「おい何してる、早く救急車を呼べ!!」
「クソッ、何処に隠し持ってやがった」
「早く吐かせろ!!」
「一体何飲んだ!おい!山野!!」
 酷く狼狽えた様子の同僚から手を離し、騒然とする取調室の中を覗き込む。
 中には椅子から崩れ落ち、床をのたうつ山野の姿があった。

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