バスタブララバイ【寛篤】
日車寛見webオンリー『秘湯ひまわり』開催おめでとうございます🌻
こちらは【黙秘お1:ダンシングソルト】の展示作品になります。
事変・回游のない世界の2018年9月。何らかの呪いにより下半身が魚に変わった非術師の男、日車の世話を自宅で任された日下部。ちっとも乗り気じゃないが「日下部が適任」だと言われ、仕事として断ることもできないので嫌々面倒を見始める。
呪いに対するオリジナル解釈・モブ・嘔吐・自殺を仄めかす表現等、色々入ってますのでお気をつけて。
こちらの話+日車から見た日下部の話(別軸)を収録した本の通販(11/26の10時~)もあります。本はR18です。
もし事変も回游もなく、日車が最初に出会った呪術師が虎杖ではなく日下部だったら、というifテーマで書いています。
好きと好きを混ぜた幻覚で狂っていこうぜ。
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残暑厳しい九月頭、ある日の午前。俺が暮らしているマンションの部屋に大きな荷物が運び込まれた。
運送業者の男二人がかりで持ってきた段ボールは玄関をギリギリ通り抜けられるサイズ。あまり広くない浴室に箱を置くと、彼らは頭を下げて去って行った。
その場にいるのは家主の俺と、それから伊地知だ。この荷物は俺が頼んだものではなかった。さっきの運送業者もそれに扮した呪術高専の関係者。つまりこれは普通の荷物ではないのだ。
「開けますね」
伊地知が声を掛けると、段ボールの中身がガタリと音を立てた。そのまま伊地知がガムテープを剥がすのを、俺は洗面所の方でいつもの棒付きキャンディーを咥えて眺めていた。
面倒臭いことになった、と内心ため息を吐く。というか、伊地知にはもう五回くらいわざとらしいため息を披露したが、彼にどうこうできることでもないので困ったような申し訳なさそうな顔で頭を下げられただけだった。
段ボールの蓋が開く。すると、恐る恐る中に入っていたモノが顔を出した。眩しそうに瞬きを繰り返したあと、それは目の前の伊地知を見て、その後ろの俺を見た。
何処にでもいそうな、普通の中年男性。それが彼への第一印象だった。伊地知が彼に「大丈夫ですか」と訊ねると彼はこくりと頷いた。
「段ボールで運ばれるのは、さすがに生まれて初めてだ。良い経験をした」
男の第一声を聞いて、俺は第一印象の『普通』の部分をすぐに訂正した。こいつはたぶん、変な奴だ。
伊地知に促されて、男は段ボールの中で大きく伸びをしたあと浴槽のへりに手を掛けて体を乗り出した。ずりずりと空の浴槽の方へ移動しようとする。段ボールから出てきた彼の下半身は、人間のそれではなかった。
黒にも青にも見えるネイビーの魚の尾。本来二本の脚が伸びているはずの下半身には滑らかな鱗が並び、控えめな尾ひれがついている。
それは御伽噺に聞く人魚の姿そのものだった。
男がずるんと浴槽に滑り込んだのを確認して、伊地知が浴槽の栓をして中に水を貯め始めた。家主に無断で、なんてことは言わない。勝手にやってくれるのならその方がいい。どうせ、このあとのことは俺がやらなければいけない。
上に着ているシャツが濡れるのも気に留めず、男はこちらに向いた。なんとなく底の見えない瞳が俺を見た。浴槽に水が溜まっていく音がする中、そのまま俺たちはじっと見つめ合った。ある程度水が溜まると伊地知が蛇口を止め、男に向かって「日車さん」と呼んだ。
「この方が今日から貴方の世話を担当します、日下部さんです」
「……日下部篤也だ」
くさかべ、と彼は口の中で復唱して、小さく頷いた。
「聞いていると思うが、俺は日車寛見。弁護士だ。世話になる」
日車はポケットを漁るような手の動きをしたが、シャツにポケットはないし下も履いていないので手は彷徨って終わった。おそらく名刺を出そうとしたのだ、と分かった。もし彼が名刺を持っていたとしてもどうせ水に濡れて役目は果たせないだろうし、どのみち彼がどういう立場の人間かということは、俺にはあまり関係がない。
「日車さんは三日前の夕方五時半頃、ご自身の事務所にて呪詛師に襲撃されました。何かの呪いで日車さんの脚は魚のものへ変化しています。今のところ呪いを解く方法などは分かっていません」
「そういえば清水はどうなった?」
「ほとんど怪我もなく、明日には退院すると伺っております。事務所は半壊していますが、他に怪我人もいないそうです」
「そうか、よかった」
伊地知の説明を聞いて俺は首を傾げた。
「呪詛師はどうなったんだ? ターゲットは日車さんだったんだろう?」
「それが、呪詛師は心臓発作によりその場で死亡しています」
「は?」
何でも、とある殺人事件の被告人の弁護を日車が担当する予定だったらしい。被告人は殺人に関与していないと無罪を訴えているがアリバイもなく状況証拠からほとんど勝ち目のない裁判が予想されている。日車は仕事を引き受け、被告人の潔白証明のために動き始めたところだった。
しかしどうやら、それをよく思わない誰かが弁護人の日車のもとに呪詛師を向かわせたのだという。おそらく被告人は誰かに罪を被せられており、腕の立つ弁護士である日車を消すことで被告人を裁判で更に不利にさせたい人間がいる。
だが何らかの要因で呪詛師は暗殺に失敗し死亡、日車は命こそあるが原因不明の呪いにかかった。呪詛師の存在と日車が呪われた事実は世間には当然伏せられている。
「第三者の介入か? 日車さんは非術師だろ?」
「現場の残穢は死亡した呪詛師のものと、もう一種類見つかっています。日車さんの脚もおそらくそちらが関係しているかと」
「俺は事件のときのことはちっとも覚えてないんだ」
運悪く現場に居合わせた、事務員の清水という女性も事件時の記憶が曖昧らしく、そこで何が起きたのか分からない状態だという。呪詛師を送り込んだ人間のこともまだ特定できていないと伊地知は言った。
「高専で呪いについて分析を行っています。進展があるまで、日下部一級術師にはここで彼の身の周りの世話をお願いします」
今の日車は自由に移動もできず、人前には出られないし、まだ命を狙われる可能性ももちろんある。誰かが面倒を見なければいけない。それは分かる。
「何で俺なんだぁ?」
もう何回も口にした文句をまた吐き出す。よりによって自他共に認める面倒臭がりに厄介事の相手なんて、人選ミスもいいところだ。俺に可哀想な一般人の世話なんかできるわけがない。
伊地知は苦笑したが結局「日下部さんが適任と判断されましたので」という言葉で俺を宥めた。
「日車さんの希望で、年の近い男性がいいということで」
確かに女性だと何かと不都合だろう。だけどそれでも、何度でも言うが、俺じゃなくてもいいはずだ。
「万が一呪いが急激に悪化した場合に対処できることも条件にあって……」
「七海で良いだろ」
「七海さんじゃ駄目なんです」
「はは、凄く嫌そうだ。悪いな、日下部」
あまり悪いと思っていなさそうな調子で日車が横からそう言った。駄々を捏ねても仕方ない。もう決定事項なのだ。俺は諦めてため息を吐いた。
つきっきりで世話をしろというわけではない。お互い窮屈だろうから衣食住さえどうにかしてもらえたらそれでいい、と日車自身が言ったらしい。
日車が入っていた段ボールを片付けた伊地知から、呪符を数枚受け取る。玄関や窓などに貼るように指示された。今日から俺の家は、日車という被呪者を囲う檻になる。完全に浴室に閉じ込めるのは精神的に堪えるだろうから一応室内は移動してもいいということになっている。といってもあの脚では歩けやしないだろう。
他に伊地知から日車のためのタブレットや充電バッテリー、チャック付きのポリ袋なんかを支給された。何かあったらすぐご連絡ください、と言って伊地知が帰ったので、玄関の扉とベランダの窓の外側に呪符を貼り付けた。
浴室に戻り、伊地知から貰ったものを日車に手渡す。タブレットは機能が制限されているようで外部と連絡は取れなくなっている。電子書籍を読んだり動画を見たり、暇潰しには使えるようだ。
「なんか他に要るもんあるか?」
「洋服の替えとタオルはあると嬉しい」
「服は着る意味あんのかそれ」
「これでも人間だからな、服は着たい」
それもそうだ、と納得して服のサイズを聞く。俺より少し小さいようだが、とりあえずは俺の手持ちのシャツでもどうにかなるだろう。タオルは浴室内と洗面所の両方にいくつか置く。
そうやって俺が日車の生活環境を整えていると、彼は浴槽のふちに肘をついて「家賃は必要か?」と言った。
「支払いの意思があるのか?」
「居候みたいなもんだろう。君が必要だと言うのなら支払うさ」
「居候ねえ。どっちかって言うとペットじゃねーか」
「ペットか。君は悪趣味だな」
俺にもおっさんの人魚をペットにする趣味は断じてない。気にするな、という意味を込めて片手を振ってみせた。
「あんたをここで預かってる間はボーナスが出る」
「それはよかった。金でも貰わないとやってられないだろうから心配していたんだ」
彼の言う通りタダでこんな仕事は受けないが、それにしても変な奴、という印象が濃くなった。俺が世話を放棄しないか不安なのだろうか。
今回のこの仕事は、水道代や食費も含めてそれなりの金額のボーナスが出ると言われている。金銭の発生する仕事である以上、最低限のことはやらねばならない。
「食事は三食出すが、昼はいないことが多いからコンビニ弁当とかが多くなる。料理もあまり期待しないでくれ」
「ああ、構わない。俺も料理はしないし、食べられるだけでありがたい」
変な奴だが動物なんかよりは余程扱いやすい。ある程度は自分で動けるのも、介護・保護される立場である自覚があるのも、こちらとしては助かる。
ただ、落ち着きすぎている、と思う。現状に対して焦りや不安があまりないようだ。適応力が高いのだろうか。
「意外と平気そうだな。呪詛師とか呪いとか意味分かんねーって思ったりしねぇのか」
「実際にこうなっている以上、受け入れる方が賢明だ」
だからと言って受け入れられるかは別だろうに。変にパニックになったり八つ当たりされたりするよりはいいが、身構えていたよりも冷静な人間で安堵する。いや、異常事態に思考が麻痺している可能性もある。
「君は呪術師なんだろう? 一級というのは何だ?」
「あー、強さのランクみたいなもんだ。一級はまあ、規格内で一番上」
「へえ、君はそんなに強いのか。呪術師は呪霊というものを退治すると聞いた。どうやるんだ?」
「人による」
「君は? 何か武器を使うのか?」
おそらく事前にいくらか呪いについて説明を受けたのだろう日車は興味津々といった様子で俺を見上げた。どこまで話していいのかという問題、それから単純に答えるのが面倒臭いという問題にぶち当たったので、俺はまた手をひらりと振って「企業秘密だ」と返した。
その手を日車に掴まれる。俺の右手を揉むように触った彼はふむ、と思案して「刀だな」と呟いた。
「元気そうで何よりだ」
俺が手を引くと彼は素直に離してくれた。
「何か質問はあるか? ないなら今日の昼飯くらいは要望を聞いてやる」
「じゃあ最後に一つ。その飴は?」
「禁煙中だ」
「なるほど。昼はそうだな、牛丼がいい」
牛丼を食べる人魚なんて、地球上でもここにしかいないかもしれない。自分の昼飯調達も兼ねて、外に牛丼を買いに行くことにした。浴室の扉を閉めて、財布と鍵を持って家を出る。
外はまだまだ暑い。本当なら今日は余っているそうめんでも食べるつもりだったのだが仕方ない。どうせそのうち買い出しが面倒な日に食べることになる。
牛丼を二つテイクアウトして帰宅する。誰かが家にいるなんて変な気分だ。まっすぐに浴室に向かい扉を開けると「おかえり」という言葉が飛んできて、なんだか驚いてしまう。
「日下部、浴室に鍵をつけたりしないのか。俺が脱走するかもしれないぞ」
「どうせ外には出られねえよ。脚拭いてからなら部屋ん中くらいは好きにしていい」
「そうか。気前がいいな」
「……あんたがそれでいいならいいけど」
調子が狂う。肩を竦めて日車に牛丼の容器と箸を渡す。風呂の水と混ざると困るだろうから飲み物はペットボトルで支給するのがいいか。物を置くスペースもあまりないから、壁に収納ラックでも取り付けた方がいいかもしれない。
後でゴミを回収する、と言い残して俺はリビングで牛丼を食べた。生き物を飼うというのはつくづく金がかかる。費用は伊地知に請求すれば出してくれるだろうが。人魚の飼い方マニュアルなんて探してもそうそう見つからないだろうし、俺の仕事は被呪者を死なせないことと刺激しないことだけだ。仲良くするつもりはちっともなかった。
昼飯を食べ終えて浴室に行くと日車はすぐに「ご馳走様」と言った。
「そうだ、換気扇をつけておいた方がいい。カビ対策には気休めだがつけないよりはマシだろう」
「今更だが、あんたは水がないと駄目なのかね」
「ずっと浸かっている必要はないが、鱗が乾くと元気がなくなってくる」
「水温は?」
「個人的にはぬるま湯がいい」
水も湯も好きに使っていい、と伝えると彼は頷いた。食事のゴミを受け取って、換気扇のスイッチを押す。
「また出掛けてくる」
「俺のためか?」
「まあそうだな」
「何から何まですまない。ありがとう。君に何かあったときの弁護は是非俺にやらせてくれ」
「じゃあその時は頼むわ」
彼の弁護士ジョークを適当に流して浴室の扉を閉める。その隙間から「いってらっしゃい」という声が聞こえて、扉の前で少しだけ沈黙してしまう。がりがり、頭を掻いてそこから離れた。
午後はホームセンターで風呂場に置けそうなものや箱で飲料水を買い、スーパーでパンや弁当を買った。夕飯は買ってきた惣菜で済ませ、風呂が使えないので近くのネットカフェでシャワーを利用した。
翌朝、日車に朝食と昼食を渡して俺は仕事へ。命を懸けて化け物と戦うくらいなら、家でおっさんの面倒を見ている方が気楽でいいかもしれない。彼が当たり前のように「おはよう」や「いってらっしゃい」を言葉にするのがむず痒くて、飴を口の中に放り込んだのに噛み砕いてしまった。気楽ではあるが、居心地はあまりよくない。
家族以外に恋人と一緒に暮らしたこともあるし、学生時代は寮暮らしで半共同生活だったし、誰かと生活することに縁がないというわけでもない。ただここ数年はほとんどずっと一人だった。もちろんペットを飼う甲斐性も持ち合わせていないから、典型的な独身中年男性の暮らしが続いていたのだ。
こんな感じだっけな、と思うと複雑だ。弱者に庇護欲を抱くことは、この世界に足を踏み入れてからはよくあることだった。そのうえ日車はきちんと感謝を口にしてくれる。気に掛けてやるとどうしても情が湧いてしまう。
他人のことまで考えられるのはその余裕がある人間だけだ。俺は自分のことで手一杯。そういう言い訳でいろんなことから目を逸らして最低限のエネルギーで生きてきた。この生き方を変える気はない。
何よりこういうことに思考を割くのも面倒臭い。接触は控えめに。俺は日車に衣食住を提供するだけでいい。
だから日車が家の浴室に来て一週間、食事を出しゴミを片付け、遠慮がちに頼まれた物を買ってきてやり、それ以上のやり取りはほぼなかった。
この一週間、日車はほとんど浴室からは出ていないようだった。一応トイレには行っているようだ、垂れ流しは人間としての意地が許さないのだろう。それ以外はずっと浴槽の中にいて、食べるかタブレットを触るか、あとは眠っているらしい。
俺は昼間不在で、夜は帰宅して飯を食ったら寝る生活だから、そもそも交流する時間は少ない。
五日ぶりの休み、いつもより少し遅く起きた。意識が覚醒するまでボーッと天井を見上げていたが、日車の食事のことを思い出してのろのろと草臥れたベッドから起き上がった。
惣菜パンを三つと缶コーヒーを持って浴室の扉を開けた。おはよう、とここ最近聞き慣れた声が言った。
「今日は休みか?」
「早起きは得意じゃねーんだ。悪いな、遅くなった」
「いいや、むしろ起こしてすまない」
壁のラックの空いている部分に朝食を置き、濡れたタオルやシャツを洗濯機に突っ込み乾いたものに置き換える。ポリ袋に入ったタブレットのモバイルバッテリーを充電済みのものと入れ替える。
日車は何故かパンに手をつけず浴室と洗面所を行き来する俺をじっと見ていた。だから俺は「食わないのか」と聞いた。
「ここは誰も見舞いに来られない病室のベッドみたいだ」
それは初めて日車が口にした、弱音のような言葉だった。神経が図太そう、なんて初日のイメージで勝手にそう思っていたがやはりさすがにこの生活は堪えるらしい。
俺はそこでようやくまじまじと彼の顔を見た。随分無精髭が生えている。歯ブラシは所望されたから買ったが、ヘアブラシもなく髪はずっと湿ってぺったりしている。当然ここに窓はないからタブレット端末の時計がなければ時間感覚も無茶苦茶になる。枕や布団もない。話せる人間は俺だけ。
気づけば浴室内にはカビもできている。浴槽内の水は適宜自分で入れ替えているようだがそれでも清潔には遠いだろう。
こんな場所に閉じ込められていたら誰だって気が滅入る。彼の忍耐強さを褒めたいくらいだ。
俺は彼に「ちょっと待ってろ」と言って、自分の朝食用に買った惣菜パンたちを持って浴室に戻ってきた。初日にそこから撤去した風呂イスを置いてどかりと腰掛ける。
「食い終わったら掃除するから、洗面所で髭でも剃れ」
日車は驚いたように俺を凝視したあと、体の力を抜いて少しだけ笑った。そしてパンを一つ取って袋をがさがさと開いた。
「日下部はこのチーズパンが好きなのか? よく買ってくるだろう?」
「あんま気にしたことなかったな……まあ、好きな方か、ハズレのない味だからな」
「君は食事に重きを置かないタイプだな」
正解だ。腹がへるから食べる、動けないと困るから食べる。美味しいものは食べたいが、そのために料理をするのも食べに出掛けるのも結構面倒臭い。食事を抜くことも実はそこそこあるのだが、そういえばこの一週間は三食全て食べている。特にギリギリに起きた朝なんかは何も食べずに家を出ることも多いのに。それがどうだ、彼の食事のついでに自分も食べている。ペットを飼い始めて健康的な生活習慣が身につく、というのはこういう感じか。
といっても彼は人間である。湿気が気になるから浴室の扉を閉めたが、窮屈で殺風景だ。浴槽内に一人、外に一人いるだけでもの凄く圧迫感があった。
「うちの風呂って思った以上に狭いんだな……」
「男二人で入るサイズではないな」
「誰かと入ることは想定してねえからな」
「そういえば、君は風呂はどうしてるんだ? もしかしてわざわざ銭湯にでも行ってる?」
「そんなところだ。この風呂は今、あんたの家だぜ。侵害はしない」
「気にしなくていいのに」
「俺が気にするんだよ」
そう返すと日車もそれ以上は何も言わなかった。ぽつぽつ話しながらパンを食べてコーヒーを飲んだ。
俺がゴミを片付けている間に日車は歯磨きをしていた。棒付きの飴を咥えて、洗面所の床にバスタオルを広げる。電動シェーバーとヘアブラシ、それからクローゼットの奥から発掘したスタンドミラーを端っこに置いた。
浴槽の栓を外し、水がごぽごぽと流れていく音を背景に、日車の脇の下に手を入れて支えてやり浴槽から引っ張り上げた。そのまま洗面所のバスタオルの上へ。自分の服も濡れるが気にしない。
日車が床をもぞもぞと動く様子は、お世辞にも人間とは言いにくい。魚だ。彼はなんとか上体を起こし、シェーバーで髭を剃り始めた。
その間に俺はスポンジと洗剤で浴室内の掃除をする。生憎、塩素系のカビ取り剤しか家になかったので臭いが残ってしまうかもしれない。酸素系漂白剤か重曹も買うべきか。
シェーバーの音が止んだので洗面所を覗く。綺麗に髭を剃って、髪を整えた日車がこちらを見上げた。
「ワックスも要るなら出すぞ」
「欲しい」
「んじゃ、ちょいと失礼」
ゴム手袋を外して洗面台からワックスのボトルを取って日車に手渡す。彼がワックスを使うのを、扉にもたれかかって見下ろす。清潔感を取り戻した日車はいくらか元気になったように見えた。
「よお、男前」
「やめてくれ。君のような男前に言われると居た堪れない」
「結構幼い顔してるもんな、あんた」
「これでも三十六だ」
「ハァ? マジか」
一旦風呂場を乾かすつもりで、俺は日車にそのまま声を掛けた。
「今日は天気が良いんだ」
首を傾げた彼を、床に敷いたバスタオルごと抱きかかえる。慌てて俺の肩にしがみついた彼が不安そうに名前を呼ぶ。多少尾ひれが床に擦るのは許してほしい。
よっこいしょ、と日車ごと洗面所を出てリビングに向かう。相手も成人男性なので結構重い。あー、と唸りながらベランダの前で日車を下ろす。
起きてからほったらかしだったカーテンをようやく開いた。窓から差し込む日光に、日車が眩しそうに目を細めた。本当はよくないのだろうが、俺は窓ガラスを開けた。網戸も横に動かせば、直接日差しが彼に当たった。
俺はもう一枚、濡らしたタオルを持ってきて日車の脚に被せた。これなら多少は鱗を乾燥させずに済むだろう。
人間には太陽光が必要だ。外には出してやれないけれど、ベランダで日光浴くらいは構わないだろう。一日晴れの予報の空は雲一つなかった。
下半身が見えなければそこにいるのは寝転がるおっさんでしかない。ぬくい、と彼がこぼす。枕代わりにフェイスタオルを畳んで頭の下にねじ込んでやると、彼は「至れり尽くせりだ」と笑った。
すぐに日車はうとうとして、やがて静かに寝息を立て始めた。クーラーの温度を一度下げてから、俺は台所へ移動した。
情を抱くな、というのはなかなか難しい。呪術師にとって非術師は守る対象だし、自分だけを頼ってくる弱者という存在はいろんな感情を刺激してくる。あーあ、と頭を掻いて、すっかり可食部がなくなった飴の棒をゴミ箱に放り投げる。
とりあえず炊飯器に米をセットした。辛うじて消費期限間近の卵とベーコン、トマトときゅうりがあったので、昼は炒飯とサラダにする予定だ。
二日溜めていた洗濯物をまとめて洗濯機にポイ。スイッチを入れたらあとはこいつが全部やってくれるので、洗濯乾燥機は生活の友だ。
三十分ほどして日車がむくりと起き上がった。リビング真ん中のちゃぶ台に肘をついてそちらを眺めていた俺の方を、まだ眠たそうな顔が振り返った。
「あつい」
「ん? あ、タオル乾いたか!」
濡らして掛けてやったタオルがぬるくなっている。窓を閉めて、再びよっこいしょの掛け声で日車を抱き上げると、俺は彼を浴室に連れて行った。まだ少しツンと鼻をつく洗剤の臭いはするものの、だいぶ綺麗になっているはずだ。浴槽に日車を下ろしてぬるま湯を張る。
ふぅ、と息を吐いた日車は俺に礼を言ってから、肩を竦めた。
「少し、君への認識を改めた方が良さそうだ」
「へえ? どう変わった?」
「しおらしい態度に簡単に絆されるのはよくないと思う」
「ふは、あんたのアレがわざとだったんなら、サービスはここで終わりだな」
「……冷たいことを言わないでくれよ」
拗ねたように唇を尖らせた彼にまた笑う。予定通りに炒飯を作り野菜を添えた。
二人分の炒飯とスプーン、ペットボトルを持って浴室に行くと日車は目を丸くした。
「おい何だその目は。俺は料理しないとは言ってないぞ」
「君はもしかしてモテるんじゃないか?」
「ちょっと優しくされたくらいで揺らぐのは、よくないと思うぜ?」
味は期待するなと釘を刺して皿を手渡す。湯気のあがる炒飯を見て彼は嬉しそうに手を合わせた。真っ平な顔に見えて、意外と近くで接しているとその表情の変化は分かりやすかった。
「美味い」
「口に合ったならよかった」
次から次へとスプーンを口に運ぶ日車に作った甲斐があったと思わされてしまう。あくまで自分の昼食のついでだったはずだが、もうどっちでもいいか、と考え直す。
俺は、明日からまた五連勤であり、次の金曜に振替休日があると彼に伝えた。それから火曜は出張なので帰宅するのは水曜の昼頃になる可能性も。長めに家を空けるときは伊地知に鍵を渡しておき、代わりに食事を届けてもらう予定だ。日車は素直に分かったと頷いた。
「呪術師は忙しいんだな」
「この業界は万年人手不足だからなあ」
「毎日呪霊と戦っているのか?」
「んにゃ、俺は教壇に立つこともある。教師だからな」
「教師……?」
半信半疑の顔で見つめられたので「教師はいいぞ」と軽く笑い返す。
「何と言っても教壇に上がってる間は死のリスクがない」
ちょうどトマトを口に入れた日車は俺の言葉に面食らったらしい、咀嚼したそれをごくりと飲み込んでスプーンを一度置いた。言葉を探しているような日車に、しまった、と思う。困らせるつもりはなかったのだ。だから話題を逸らした。
「俺の受け持ちにはパンダがいるんだ」
「……何かの隠語か?」
「パンダはパンダだよ」
「パンダも戦うのか……?」
「まあまあ強い」
「強いのか……」
あんまり信じてはなさそうだったが日車はスプーンを再び動かし始めた。そのまま皿を空にして、彼は律儀に手を合わせた。ご馳走様の言葉にお粗末さんと返して皿を流しに持っていく。気の利いたデザートの類を出したことはない。彼は甘いものは好きなんだろうか。
どうせ大した予定もない休日なので洗濯物を片付けたあと浴室に戻って日車の話し相手になった。
「あんたこそ、弁護士とか絶対忙しいのに、急に暇になったら困るだろ」
「後回しになっていた読書をするいい機会だと思うようにしている」
ポジティブなのはいいことだ。何を読んでいたのか聞いたが返ってきた本のタイトルはどれも難しそうで思わず顔をしかめてしまった。彼の仕事に関係しそうな書籍ばかり。俺にはさっぱりだ。
「俺は入院していることになっているんだよな?」
「ああ。建物の老朽化で崩れた壁に巻き込まれて大怪我をしたっつーことになってる」
「俺の代わりの弁護士は?」
「そのへんは俺は聞いてねえ。火曜に伊地知に聞いた方が早い」
「そうか……」
とはいえ、彼の言う通り、裁判を担当する弁護士は彼とは別の人間になるだろう。場合によっては、彼を襲わせた誰かの息が掛かった弁護士になる可能性もある。
だけど元々容疑を覆せるような勝ち目がほぼないことが分かっている。この殺人の裏に大きな組織が絡んでいたりしたら、日車が無事に弁護を任されていたとしても、無罪を勝ち取るどころか刑を軽くすることも厳しいだろう。被告人は殺人犯の汚名を背負って泣き寝入りすることになる。
寂しそうに日車が呟いた「法律は万能じゃない」という言葉に込められた感情を俺は掘り下げない。
「あんた、甘いものは平気?」
「平気だ」
「つっても何もないけどな。これで我慢してくれや」
俺が禁煙の支えにしている飴を差し出すと彼は小さく笑った。包みを剥がしてぱくり、棒付きキャンディーを咥えた彼が眉を寄せる。
「これは、何味だ……?」
「俺もよく分かってねえ」
「おもしろいあじ……」
午後はだらだらと二人で会話をして過ごした。その日から、寝る前、家を出る前、帰ってきてすぐ等、俺はこまめに浴室に顔を見せるようになった。