診療録05.02(2):カウンセラーHによる傾聴に関しての報告
【キャプション必読願います】
篤寛花吐き病パロです。
全9話の2話目になります。
原作から7年後の世界線で日車さん呪術師if。
好きな相手がいない(と思ってる)のに花吐き病を発症した日下部さんのお話。
※ラブコメです。
★捏造過多。花吐き病オリジナル設定あり。精神疾患系の話・余命・寿命などの言葉が出ます。
苦手な方は自衛をお願いします。
連投すみません…。
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にわかに信じがたい病気の告知を受けたあと、現在日下部は「十三時半にアポ取ったんでこの住所に行ってください」と家入から渡されたメモを頼りにとあるマンションの一室を訪ねていた。初めて訪れたそこはファミリータイプのもので、訪問目的の男が住んでいる事に少し違和感を覚える。
扉横のドアホンを押せば数秒ののちにがちゃり、扉が開けられて見知った顔が日下部を見上げた。
「どうぞ入ってくれ」
「——おう」
——当たり前だけどやっぱお前なんだ。
白いシャツに黒のスラックス姿のいつもの日車に「お邪魔します」と声をかけて日下部はそのあとに続いた。
「とりあえず軟水と硬水と水道水があるんだが、希望はあるか?」
「いやお構いな、——いや構うわ。人をもてなしてるようで何で水一択なんだよ」
日車宅に通された日下部は、対面キッチンのある広いLDKの部屋で家主と向かい合う形でダイニングテーブルについていた。
日当たりのいいダイニングには食卓用のイスとテーブルのみが置かれており生活感があまりない。居住区というよりプライベートサロンのカウンセリングルームのようだった。
そんな空間にドン・ドンと二リットルペットボトルが二本とピッチャーが置かれて日下部は思わずツッコミを入れる。
え、もしかしてこのピッチャーの中身水道水なの?
「茶葉を切らした所で急に家入からアポが入ったから買いに行く時間がなかったんだ」
「だからってフツー水道水は候補から外すでしょーが。つか硬水って日本人には合わないんじゃなかったっけ?」
「貰いものだ。パエリアを作る時に使うと色々いいらしい」
「え、意外。お前そんなおしゃれ料理作るの」
「いや作れないが」
「なるほど持て余してんだな。軟水で、っておいコラ混ぜんな」
言ってる最中に日車が軟水と硬水をコップの中でブレンドし出したので口先だけで止めれば「俺も飲むから君も付き合え」とさらりと言われてその違和感に日下部はわざとらしくため息を吐いた。
もうそれなりの付き合いになるが、この男のこういう所にいつも意外性を感じる。
「……貰いものって、どういう経緯で硬水なんて貰うんだよ」
言いながらブレンド水に口をつける。朝は肌寒いくらいだったのに夏日超えになった今日は予想以上に暑く、喉が渇いていたようで一気に煽ってしまった。
あえて一拍の溜めを作ってから問いかけた事で日下部が気付いた事に気付いたのだろう、ぴくりと小さく反応した日車がしかしそのまま言葉を続けた。
「三輪くんが依頼人から大量にもらったのを配り歩いてた所に出くわした。なんでも相手が業者の人だったらしい」
「三輪かよ。つかあいつ俺にはひと言もなかったんだけど?」
「君はその日京都校からのヘルプで遠征に行っていたはずだ。もう一本あるからいるなら持って帰るか?」
「いやいらねぇけども。お前も結局持て余すんなら何で受け取ったの」
「作るかもしれないだろう、パエリア」
「硬水四リットルをパエリアだけで消費できねぇだろ。顔洗うのにいいらしいからそっちに使ったら?」
「……水を溜める容器が炊飯窯しかない」
「そんなんでよくパエリア作るかもとか言ったな!?」
思わず突っ込めば「これを機に桶を買うか」と日車が淡々とのたまう。
桶の前にせめてフライパンを買え。と重ねて突っ込もうかと思ったが、この会話の目的地がそこじゃない事は百も承知なので「わざわざはいいか」と日下部は別の言葉を選んだ。
「まあ前置きはこんなもんでいいだろ。つかお前ね、俺に気ぃとか遣うなよ。むず痒ぃわ」
「……気を遣ったつもりはないんだが、やはりバレていたか」
「バレバレだっつの。アイスブレイクってやつか?」
初対面同士の緊張をほぐすコミュニケーション技法でそういったものがあったと日下部は記憶している。
日下部と日車はもちろん初めましてではないのだが、今回訪問した理由が理由なので日車はワンクッション置く事にしたのだろう。
「患者は女性が多いからな。これが結構役に立つんだ」と言う日車に、本当にカウンセラーをしているのだなとやっと脳が受け入れる。
……でもなんだかなぁ、と日下部は無意識に頭を搔いた。
その他大勢と同じ扱いを受けている事がなんだか気に食わない。
「では早速本題だが日下部。君、花吐き病にかかったのに相手が分からないそうだな」
「気ぃ遣うなとは言ったが直球が過ぎんだろ。もうちょっと歯に衣着せるとかしなさいよ先生」
「先生はやめてくれ。——日下部さんは嘔吐中枢花被性疾患に罹患されたとのことですが、想い人に心当たりがないというのは確かでしょうか」
「いやそれ言葉が丁寧になっただけ」
「注文の多い患者だな」
む、と日車が眉間に皺を寄せたので日下部は思わず笑ってしまう。
日車との会話は心地がいい。それは頭の回転の速さだったり的確な返答だったりもそうだが、時折覗かせる天然めいた言動がツボを突くので夜通し話していてもきっと飽きる事はないのだろうと日下部は推測していた。
個人的にはこのままダベっていても問題ないのだが、家入への報告義務もあるので話を戻す事にする。
「まあそういう事なわけだが、相手に心当たりがねぇから『花吐き病だ』って言われてもピンとこねぇんだよ」
「しかし感染した時に花は吐いたんだよな?」
「ああ。でもそれ以降は吐いてねぇぞ?」
いまだ自分事になりきらない花吐き病にうんざり、とイスの背もたれに体重を預ければ日車が見た事のない顔をしながら眉を下げた。
その表情になんだか心が騒いで日下部は思わず姿勢を戻したが、対する日車は何もなかったかのような顔でテーブルに置かれていたA4サイズの茶封筒に手を伸ばした。
「花吐き病は相手を『恋しい』『愛しい』と深く想った時に溢れた想いが花になって吐き出されると言われているんだが、日下部に片想い相手への自覚がないのなら花を吐き出す切っ掛けがないのかもしれない。ただ、感染した時に花を吐いたのなら発症した事は残念ながら確定だ」
「あー、家入にも言われたな。……つかこの歳で愛だの恋だのって、この会話自体がもうすでに居たたまれねぇんだが」
「家入から余命の話は聞かなかったか?君が患ったのはそんな事を言ってる場合の病気じゃないぞ」
「いや言われたけどよ、そんなにヤベぇ病気なのか」
「……それなんだが」
言いながらがさり、日車が茶封筒からラミネートされた資料を取り出した。
差し出された一枚目の資料には小難しい単語がいくつかと、それに似合わない可愛いのか可愛くないのか微妙なラインのウサギのキャラクターが描かれている。
「花吐き病が発症する原因は正確には解明されていないんだが、現段階ではフェニルエチルアミンの過剰生産が原因じゃないかと言われている」
「フェニルエチルアミン……脳内分泌ホルモンだっけ?」
「そうだ。いわゆる『恋愛ホルモン』と呼ばれるもので、人が恋をするとこのホルモンが分泌されて『相手に対して心拍数が上がる』などの身体反応が起こるようになる」
「身体反応」
とつとつと花吐き病の説明をする日車に場違いにも良い意味で日下部は肩透かしをくらった。
正直カウンセラーとしての日車を紹介された時は「いやそれ恋バナの相手が知人から知人に移っただけじゃん」と結局気まずい思いをする流れにぐったりしていたのだが、日車は新しく買った家電の説明をするかのごとく花吐き病の説明をするので一気に気が抜けたのだ。
だから、日車の話の腰を折ってしまったのは好奇心がゆえだった。
「なあ、他の花吐き病患者にも同じ話し方してんの?」
「同じ話し方?」
「『相手に対して心拍数が上がる』みたいな言い方」
「ふむ……、女子高生相手に話す言い方をご所望とのことか?」
「一旦それで」
「——『好きな人と目が合うだけでドキドキしたり切なくなったりするようになるだろう?君は今、それが人よりたくさん起こっている状態なんだ』」
「へーえ」
少しの柔らかさを伴わせた日車の声に日下部は感嘆の声を上げた。
花吐き病患者相手にはこういう一面で接するのかと感心する一方、日車の『恋』の価値観を知って少しだけ面食らう。
日車は今までそんな、静かに想いを募らせるような恋をしてきたのだろうか。
(……あ?なんか胃がムカムカしてる、か?)
急に湧いてきた不快感に胃をさすりつつ、なんとなく耳からの違和感が強いので「やっぱいつもの喋り方で」と言えば「注文の多い患者だな」と日車が呆れたような声で返した。
「話を戻すぞ。フェニルエチルアミンはドーパミンやノルアドレナリンの濃度を上げる働きがあって、それが恋愛特有の『心拍数の上昇』に繋がる。あとは多幸感をもたらすエンドルフィンも働き出すから『好きな人がいて毎日が楽しい』のような、いわゆる『ハイ状態』も起こる」
日車が資料へと指を添わせる。
そこには頬を赤らめたピンク色のウサギが水色のウサギにハートマークを飛ばしており、要所に脳内ホルモンの名前とその説明が書かれてあった。
「つーか恋愛ってそんなあれこれホルモンが関わってんのか」
「『恋愛は心ではなく脳でしている』という学説もあるが、おそらくここから来ているんだろう」
「夢がねぇなぁ」
「ふ。君、意外とロマンチストだものな」
「意外とってなんだ。男は多かれ少なかれロマンチストでしょーが」
ぽんぽんと続く会話が心地良い。
そういえば二人だけで話をするのは久しぶりだな、と思っていると、次の資料をめくった日車が少しだけ表情を曇らせた。
「ここからが本題だ。フェニルエチルアミンは恋愛初期の段階なら本人の活力に繋がるが、『ハイ』の状態でもある分、拗らせ始めると『反動』で不眠や食欲不振、不安障害などが起こる可能性が出てくる」
めくられたページの先には顔色が悪くなったピンク色のウサギがシクシクと涙を流していた。
注釈には『恋の病と呼ばれるゆえん』と書かれている——が。
「なあ、さっきから気になってんだけどこの気が抜けるイラストはなんなの?」
「ん?ああ、これは家入の案だ。患者は十代から二十代前半の女性が多いから、資料にイラストを入れるなどをして相手の心理的負担を減らした方がいいと」
「このウサギは家入監修済み?」
「いや、これは俺がフリー素材から適当なものを引っ張ってきた」
「なるほど」
あえてこのウサギをチョイスした日車に笑ってしまえば前方から「む」とした雰囲気を感じて日下部はまた笑ってしまう。
「悪い悪い」と謝罪にもならない謝罪をして、酌をするように日車の空になっているコップに水(軟水)を注ぎながら続きを促した。
「あー、恋愛を拗らせると食欲不振や不安障害が起こるって話だったな。でもそれって恋人同士でもなる奴はなってねぇ?」
好きな相手を想って食欲が落ちたり、相手の事を考えて眠れなくなったり、相手の気持ちに不安になるなんて事はわりとよく聞く話で、それは片想い両想い問わずに起こるものだと日下部は認識していた。
日下部の問いかけに日車が「まあそうなんだが」と同意を返しながらおもむろに次の資料へとページをめくる。
慣れたその仕草に日車はそれだけ花吐き病患者と関わってきたのかと頭の隅が考えた。
「日下部、『恋の寿命』は知っているか?」
「こいのじゅみょう」
なんだかまたメルヘンな単語が出てきて日下部はオウムになった。
きょとんとする日下部に、日車が少し考える素振りをしてから口を開く。
「カップルは三の倍数月で別れやすい、という話は?」
「ああ、それなら聞いた事あるな」
「所説あるんだが、その原因にフェニルエチルアミンが関わっていると言われている。フェニルエチルアミンは……抗うつ剤にも使われる強い脳内麻薬で、それが分泌されるのは脳にとってある種の異常事態なんだ。だから自然と脳内で量が調節されて、早くて三か月、長くて三年でフェニルエチルアミンは消失するようになっている」
一瞬日車が言葉を詰まらせて、だけどまたつらつらと説明を続けた。
これはさっきとは違った方向で気を遣いやがったな、と日下部は気付いたが、あえては触れずに口を開く。
「あー、つまり『恋の寿命』ってのはフェニルエチルアミンの効果が切れるまでの期間って事か」
「そうだ。しかし恋の寿命を迎えたら恋愛が終了するわけじゃない。フェニルエチルアミンが減少するのに反比例してβエンドルフィンが増えるんだが、これは好きな人や恋人と一緒にいて落ち着く、のようなリラックス作用がある。これが『恋』から『愛』に変わる過程で、移行が上手に行われればそのカップルの恋愛は長く続くとされている」
「……なんつーか、マジで夢があんのかねぇのか分かんねぇ話だな」
「三か月で別れたカップルはフェニルエチルアミンの効果が早期で切れたんだと考えるとシステマチックではあるな。まあ、だからフェニルエチルアミンが長期分泌されている人は相手と恋仲になれても『恋の病』が起こる」
言いながらゆるり、泣いているピンク色のウサギを日車が指先で撫でた。その様子に妙に胸がざわついて日下部は日車を見たが、視線を落としたままの日車とは目が合わない。
日下部の視線に気付かないまま日車が言葉を続ける。
「それでも徐々にホルモン数値が下がっていくのが身体の生体反応だから、恋の病もいつかはなくなるものなんだ。だが……」
言いながらぺらり、日車が次のページをめくった。そこには徐々に下降する一本線と、その上方に真横に引かれた一本線が書かれている。注釈には『フェニルエチルアミンの時間推移における数値変化』の文字。
「花吐き病患者には、この『恋の寿命』が存在しない」
「恋の寿命が存在しない?」
「花吐き病患者はどれだけ年月が経過してもフェニルエチルアミンの数値が減少しないんだ。だから花吐き病の自然治癒はまず望めないと言われている」
「先ほどフェニルエチルアミンの過剰生産が花吐き病の原因と言ったが」と言いながら日車がピンク色のウサギへとページを戻した。
「花吐き病患者のフェニルエチルアミンは平均の三倍分泌されているんだ。だから、『ハイ』の反動で抑うつ症状が起きるリスクが一般より高くなっている」
なるほど、花吐き病が精神疾患に分類される所以はここにもあったのか。
『恋の病』と呼ぶには重くなり始めた話の展開に日下部は無意識に唾液を飲み込んだ。
——つまり。
「余命三年っていうのは、その『抑うつ症状が出やすくなるまでの期間』って事か?」
花吐き病の病態は理解した。
しかし、日下部は恋をしている自覚がないのでやはりいまいちピンとこない。
好きで好きでどうしようもない相手がいて、それが精神を侵す病に至るのは分かる。花吐き病にならずとも、そういった患者は少なからずいるだろうから。
だけど花吐き病を発症したとはいえ『誰かを想って苦しい』という自覚がない日下部には、例え現在進行形でフェニルエチルアミンが過剰分泌されているとしても精神が侵される事態になるだなんてどうしても思えないのだ。
そう思ったままを告げれば、「——それなんだが」と日車が言葉を落とした。
「フェニルエチルアミンは長くて三年で効果がなくなるという話はしたな?これは言い換えればフェニルエチルアミンに対して脳が耐えられる最長期限が三年という事なんだ。しかし花吐き病患者のフェニルエチルアミンは尽きる事がないから、発症してから四年目を迎えた患者の容態は急激に悪化する」
「っ、」
意識するようにゆっくりと告げられた言葉に不覚にも日下部の心臓に焦燥が走った。
「それは例外なくか?」と問うた言葉に「フェニルエチルアミンの数値が高いままなら脳に支障をきたす事は必須だから、例外はない」とまた静かに返される。
「——容態が悪化するって、具体的には」
「必ず起こるのは希死念慮の増幅だ。フェニルエチルアミンの反動で『余命』を迎える前から抑うつ状態になる患者もいるが、逆に安定していた患者でも『抱えている恋が辛くて死んでしまいたい』という気持ちが四年目を境に急激に抑えられなくなるんだ。……日下部に自覚がないままだとしても、生体反応の一種だからおそらく辿る経緯は変わらない」
「まじかよ……」
自覚があろうとなかろうと強制的に迎える『余命』に、日下部はようやく現状の深刻さを正しく理解した。
家入が「出来れば今日中にカウンセリングを」と強く勧めてきたのは、一日でも時間を無駄にしないようにという配慮からだったのだ。
テーブルに置いていた手のひらが無意識に拳を作る。そんな日下部の様子をひと目確認した日車が視線を落として説明を続けた。
「対処法はある。ドーパミン遮断薬なんだが、発症四年目を迎える花吐き病患者にはその抗精神薬が処方される」
「抗精神薬……」
「フェニルエチルアミンの分泌を抑える薬がないから、これが『寿命』に対する唯一の対応策なんだ。そして花吐き病患者がドーパミン遮断薬を服薬すると必ず精神・神経系の副作用が強く出る事が確認されている。——だから、もしこれからの三年の間で抑うつ症状が現れなかったとしても、」
資料に落としていた視線をゆっくりと持ち上げた日車が日下部を捉えた。痛みを押し殺すような顔がはくり、浅く息を漏らす。声にならない音を吐き出すようにした一拍ののち、重く静かな声で日下部に告げた。
「四年目からの服薬が始まれば、今と同じ精神状態・パフォーマンス能力で生活する事は出来なくなる」
「っ、」
その表情で分かる、日車は過去に『四年目』を迎えた患者を見た事があるのだ。
瞬間どっと大きく脈打った心臓を日下部は握っていた拳に力を入れる事で抑え込む。ひやり、指先が冷えている感覚に内心で舌を打った。
(……っ、だせぇ。心臓がうるせぇ)
どくどくと脈打つ心臓に走っているのは恐怖心を模したものだ。
日本の在り方を変える大戦を終えてから約七年。妹のことも、高専のことも、シン陰のことも、やらなければいけない事がまだまだあった。日下部がやらずに済むならそれに越した事はないのだが、いまだそうも言えない状況なのだ。——目の前にいるこの男の事も含めて、三年では到底足りない。
(あー、くそ、弱ぇな)
立場も、心も。
湧き上がる恐怖心に似た怒りに日下部は奥歯を噛む。
臓器にも筋肉にも何の問題はない。身体機能は揃っているのに精神ひとつにこうも足を引っ張られている。
小心で臆病である自覚がある。だから無理はしないし、死に急ぐような真似もしない。そうやってこれまでやってきた。
——なのに、どうしてこんな面倒事をきっちり引き当ててしまうのか。
それも弱さゆえだと言われてしまえば、
「日下部」
反論の余地もないのだが。と辿り着きそうになった思考は、しかし名前を呼ばれる事でかき消されて思わず日下部は顔を上げた。
見上げた先には真っすぐにこちらを見つめる日車がいて、拳を作っていた日下部の右手に整えられた指先が乗せられる。
じわり、移った体温に心拍数が揺らいだ気配がした。
「勘違いするな。君のそれは弱さじゃない」
「え」
心を見透かされたような言葉に日下部は思わず目を丸める。
やっぱりな、と言わんばかりの日車が眉尻を下げるようにして苦笑した。
「花吐き病は相手の事が好きで好きでどうしようもなくて、恋しいと、愛してほしいと、抱えられなくなった想いが花になって吐き出される、想いの『強さ』を証明する病なんだ」
低くもなく高すぎもしない日車の声がするりと日下部の鼓膜に浸透する。その音が胃の腑まで落ちた感覚がしたのは、それが『知識』ではなく『経験』で語られたものだと分かったからだ。
日下部の握られた拳から指先を外した日車が視線を落とした。
「君の花吐き病の話を聞いてからずっと考えていた。日下部が好きな相手に心当たりがないのは、まだその恋心を育てている最中だからじゃないだろうか」
目元を柔らかく緩めた日車が外した指先を使って資料の中で泣いているピンク色のウサギをあやす。
「それは日下部にとってはまだ自覚にすら至れない熱量で、だけど、基準を満たす『想いの強さ』がもうすでにあったから発症してしまった。自覚がないのに『花』を吐くほどの恋心というのは、とても尊いものだと俺は思う」
ぽつぽつと語るように声を落とす日車は視線を下げているのでその表情が伺えない。それが日下部には何だかとてつもなく勿体ない事のように思えた。
日車がひとつ瞬いてからゆっくりと視線を上げる。ひたり、静かな瞳が日下部を見据えた。
「そんなにも『強く』想われる君の相手は、とても幸せな人だ」
「————っ!!」
瞬間ぶわり、日下部は体温が急上昇した事を自覚した。握った拳はまだ冷えているのに自身の内側だけが沸騰したように熱い。
(っ、こいつはなんでこう、いっつも言葉が直球なんだよ……っ)
湧き上がる形容しがたい感覚を日下部は意識して抑え込む。この感覚は過去にも一度味わった事があった。それもこの男からによるものだ。
日車は言葉を加飾しない。感謝も賛辞も敬意も好意も思った事をそのままの言葉で伝える。加飾をしないから、それが本心である事を分からされてノーガードの時に打ち込まれると強く衝撃を受けてしまうのだ。
日車がカウンセラーとして人気が高いというのも、こういう所が起因しているのではないかと日下部は考えている。
(自覚してねぇのがまたタチ悪ぃ……っ)
感情ではなく構造で分析するくせに、最終的に人の『痛み』に着地して『理解』で相手の懐を開かせる。感情で相手の懐に入り込む虎杖とは正反対タイプの人たらしだ。
本人は適度な距離を保った人間関係を築いているつもりなのだろうがそのせいで結果的に人が寄って来るようになっている。だから日下部はいつも、この男を——
「——日下部?」
「っ、あ゛!?、なにっ」
急に名前を呼ばれて日下部は我に返る。
目の前でぱちりと瞬いた日車の瞳がやけに鮮明に映った。
(——あ?俺いま何考えてた……?)
一瞬何かに行き着きそうになって、しかし途切れた思考に答えが遠のいた感覚して思わず眉間に皺が寄る。
そんな日下部に勘違いしてしまったのだろう、日車が頓珍漢な事を言い出した。
「すまない、喋りすぎたな。君の言い分もあるだろうに」
「は!?っ、あ、いや、違う、怒ってるとかじゃなくてだな、」
落としてしまった不自然な沈黙を誤魔化すように日下部は否定の言葉を並べ立てる。気付けば心臓に走っていた恐怖心は消えていて、グルグルと回っていた思考もクリアになっていた。
花吐き病という未知の病気に思ったより衝撃を受けていたのだろうかと気恥ずかしさを覚えたが、日車にはバレていないようなので急いで体裁を取り繕う。
——こいつの前であまり情けない姿を見せたくないと思うようになったのはいつからだったか。
「……とりあえず花吐き病の病態と問題点は分かった。で、聞きてぇんだが、今後俺に出来る対応策があるなら教えてほしい」
花吐き病は受け入れた。余命に関しては今考えても仕方ないので三年後の自分に任せるとして、問題はこれからの事だ。
確か家入は「対症療法」という言葉を口にしていた。
考えてみれば花吐き病がここまで秘匿扱いを貫いてこれたのは、その症状をコントロールする術が患者にあるという事だ。
花吐き病をコントロールできるのならひとまず日下部には三年の猶予が与えられる事になる。
花吐き病と向き合う日下部の決意を感じたのだろう、日車も姿勢を正して日下部へと向き直った
「もちろんだ。日下部がここに来る前に各方面との相談は済ませておいたんだが」
ぺらり、日車が再び資料へと手を伸ばした。
いくつかの書類を飛ばして差し出されたのはイラストのない、箇条書きされた手書きの文字列だった。
「まず一般的な対症療法なんだが、花を吐く症状は専用の嘔吐抑制剤でコントロールできる。一日二回飲む常用薬か、吐き気が起きた時に飲む頓服薬かなんだが、今のところ花吐き病患者はこの薬で誰に知られる事もなく日常生活を送れている」
「あー、それで花吐き病の秘匿もできてたのか」
「君は頓服で様子見がいいだろうと家入が言っていた」
資料に記された薬名を指で確認しながら日車が説明を続ける。
「ただ、抑制剤で嘔吐は防げても体内で花が生成される事に変わりはないから、必ずその日のうちに嘔吐薬を使って吐き出さなければならない。抑制していたものを吐き出すから、普通に花を吐くより苦しく感じてしまうんだが……」
「その辺はまあ大丈夫だろ。修業時代はしょっちゅう吐いていたし慣れてる」
「俺はそれを三十半ばを過ぎてから経験したけどな」
「運動不足の弁護士が呪力だけに頼った戦い方してたからでしょーが」
日車は正式に呪術師として働く事になってから体術の訓練も受けるようになったのだが、特に最初の半年は強豪野球部に所属する球児のごとく訓練後はゲロゲロと吐いていた。半年を過ぎた頃からケロっと訓練もこなすようになったので他生徒からはブーイングを受けていたが。
呪力頼りじゃない戦闘が出来るようになった日車が余力を反転術式に回す戦い方に変えたので当時の日下部は頭を抱えたが、それもそろそろ古い記憶になっている。
「それから相談なんだが日下部、向こう三ヶ月間俺と一緒に暮らしてくれないか」
「は!?」
うっかり回想していれば思わぬ方向から提案が出されて日下部は頓狂な声を上げてしまった。
そんなに驚かなくてもいいだろう、と日車が眉根を寄せる。
「本来花吐き病患者は一ヶ月間専用の宿泊施設に入って吐花のコントロール実習を受けるんだ。しかし日下部は片思い相手が不明だから受けてもまだ意味のない実習が多い上に初症例ときている。日常的な経過観察も必要という事で研究機関が俺に白羽の矢を当ててきた」
「ああそういうこと。……つか経過観察は分かったけど三ヶ月はなに基準だよ」
「フェニルエチルアミンの減少が始まるまでの期間で設定されたようだな」
ぴらり、日車が差し出してきた用紙には『初症例に関する診療録』というタイトルで日下部の名前を始めとしたパーソナルデータと、『経過報告』の欄が空白で載せられていた。これが必要に応じて家入から花吐き病の研究機関に送られる事になるらしい。
「場所はこの家だ。カウンセリングをする時と兼ねるようにと上から与えられたんだが、居室があと二部屋あるからプライベートも守られる」
なるほど、日車がこのマンションに住んでいるのはそういう経緯があったからか。
日下部は改めて室内を見回した。ひとりで住むには贅沢なこの家のリビングには生活臭がまるでない。おそらく日車はその居室のうちのひとつでしか生活していないのだろう。
それが日車の元々の生活スタイルなのか、この家を『自分の身には贅沢だ』と判断したがゆえの行動なのかは日下部にはまだ分からない。
「それで、日下部の空いている時間になるべくカウンセリングを受けてほしい。日下部の片想い相手の情報が少しでも分かれば花吐き病の対策法は更に広がるし、場合によっては治せるかもしれないから」
おず、と日車が伺うように尋ねてきたので「ん?」と日下部はひっかかりを覚えた。基本ゴーイングマイウェイで突き進む日車にしては珍しい低姿勢だ。
カウンセラーとしてはまだ日が浅いのだろうかと思ったが、呪術師としては成りたて当初から我の強さを発揮していたのでおそらく違うだろう。
「君にとっては不本意な流れだとは思うが三ヶ月だけだ。どうか受け入れてほしい」
「いやいや何でお前がお願いする形になってんだよ、普通逆でしょーが」
継続されるオウカガイに日下部は呆れたように返す。そんな低姿勢で来られると調子が狂うからやめて欲しい。
「こっちとしてもこんなメルヘンな病気に振り回されたくねーし、知らねぇ医者より知った同僚にレクチャー受ける方が気も楽だ。こっちこそ不便かけて悪いが、よろしく頼む」
ぺこり、礼儀として頭を下げれば日車からほっと息を吐く音が届いた。なぜ日車がそんなにも気を張っていたかは分からないが、自分相手に肩の力を抜いてくれるならそれでいい。
じゃあ取り急ぎは、と日下部は今後のスケジュールを計算した。
「そしたらまずは引っ越し作業からか。三ヶ月っつったらそれなりに持ち込まねぇと……。飯とかはどうする?」
「日下部は自炊派か?」
「作れる時はな。日車は……フライパン買うところからか。じゃあ俺が飯当番、日車が掃除と洗濯でどうよ」
「昼は各自として、朝晩を日下部が作るのか?それだと君の負担が大きい気がするが」
「作れねぇ時は総菜買うし、日車もいる時は一緒に作ればいいだろ。この機会に料理覚えとけ、何かと役に立つから」
「っ、……わかった」
一瞬きょとんとした日車が次いで表情を緩ませるようにして同意した。
無防備に見えるその姿に何だか居たたまれなさが発生して日下部は誤魔化すように「あーじゃあ一旦家戻るわ」とイスから立ち上がる。——と、同じく立ち上がった日車が引き止めてきた。
「待て日下部。帰る前にこれだけ先に」
「ん?なに」
「嘔吐剤だ。溜めると吐く時に辛いから一度吐いておいた方がいい」
あらかじめ用意していたのだろう、日車が目に痛い赤色の錠剤シートを取り出した。流れるような手つきで押し出された薬を日下部は慌てて手のひらで受け止める。
すでに三錠分、空になっているシートにふと気付く。
「……日車も、花吐き病にかかってるんだよな」
言えばかさり、日車が音を立てながら薬のシートを手のひらの中へとしまい込んだ。
何かを意識するようなゆっくりとした視線が日下部を見る。
「——そうだが」
「家入から『余命がなくなった初症例』って聞いたんだけど」
「ああ」
少し固くなったように聞こえた声が一転、いつものそれに代わってフイと視線が逸らされた。これは後ろめいたい事がある時に見せる日車の癖だ。
「さっきは『例外なく』と言った手前言いにくいんだが」と日車が続けた。
「俺はフェニルエチルアミンの分泌量が一般の平均値以下なのに花吐き病を発症しているらしい。だから『ハイ』にならない代わりに抑うつ症状も起こらなくて、いわゆる『余命』が適応外になっているんだ」
「は?」
「カウンセラーの仕事も患者で唯一状態が安定しているからという理由で要請された」
困ったような、ともすれば呆れたような顔で話す日車に日下部は唖然としてしまう。
日車の言が事実ならば、それはつまり日車には言葉通り恋の寿命がないという事になる。
それはむしろ、余命がある事よりも恐ろしい事ではないのだろうか。
花吐き病の余命は三年で、日車はその余命を迎えてカウンセラーになっている。——つまり。
「……なあ、日車がカウンセラーになったのっていつ」
「——三年前、だな」
「っ、」
ここで今更ながら日下部は認識した。
日車は少なくとも六年間、日下部の知らない誰かに叶わない恋をしているのだ。