少し先の床が不自然に波打つ。

まるで水面に波紋が走るよう、コポリと水音が響く……と同時に獣の唸り声が聞こえた。

ビクリと体が震えて自分を含めた周囲の荒い足音がその場で止まった。

目を凝らし薄暗い廊下の先を見る。

すると波打った床より何か……大きな体躯が這い上がってくる様が見えた。

136: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/07/18(金) 00:42:48.61 ID:l402pkcK0
こんな内宮の奥で…有り得ない猛獣の姿。

しかも暗闇の中六つの紅い瞳が爛々と輝き、それだけでも眼前に現れた猛獣が只の獣ではない事を悟る。

妖魔だ、と苦々しく口元を歪める。

脳裏にあの無愛想な麒麟の少女の姿が浮かぶ。

きっと彼女の使令に違いないと気付いて腸が煮え繰り返った。

本当にあの麒麟は綺麗事ばかり抜かしていつもこちらの邪魔ばかりする。

この先に進みたいが……現れた妖魔はギラギラ敵対心を向けてそこから動かない。

自分を含め周囲の人間はもはや、突如として姿を見せた猛獣の姿に怯えてしまっていた。

睨み合ってから数秒、背後にいた一人が短い悲鳴を上げて逃げ出すと後は雪崩だった。

情けない、と思いながらも再び薄暗い廊下に響いた獣の唸り声を聞き、

結局自分は振り返って逃げ出した。

妖魔が追ってくる気配は無かった。

今日は失敗には違いない。……ただ簡単に諦める訳にはいかなかった。

今に、今に見てろと。男は唇を噛み締めながら薄暗い廊下を走り続けた。

137: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/07/18(金) 00:46:07.08 ID:l402pkcK0

去っていく人の気配が感じなくなるまで、妖魔はその場に留まっていた。

どれくらい時間が過ぎただろうか、六つの瞳を徐に瞬きさせると周囲に撒き散らしていた警戒を解いた。

もはやこの薄暗い廊下に人の気配は感じない。

ペロリ、大きな舌を出して鼻先を舐めるとゆっくりとした動作で振り返った。

そのままのそり、のそり、廊下の先まで四足で歩く。

すぐに奥に行き当たり……そこにあった扉の前に辿り着くと頭を上げて室内の気配を探った。

きちんと人の気配をある事を確認してから扉の前に重い腰を降ろす。

そのままに体躯も曲げると、扉の前を陣取るようにして丸くなる。

部屋の中より、まだ物事を終える気配を伺う事はできなかった。

そうして丸めた体躯に頭を乗せて六つの瞼を閉じてからどれくらい経ったか。

何かを感じて、閉じていた瞼がピクリと震えた。

頭を上げて瞼を開く。……すると、薄暗い廊下の向こうより誰かがここへと近付いてくる。

先ほどの粗野な雰囲気を纏った輩が戻ってきたのだろうかと警戒したが。

見えた姿と感じた気配に、抱いた警戒はすぐに霧散した。

言葉も無く六つ目で、主人である台輔の長身の姿を見上げる。

彼女は、書房の扉の前を守るよう身を丸めていた使令の姿を見て何があったのかをある程度悟ったようだ。

気難しげに眉間に刻まれていた皺が深くなる。そして、そのままに書房の扉へと視線を向けた。

そんな台輔の仕草を見届けてから、自然に、扉の前に陣取っていたこの体躯を少しだけ脇に移動させる。

当り前のように、台輔は開けた扉の前へと足を進める。そのまま僅かに扉を開けて彼女は中へと入っていった。

パタン、と扉が再び閉められてから。誰もいなくなった薄暗い廊下を六つ目で一瞥する。

そうしてまた扉の前へと移動すると、重い腰を床に降ろし体躯を丸めて瞼を閉じたのだった。



■  ■  ■

138: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/07/18(金) 00:49:35.49 ID:l402pkcK0
菫が書房の中に入ると、書架が立ち並ぶ暗い通路の奥より燭台の明りが漏れているのが見えた。

角を曲がると、奥に置かれている机に向かい座り込む王の背が見えた。

机の上には何冊もの本が積み重なっていて、脇に置かれた燭台の炎が微かな空気の流れの変化からか揺れている。

なぜかいつまで経っても動かないその背を不審に思い近付いて行く。

あと2、3歩程の所で……微動だにしない姿の理由が分かった。

机に向かう姿の頭が必要以上に真下に垂れている。

覗き込むよう身を屈めると、俯いたその顔は翳っていて瞼は閉じられていた。

机の上には読んでいた途中の本が開かれたままになっている。

本の文字を追い掛けている内に、生まれた眠気に抗えなかったという事なのだろう。

菫「…………」

そんな姿になぜか興味を抱き、言葉を掛けるでも無く観察するように見つめる。

彼女がここ数日、空いた時間に書房に通い詰めている事を聞いて気にはしていたけれど。

こうして直にその様子を目の辺りにして見れば、その姿勢を嬉しいと感じている。

だって、この人は努力をしてくれている。

智美に言われたが、この人にしてみれば全く違う世界に突然にも放り込まれたようなものなのだという。

与えられた権限と地位は確かに誰よりも高いが、それに伴う責任も果てしなく重いはずだからと。

ただ、玉座に坐したという幸運に浮かれるのでは無く。

そこにある責任を誰よりも重く受け止めて、悩み、こうして少しでも理解しようと僅かな時間を削って頑張っている姿に

半身である菫が心を動かさないはずがないではないか。

139: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/07/18(金) 00:52:58.95 ID:l402pkcK0
だから、疲れて眠ってしまった姿を見つめていて心中に生まれてくるのは申し訳ない、という気持ちと。

だがこの人が主でよかった、という強い想いだ。

麒麟として生を受け、生涯を共にする見た事もない王に対して一度も不安を抱かなかったとは言えば嘘になる。

けれどこの国のために、民のために……寝る間も惜しんでこうして頑張っている、

彼女の姿を確認できれば過去の不安は杞憂でしかなかったということだ。

だからいつだって、菫は主に対して助けてやりたいという 気持ちを持っている。

今だってもし咲がこうして書房に篭もる前に、菫に手伝って欲しいと一言くれれば、喜んで付き合っただろうに。

疲れ果て一人眠ってしまった姿も、自分が一緒だったなら僅かな時間も放置しておかなかったはず。

些細な事なのかもしれないけれど。……やっぱり、自分を頼りにして欲しいとは思う。

こんな菫の葛藤を智美なんかは、素直に気持ちを伝えればいいじゃないか、と軽く言ってくれるが。

それができれば、菫とてこんなに悩んでいない。もはや自分の性分なのだ。

じっと見上げてくる朱い色の瞳を見下ろせば、心中に滲む緊張から何も言えなくなってしまう。

しかも、これ以上嫌われたくないという怖気が更に菫から言葉を奪ってしまうから。

憮然とした表情しか反応を返せない自分は、多分、この主にいらぬ心配を掛けている。

違うと伝えたい、嫌ってはいない、苦手にも思ってない。

むしろ、誰よりも心を寄せているのだと伝えたい。

今だって、こんな感じで眠っている姿にならば側に寄っていけるし、冷静に考える事もできるけど。

あの朱色の瞳に、意志を持ってじっと見つめられると……どうにも緊張して駄目だ。

無意識に、菫は息を吐く。机の上に置かれた燭台の炎が揺れた。

140: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/07/18(金) 00:56:59.14 ID:l402pkcK0
蝋はもはや残り少なくなっていて、すぐにでも明かりとしての効力を失うだろう。

それを一瞥した菫は、徐に燭台に顔を近づけると灯る炎に息を吹きかけ消す。

仄かに明るかった室内は一瞬にして暗闇に包まれた。

それでもこの暗闇に視界が慣れてくれば、窓より差し込む月明かりのお陰である程度周囲の様子は分かる。

とりあえず疲れて眠ってしまった主をこのままにしてはおけないだろう。

座ったままの体勢でもあるし、朝を迎えたら体を痛めてしまうかもしれない。

菫は咲へと腕を伸ばし、その背を支え、膝裏に差し込むとそのまま苦も無く抱き上げた。

そのまま踵を返し数歩歩いた所で、無意識に、片眉が訝しげに上がる。

なぜなら抱き上げた体躯が想像するよりも軽く感じたからだ。

月明かりだけに照らされた主の顔を見下ろす。

ここへ連れてきた時に比べれば血色も良くなり、体格も彼本来のものに回復してきたと思う。

けれど、菫と比べて格段に劣る体躯である事には変わりない。

この華奢な体躯で、菫は元より自分を含めたこの国をこれから支えていくのか。

体躯を抱えなおしながらどこか身が引き締まる想いがした。

麒麟として選んでしまった責任から?いや、麒麟とか王とか関係なく。

この国のために懸命に努力しようとしてくれる彼女を、自分が支えてやりたいのだと本心より思ったからだ。

書房の扉の前に立つと、自然とその扉が開く。

どうやら扉の前でここを守っていた使令は出てこようとする自分らの気配を敏感に悟ってくれたらしい。

開いた扉の隙間を通り抜けると、また扉が静かに閉まる。

その裏にいた獣の姿が菫を見上げると、六つ目が穏やかに瞬きした。何もありませんでした、という意思表示と受け取る。

そう菫が理解して頷き返すと、六つ目の獣は頭をこちらに向けて垂らしたままにその体躯が床の下へ除々に沈んでいく。

その姿が完全に床にできた水面へと吸い込まれていってしまったのを確認してから。

菫は徐に踵を返し路寝へと向かったのだった。


■  ■  ■

141: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/07/18(金) 01:03:17.04 ID:l402pkcK0
智美「内宮の奥に関る者だけでも綺麗にしないとやばいな」

智美の声に、昨日あったことを伝え終えた菫は頷く。

菫「使令の話では5,6人いたそうだ。数が多い、おそらく天官だけではないな」

智美「ああ、外から手引きした奴がいる。…菫ちん、内宮を纏める内宰は人格者だと言ってなかったか?」

菫「私はそう思っている。…過去に仁重殿の人事についても、私の意向を酌んでくれたからな」

菫「明確な理由があって通す筋より大きく外れなければある程度は許容してくれる。それに賄賂や不正といったことも嫌ってたと思う」

ふむ、と智美は顎に手を当てて考え込む。

智美「……心変わりしたか。それとも、内宮の官吏全てを掌握してないのか…」

菫「後者ではないか?以前より、この宮中では人格者は煙たがられる」

菫「それでも内殿の内宰に収まり続けていたのは今までここに主上がいなかった事と、政局からは遠ざかっていたからだ」

智美「まぁ。話は分かるな……けど、新たな王が立った事で遠ざかっていた政局に野心が生まれたんじゃないか?」

智美「菫ちんが信じたいのは分かるけど、違うんだって言い切れないのは……わかるよな?」

菫「…………」

智美の言葉を聞いた菫は暫し押し黙る。

彼女の言いたい事が良くわかったから。王が選ばれたことで今の宮中は必要以上に慌しくなっている。

昨日までは当たり前だったことが、今日には様変わりしていることだって十分に考えられるのだ。