診療録05.18(1):初症例Kと初症例Hに関しての報告
【キャプション必読願います】
篤寛花吐き病パロです。
全9話の6話目と7話目になります。
分けるとテンポが悪くなったのでくっつけてしまいました。計画性がない上に文字数が多くてすみません…。
原作から7年後の世界線で日車さん呪術師if。
好きな相手がいない(と思ってる)のに花吐き病を発症した日下部さんのお話。
※ラブコメです。
★捏造過多。花吐き病オリジナル設定あり。精神疾患系の話・余命・寿命などの言葉が出ます。
苦手な方は自衛をお願いします。
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強い男。それが日下部の日車に対する人物評価だ。
初めて会った時は「どうにも面倒そうなやつがきたな」というのが第一印象。
虎杖が信用しているという理由だけでその場にいる術師の9割の警戒心を解いたその男は随分頭の回転が早く、かつ、『まとも』な男だった。未成年が宿儺との大戦に当たり前のように参加する事に疑問を持ってそれをまんま関係者の日下部に聞くし、『理解』したら『納得』しなくても踏み込んではいけないラインを見定めるし、言葉の色や表情の変化からこちらの『事情』を拾ってコスパのいい会話をするから見透かされてる感がすごいし、一ヶ月前まで一般人だったくせに命を懸けた自分の『役割』を正確に把握するし、なんか死にたがってるように見えたし、実際そうだったし、「生き延びてしまった」なんて言うし。
そんな、『まとも』がゆえに面倒な男。
『虎杖に殺させるのと呪術師になるの、どっちがいい?』
死滅回游を終えて罪を償うために岩手に戻った日車を、呪術師にするために連れ戻しに行ったのは日下部だった。
「良くて死刑、悪くて終身刑」とでも思ってるだろう日車に、『呪術師は呪力をもって殺されないと呪いになること。なので日車は現行法では死刑にできないこと。終身刑が下されたとしてもその能力的がゆえに呪術界から危険視されており秘匿死刑の話が出ていること。それが執行される場合の執行人は虎杖悠仁になること。ならば刑に服したつもりで呪術師として呪術界へ献身を捧げた方が有益にその命を使えると思うのだがいかがか』という総監部からの意向を検察審査会への申し立て準備をしていた日車に伝えた。
この時の日下部は日車を頷かせるのはとても骨が折れるだろうなと考えていた。
対宿儺に備えた濃密な時間だったとはいえ、たった一ヶ月の付き合いで『まともで面倒』に『頑固で融通が利かない』という評価まで追加されていたのだ。今回の出張期間で頷かせられたら儲けもん、場合によったら月単位、下手したら骨が折れる、物理で。と、諸々の事案を考えながら日下部は日車を頷かせる方法を脳内で巡らせていたのだが、日車は日下部からの最低な脅し文句に大きく目を見開いたあと、意外にもあっさりと「身辺整理をする時間をくれ」と言って、その一ヶ月後に呪術界に身を置くために高専へとやって来た。
拍子抜けするほどあっけなく終わった新人勧誘に、日車が抱える問題は思ったより深刻なものではなかったのかと日下部は考えたが、それがとんでもない勘違いであった事を知ったのはその翌日のこと。
総監部にこれからの事で呼び出された日車が『自分の死刑執行の際は自分と無関係の者を執行人に据えること』『今後要件がある際は直接自分にコンタクトを取ること』『代わりに扱き使われてやるので未成年者に割り当てられる任務を優先に可能な限り自分に任務を振ること』の縛りを言葉の暴力を存分にふるって結んできたという。
——めっちゃブチ切れておられた。
前もって楽厳寺からその話を聞いた日下部は、自分も何かしらの報復を受けるのではないかと冷や汗を流した。しかし呼び出しから戻った日車は、おっかなびっくり出迎えた日下部に対してこう言ったのだ。
「虎杖に黙っていてくれてありがとう」——と。
「君は口で言うわりに、随分と生き方がへたくそのようだ」
呆れたように、ともすれば「仕方ないな」みたいな音を含むその声色に、諸々バレていた事を悟った日下部は気まずさを覚えた。と同時に「この男はこんなにも酷い『優しさ』を持つ男だったのか」と、新しい評価が加わって、やっぱり面倒な男だなと改めて思ったのだ。
まともで頑固で融通が利かない『優しい』男に、更に新しく評価が加わったのはそれから二週間後のことだ。
とある朝、天元の結界に歪みが起こり、一部の結界が機能しなくなっているという報告を日下部は受けた。
残された天元の本体を使った結界だ、いつか何かしらの支障が起きるだろうと予想はしていたが、こんなにも早く起こるとも思わず、知らせを聞いた日下部はいの一番に『タケル』達を隠している『森』へと向かった。あの森は、天元の結界で隠されていたものだから。
『森』へと辿り着けば案の定入口の扉が解放されていて、慌てて中へと入った日下部はそこで異様な光景を目の当たりにした。
——なんか森が裁判所になってる。
ええ、なにこれぇ。と呆然としている日下部に、「日下部か?」と死角からひょっこり顔を出したのが、まだ三角巾で右腕をつっている日車だった。
聞けば高専内の探索をしていたら急に目の前に扉が現れて、入ってみたらパンダと同じ喋る人形がたくさんいて、うち一体に「アツヤの友達か?」と聞かれたので色々考えた結果「これは隠した方がいいのでは」と判断してとりあえず領域を展開しておいたとのこと。
ええ、なにそれぇ。
余談だが好奇心で得体の知れないものに触れないよう、あとで説教はしておいた。
確かにこの呪骸たちは日下部が保護していた夜蛾の忘れ形見で、まだ隠さなければならないもの達だった。そして頭の回転が早い日車は『タケル』から発せられた「アツヤの友達か?」のひと言でそれを察し、『隠す』選択をした。
それはつまり、諸々のリスクより日下部を優先したという事になる。
「なんで?」と聞いた日下部に「誠実には誠実で返したいと思った」と、日車はよく分からない事を言った。
天元の結界が無事修復されたあと、妹と『タケル』の面会に日車を同行させたのは説明責任の遂行と日下部なりの礼儀のつもりだった。
日車は日下部のこの状況に同情も慰めもしないだろうと思ったから出来たこと。
案の定、諸々の説明を受けた日車は「そうか」と言っただけで、あとは妹と『タケル』が楽しそうにしている姿を眺めるだけだった。
だからだろうか、日下部はその瞬間完全に気を抜いてしまった。
「俺は妹を呪っちまったのかもしれねぇな」
零れた言葉は日下部の中で燻っていた後ろめたさだった。
タケルを亡くして自失した妹は、タケルの支えがなければもう生きていけない。だから日下部は『タケル』を与えた。
——でもそれは、妹に『元』に戻ってほしいという日下部のエゴなのではないか。
妹に偽物を本物だと思い込ませて作り上げたこの光景は果たして妹にとって正しい世界だったのか。日下部の自己満足の世界ではないと言い切れるのか。
その心を、日下部はうっかり零れ落としてしまった。
うっかり零して、次の瞬間に我に返った日下部はさすがに内心で慌てた。ここで日車から下手に同情なり慰めなりを入れられたらたまったもんじゃなかったので。
だけど日下部が誤魔化しを入れる前に口を開いた日車は、予想とは斜め上の質問をしてきたのだ。
「日下部は『その人がその人たる条件』とはなんだと思う」
「は?」
いつもの無感動な表情筋からそう問われて、日下部は不覚にも口を開いたまま固まった。
——え、急になんの話。
眉を顰めた日下部に、構わず日車が続ける。
「セルフアイデンティティやシップオブテセウスなど様々な考えがあるが、俺は『他者の認識』がその一部を担っていると思う」
例えば記憶喪失になった人間は第三者から己の情報を聞くことで『自己』を認識する。だけど、記憶を失って性格が変わった事で「そんなのはあなたじゃない」と言われると途端にその『自己』は失われてしまう。
魂や器が同じであっても違っても、自認があってもなくても、第三者からの認識ひとつで『その人たる条件』は簡単に肯定されるし否定されてしまうのだ。
「妹さんが自失しても、日下部は彼女を妹だと認識しているんだろう?」
「そりゃあ、まあ……もちろん」
「なら、彼女にとっての『タケルの情報を持った存在』もまた、『タケル』だと言えるんじゃないか?妹さんがそう認識して、『タケル』も、彼女を母と認識している」
「っ、」
妹に向けられていた日車の視線がゆっくりと日下部に移される。
その瞳には同情の色も慰めの気配もなく、ただただ事実を確認する温度だけが乗せられていた。
「君は妹さんに選択肢を与え、妹さんはそれを受け取って、今、とても幸せそうに笑っている。彼女がそれで生きていけるなら——その選択を君が否定する必要はない」
「五条は『愛ほど歪んだ呪いはない』と言っていたが」とぽつり、一度視線を落とした日車がまた日下部を見た。
「日下部は妹さんを呪ったのではなく、ただ愛しただけなんだろう」
推測でも想像でも希望でもない。どこにでもある、ありふれたもののひとつのように日車が話す。
その時初めて日下部は、『日車寛見』という人間の『核』を見た気がした。
花吐き病発症から十六日目。
二週間に比べると更に陽が長くなった夕刻の帰り道を、日下部は重たい足取りで歩いていた。
ここ十日ほど、日下部の調子はすこぶる悪い。何の調子かというと、何かもう、何もかんもである。
授業に出れば資料を間違えるし、会議時間を間違えてまだ誰もいない会議室で無駄な時間を過ごしたし、気分転換にと三輪の刀の手入れを申し出ればその手入れ道具を忘れて「何がしたいんですか日下部さん」と呆れられてしまった。よりにもよって三輪に。
とうとう今日なんかはシン陰門下生の体術指南の最中に力加減を誤って道場の床を踏み抜いてしまったので「怪我するか怪我させるかする前に帰って休んでください」と三輪に心配されてしまった。よりにもよって三輪に。
というわけで日下部は予定より随分早い時間に帰路へと着いていた。
(——調子がおかしくなってる理由は分かってんだ)
この十日を振り返らなくても日下部は自分の有様を自覚していたし、なんならその理由に予測も立てていた。
『強くて眩しくて、ずっと見ていたいと思う人、だな』
十日前、日下部は意図せぬ形で日車の想い人の存在に触れた。
そこからずっと、その輪郭が日下部の中から消えないでいる。
日車は花を吐く姿はもちろん、その花自体も日下部に見せたことがなかった。だからだろうか、日下部は日車が花吐き病を患っている事実こそ知っていたものの、その想い人がどんな人物なのかまで深く考えた事がなかった。
だけど、日車が想う相手が『男』で、しかも『強くて眩しい人』なのだと知ってから、日下部の胃に不定期に現れていた不快感が何をしても消えなくなったのだ。
この不快感に意識を取られて、この十日ほどの日下部は全く調子を取り戻せずにいた。
(日車の好きな相手が男だって事に抵抗があるわけじゃねぇんだ)
とぼとぼ歩く道中で日下部は考える。
日車の恋の相手を知ってから起こるようになった不快感。シンプルに考えれば同性愛に抵抗があるのかと思ったが、カナに対してはむしろ応援の気持ちが生まれたし、例えば家入や伊地知から「恋愛対象は同性だ」とカミングアウトされても「そうなんだ」としか思わないので抵抗感ではないのだろう。
ではなぜ、あの時の日車の声が頭から離れないのか。
もとより『強くて眩しい』とはいったいどういう人物なのか。
言葉のままを取れば虎杖が当て嵌るのだろうが、日車にとっての虎杖は『見ていたい』より未だに『見られない』だし、向ける感情も好意を通り越して崇拝に近いので恐らく違うだろう。
そもそも日車の想い人は弁護士時代に知り合った人らしいので一般人だと予想され、その『強い』はメンタル面を指していると考えられた。——小心で臆病な日下部とは真逆の人物だ。
(あーくそ、イライラする)
瞬間、胃の不快感が強くなって日下部は咥えていた飴を思わず噛み砕いた。
(家に着く前に切り替えねぇと)
この憤懣感はあまり良くない自覚が日下部にはあった。それこそ日車自身に当たってしまいそうな危惧感。
そのせいでここ最近の日下部は日車とのコミュニケーションを最低限で終わらせるようになっていて、約束していた買い物も理由をつけて保留にしてしまっていた。
——だけどそろそろ日車にも勘付かれそうだ。
マイペースなくせに人の機微に敏感な日車は日下部の些細な変化にもよく気付く。同居しているのに気まずい空気を作りたくはなかった。
(——つか連絡すんの忘れてたな)
本日の日下部はシン陰の門下生の指導のあと、情報交換会と言う名の飲み会に出席する予定になっていた。昨日の晩から任務に出ている日車は昼過ぎには帰宅予定だったので、夕飯の作り置きだけして先に寝るよう伝えている。が、いいのか悪いのかこれなら夕飯を共に出来そうである。
そうなるとカウンセリングが入る可能性があるなと考えて気が重くなった。
(いっそカニクリームコロッケでも作って時間稼ぐか……?)
中身ってカニカマでもいいのか?と現実逃避していればあっという間に家に着いてしまって、日下部の肺から「はー」と深いため息が出た。なんでさっさと帰っちまってんの俺。
もうここまできたら腹を括ってどうにか取り繕おう。そう意識を切り替えて玄関扉を開けた日下部はそこで違和感に気付く。
——なんか家が薄暗い。
「日車、いねぇのか?」
明かりのついていないリビングを不思議に思いながらドアを開けた日下部は、途端「うお、」と小さく声を上げて驚いた。
リビングの真ん中に設置された二人掛けのソファで、仕事着のままの日車が胎児寝の姿勢で寝息を立てていたのだ。
(うわ、めずらし)
まじまじとその寝顔を眺めつつ日下部は脱いだジャケットを日車の肩へとかける。
予定通り昼過ぎに帰ってきた日車はそのまま寝入ってしまったようで、ソファの足元には日車のジャケットにスマホ、それから茶色の紙袋が転がっていた。
(一応起きるつもりはあったっぽいな)
ちらり、日下部が視線を向けたのは床に転がっている日車のスマートフォンだ。おそらく日車が手に持っていたものが滑り落ちたのだろう、液晶画面には明日の朝九時十二分にアラームが鳴る形でタイマーがカウントダウンされていた。
明日はお互い休みなので少し遅めの起床時間で設定したと言えるが、それでもこれから更に十六時間寝るつもりでいるという事になるし、なにより時間指定ではなくタイマーでアラームがセットされているのがおかしい。
(多分これ、二十分でタイマーセットしたのが桁ひとつ間違えたな)
『16:06:51...50...49…』と秒数を減らす液晶画面にひとつ笑った日下部は、スマホをソファ脇のローテーブルに置いてから日車の寝顔を覗くようにしゃがみ込んだ。
「——遅くまで俺の治療方法探してんだもんな」
いまだ片想い相手が判明しない日下部の治療法を探すために、日車が各国から症例を取り寄せて情報収集している事を日下部は知っていた。
その作業は任務の合間を縫って行われており、未履修の言語のものを翻訳するために日車が睡眠時間を削っている事も、場合によっては海外のカウンセラーにコンタクトを取って諮問している事も知っていた。深夜にも関わらず日車の部屋から零れる明かりに、日下部が何度その扉を叩こうと思ったか分からない。だけどこれは日車のカウンセラーとしての領域で、日下部が口を出す事はそれを侵す事になりかねないので踏み込めなかったのだ。
たださすがに限界が来てしまったのだろう、日下部がまだ帰らないと思っている日車はタイマーすらまともにかけられない状態で寝落ちしてしまっている。
「この自覚のねぇ献身性もどうにかしねぇとなんだよなぁ」
日車は献身性が高い。しかもこれは感情をベースとした一般的な献身性ではなく、日車の持つ倫理感や責任感に従ったがゆえの献身性だ。
日車の行動基準には『自分のスペックを適材適所で他者に使う』みたいなものがあり、『未成年の負担を減らす』という目的のために呪術師としての自分の能力を差し出したし、『自分の罹患歴が役に立つ』と判断して花吐き病患者に経験と知識を差し出したし、『カナ』に至っては『使える』と判断して自分の柔らかい部分を分け与えていた。——七年前に日車が呪術師になる決断をした時と、妹と『タケル』の面会に立ち会わせた際も、その献身性が発動されていたと日下部は理解している。
『誰かのために自分を犠牲にする』感情型ではなく、『使えるものは使う』のもと行われる理性型の献身性。
日下部はそれを、感情型の献身性より危ういと考えている。
感情型はいつか心が疲弊して限界が訪れるが、理性型の日車にはそれがない。こと、そこに『感情』まで乗せてしまうと際限をなくす上に『使っている』自覚もないから擦り切って擦り切ってガタがくるまで自分を使って、結果、このような電池切れを起こしている。
裁判所での事件の時も、擦り切れきった最悪のタイミングに最悪な形で凶器を与えられて、その人生を変えられてしまった。
呪術師としてこの世界に引きずり込まれた時も、虎杖の精神の安全と、多分、隈を盛大にこさえたままやって来た日下部を見て、両者の抱えるリスクを鑑みた日車は自分を切り捨てた。理性型の献身性が結局、自己犠牲へと繋がっている事に本人は気付いていない。
だから、法に裁かれなかった自分への罪悪感で毎夜のように悪夢に魘されるようになっても、日車は当たり前のようにそれを受け入れている。
湖面に映る月のような男だと思う。
高く掲げた信念と理想を反映させて、揺るがされる事があっても必ず形を取り戻す核を持つ、脆さを内包した強さに目が離せない男。
(——惚れた相手には感情型の献身になったりすんのかね)
『助ける能力があるので助ける』は誰にでも平等に与えられる『優しさ』だ。高専関係者には『相手が大事だから助けたい』の献身性も発揮されてはいるが、それでも、それは日車の『唯一』ではない。
虎杖や日下部に与えているものではなく、倫理や責任を一切伴わない、『この人だから』の献身をその相手は向けられているのだろうか。
そう考え至るとまた不快感が襲ってきて日下部は無意識にシャツ越しにみぞおちを撫でた。
日車が寝ていて良かったと思う。今の自分は日車を戸惑わせる表情をしている気がするから。
(あーくそ、マジでイライラすんな)
思考を切り替えようと日車から視線を外した日下部は、そこでふとソファの足元に置かれていた紙袋に意識が取られた。
(そういやなんだコレ)
脱ぎ捨てられたジャケットとは対照的に、マチの広い紙袋は床の上にちょこんと行儀よく鎮座していた。中身が零れないよう、入れ口は丁寧に折り畳まれている。
日車が帰り際に何か買ったのかもしれない。だが要冷蔵の食品ならまずいのではないかと、日下部は何気なく紙袋へ手を伸ばした。想像していたより軽いそれは、けれど中身がぱんぱんに詰まっている。慎重に入れ口を開いた瞬間、日下部の呼吸が止まった。
開いた紙袋には、その口いっぱいに目に鮮やかな黄色の花びらが詰め込まれていたのだ。
(な、んだ……これ……)
新緑に似た香りを放つその花の群れに、日下部の心臓が嫌な音を立てる。種にあたる管状花も葉も茎もないが、花びらだけで十分分かった。
これは、ひまわりの花だ。
「日車が吐いたのか……」
ぽつり、何かを吐き出すように日下部から声が漏れる。
日下部は日車が花を吐く所を一度も見た事がない。だから、日車がどんな花を吐いているかも知らなかった。
隠されていた日車の恋の欠片に触れてしまった感覚に、心臓がうるさく脈を打ち始めた事を自覚する。
『花吐き病患者が吐く花には、その人の恋心を表す花言葉が宿るとされている』
そう言っていたのは日車だった。
——ちくしょう、思い出すんじゃなかった。
日下部は花言葉に詳しくはないが代表的なものはそれなりに知っていて、ひまわりはその代表的なもののひとつだった。
ひまわりの花言葉は『憧れ』『情熱』『光輝』のような敬意にまつわるものと、そして、ただ『唯一』を一途に追いかける姿から由来して——『あなただけを見つめる』。
「……………っ」
瞬間ぶわり、喉元までせり上がってきた不快感に日下部は奥歯を噛み締めた。不快感が分かりやすく怒気に変わった感覚。だけど何に対して怒りを感じているのかが分からなくて更に不快感が募っていく。
だいたいどうしてこの花なんだと思う。
ずっと日車の胸元に掲げられていた『ひまわり』は、日車自身の手で机の奥へとしまい込まれ二度と陽の目を見る事はなかった。なのに今度は、これ見よがしのように日車の口から吐き出されている。
「——そいつに、お前を泣かせられるだけの価値があんのかよ」
ソファで眠る日車を見つけた時から気付いていた、右目から落ちる一筋の涙の痕。おそらく嘔吐による生理的な涙なのだろうが、それほどの苦しさを伴って日車が花を吐いているという事実に怒りが増す。
花を吐く量は想いの強さに比例しているらしく、日車の吐いた花は日下部の両手でも抱えきれないものだった。
この想いを与えられる相手とは、いったいどれほどの男なのか。
そもそもそいつは日車の想いを知っているのだろうかと日下部は考える。
日車は「失恋済み」と言っていたが、日車は相手に自分の気持ちを伝えてはいないはずだ。贖罪の人生を選んだ日車が、自分が幸せになるための道を選ぶ事はないから。
しかしもし、相手の男が日車の事情を知った上で日車を受け入れるような事があったとしたら——。
日車がこんなにも深く想っている相手だ、その男も日車の事をそれなりに理解しているのだろう。
器用なくせに不器用で、理論と事実でねじ伏せくるくせに正しさに耐えきれずに壊れてしまうような理想主義者で、それでも立ち上がる強さを持っていて、合理的に生きているようで、その実、人に寄り添う優しさを持つ男。
そんな日車に愛されていると知ったなら、今は特別な感情がなかったとしても相手の男はいつか日車を愛するようになるのではないか。
そうなれば日車の花吐き病は完治する。理想の未来だ。——だけど、その未来に日下部は不快感を覚える。
日車は秘匿義務の有無に関わらず、花吐き病であった事を相手に伝える事は決してないだろう。相手の重荷になる可能性があるものを、日車はきっと理性的な献身性ではなく感情的な献身性でもって選択しないから。
しかしだからこそ、その事実に日下部は嫌悪を感じるのだ。
だってそれでは相手の男は何も知らないままになってしまう。日車が見返りを求めない愛を吐いていた事も、一生に一度の恋が許された事に喜んでいた事も、それを知らせない事が日車の持つ『唯一』の献身性からである事も、ただ日車から愛されているという事実だけで、その男は何の苦しみも知らずに日車を手に入れる事が出来る。
まだ来ぬ未来。しかし、いつか来るかもしれない未来が日下部には腹立たしくてたまらなかった。
だって、六年ものあいだ日車に想われても気付かない、そんな男より、ずっと、
俺の方が——
「——あ?」
不意に行き着いた『答え』に思考を停止させた日下部は、次いで激しい嘔吐感に襲われた。