診療録05.18(2):恋の病の完治と三年の執行猶予に関しての報告
【キャプション必読願います】
篤寛花吐き病パロです。
全9話の8話目になります。
連投すみません……。
原作から7年後の世界線で日車さん呪術師if。
好きな相手がいない(と思ってる)のに花吐き病を発症した日下部さんのお話。
※ラブコメです。
★捏造過多。花吐き病オリジナル設定あり。精神疾患系の話・余命・寿命などの言葉が出ます。
苦手な方は自衛をお願いします。
余談ですが今日は『ことばの日』だそうでして、ふたりをくっつけるならこの日がいいなと思ってずっと温めてました。
言葉を尽くす系と言葉を出し惜しまない系。
会話させるの楽しくて毎回文字数が増えるのですが今回特に爆発してしまいました。長めですみません…。
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ちり、と何かが肌を刺す感覚を受けて日車の意識が緩やかに浮上した。
続く刺激に促されるように瞼を開ければ、床に無造作に山積みにされている紅色の薔薇が視界を埋めて寝ぼけまなこが無意識に緩む。
あれには見覚えがある、日下部の『花』だ。
——相変わらず。
「……きれいだな」
「——日車、起きたか?」
「っ、!?」
ぽつり、零れた独り言に返事が返ってきて日車は飛び起きた。
声のした方に視線を移せば花びらの山のその隣、ちょうど視界から外れる位置に日下部がヤンキー座りで座っていたので日車の心臓が跳ね上がる。
(っ、俺はいま、なにをして……)
寝起きから飛び起きた反動で揺れる脳を叱咤しながら日車は状況を整理する。
見れば日下部のジャケットが肩にかけられていて、「ああ、仮眠を取っていたんだった」と思い出した。
(上着、かけてくれたのか)
日下部特有の『特別扱い』に喜びそうな恋心を抑え込んで、日車はもう一度状況を整理するために頭を回す。が、ひとまず状況を把握しないと整理も何もないと思い直した。
まず、なぜ。
「——おかえり日下部。今日は帰りが遅くなると言っていなかったか?というか君、そこで何をしてるんだ」
「……色々あって帰ってきた。そんで日車が寝てるの見てた」
「…………そうか」
なるほど分からん。
色々あって帰ってきたまでは理解したが、なぜ自分が寝ている所を見られていたのかがさっぱりで日車は戸惑う。
とりあえず先ほどの覚醒を促された感覚はいわゆる『視線が痛い』と呼ばれるものだったのだろう。
視線を感じるレベルとはどれだけのあいだ寝顔を見られていたんだ、と気恥かしく思うと同時にふと違和感に気付いた。
——外が暗くなっている。
「今何時だ?タイマーをかけていたはずなんだが」
「今七時になったところだな。タイマーは明日の朝に鳴るようにセットされてっけど」
あっち、と日下部の指さす方を見れば、ソファ横のローテーブルに日車のスマホが上向きで置かれていた。液晶画面には『15:02:18』から秒数を減らし続けるタイマーが表示されていて日車は頭を抱える。
どうやら二十分後にタイマーをかけたつもりが二十時間後にしていたらしい。そして自分は五時間近く寝ていたらしい。
約一日分の睡眠時間である。どうりで頭がすっきりしているわけだ。
みるみる埋まっていく情報に思考もクリアになっていくが、やっぱり「なるほど分からん」が解決しないので日車はとりあえず日下部に向き直った。
状況把握しようとしている日車を、日下部は変わらずヤンキー座りのままじいと見続けているのだが。
(——どうにも見た事のない顔をしているな)
寝起きのご主人が散歩に行こうと言い出すのを待っている大型犬のごとく微動だにしない日下部は、しかし今まで見た事のないような顔をしていて日車は少し不安を覚える。
どこかで見た覚えのある表情なのだが、誰がいつどこでこの表情を見せていたかが思い出せない。
(悪い感情のものではないと思うんだが……)
だけど何故だろう、なんとなく追いつめられるような感覚がして背筋がそわっと心許なくなっていた。
「…………」
「…………」
奇妙な沈黙が流れる中、日車は頭をぐるぐると回しながら考える。
日車が寝ているのを見ていたという日下部は、しかし日車が起きたからといって積極的に何かを話す素振りを見せていない。
日車に用事があるのならすぐ切り出すだろうに、それをしないのは何か理由があるからだ。
(困りごとなら力になってやりたいが……)
日下部がこんな風に言い淀んでいるのは珍しい。
付き合いの長い冥冥や家入なら何か察して話を促す事もできたかもしれないが、今の日車では難しいのがもどかしかった。
——だけど何か困っているならせめて話だけでも聞いてやりたい。
そう思って無意識に周囲に視線を走らせた日車は、瞬間、目に入った『紅』にぎくりと身体を強張らせた。
(そうだ、花 ——)
起き抜けの視界を覆っていた薔薇の花びらを再び視認した日車は息を飲んだ。
日下部は最初の立ち合い以降、花を吐いている所を日車に見せる事は決してなかった。その『花』が、現在日車の前で惜しげもなく晒されている。
それは恐らく、日下部の予定外のタイミングで吐花が起こったからだ。
という事は、つまり、
「——日下部、もしかして嘔吐剤なしで花を吐いたのか?」
「っ、」
言った瞬間ぴくり、日下部が小さく肩を跳ねさせたので日車は自分の予感が当たった事を確信する。次いでドクドクと逸り出した心臓に慌てて奥歯を噛みしめた。
日下部が嘔吐剤なしで花を吐いた。
それはつまり、彼が自分の想い人を自覚したという事だ。
(っ、だめだ……)
ど、っと襲ってきた負の感情を日車は意識してやり過ごす。
心臓を叩いているのは『悲しい』とか『苦しい』とか、いつかの夕暮れの日に感じたものと同じ衝動だ。
日下部の恋の自覚に、日車の恋心が苦しんでいる。
(……最低だ)
本当に自分はどうしようもない人間だ。日車は自分自身に失望する。
この恋を一生に一度のものにできるならそれだけで良かったはずなのに、日下部の恋が現実となった瞬間、日車の恋心は「いやだいやだ」と駄々を捏ねている。
日下部が自分のものにならない事は百も承知だ。だけど。
(せめて誰かのものにならないでほしかった、なんて、)
そんな傲慢な願いが許されない事くらい分かっていたはずなのに。
「——日車?」
「っ、」
急に黙りこんだ日車を不審に思ったのだろう、名前を呼んできた日下部に今度は日車の肩が小さく跳ねた。
不安げな視線を寄こす日下部に一気に自己嫌悪が湧き起こる。
(——っ、何をしているんだ俺は……っ)
瞬間がばりっ、起き抜けの身体を支えていたソファから床へと降りた日車は、日下部の正面で正座になって目の前にある右手を取った。
「大丈夫だ日下部。俺が手伝う。絶対に治そう」
「——っ!!」
言えばまた肩を跳ねさせた日下部に、日車は内心で自身を叱りつける。
(今一番苦しんでいるのは日下部なのに、俺は自分の事ばかり考えていた……)
片想いの相手を自覚した日下部はきっと今、混乱の渦中にいるのだろう。花を吐くほどの恋の相手だ、当然の事と言える。
混乱して、困ってしまって、だから日下部は日車が目を覚ますのを待っていた。花吐き病を治すための手助け先として日車を選んでくれたのだ。
結局何の協力もできなかったのに、それでもなお頼ろうとしてくれている日下部の期待に応えたいと日車は背筋を伸ばした。
(もうすでに一度失恋してるんだ、今更だろう)
湧き上がる『悲しい』に蓋をして、日車は声のトーンをひとつ落としながら問いかけた。
「でも本当によかった、日下部の好きな相手が分かって。薬なしで花を吐くのは二回目だが辛くなかったか?」
「————ん」
勢いで握ってしまった日下部の右手から手を引きつつ、日車はほっと息を吐く。
ヤンキー座りから胡坐に組み直した日下部の腰元に控える薔薇の花は一度目に見た時より更に量が多かった。
あれだけの量を吐き出したとなれば相当な消耗を強いられるはずなのだが、日下部は日頃から鍛えているので体力がものを言わせたのかもしれない。
「抑制剤飲んだし」
「——うん?抑制剤を飲んだのか?」
「なんかずっとゲロゲロ出てきてキリなかったから。ダメだったか?」
「ああ、いや、大丈夫だ。そのための薬だから」
——まさかあの量を吐いてもなお抑制剤が必要だったとは。
これは思った以上に日下部は拗らせているのかもしれない。
しかもよくよく見れば薔薇の山の中には紅色とは別の、黒に近い花びらが混ざっていて日車はぎょっとする。
「——日下部。吐く花はいつも同じだと言っていたが、あの黒い薔薇もいつも吐いていたのか?」
「ん?——ああ、なんか混じってんな。あんまちゃんと確認した事なかったけど黒いのは初めてだと思う」
「——そうか」
「なんかまずいのか?あの黒いの」
「いや、まずくはないんだが……」
邪気の欠片もない瞳で黒い薔薇の意味を問う日下部に、日車は思わず曖昧な言葉で返してしまう。
黒い薔薇を吐くこと自体はまずくないのだ。まずくはないのだが、これが『日下部が吐いたもの』となると少しまずい気がする。
黒薔薇の花言葉は『憎しみ』『恨み』のようなネガティブなものが代表的だが、恋愛に絡めると『決して滅びる事のない愛』という意味がある。パートナーに対してならば『あなたを一途に想い続けます』という誓いの言葉になれる花だ。
ここだけピックアップすると日下部の無自覚だった恋情が強く深いものだったと窺い知れるが、黒薔薇には他にも『あくまであなたは私のもの』という意味がある。——つまり。
(恋心を自覚した途端にだいぶ重めの独占欲を発揮している……)
紅色の薔薇に比べればまだ一割そこそこの量だが、自覚した一日目でこのレベルだと片想いが長引いた際が怖い。
これは一日でも早く日下部の片想いを成就させねばと、日車はとりあえず「嘘は言ってないけど本当の事も言ってない」の範囲で黒薔薇の意味を告げる事にする。
「黒い薔薇の花言葉は『決して滅びる事のない愛』だ。日下部は思っていた以上に情熱的な人だったんだな」
「——日車は嫌いか?そういうの」
「?、俺か?」
てっきり「思っていた以上ってなんだ」みたいな返しがくると思っていたら、予想外の方向から質問が飛んできたので日車は目を瞬いた。
(俺の意見が何か参考になるんだろうか……)
「嫌いか?」と聞かれれば日車としてはむしろ大歓迎だ。日車の『ひまわり』の相手は日下部なので。
しかし今それは関係のない話なので、では『一般的』ではどうだろうと考える。
ハラスメントの種類が五十を超える昨今ではコクハラなるものもあり、いきなり黒薔薇レベルで愛を誓われるのはハラスメント認定される可能性は大いにあった。
しかし正直なところ日下部が本気を出せばだいたいの人類は落とせると日車は踏んでいるので(※惚れた欲目)、終わり良ければ全て良しとも言える。
となれば結論は『有り寄りの有り』だと日車は結論付けた。
「嫌いじゃない。それだけ好きになってもらえる事はとても嬉しい事だと思う」
「っ、」
「だから、日下部に想われる人はやはり幸せものだな」
「…………、」
少しでも日下部の気が楽になればと前向きな言葉を放ったが、対する日下部は何だか複雑そうな顔を返してきたので日車は内心で首を傾げた。日下部の不安が無用のものであると肯定したのにどうしてだ。
もしや日下部の想い人は束縛を嫌うようなタイプなのだろか、と考えた日車はアイスブレイクも兼ねて話を振ってみる事にする。
「日下部の好きな人はそういう想われ方を嫌がりそうな人なのか?」
「——いや、嫌いではない、らしい。つか情熱家ってーんなら、そいつがそうだし。自覚ねぇかもだけど」
「……そうか」
気まずそうに顔を背けた日下部を日車は少し意外に思う。
以前日下部は自身の好みのタイプを「危なっかしくて放っておけないやつ」と答えたが、そこに『情熱家』が加わるとなると日下部は恋愛面では振り回されるタイプなのかもしれない。
恋人に振り回される日下部。解釈は意外と一致するが直視できるようになるには五年ほどかかるだろう。この際京都校あたりに転属願いでも出してみようか。
「日下部の好きな人はどんな人なんだ?」
正直、この質問は日車にとって拷問に等しかった。だが「手伝う」と言った以上、最終的には相手が誰なのか知らなければならない。
それに日下部もそのつもりで日車が起きるのを待っていたのだろうから、話の導入としては最適だと判断して切り出してみる。と、なぜか日下部が不貞腐れたような顔をしたので「なんだ?」と日車の眉根が寄った。
もしかして好きな相手を開示するのはNGなのだろうか。
「……何においても器用なくせに不器用。根っこが優しくて脆いくせに責任感と能力がバカ高くて無茶できるからすげぇ面倒なやつ」
あ、答えてはくれるのか。
杞憂をよそに日下部が相手の特徴を挙げたので日車はほっと息を吐いた。
変な間が開いたのは日車に『恋愛の一面』を見せる事への抵抗感からだろうか。
それでも日下部が話をするつもりでいるなら先に進めるので何よりだ。
(——しかし、『器用なくせに不器用』とは)
だからこそ『危なっかしくて放っておけない』のだろうなと、日下部らしい恋の仕方に日車の胸が痛んだ。
「……優しくて責任感と能力が高い、か。日下部とお似合いの人だな」
「——そう思うか?」
「ああ。君と君の想い人は似たタイプのようだから、心理学的にも相性がいいんだ」
「いや俺は優しくも責任感も能力もねぇけど、そうなのか?」
アイスブレイクの延長のつもりで振った話題だったが、意外にも日下部がノークッションで食いついてきたので日車はぴくりと反応した。
実は先程から日下部のリアクションが常にワンクッション開いている事が気になっていたのだ。
恐らく何かしら考え事をしながら会話をしているのだろうが、頭の回転が早い日下部が『間』を開ける理由が分からなくて日車は困っていた。
しかしこの話は日下部の興味を誘ったようなので、流れで要望を引き出せればと日車は話を続ける。
「所説はあるんだが、似たタイプと違うタイプの恋愛は、似たタイプ同士の方が安定性があって長く続きやすいという研究結果が出ている。人は自分と違うタイプに惹かれる傾向があるが、生涯のパートナーとして選ぶのは自分と似たタイプの人になる事が多いらしい」
「——日車の好きなやつは日車と似たタイプなのか?」
「?、俺か?」
いや何でまたそこで俺の話なんだ。というかまたワンクッション入ったな。
日下部の思考回路が読めなくて戸惑ってしまうが、とりあえず会話を進めないと解決の糸口すら掴めないので日下部の質問に対して日車は考える。
自分の好きな人、——つまり日下部が自分と似ているかどうかと聞かれると。
「似てはいない、な」
「…………、」
それこそ器用なのに不器用で、根っこが優しくて責任感と能力が高いから人から頼られて、それでいて自身の弱さすら内包してしまう。そんな眩しい強さを持つ日下部と自分が似ているとは到底思えない。
では自分と異なる部分に惹かれたのかと問われるとそうでもないのが厄介なところだ。
やはり恋愛とは難しいものだなと考えていると日下部がまた不貞腐れたような顔をしたので「今度はなんだ」と日車は眉尻を下げた。本当にどういう情緒なのだ。
日下部には日車に何か求めているものがあって、でも日車はそれを上手に拾えていない。
ならばもういっそ、と日車は続けて口を開いた。
「日下部は好きな人とうまくいけそうか?」
切り込んでみれば思った通りギクリ、日下部が身体を強張らせたが背に腹は変えられない。
日下部が日車に対して何を求めているのか分からないならば、『ゴール』から日下部の望みを紐解いていくしかないのだ。
しかしデリケートな部分に土足で踏み込んだ自覚がある分、日車の心臓には緊張が走っていた。嫌な思いをさせてやしないかと不安が過るが、幸いな事に日下部から返された声色に不快の色はなくて安堵する。だけどその内容は残念なものだった。
「今はまだ無理」
ぽつり、不貞腐れたままの日下部から不貞腐れた声色が落された。
幸先の良くない返答ではあったものの、その発言に含まれる日下部の意図を読み取った日車は続けて問いかける。
「もしかして、もう他に恋人がいる人なのか?」
「いや、付き合ってるやつはいねぇ。——けど、ずっと片想いしてる相手がいる」
「『ずっと』?」
「——聞いた限りでは六年」
「六年……」
長いな、と日車は口元に手を当てて考える。
六年と言えば『恋の寿命』を迎えて『愛』に移行してしまえる期間だ。それだけの片恋を抱えているのなら、日下部の想い人は花吐き病に感染したら即発症するレベルで拗らせている可能性があった。
(なるほど、なかなか手強そうな相手なんだな)
さすが日下部が『情熱家』だと評する相手だ。「ううむ」と日車は唸る。
「相手の恋愛事情を知っているという事は親しい間柄なのか?」
「——親しくはしてるな。俺が作った飯もうまそうに食うし、率先して皿洗うの手伝ってくるし、ソファで並んでテレビ見てたら寝落ちするし、寝落ちしたの運んでも起きやしねぇし、気は許されてると思う」
「……待て、日下部が作った料理を食べて一緒に洗いものをして並んでテレビを見て寝落ちしたところを運んでって、それはもはやデートだろう。気を許す許さないを通り越して君がその女性の片想い相手というか、むしろ誘わてるんじゃないのか?」
日下部が「今はまだ無理」と即答したくらいなので、良くて『ちょっと親しい間柄』かと思いきや、むしろかなり深い仲であった事に日車は驚いた。
というか家の行き来があって寝落ちまでしているとなると、日下部がアプローチしやすい『隙』を女性側がわざと作っているとも判断できた。その意図がないのなら逆に無防備すぎる。
そう思って日車は問いかけたが、やはり返ってきたのは日下部の不貞腐れた顔だった。
「そいつの片想い相手は俺じゃねぇ。タイプじゃないって言われたし」
「そ、そうか」
「むしろ俺の好みのタイプとか平然と聞いてくるし」
「そ、そうか」
呪詛でも吐くかのごとく告げられた不満の声に日車は少したじろぐ。
——どうして俺がクレームを言われるような形になっているんだ。
(しかし日下部の好きな相手はなかなかの小悪魔タイプのようだな。年下だろうか……)
年下の小悪魔な恋人に振り回される日下部。解釈はわりと一致するのでやはり京都校に転属願いを出そう。
と日車が頭を回していると「……あと」と日下部が口を開いた。
今日初めての日下部からの発信に日車は意識を集中させる。
「女じゃなくて、男」
「え、」
「俺の好きなやつ」
「————は、」
ぽとり落とされるように、だけどしっかりとした音で伝えられた告白に日車の思考回路が停止した。
(日下部の好きな相手が男性……?)
なるほど日下部が何か言いたげにしながらも躊躇していた理由はこれだったのか、と納得すると同時に日車は心の奥で生まれた欲求を自覚する。
——ならば。
(…………っ!!)
無意識に行き着いてしまった願望に日車は酷い自己嫌悪に陥った。
日下部の好きな相手が自分と同じ『性』である事に、瞬間日車はほの暗い感情を抱いてしまったのだ。
——ならば、俺じゃだめだったのだろうか、なんて。
(最悪だ。頭がイカれているとか、そういうレベルを超えている……)
茹った感情を霧散すべく日車は脳内で頭をふるう。
異性愛者の恋する相手が異性なら誰でもいいわけではないように、同性愛者だからといって恋の相手が同性なら誰でもいいわけではない。
そもそも聞いた限り日下部の過去の恋人はみな女性であり、つまり、日下部は自認に反して同性へ恋心を抱いたという事になる。
それはきっと、日下部にとっての『一生に一度の恋』になるのではないか。
日下部の恋の土俵にうっかり己を上げてしまった事に恥じ入りながら日車はぐっと奥歯を噛み締める。
もともと罪を犯した身である日車には、こうやって日下部の相談に乗れるだけでも身に余る僥倖なのだ。そしてこの環境を整えてくれたのは他でもない日下部だった。
ならば、今がその恩の返し時だと日車はもう一度姿勢を正した。
「大丈夫だ日下部。好きな相手が同性だからといって可能性はゼロじゃない」
「っ!!」
日下部の右手を今度は両手で掬った日車はそのまま強く握りしめて日下部へと鼓吹した。
日下部は今、自分の想い人が同性である事に戸惑っている。
ならば日車が出来る事はただひとつ、『そんな事は些末な事だ』と日下部に印象付ける事だ。
実際のところ、同性への恋を成就させる事は異性に対してのそれ以上に困難な道のりではある。それでもそれが日下部が恋を叶えない理由にはならないし、幸いにも日車には花吐き病カウンセラーとしての知識があった。
日下部がせっかく自覚した恋心を戸惑うものにさせないよう、日車はまずは言葉を尽くす。
「まだ検証段階なんだが、純粋な異性愛者や同性愛者はほとんど存在しないという研究がある。異性愛者を自認してる人は魅力的な同性に出会ってもその思い込みで恋愛感情に気付けない事がほとんどで、人は性別に関わりなく恋愛感情を抱く可能性があるというものだ。ずっと女性が恋人だった日下部がそれでも男性を好きになったように、相手だって同性である君を好きになる可能性は」
「待て日車」
「うん?なんだ」
「励まそうとしてくれてんのは分かってんだけど一旦待て、多方面から刺さる」
「?、分かった」
日下部が日車に握られていない左手で「ストップ」とジェスチャーしたので日車は首を傾げつつひとまず口を閉じた。
しかし「刺さる」とは一体何にかかっているのか。
もしや何か日下部の地雷でも踏み抜いたのだろうかと日車は一瞬焦ったが、とりあえず勢いで握ってしまった手は離すかと両手を引いた。——ら、今度は日下部から引き止められるかのように左手だけ握り返されたので混乱してしまう。
こうやって触ってくれるという事は地雷を踏み抜いたという訳ではないのだろうか。
「あとそいつの好きなやつも男だから、多分『同性相手』ってのはそこまで問題じゃねぇと思う」
「————は?」
左手から伝わる体温に気を取られていれば爆弾が落とされて日車は声に出して驚いた。
だって日下部の好きな相手も同性だなんて、こんな奇跡そうそう起こる事ではない。
これはもう日下部が想い人と結ばれるフラグなのではと日車は考えるが、しかし爆弾を投下した日下部はやっぱり不貞腐れた顔をしているのでこの奇跡は日下部にとっては自分の恋を後押ししてくれるものではないらしい。
その理由を問うか問うまいか迷ったが、最終的にやる事は変わらないので日車は結論から話す事にする。
「よし。まずはその相手に告白をしろ、日下部」
「——は?」
日下部が先程から見せる表情の理由はいまだ分からないが、この会話の『ゴール』が『日下部の恋を成就させる方法』である事に違いはない。
ならばまずは日下部を相手の恋の土俵に上げねばならず、そのためには相手に日下部の想いを知ってもらう必要があった。
しかしその提案は日下部にとって予想外だったようで、ぎょっ、と驚きを隠さない日下部に日車はうっかり傷付いた恋心を息を飲む事で誤魔化した。
そういう反応が返ってくる事は分かっていたが、日下部がそれだけ慎重になる恋の相手をやっぱり羨ましいと思ってしまった自分に心底失望してしまう。
これはもう今日が終わったら反省会だな、とこのあとのスケジュールを立てながら日車はまずは日下部の戸惑いを拭うための言葉を放つ。
「日下部の好きな人が同性で、相手の好きな人も同性というのは奇跡に近い運命だ。相手の人の恋が片想いの段階なら尚更、君が躊躇する理由はないだろう」
「いや俺、そいつの眼中にすら入ってねぇんだけど」
「何を言っている、眼中に入るために告白するんだ」
「…………?」
きょとんと小首を傾げる日下部は、見た事のない事象に遭遇した時の大型犬のようでちょっと可愛らしい。
こういう姿を想い人にどんどん見せていけば可能性ももっと上げていけるはずだ、と日車は頭の中で作戦を練る。
「人は誰かを好きになると視野が狭くなるというか、他者から向けられる恋愛感情に鈍感にある傾向があるんだが」
「だろうな。すげぇ分かるわ」
「ああ、分かるか?」
「…………」
日下部から同調の言葉が返ってきて日車の表情が思わずぱっと輝いた。提案に対して同調意識が湧く事はとても良い傾向だ。
と思っていたらやっぱり日下部が不貞腐れた顔を返してきたので「え、違うのか?」と今度は戸惑ってしまう。
ここまで日下部の情緒が分からないのも初めてだった。
まあそれでも話は進めないといけないのだが。
「……それでだ、男同士の親しい間柄なら尚更だろうから、まずは告白して相手の人に日下部を恋愛対象として意識してもらう事が先決だと考える」
「——日車も告ったのか?相手に」
「?、俺か?」
この提案は日下部的に受け入れ可能だろうか、と考えていればまた明後日の方向の質問が飛んできて日車は困ってしまった。
『日車の場合』を聞いてもあまり参考にはならないと思うのだが、まぁ、それで日下部の何かしらの憂いが晴れるのならと伝えられる範囲を考えながら口を開く。
「俺の好きな人にはもう相手がいたから、できなかったんだ」
「——そうなのか」
これは半分本当で半分嘘の詭弁だ。
実際日車が恋の自覚をしたのは日下部に恋人ができた(と誤解していた)時だったが、その後間もなく日下部はその恋人と破局してしまっていた(と思っていた)。
それから六年。日車が日下部と共に過ごす機会はいくらでもあったし、告白しようと思えばいつだってできた。
それでもしなかったのは自分の立場がどうこうという理由だけではない。日車自身が、今の関係のままでいる事を望んでしまっていたからだ。
——だけど。
「ただ、想いを告げて困らせてやればよかったなと、今になって思っている」
「困らせる?お前が?」
意外そうに目を丸める日下部に日車は苦笑する。
言うか言うまいか一瞬迷ったが、この話の帰着点に持ちこむためにはちょうどいい話なので、まぁここまでは言っても大丈夫だろうと判断した。
「『困る』というのは相手がそれだけ俺の事を考えているという事で、記憶に残れるという事だ。俺とその人の縁はいつか切れるもので、そのうち忘れられるものだからな。ならば少しでも相手を困らせて、何かの折に思い出すような存在になっておけば良かったなと——少し、後悔してる」
これは百パーセント本音の日車の気持ちだった。
日車とて最初から『この恋は生涯隠すものだ』と覚悟を決めていたわけではない。
告白する事で日下部の記憶に自分を残せるかもしれない、そんな可能性に惹かれていた時期だってあった。
日車の立場は色々と特殊だ。他の人間より、少しだけその可能性は高いのではないかとも思っていた。
日車と日下部の関係は、いずれ人生のどこかの分岐点で離れていくものだ。そうなれば日下部はきっと日車の事を思い出す事すらしなくなる。
ならばせめて、ほんの少しのひっかき傷をつけて、その心に残りたいと願ってしまったのだ。
まぁ結局、今の関係を壊したくないとずるずる今日まで来てしまったわけだが。
(今はもう、ひっかき傷どころの話ではなくなってしまったしな)
己の過去を振り返りながら「残念」と日車は心の中で苦く笑う。
花吐き病の事を知られてしまった日車はもう、日下部の心に向けて小石を投げる事すら出来なくなってしまっていた。他に誰も好きになれない事を知られているのだ、日下部にこの想いまで知られてしまえばさすがに『困らせる』の域を超えてしまう。
元より叶えるつもりも叶うとも思っていない恋だった。けれど、伝えられない事が確定してしまったこの心は昇華する先を失って、新しい後悔となってこれから日車の心に降り積もってしまうのだろう。
自分が出来なかった事を日下部にさせようとしている身勝手さは自覚していた。
でも、だからこそ。
「日下部には、俺のような後悔をしてほしくない」
日下部の恋が叶うよう全力を尽くすと決めている。もう、日下部の恋が叶ってほしいと本心で望めている。
だけど、こればかりはどうしても努力だけで叶えられる事ではないから。
もし悲しい結果になった時に、それでも日下部が前を向いて次の恋に進めるように、今の恋を後悔のないものにしてほしいと日車は願っている。
——花を吐くほどの想いを、日下部の心のひっかき傷にしてほしくないのだ。
そう伝えれば複雑そうな顔を見せた日下部が口を開いた。
「——でもよ、告ってそいつに避けられるようになったらそれで終わるだろ」
固い声が日車へと問いかける。もちろんそれは予測してしかるべき不安要素であるが、しかしそれを口にした日下部の表情が気になって日車は二の句を継ぐ事に一瞬躊躇した。
——日下部の表情がまた、見た事のないものになっているのだ。
これは不安や戸惑いのような、揺らぎの感情ではない。なのに日下部の質問内容は不安要素の話なので日車は混乱してしまう。
どこかで見た覚えはあるのだ。あるのに、思い出せないその表情になぜだか焦燥感が湧き上がる。
追いつめられるようなこの感覚は、もしかして追及する事を後回しにしてはいけなかったのではないだろうか——。
「——日車?」
「っ、ああ、すまない」
あと少しで思い出せそうなんだが、と記憶を掘り起こしていた日車は名前を呼ばれて意識を戻した。
——しまった、うっかり考え込んでしまった。
ふと湧き上がった焦燥感は防衛本能に近い気がしたが、日下部と自分しかいない空間で防衛も何もないだろう。
やっぱりこの問題は後回しだ、と日車は日下部の問いに集中する。
「その件に関してだが、確かに告白したら気まずくなって避けられるいう話はよくある事だ。だが、例えばもし俺が日下部に『恋愛の意味で好きだ』と言ったら君は俺の事を避けるか?」
「避けない。むしろ喜ぶ」
いや早いな、回答が。日下部からの即レスに日車は少しびっくりしてしまう。
日下部なら「避けない」と言ってくれるだろうと踏んだがゆえの質問だったが、まさか躊躇なしで返答が来るとは思わなかったし、なんなら「喜ぶ」のオプションまでついてきた。
日下部なりの気遣いだと分かってはいるが、だったらやっぱり告白してみたかったな、なんて思いながら日車は話を続ける。
「なら大丈夫だ。『告白されて気まずいから避ける』は人による。君と君の好きな人は同じタイプのようだから、日下部が告白してきた相手に気まずさを感じても避ける事はしないというなら、その人だって君を避けたりはしないだろう。日下部の気持を、きっとちゃんと尊重してくれる」
「でもそれじゃ振られて終わって結局同僚止まりのままじゃねぇの?」
「……日下部の好きな相手は高専の人だったのか」
言えばギクリ、日下部が動きを止めたので日車は内心で天を仰いだ。
まさかの近場の人間だった。
これはもしかしなくても片想い相手に振り回される日下部を明日から見る事になるんだろうか。
日下部の花吐き病が解決するまでは京都校への転属もできないのにとんだ地獄である。
(しかし高専所属で日下部の言う条件に当てはまる人物とは一体誰なんだ……)
小悪魔タイプといえば人たらしな虎杖か、マイペースの極地の東堂か、兼業術師も含めるなら諸々振り切っている髙羽か…。
日下部を振り回せるとしたら髙羽か?とちらり確認すれば、この件にはまだ触れられたくないのだろう、「聞くな」と日下部から目で訴えられたので日車は右手で「聞きません」のジェスチャーを取った。
というかまだ左手が掴まれたままなのはなぜだろう。
「すまない、言いたくないなら詮索はしない。話を戻すが、——まず君、そもそも振られたからってそれで終わりにするつもりないだろう」
「…………っ」
またもや分かりやすくギクリとして見せた日下部に、日車は「やっぱりな」と思わず困り笑いをしてしまう。
日車が「好きな人とうまくいけそうか?」と問うた時、日下部は言ったのだ、「今はまだ無理」と。
残念な結果を思わせる回答ではあったが、「今はまだ」という言葉は日下部の「今はまだ無理でもいつかは叶えるつもりでいる」という決意の表れだった。
そもそも恋心の自覚初日で黒い薔薇を吐くような男だ、一度や二度振られたくらいで諦める気なんてさらさらないだろう。
(——ん?)
と、ここでふと日車の頭に疑問符が浮かぶ。
日下部はその発言内容から自身の恋を叶えるつもりでいる事は一目瞭然だった。
ならば最初から「どうすればいい?」と聞いてくればいいのに、結局日下部は何に躊躇していたのだろうか。
日下部にしては回りくどい展開に疑心が過ったが、それでもやる事は変わらないので日車は先にこれからの作戦を伝える事にする。
「相手が六年も片想いをしているなら一筋縄ではいかないだろう。だが、だからこそ付け入る隙がある」
「付け入る隙?」
「片想いが長くなると『この恋が辛い』と思うタイミングがどうしてもくるんだ。そういう時に他の誰かから想いを告げられると人の心はどうしても揺れ動いてしまうから、その隙を狙う。日下部と相手の仲を聞く限り、君ならその隙の見極めも可能じゃないか?」
「——日車もか?」
「うん?なにがだ」
「日車も片想いしてんのがしんどいってなった時に他のやつから『好きだ』って言われたグラってくんの?」
「?、俺か?」
また「日車もか?」だ。
本当に今日は日下部の意図が掴めない、が、一応カウンセラーの身なので質問には答えようと日車は考える。
正直なところ日車はこの六年の間で他者からの告白にグラっときた事は一度もないのだが、これはフェニルエチルアミンが低値の日車の場合に限りだし、そのままを答えてしまうと色々差し支えてしまう。ので、日車は嘘も方便を選択する事にする。
「ああ、すごく揺れると思う。日下部みたいな魅力的な人からだったら尚更だ」
よくよく考えれば恋の寿命がない日車がグラつくというのは、六年間も片想いを続けている相手に恋をした日下部にとっては朗報になるはずだ。
ならば、となるべく明るく聞こえるように意識して日車は日下部へと答えを返した。
(これが日下部の花吐き病を完治させる足がかりになればいい)
そう考えた直後だった。握られたままの左手に急に力が込められて日車の肩が驚きで跳ねる。
思わず日下部を仰ぎ見れば、唸るような音が真正面から落とされた。
「————言ったな?」
「え、」
きろり、鋭い視線が寄こされて日車の肩がまた跳ねる。——と同時に不意に湧いてきた防衛本能に、いつか見た映像が脳裏を過った。
(——この間、日下部と見ていた番組だ)
日下部が先程から浮かべている、初めて見るはずなのにどこか既視感のある表情。
それは先日ソファで並んで見ていた番組で、大型の獣が獲物を前にした時の目と同じものだった。
やっと思い出せたその表情に日車の背筋がざわつく。
(どうして日下部とあの時の獣が重なって見える……)
目を瞬いていると日下部が大きく息を吐いた。一度視線を下げて、またゆっくりと上げられた眼光がひたり、日車と合わされる。あの時の獣の目と同じひかり。
思わず固まってしまえば、日下部が山積みにされていた薔薇の花をひと掴みして差し出してきたので日車は反射で右手でお椀を作った。
パラパラと手のひらの上へと落されたのはもちろん、日下部の恋心のかたまりだ。
「日車のこと考えて、吐いた」
「——は?」
黒が混ざってもやはり綺麗だな、と受け取った薔薇の花を見ていた日車は、次いで落とされた言葉に思わず頓狂な声を上げてしまった。
——いや今、俺は何を言われた?
脳が処理できず「すまないもう一度言ってくれ」と返そうとした問いは、鋭く返された日下部の視線に遮られる。
「これから俺のこと、恋愛対象として見てくれねぇか」
「——は?」
続けられる言葉にとうとう日車の思考が停止した。
いや本当に、自分は何を言われているんだ。
ぱちぱちと瞬く日車におかまいなしに日下部が捲し立てる。
「回りくどいやり方したのは分かってる。でも普通に告ったらお前、俺の事なるべく傷付けねぇようにしながら上手い具合に振って対処法にいかせようとすんだろ。日車が本気で言いくるめにきたら俺は敵わねぇから、それだけは避けたくて言質取った」
「現地……」
「……おい、今違う変換しただろ。言質、言葉の人質の方な」
驚かせたのは分かるけどよ。と言う日下部に日車の脳内がグルグルと回る。
——言質。言質?
日下部が取らせたかった日車の言質とはなんなのか。
何から聞けばいいか答えを出せずにいる日車をよそに、日下部が繋いでいた左手に更に力を込めた。
逃さない、とでも言うような力強さに思わず怯めば、意思の強い瞳が日車を捕らえる。
「日車が好きだ」
「————っ!!」
射貫かれるとは、きっとこんな感覚だ。
逸らされない視線も握られたままの左手も何もかもが熱くて、まだ何の状況整理もできていないのに日車の頬に反射で熱が籠る。
「花吐くまで、つーか、花吐いても自覚するまで時間かかったのが情けねぇ話だが、多分ずっと前から、少なくとも妹の事があった時には、俺はお前に惚れてたんだと思う」
「………ほれてた」
「だからって言い方もおかしいんだけどよ、いったん俺のこと『そういうつもり』で見てくれねぇか?」
「………そういうつもり」
言葉を覚えたてのオウムだってもう少し流暢に喋るだろう。日下部の言葉をなぞるしかしていない自分に日車は脳内で頭を抱える。
——だめだ、頭が回らない。
一度状況を整理する時間がほしい、と日車は願い出ようとしたが、何を勘違いしたのか「待て、まだ振りにくるんじゃねぇ」と低く唸った日下部がストップをかけた。
「日車が相手の男にすげぇ惚れてんのは分かってる。それが一生に一度の恋だってのも、分かってる。でも、俺にもチャンスがほしい。日車が『今の恋が辛い』って思った時にグラってさせられるポジションに置いてくれ」
ぎゅうとまた左手に力が込められて、そこから伝わる熱さに日車の心臓が一度大きく跳ねた。が、それよりも聞き捨てならない台詞に気付いて思わず口を開く。
「待て、どうして俺の好きな相手が同性だと知っている……」
「あっ、……あー、そのだな、先週来てた患者……『カナ』って子と日車の会話が聞こえてた。この家のリビングと俺が使ってる部屋、子供の事故防止対策のやつだと思うけどあえて音が拾える構造になってる」
「は……?」
二年と少し暮らしていながら初めて知った家の構造に日車は思わずぽかんと口を開けてしまう。
家の作りに関してはのちのち管理者に説明義務の放棄について追及するとして。
(俺はあの時なにを喋っていた……?)
日下部がカナの個人情報を外部に漏らす事はないだろうからそこの心配はない。だが確か自分はカナに「好きな相手はどんな人か」を問われて、日下部を思い浮かべたまま答えてしまってはいなかったか。
微かに青ざめた日車には気付かずに日下部が続ける。
「勝手に聞いたのは悪かった。でもそれで日車の好きなやつが男って分かって、そこからお前の好きなやつはどんな男なんだって気になるようになった」
「…………、」
「ここ最近ずっと胃がムカムカしてて、花吐き病の症状かと思ってたけど今日分かった。俺はお前の好きなやつに嫉妬してたんだ」
「————っ!!」
真っ直ぐ伝えられる言葉に嘘は見つからない。
でも、だからこそ日車は混乱する。
「——いや、おかしいだろう」
「おかしい?」
「俺は日下部の言っていた好きな人のタイプに当て嵌らない」
日車が聞いていたのは日下部にふさわしい人間性を持つ人物だった。だからこそ日車は「もしかして日下部の好きな相手とは自分か?」みたいな片想い特有の希望的勘違いすら起こさなかったのに。という意味合いも込めて怪訝げに見れば、日下部が呆れたように日車を見返した。
「いやむしろまんまお前のこと言ってただろ」
「年下じゃないし小悪魔でもない」
「それどっから出てきた?まあ小悪魔が『振り回す』って意味ならやっぱまんまだろ。さっきからアピってのに全スルーする上に上げて落としやがって。分かっててはぐらかされてんのかと思ったわ」
「……いつ君がアピってた」
「好きな相手がいると他のやつからの恋愛感情に気付かなくなるらしいぜ、先生」
嫌味ったらしく言い放った日下部に日車は空いた口が塞がらなくなる。唖然、なんて初めての経験だった。
「まあそういうわけだ。悪いがこれからは俺の完治に向けて付き合ってもらうからな」
「——付き合うって何にだ」
「とりあえずピグマリオン効果狙って一日一回はお前に好きだって言う」
「は?」
「そんで逆ピグマリオン効果狙って日車も一日一回は俺に好きって言え」
「はあ?」
思わず大きな声が出てしまったがそれどころではなかった。何を言っているのだこの男は。
混乱が引かない日車に対して日下部が平然としているのが余計に理解できない。
というか。
「日下部のそのやり方は『好意の返報性』と『自己暗示』の類だ。ピグマリオン効果は『相手の期待に応えたい』という気持ちに働きかけるものだぞ」
「この状況で正論かます?ちゅーかピグマリオン効果だって自己暗示みたいなもんだろ。どっちにしたってお前の脳が錯覚起こして俺のこと好きになったらお互い花吐き病完治でハッピーエンドなんだから問題ねぇよ」
「いや君、言ってることが無茶苦茶だ」
「——お前を手に入れたくてそれくらい必死になってんだよ、分かれ」
「っ、」
軽口めいた口調から一変、重く深い低声がぶつけられて日車の肩が跳ねた。反射で後ずさろうとしたが繋がれたままの左手に阻まれて、ぱらり、右手から落ちた紅色の薔薇が視界に入る。
その鮮やかさがやっと日車の脳へと辿り着いた。
(日下部の好きな相手が、俺……?)
思考が追いついたからこそ絶句してしまった日車を、日下部が真っ直ぐに見据えている。
日車がやっと落とし込んだと察したのだろう、日下部から小さく息を飲む音が聞こえて、次いで低く擦れた声で囁かれた。
「そういう『好き』だって言ってる」
「…………っ!!」
瞬間激しい嘔吐感が込み上げて、日車はその苦しさに上体を屈めた。日下部と繋がれていた左手が反射で外れてしまい冷たい空気が手のひらを掠める。
「っ、ぁ゛、!?」
「——おい、日車?」
「ぁ、っ、だいじょうぶだ、もんだいな、っ、げほっ」
ゴホゴホッ、と激しい咳を繰り返す日車に、日下部が慌てた様子で片膝をついた。背中を撫でられる感覚がして、その熱に促されるように日車の胸の奥から更なる嘔吐感が込み上げる。
知った感覚に逆らわずにいればこぽり、自身から吐き出された恋の花に日車は目を見開いた。
いつものひまわりの花ではない。
これは、白銀の——。
「————っ!!」
認めた瞬間湧き上がったのは歓喜より先に絶望感だった。
なぜ、よりにもよって——。
言葉を失っていると頭上から「あー」と日下部の声が落ちてきた。
「この状況で花吐くって鬼かお前は……って言ってる場合じゃねぇな。大丈夫か?水は?」
「っ、———ああ、大丈夫だ。水も、必要ない」
「その紙袋の中身、俺が帰ってくる前に吐いたやつだよな?嘔吐剤の影響まだ残ってんのか?」
日車の後方に鎮座する紙袋に目を向ける日下部は、まだ日車が吐いた花の正体には気付いていないようだった。これ幸いと日車は頭を回す。
——このまま気付かれる前にあの花を回収してしまえば。
そう考えた所で日下部が百合の花に手を伸ばしたのでぎょっとした。
「っ、待て日下部、触るな……っ」
「雑に扱ったりしねぇって。腹立つけど綺麗だしな。つーか百合一輪ってお前どれだけ相手の男のことす……」
「…………」
「——これ、白じゃねぇよな?」
「っ、」
——気付かれた……っ。
今度は日下部が唖然、という表情で日車を見た。
日下部は『白銀の百合』がなんたるかを知っている。それを『今』日車が吐いた理由も、聡い日下部は察してしまった。
「え、は、おま、は……?」
「…………」
「——日車の花吐き病の相手って、俺か?」
ああ間違えた。日車はここで自分の失態に気付く。
白銀の百合を吐いた時点で取り繕えていればまだ誤魔化しようもあったのに、初動を遅らせてしまったせいで日下部に答えを導き出させてしまった。
(本当に、どうして俺なんだ……)
日下部から返される想いがあったと知れたのに、歓喜より痛みだけが押し寄せる現実に日車は悲しくなる。
どうしてこの恋はこんなにも皮肉を重ねてしまうのだろう。
自嘲混じりに嗤ってしまいそうになった思考の淵で、ふと、ひとつの事実が日車の脳裏をよぎった。
——自分が日下部の想い人であるということは、すなわち、日下部の花吐き病を治せるという事だ。
その瞬間、沈みかけていた感情が急速に浮上した。
(——違う、これは好機だ)
このあと自分はどう行動するべきか。裁判時さながらの速度で脳が対応策を組み立て始める。
そんな日車の張り詰めた内面など露知らず、日下部はなおも困惑を隠せない様子で口を開いた。
「いやさすがに混乱する。俺、お前の好きな相手の特徴に当てはまってねぇじゃん」
「……その台詞はそっくりそのままお返しする」
「相手は弁護士時代に知り合ったやつって言ってなかったか?」
「俺が日下部に初めて会った時はまだ弁護士だった」
「——は、やっぱりお前の好きな相手って俺なんだ」
「っ、」
しまった、と遅れて気付く。
別の事へ意識を割いていたとはいえ今のは完全に誘導だった。
してやられた事に元弁護士として悔しく思っているとくしゃり、日下部が笑ったので日車の心臓が跳ねた。
「——すげぇ嬉しい」
「————っ!!」
いつかの日に見た、泣き出す直前の子供のような笑い顔。
日下部の柔らかい所を明け渡された感覚に心臓が痛んで息が詰まる。
——ああ本当に、どうして俺だったんだ。
日下部には幸せな恋をしてほしかった。なのに、よりにもよってその相手が自分だったなんて。
それでも目の前の問題を解決できるのも自分だけなのだと思うと、その事実に仄暗い喜びを覚えてしまうのだから始末に負えない。
「——ん?でも俺、百合吐いてねぇけど」
「……抑制剤を飲んだ影響じゃないか」
「あーなるほど。なら嘔吐剤飲んでくるわ」
さてどう伝えればこの状況を自分の目指す方向へと導けるか。
頭を回す日車をよそに日下部が立ち上がったので日車は慌ててその手を掴んで引き止めた。
「待て日下部、一旦止まれ」
「え、なに」
「——君、抑制剤を飲んだのは何時間前だ」
「あー、一時間前くらい?」
「それならあと三時間は嘔吐剤の服用は禁止だ。説明書に書いてあっただろう」
「え、あ、……あーまじか」
名残惜しそうに自室に視線を向ける日下部に、白銀の百合を吐きたがってくれているのだと察して日車は切なくなる。
冷静に、と意識して、そのまま日下部の手を引いてソファへと促した。
「日下部、こっちに。少し話がしたい」
「……何だよ改まって」
日車の声に固さが含まれている事に気付いたのだろう、怪訝そうに日下部が問いかけた。
ソファに腰を下ろした日下部の隣に座った日車は、上半身を日下部へと向けながら口を開く。
「これから三時間後に嘔吐剤を服用するなら、君はおそらく白銀の百合を吐く。吐いてくれたら嬉しいと、俺は思う」
「お、おう」
「でもそうしたら、なるべく早く俺とは別の恋人を作って欲しい」
「はあ?」
「——俺は、君の恋人にはなれない」
ぐ、とこぶしを握りながら告げた言葉に震えがなかった事に安堵した。
日下部が納得するだろう伝え方をいくつかシミュレーションしてみたが、やはり誠実には誠実で返したいと、日車はストレートに想いを伝える事にしたのだ。
「花吐き病の完治事例がないから定かではないが、おそらくこれから日下部のフェニルエチルアミンは減少していくと思う。だけど白銀の百合を吐いたからと言ってその後再発がないとは言い切れない。それでも多少は猶予が出来るはずだから、その間に対処法に移ってほしいんだ」
「いや待て勝手に話進めんなって。恋人になれないってなんで、……お前が本当なら服役してるからって事か?」
「……………」
返事を詰まらせた日車に、察した日下部が眉を顰めた。痛そうに見えるその表情に日車の胸が痛む。
それでも、これだけはちゃんと自分の口で伝えなければならなかった。
「俺は本来刑務所にいなければいけない人間だ。なのに君がいて、仲間がいて、そんな恵まれた環境で生かされている。これ以上の幸せを享受するわけにはいかない」
これはずっと日車が抱えていた葛藤だった。
日車は「贖罪としろ」と強制される形で呪術師になった。だけど、その日々は皮肉なほど温かくて、あまりにも恵まれていた。
仲間がいて、居場所があって、笑い合える人たちがいる。そんな日常を与えられるたび、日車は胸の奥に罪悪感を覚えていた。『あの日』の夢を見る回数が年々増えているのも、そのせいなのかもしれない。
そんな中で、日下部に恋までしてしまった。しかもその想いは奪われる事なく、更にはこうして返されるという奇跡を得た。
これ以上は駄目だ、と日車は思う。これ以上の幸せは自分には許されていない。
そう告げた日車の願いは、しかし日下部から真っ向から否定される。
「その環境に無理やり引きずり込んだのは俺らの都合だろうが。それに日車の言う『幸せ』には俺も含まれてるはずなんだけど、俺の『幸せ』は無視されんの?」
「……君ならすぐに新しい人が見つかる」
「四十過ぎのガチ恋なめんな。一生引きずるっちゅーの」
「……………」
呪いを扱う呪術師の愛は重く、深い。それは日車が身をもって体験していた。その呪術師が「一生」と言えば「一生」だ。——そう日下部は言っている。
「刑務所にいる人間だって恋人いるやつもいるし獄中結婚するやつだっているだろ」
「それとこれは話が違う」
「一緒だよ。ようはお前の気の持ちようって事でしょうが」
「…………」
「手伝うって言ったの、嘘だったのかよ」
「……日下部」
畳みかけてくる日下部に日車は困ってしまう。最後の方は子供の駄々にも近かったが、それすら手札として使おうとしているのだと分かって切なさに喉が詰まった。
——それくらい、自分は日下部に想われている。
もし日下部の恋人になれたなら、どれほどの幸福なのだろう。
その想いに応えられる立場にいる事実だけでも胸の奥がじわりと熱を持つ。誇らしささえ覚えてしまうくらいに。
だけど、その手を取る資格だけは日車にはなかった。
日下部には申し訳ないと思う。それでも、これだけは譲れない。
だから日車は使いたくなかった手札にまで手を伸ばした。
「どうか聞き分けてほしい。仮に俺が君の恋人になれたとしてもそれに伴う罪悪感はずっと付き纏うし、そもそも俺は『あの日』の夢を見ていまだに夜中に魘されて吐いてもいる。そんなものに君を付き合わせたくはない」
「自分の事を『面倒』だってアピールしたって無駄だぜ。俺はお前のそういうところ含めて惚れてるから今更。つーか、俺がそれを知らねぇとでも思ってんの?恋人になったら遠慮しねぇし、お前が夜中に魘されてたら叩き起こして全力で甘やかしてやるよ」
「…………」
「俺は日車に口で勝てる自信は欠片もねぇけど、この件に関しては負けるつもりもねぇから」
この男はサトリの力でも持っているのだろうか。言うこと全てにノークッションで反論されて日車は言葉に詰まってしまう。
——もうここはいっそ日下部に白銀の百合を吐かせてから京都校に転属して物理で距離を取るか。
「ちなみに俺の花吐き病の完治だけさせてトンズラここうとか考えてんなら、今度こそ虎杖に連れ戻しに行かせるからな」
「…………」
——本気でサトリなのかもしれない。
黙ってしまった日車に、予想が当たっていた事を悟った日下部が「はー」と深いため息を吐いた。
「——そんなにグダグダ言うならお前を強制的に俺の恋人にする方法もあるんだけど、聞くか?」
「は?」
ああ言えばこう言うの応酬から、急に不穏な発言が寄こされて日車の目が瞬く。
日下部が日車へと身体を向けた。
「家入に言われたんだが、俺のフェニルエチルアミンの数値は花吐き病患者の三倍あるらしい」
「——は?」
「一般平均だと九倍」
「きゅ……、君な!」
今まで隠されていたらしい新情報に日車は思わず日下部の胸元に掴みかかった。
これも予想されていたのだろう、日車の勢いを腹筋だけで受け止めた日下部がホールドアップのポーズを取る。
「それはいつ聞いた話だ?どうしてもっと早く言わない?体調は大丈夫なのか?」
「待て落ち着けって。ちゅーかそこでそんなに俺のこと心配すんならもう俺の恋人でいいだろーが」
「話を逸らすな!」
「逸らしてねーよ、っと」
「っ、!?」
勢いよく詰め寄っていた態勢が一転、肩を押されたと思ったらソファの座面へと押し倒されて日車は驚きで目を見開いた。
流れるような速さで両手が拘束されて頭上で縫い留められる。逃げ場がなくなった感覚に反射で心臓が大きく跳ねた。
「日下部……?」
「——家入いわくな、俺のその数値だと相手を監禁するレベルで拗らせててもおかしくねぇんだと。だから好きな相手が分かったら法に触れてでも相手を自分のものにした方がいいって言われた」
「っ」
するり、指の背で頬を撫でられて日車の背筋が粟立つ。
室内灯を背負う日下部の表情は暗い影を纏っていて、その瞳だけが鈍く光っていた。
「呪術師としては日車の方が圧倒的に強ぇけど、力は俺の方が上だ。それで俺にはお前に呪力を使わせないようにする手段が三つあって、お前に幻滅されてもいいって開き直ったら四つ手札が追加される。——意味、分かるよな?」
「…………」
「お前の言う通りにしたらロクなことにならねぇんだよ。俺も、お前も」
——この男は誰だ。
日下部のこんな顔も、声も、日車は知らない。
目の前にいるのは日下部なのに日下部じゃないような感覚に混乱が走る中、低く、唸る獣のような声が「選ばせてやるよ」と囁いた。
「俺を犯罪者にして一生監禁されるのと、俺の恋人になって俺を飼いならすの、どっちがいい?」
く、と日下部が暗く笑う。その表情に思い知る。
——彼も、れっきとした『呪術師』だったのだ。
「っ、卑怯だぞ……!」
「そんなのお前を連れ戻しに岩手に行った時から知ってただろうが」
「あの時の君は優しかった!」
「今の方が十分優しいっつの、問答無用で縛り上げてねぇんだからよ。お前に嫌われたくねーから我慢してんの、分かってる?」
「…………っ」
また頬を撫でられて今度は日車の目元に熱が籠る。言っている事は最低なのに指先だけは優しくて、甘やかさているかのような錯覚に脳が混乱を起こしていた。
(——っ、なんで言っている事とやっている事がこうもちぐはぐしてる、んだ……)
と、そこで日車の思考が止まった。過ったのは強い既視感。
監禁だの犯罪者だのと物騒な言葉を並べる、日下部にしては違和感のある強引なやり口と、二者択一に見せかけて実質一択しか許されていない強制感。
それはまるで、岩手で「どっちがいい?」と迫って来た七年前のあの日の再演だった。
(——この男はまた、俺を掬おうとしてるのか)
口を引き結んでしまった日車に何を思ったのか、日下部が小さく息を吐いたかと思うと日車の拘束を解いてゆっくりと身体を起こした。手を引かれるように日車の身体も起こされて、その隣へと座らされる。
先に口を開いたのは日下部だった。
「日車の言いたい事は分かる。それが『お前』で、そんなお前だから俺は惚れた。でもだからってお互いに花吐くくらい患わせてるもの、なかった事にするのは違うだろ」
「…………」
「俺の花吐き病治すって言ったのはお前だ。だったら責任もって俺を幸せにしろ。俺を治せるのはお前しかいないんだからよ」
じ、と視線を合わせられて、日車は込み上げる感情を拳を握る事で抑え込む。
本当にずるい男だと思う。またこうやって『強制された』という認識を植え付けて日車を掬い上げようとしているのだ。
日下部本人にそのつもりはきっとない。それは日下部の『当たり前』の誠実さだから。
そして、そんな日下部に日車は惹かれてしまった。
誠実には誠実を。それは日下部に出会ってから日車の中でできた信念だった。
日下部の恋人になれない事は変えられない。だけど日下部の優しさには応えたい。——ならば。
(期限を決めよう)
この話はきっと永遠に平行線だ。お互い譲る事は決してない。
——ならば和解契約だ。
弁護士時代にも幾度となく交渉してきたこと。
お互いの妥協点を見つけて解決まで強引にでも持って行く。
「——三年だ」
「え?」
「三年間……、フェニルエチルアミンの効果が切れる最長期間の間だけ、俺を日下部の恋人にしてほしい。その間に君の『恋』を『愛』に移行させて、今後の犯罪リスクと花吐き病の再発の可能性を潰す」
「合理的に自分を納得させる方向に持っていったか。——まあ今はそれでもいいぜ。で、そのあとはどうすんだよ。三年後に俺に監禁されんの?」
「犯罪リスクを潰すと言ってるだろう、監禁はされない。そのあとの事は……三年後の俺が考える」
「はっ、上等!」
今考えても仕方ない事は考えない。誰かさんのやり方を倣った発言に日下部が挑発的に笑った。
——ああ、だめだな。と日車は思う。
こんな風に嬉しそうに笑われたらやっぱり自分は幸せになってしまう。
眉尻を下げた日車に気付いた日下部が同じように笑って返して、おもむろに左手が掬い取られた。四指を絡めるように握られて、すり、とかさついた親指が日車の手のひらをくすぐる。
「じゃあ俺は三年の間でお前の『恋』を『愛』に変えて、俺から離れられないようにしましょうかね。知ってるよな?愛ほど歪んだ呪いはないんだぜ」
「俺はそもそも日下部以外を好きになれないんだからすでに呪われてるのと一緒だ」
「そこまで言い切るならもうフツーに恋人でいいじゃん……」
あーもう面倒くせぇけどそこが好き。と、ぐで、と体重を預けるように日下部が伸し掛かってきたので日車は反射で腹筋に力を込めた。この七年鍛えているおかげで倒れる事はなかったけれど、これじゃあ抱き合っているみたいで落ち着かなくなる。
——ああ、でも。
(……温かい)
きっとずっと、知りたかった体温だ。
じわ、と心臓が熱を持った気がして日車は誤魔化すように日下部の背へと手を這わせた。身体的接触の有り無しの確認をしないまま触ってしまったので不安が過ったが、一瞬身体を強張らせた日下部が間を置かずに腕を回してきたのでほっと息を吐く。
更に近くなった体温にきゅう、と感じた事のない感情が湧き上がって、日車は思わず目を閉じた。
この選択が正しかったかどうかは分からない。日下部の誠意に応える事を方便に、自分が幸せになる道を選んでしまったのかもしれないという迷いはある。きっとこの葛藤は最低でもこれから三年間は続くもので、新しい罪悪感になるであろう確信があった。
(ああ、でも)
背中越しに伝わる、日下部の嬉しそうな気配に心が緩む。
これから先の未来には不安しかない。けれど今、こうして日下部が幸せそうにしてくれるなら、今はそれでいいと思ってしまった。
そんな風に考えてしまうあたり、この七年で自分も随分現金な人間になったものだと日車は小さく嗤う。
(これも日下部の影響だな)
そういえばまだきちんと伝えていなかったな、と、日車はすり、と日下部の肩口に額を擦りつけた。
「日下部」
「んー?」
「ずっと好きだった」
「ぐ……っ」
「うわ」
急に身体がへし折られるんじゃないかと思うくらい抱き締められて、日車の喉からカエルが潰れた時のSEと同じような声が出た。
急に何の暴挙だ、と肺から押し出される空気と一緒に抗議を放つ。
「日下部くるしい、少し力を弱めてくれ」
「…………お前はさ~もうさ~」
「っ、おい」
背をタップすれば逆に更に力が込められて、緩まる様子のない体温に日車は諦めて力を抜いた。
今日はどうにも日下部に振り回されてばかりだった。三年後の事を考えると先が思いやられる。
日車は正論には強いが、日下部は屁理屈に強い。離れる時の準備を今から整えておかないと、きっと最後にはまた丸め込まれてしまう。
——だけど。
そう思う一方で、身体を包みこむ温かさに離れがたいと思ってしまうのもまた事実で、だから。
(この体温を、ずっと覚えていよう)
身に余る僥倖を噛み締めながら日車は自分自身に縛りをかける。
この記憶だけできっと自分は強く生きていけるから。
三年後にちゃんと日下部の手を離せるように。
日下部が正しく次の恋へと進めるように。
強い自分でいようと、改めて日車は誓った。