愛人契約

社長は冷静に対処している。感情は変数、理性は条件付き変数。


海馬コーポレーション社長室。
もう1人を、と呼び出されて向かった先で、とんでもない要求をされた。



「遊戯、俺のものになれ。」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「なにを?」
「身も心も、俺のものになれと言ったのだ。」
文字にしてみれば、甘い台詞なのかもしれない。
だが、淡々とした口調の、どこにもそんなものは感じられなかった。
「どういうことだ。」
「具体的に言わねば分からんか。覚悟を決めて、俺に愛されろ。」
覚悟?愛されろ?
その瞬間、頭の中で変な警告音が鳴った。
つまり、そういうことか?俺は聞き間違えたのか。いや、だがその手の契約だろう。
ちょっと落ち着け、と自分に言い聞かせるも、落ち着く先がない。
俺が思い描いたのは『愛人契約』。だが、あいつの言葉はそれを超えていた。
『覚悟を決めて、愛されろ?』
そんな言い方をされると、何がどうなるのか全く想像できない。
しかし、つまり、やはりこれは、きっとそういう事なんだろう。
どんな言葉で飾ろうと、温度のない関係の要求だ。
「俺に、貴様の『愛人』になれとでも?」
その言葉を口にした瞬間、自分でもかなりの棘があると分かっていた。そうなるのも、当たり前だ。
到底受け入れられる話ではない。
しかしあいつは眉一つ動かさずに答える。
「違う…。…いや、大きく外れてはいないか。」
腕を組んで、思案している。やはりそう言うことだったのだろう。
「なるわけがないだろう。それに俺は魂であって体は相棒のものだ。そんな話なら帰るぜ。」
わざわざ俺を指名して呼びつけるから、何事かと思って来てみれば、なんてくだらない。
そんな関係を持ち掛けるだなんて。
しかし、拒否してやったにも関わらず、あいつは薄い冷笑を浮かべただけだった。
「ならば、身から先に俺のものになってもらおうか。」
「…なんだと?だが俺の答えはノーだ。」
力尽くで来られたら敵わないのは分かる。
一歩、ドアへ踏み出すも、追いかけてくる声に足が止まった。
「身なら、貴様のもう1人が居るだろう。」
相棒を?
「だが、こんなこと、相棒だってイエスと言う筈がないぜ?」
「奴が俺に純粋な憧憬を抱いているのは知っている。貴様と俺と、どちらが勝つか、見ているがいい。」
見下すように笑う。
確かに言っていることは事実。
そして、その手順なら身から手に入れることは可能だ。だからといって、何が出来る。
「相棒が、貴様を選ぶ筈がない。」
動揺を誤魔化すように、大きな音を立ててドアを開閉し、今度こそその部屋を後にした。



この頃、あいつの姿をよく見かけるようになった。
と言っても単にあいつが学校に来る頻度が増えたからだ。ずっと居るわけではないが、短時間顔を出したりする。
そうなるとやはり、相棒は話しかけもする。
あいつはあいつで、それを面倒くさそうにあしらったり、的確に理解を示したり、上手く距離を保っていた。
いや、寧ろ巧妙に距離を詰めていた。
「あれ?今日はもう帰るの?」
「ああ、それより貴様、成績が悪いと聞いたが、俺に話しかける暇があるなら少しは何とかしたらどうだ。」
「うーん、まあ、それは…えへへ。」
「次の大会では学生は成績を考慮するぞ?」
「ええーっ?それは困るよ。」
俺はその裏側で、殺せそうな視線で、あいつを睨みつけていた。
転機はすぐに訪れた。
相棒はちょくちょくあいつの元を訪ねるようになった。まるで友達のように。
ゲームをすることもあれば話をするだけ、果ては勉強をさせられていることもある。
ただ同じ空間に居るだけではない。ここまで来れば、あいつの距離を詰めるペースは更に加速した。
駆け引きが始まったのだ。
「こんないい成績は初めてだ。」
「貴様…俺が教えて未だに20位だと?一桁多い。もう知らん。今度は自力で何とかしろ。大会出場は足切りだ。」
「流石は不動の1位…。でもこれは万年赤点のボクにとっては大事件なんだ。だから大会は滑り込みで!」
「貴様は…。仕方のない奴だな。」
「ふふ、ありがとう。」
上辺は仲の良い友達のように見える。
だがその裏は違う。
「今日はどれを選ぶ?」
いくつか並んだ選択肢、ゲームの箱には今日なにをするのか、の答えが入っている。
「どれを…ヒントは?」
「質問には答えよう。だが、全ての情報は開示しない。貴様の想像力で補え。」
あいつの提示の仕方はいつも冷徹なやり方だ。
情報を与えすぎず、しかし必要な少しのヒントを与えることで、相手の想像力を刺激し、意識を向けさせる。
常套手段だ。
ヒントからは、恐ろしい答えが混じっているように聞こえる。しかし実際に選べば、答えは優しい、いっそ甘いくらいだ。
突き放すような不安や、甘やかし、そのバランスは絶妙で、本当に籠絡するのでは、という動きをあいつは見せ始めている。
何かが、おかしくなり始めていた。
相棒の様子が、以前とは微妙に違う。あいつを見る目が、少し柔らかく、いつもより輝いているように見える。
胸の奥が、締め付けられるようだった。
いや、そんなはずはない。
何度も自分に言い聞かせるが、視線を交わす度に、相棒の微妙な笑みや動作の1つ1つが、あいつを意識していることを示していた。
「相棒。海馬には気を付けろ。」
「急にどうしたの?」
「それは…。」
言えない。俺が拒んだせいで身体を狙われている、なんて。
しかし、微笑んで言う。
「多分…キミが言いたいこと、知ってるよ。」
「え?」
「流石にボクでも分かるよ、彼は真っ直ぐだからね。そういうことでしょ?」
一見すると、あいつと相棒の関係は平和そのものだ。裏側を知らなければ誰もが祝福するだろう。
「それなら何故。」
「海馬くんになら、ボクはいいかなって思うんだ。優しいし、ついでに成績も上がったし。」
俺は、目の前が真っ暗になったような気分だった。
嘘だろ。
あいつの言う通りになった。あいつに負けたのか?
足元が揺らいだように覚束無い。
相棒が絡め取られる。こんなことは、絶望と言っても過言ではなかった。
「ダメだ!お前は騙されてる、あいつは…。」
お前をスケープゴートにするつもりで。
そんなことが、言えるはずがなかった。
まさかこんな短期間で、こうも簡単に追い詰められるとは思わなかった。
あんな風に俺に迫ったあいつが、マトモに誰かの心を掴めるなんて、微塵も思うはずがない。



「海馬、貴様なんてことを!」
『武藤遊戯』であるのをいいことに、社長室へ乗り込んで怒鳴った。
どんな激しい大喧嘩になったとしても、相棒をこいつから守らなければいけない。
相棒を守らねば、完全に籠絡される前に。頭にはそれだけしかなかった。
「何がだ。」
「惚けるな。相棒のことだ!」
「その様子、とうとう俺を選んだようだな。だが選んだのは奴自身。奴の選択に貴様は口出しするのか?」
「貴様…。」
「俺の愛し方は容赦がない。」
愛し方は容赦がない。その言葉だけが、空気に落ちた。
だが、何をされるのかは分からない。
愛なのか、支配なのか、痛みを伴う何かなのか。
頭の中で無数の可能性が浮かび、息が詰まる。
視線を向けると、あいつは涼しい顔をしている。まるで何も知らぬかのような表情で、だが、その瞳には底知れぬ力が宿っている。
愛?どういう事だ。
心臓が早鐘を打つ。手が、自然に力を入れてしまう。呼吸がしにくい。
一歩も動けず、ただその場に立ったまま、言葉の意味を必死に探ろうとした。
しかし行動や思考の全ては、未知の何かに押しつぶされる。
未知か。未知を受け入れろ、とでも言うのか。
胸の奥でざわつく警戒。どう抗えばいいのか分からない。
あいつの目は冷たく見下ろし、口元には笑みさえ浮かんでいる。
勝利を確信しているのが手に取るように分かる。
だが、このままでは相棒は確実に籠絡される。
「それで、どうする。俺に愛されるか?」
脅しの匂いが漂う。
知らず、拳を握りしめていた自分に気づく。まさかこの勝負で負けるなんて。
こんな奴が色事に強いなんて想定外過ぎる、誰も想像できないだろう。そんなことには興味がなさそうだった筈だ。
だが実際、追い込まれている。もう、あの契約を受け入れるしかない。
「俺が…、身代わりになる。だが、俺は屈しない。」
「奴が俺を選ぶのなら、俺は2人まとめてでも構わん。」
「相棒は解放しろ。」
「解放?奴の選択について、俺は何も強制していないだろう。」
確かに強制も脅しもなかった。
ごく普通の駆け引きがあっただけだ。だからこそ、このままでは本当に相棒がこいつに騙されるだけだ。
「…なってやる。俺が、覚悟を決めて『愛人』になって、愛されてやる。全部引き受ける。契約を受け入れる。だから…もうこれ以上惑わせるな!」
怒りと憎しみ、殺意を込めたような視線で睨みつけた。
しかし、それを受けてもあいつは薄っすら笑っただけだった。
「今日だけ自由をやろう。明日の夜、迎えをやる。」
「約束しろ、傷を付けたり痛めつけたりしたらこの契約は無効だ。」
「分かっているのか?俺は今、貴様の相手をやめてこのまま大事なもう1人を選び、奴を俺の好きにしてやることも可能だ。」
「貴様…。」
だが今、全ての選択権は俺にはない。
言う事を、聞かなければ。こいつの好きにさせなければ相棒が弄ばれる。
痛みなら、耐えられる。
「わかっ…。」
「だが、貴様が優しさを求めるのならそのようにしてやる。」
少しでも身を守る。その為には、ここは受け入れるしか選択肢はない。
「分かった。それでいい。優しく…してくれ。」
「…約束しよう。」
優しさを求めることになるなど、こんな屈辱はない。
ふざけやがって。しかし、攻撃されるわけにはいかないのだ。
脳裏に浮かぶのは、敗北と絶望だけだった。



こいつの愛し方は、自分で言うだけあって本当に容赦がなかった。
傷1つつけず、痛みもない。
直前のもどかしさすらコントロールして、最大化した快楽をこれでもかと浴びせてくる。
体は完全に掌握されていた。

「いや…だっ…。」
「いい時にはいいと言え。」
「やだ。い…いや。ぁっ…。」
「ここは、お前の良い所だ。いいのならいいと言え。」
そう言われて、ずっといい所ばかりずっと攻められている。
「やだ、やめ…ろ…、んっ……ぁっ…。」
「やめるのか?こんな状態で放り出されたら困るのはお前の方だろう?いいのか、どうなんだ?」
弱い所ばかり。いや、正しくは弱くされた。
そこが良いと分かると執拗に快感を与えられて、すっかり弱くなってしまった。
突かれる度に、頭が、痺れる。意識が飛びそうになる。
だが、この身体を知り尽くしたこいつは、本当に意識を飛ばさせてはくれない。
「いいか?」
いい、だなんて言いたくない。
「言わ、ない。」
「強情な奴め。」
触れるだけの口付け。
優しそうな眼差しなんてやめろ。甘い声もやめろ。包むような触れ方もだ。
こんなにも善くされて、そんな目で、声で、手で、どろどろの快感に落とされて、もう上手く身動きが取れない。
愛する相手にするような態度はやめろ。
「やめ…んっ……ゃ…」
意識が、遠くなる。
「ここが、いいか?」
体を持ち上げられ、下から刺し貫かれる。深くなった繋がり、圧迫されている最奥。
「や…だ…ぁ。」
「嘘を言うな。」
撫でるな。その手つきをやめろ。
絶対に言いたくない。しかし身体は、心を裏切って喜んでいる。
こんな、こんなこと。
奥を突かれ、脳が痺れる。耐えられない。
「あぁっ……ぃっ…。」
ダメだ。それは言ってはいけない言葉。
「正直になれ。」
言ってしまえば、落ちたという証明になってしまう。絶対に屈しないと決めた。
「言わない。俺は、絶対に…。」
「仕方のない奴だな。」
体中を這う手、首筋を擽る唇にはどこもかしこも食べられていて、触れられていない場所はない。
その舌には、逃げても巧みに絡め取られてしまう。
腕を取られて首の後ろに導かれれば、縋り付いて離せなくなる。そんなことはしたくないのに、縋るしかない。
こいつはあまり前に触れては来ない。こんな身体にされる前、初めの方はよく触れられたが、中で感じられるようになるとそちらを攻められるようになった。
内側から確かに湧いて出る快感の方がずっと俺をいたぶると分かっているからだろう。
触れてくる時は、最後に落とし切る時が多い。外からと中からと、どちらからも落としに来る。
今、触れられた。きっとこの後、快感の海に落とされてあの言葉を言わされてしまうのだろう。「いい」と。
言ってしまったら最後だ。後は善がって求め続けてしまう。
快感が、怖い。自分が自分でなくなる。
「あっ…や……ダメだ…もう…っ。」
「怖がることはない。」
やはり、恐怖は見抜かれている。
心理戦なら得意だ。
たが、こいつのは心理戦なんて可愛いものじゃなくて、ただの事実確認だ。
それを息をするように行うのだから性質が悪い。
契約を受け入れた日から、ずっと観察され続けている。



初日は、ココアを飲んで並んで寝た。
迎えが来て、海馬邸のあいつの部屋へ行けば、よく眠れるから、とホットココアを出された。
あからさまに怪しさを感じた。
「海馬、これを先に飲めるか?」
そう言ってカップを差し出してやれば、しかしあいつは、涼しい顔でココアを口にした。
「毒見なら、毎回にでもしよう。」
その声は冷静で、何も答えずにいると、仄かに笑った。
「怯える必要はない。」
「俺が貴様に怯える筈が…。」
「…呼吸の浅さ、肩の緊張、俺の動作への過剰な反応、瞼や瞳孔の動き、声の強張り。それでもか?」
「それは…。」
淡々と述べられる無意識の事実。
観察者の目が全てを暴いていく。今、目の前で自分の内側を完全に見抜かれている。
こうやって、相棒の心を見抜き、絡め取ったのだろう。
どれだけ抗っても無駄だという感覚。心臓が早鐘を打ち、頭の中の言葉は詰まる。
それでも、目を逸らすことは出来ない。あいつの視線は、逃げ場を与えない。
だが、緊張するなと言うのは無理な話だ。そうだ、これは怯えではない、臨戦態勢だ。
「今日はまだ、何もしない。手は出さない、触れもしない。」
言葉だけでは信じられない。脅され、『愛人』にされてしまったばかりだ。
「嘘は吐かないと、約束出来るか?」
「約束事の好きな奴だな。まあいい、約束しよう。ただし、朝までここに居ろ。」
何故かは分からないが、呆れたみたいに、笑った。
シャワーを浴びて、着替えて、寝る支度だけをして、連れられて寝室へ入る。
実際にベッドを前にすると、足が竦む。
手は出さない、とは言った。だが、心は疑念でいっぱいだ。
「早く入れ。」
「…分かった。」
これ以上立ち尽くすわけにも行かず、距離をわずかに保ちつつベッドに入る。
あいつもそっと入って来る。
「眠るだけだ。そんなに端に行くな。落ちるぞ。」
その声は落ち着いていて、威圧している風でもない。ただ、事実だけを告げる。
眠るだけ。本当に眠るだけだ。そう自分に言い聞かせてベッドに潜り込んだ。
警戒して寝付けずにいたが、宣言通り、こいつはすぐに寝入っていた。
手は出さない、触れない、嘘はなかった。
無害そうな寝顔を眺めながら、今の内に帰ってしまおうかと思う。だが、そんな事をしたら報復を覚悟しなければならない。
その後に熟睡など出来るはずもなく、うとうとするも夜中に何度も目が覚めて、4時ぐらいで諦めた。帰ったら昼寝をしよう。
何となしに顔を見ていると、不意に目が開いた。時間はちょうど4時半だ。
それからこちらの姿を確認して、なぜか安堵したような顔をする。胸がわずかにざわついた。
「眠れなかった、か。」
手を伸ばしてきたが、その指先が触れることはなかった。
「眠れる方が、おかしいだろ。」
「そうか。俺はじきに出る。少し眠ってから帰るといい。」
「なら俺ももう帰るぜ。ちゃんと朝まで居たんだからな。」
「それなら送らせよう。朝食は摂っていけ。」
合理、冷徹さ、約束通りの優しさ。色んなものが混ざるその態度に、しかし、警戒心が解けることはない。
警戒心は最大。信頼も、安心も、まだ影も形もない。
朝食に付き合わされて、無理やり送りの車に押し込まれ、やっと解放された。

次の時からは、抱き枕にされた。
出されたのはやはりホットココア。
手を付けずにいると、あいつは無言で毒味をした。
「今度からお前も同じものを飲め。」
「また約束か?」
「ああ、そうだ。そして俺が先にいずれかを選ぶ。気まぐれなロシアンルーレットだ。」
「傷を付けず、痛めつけない約束だ、薬など盛らん。これにも嘘はない、約束だからな。」
観察者の目がじっと覗き込んでくる。
今日は怯えてはいないはずだ。そう見えるとしたら臨戦態勢なのだと言ってやればいい。
「今日は、触れる。触れるが眠るだけだ。」
昨日と同じ様に寝る支度をして、並んでベッドに入る。
触れると言ったが、どんなつもりだろうか。
続いてベッドに入って来た男は、抱き締めるように腕を回してきた。
驚き、少ししてから緊張がやってくる。
「…なるほど。」
「何がだ。俺は怯えてなんかいないぜ。」
「心拍の変化、視線の動き、呼吸の具合、何より筋肉が硬直している。それで平静を装うのか?」
少し楽しそうに笑う吐息がかかる。
「……。」
「まあそんなものだろう。想定内の反応だ。」
そんなものまで観察するな。
手をそっと添えられ、微妙に距離が調整される。
視線を意図的に合わせて動きを封じてくる。睨まれているわけではない。
観察されているという意識が身動きを取らせてくれない。
「そんなに強張っていてはまた寝不足になるぞ。」
「誰のせいで。」
「俺は寝る。お前も眠れ。」
そう言われても眠れるわけがない。
しかし、昨日と同じように、こいつはすぐに寝入ってしまった。
腕だけは、離してもらえない。
それから何日かは、抱き枕にされる日が続いた。
だから油断してしまって、ある時つい眠ってしまった。
連日の睡眠不足もたたって、目を覚まして時間を確認すると8時を過ぎていた。
「やっと眠れたようだな。」
あいつは、既にスーツに着替えてベッドの脇で仕事をしていた。
視線は、微笑ましいものでも見ているような、落ち着いたものだ。
「どうした?」
「俺…。」
どうして眠ってしまった。
ゾッとした。
「か、帰る。」
「怖がることはない。帰る前に朝食だ。」
「いい。俺は帰る。」
「貴様、『愛人』なのだろう。ならば大人しく囲われろ。朝食を摂ったら送らせる。それまでは出さない。」
声は落ち着いたもので、あいつの命令というよりは、俺の当然の権利を行使させるような響きだった。
結局押し切られて、朝食だけ摂って帰された。



何度か眠れるようになると、こうして手を出されるようになった。
手を出されたら、この下手くそ、と言ってやろうと決めていたのに、そんなことはさせてもらえなかった。
意味のある言葉は「嫌」と「やめろ」、後は意味をなさない喘ぎ声。
どこが良いのかを、あの観察者の目でじっくり見極めて落としにかかってくる。
愛し方に容赦がない。それは本当だった。
傷1つつけず、痛みすらなく、まるで本当に愛しているかのように優しく振る舞う。
しかし甘いだけではなくて、「いい」と正直に口にするまで許してもらえない。支配だ。
早めに「いい」と言ってしまえば解放されるのかもしれないが、そんなことは言えるはずもなかった。
抵抗は、しても無駄だった。契約を盾にされればどれほど気が楽だった事だろう。
あいつは、抵抗する体を押さえつけるでもなく、ただひたすら、執拗なまでに、甘く宥めて愛撫するだけだった。
初めは、即座に身を固くして、視線も逸らして、声を荒げて「やめろ」と、そう言えていたはずなのに。
今はもう出来ない。甘さと快楽で、すっかり懐柔されている。
「体は拒絶していない。呼吸も荒くはない、声は震えているが怒気は薄い。やめる理由がない。」
声は冷静そのものだが、言葉の重みが身体に染み込む。
甘さや優しさはあるはずなのに、それと同時に恐怖も押し寄せる。
手を出される時、理性で拒否できる自信はあるはずなのに、体が勝手に反応する。
それに、こうして事実だけを述べられれば言葉は消える。
これが、愛?
本当に、容赦がない。
これが愛だと言うのなら、愛と恐怖は入り混じり、頭の中は混乱の渦だ。
どこまでが約束の優しさで、どこからが契約の愛し方なのか分からない。
しかし、あいつの優しい手に慣らされた体ではそもそも反論はできず、睨むことしか出来なかった。
いつしか、怯えや警戒心よりも、戸惑いが勝る瞬間が増えていった。
「いつの間に、俺は…。」
こいつに対して構えなくなった。
体が、心が、麻痺してしまっているのだろうか。
「最初から言ったはずだ。怯える必要はない。」
観察される、その存在感だけが、自分の胸を微かに揺らす。
抗えないが、絶望ではないのかもしれない。そんな芽が生まれ始めていたのには、まだ気付きはしなかった。



今日もあいつはホットココアを口にする。
甘い物は好かないと言っていたが、全て飲み干した。
底に薬が仕込まれている可能性を指摘したら、無言で全部飲んで、それ以来ずっとだ。
「…お前、こんなことしといて律儀な奴だな。」
あいつは微かに口元を上げ、淡々と答える。
「俺は約束事を守るだけだ。」
その答えは、妙に嬉しく、だから心がざわざわする。俺は嬉しくなってはいけないのに。
約束に関して、こいつは嫌がらず、むしろ楽しそうに全部守る。
傷を付けない。痛めつけない。優しくする。嘘をつかない。同じものを飲む。毒味をする。
不安や怯えの元は、その元凶によって悉く潰されていく。
怒り、困惑、警戒、それらを保たなければいけないのに、その奥でどこか信頼し始めている部分がある。
信頼なんて。ありえない。
ココアを飲み干した。
カップが空になり、この後のことを思えば体には緊張が走る。だが、それも今ではもう、長くは保たない。
沈黙が落ちるが、それは既に緊張感のあるものではない。リラックスのためのものとなっている。
呼吸が整って、息を吐くと体から力が抜ける。そのタイミングで、あいつが視線を寄越す。
これが最近の合図になっていた。
今日も、この身体は容赦なく愛されるのだろう。




そんなある日の事だ。
いつもなら迎えが来る時間になったが、今日はそれが来なかった。
しかし約束の時間は迫っている。
わざわざ連絡を取って確認するのも、この関係を受け入れているようで憚られる。
だが、向こうが約束を守り続けているのに、こちらがルールを破ってしまったら。その方が恐ろしかった。
身代わりになることを決めたのは自分なのだ。
初めて、自らの意思で海馬邸へ向かった。
なんだ、これは。
一見するといつもと変わらない。だが、警備の様子が違う気がする。どこか物々しい雰囲気を肌で感じた。
暫く眺めていると、すぐ脇に、車が止まった。
ドアが開いて、中に引き込まれる。
車はすぐに動き出し、海馬邸へと入っていく。
「連絡が遅れたな。」
「海馬。」
最近目にすることのなかった鋭い目付きで、外を睨みつけている。
「来てしまった以上、姿を見られている可能性がある。お前はひとまずここで保護する。家には連絡を入れ、そちらにも警備を向かわせよう。」
「一体何が?」
「よくある面倒事だ。」
いつものようにホットココアを出されたが、いつものようにあいつは目の前に居ない。
ソリッドビジョン化させた童実野町の地図を睨みつけながら、誰かと連絡を取ったり、パソコンに向かったりしている。
「何があったんだ。」
「ただの殺害予告だ。組織的だがな。」
殺害予告。なるほどそれであんな物々しい雰囲気だったのか。
「お前…殺されるのか?」
こいつが、殺される。
この男が居なくなれば、解放されるだろう。だが、それは望む結末とは違う気がした。
あれだけのことをされたのに、殺されてほしい、とは思えなかった。
「俺を簡単に殺せはしない。仮に、実際に襲われたとしても返り討ちに出来る。」
こいつのスペックなら、確かにそれは可能に思えた。
「だが遊戯、お前は違う。狙撃でもされれば対応は出来ないだろう。オカルトな力を使う暇もない。」
淡々と作業を続けながら、たまに眉間にしわが寄る。
「殺せないとは言うが、いつも余裕なくせに顔が険しいぜ?」
流石に今回は、平気ではないのではないか。やっと弱点を見つけたような気がした。
「なるほど…。俺が、お前を危険に巻き込んで平静で居られると、未だにそう思っているのだな。」
いつも通り、淡々とした静かな声だった。
「俺を?」
「いや、心配はいらん。第二第三の事件が起こらぬよう、完膚なきまでに叩き潰しておく。その為の一戦だ。」
「俺が、どう関係しているんだ?」
海馬瀬人殺害予告と武藤遊戯は全く関係がない。
その時、通信が入って来て、質問への解答はもらえなかった。
「…ふん、やっと見つけたか。」
底冷えするような目に、温度のない声。
童実野町の地図にいくつかピンが立てられる。
「これでもう、生かすも殺すも俺次第だ。安心しろ遊戯。」
「海馬!」
「朝までには全て片は付く。もう時間も遅い、お前は眠っていろ。」
「犯人を、殺すつもりなのか?」
「命までは取らん。俺を敵に回すことがどういう意味を持つのかを知らしめるだけだ。」
どこかに連絡を取り、冷たい声で「やれ」とだけ指示を出して通信を切った。
いつもの優しい甘い気配は微塵もない。
この冷たい容赦のなさが自分に向いたら何をされるか分からない。
そうだ。こいつは非情になれる男だ。優しさなんてある筈がなかったんだ。全ては契約と約束事のための演出。
錯覚とは、約束とは恐ろしい。優しさを、勝手に信じてしまっていた。
優しさを、信じて?
ありえない、何を考えているんだ俺は。
頭を振って脳裏に浮かんだおかしな考えを飛ばす。
「いっそのこと、俺を巻き込んだ方が都合が良かったんじゃないのか。」
そうすれば、保護をすると言う名目でずっと手元に置ける
「ありえん。何故お前を危険に晒さねばならん。」
不思議そうな顔をして言う。
『愛人』なんて代わりが利くだろう。なのに何故。
「俺を、守るつもりか?」
「何を当然のことを言っている。…ああ、動揺しているのか。」
「していない!」
「視線が揺れて、声が低い、呼吸も浅く速いだろう。」
観察者の目が全てを暴いていく。これ以上、曝け出させるのはやめてくれ。
でないと、取り返しのつかないことになる気がした。
「そうやって、なんでも見抜くのをやめろ。」
「これが俺の愛し方だ。そこに容赦はないと言っただろう。全てを把握し、最適な応えを返す。愛される覚悟がなくて『愛人』になるなどと言い出したのか?」
「そんな愛し方…。」
愛し方に容赦がない。そんなものは比喩だと思っていた。実際、身体を求められた時にあまりにしつこいのでそのことを指しているのだと思っていた。
こいつを相手に『愛』が挟まる時、心理的に丸裸にされる覚悟が必要だったなんて。
本来なら甘い筈の『愛』に、そんな『恐怖』が混在しているなんて、想像出来る筈がない。
初めて、『愛』を怖いと感じた。
「見抜かれるのが嫌なら正直になれ。」
「なら言わせてもらう。俺は守られなくても平気だ。」
「それは聞けんな。危険があるのなら守るだけのことだ。」
守る、だと。今、正に毒牙にかかっているがそれは目の前の男の牙だ。
それでいて、守る。そんなのは矛盾している。
本当に愛するように優しく接して、更には守りたい、だなんて。
思わず眉をひそめる。何故、そんなことを。
目の前で、あいつは淡々と作業を続けながらも、時折こちらの様子を確認している。
意味は分かっている。本当に俺を守るためなのだろう、もしも今出て行ったら危険だと判断しているからだ。
だが、なぜそこまで神経を使うのか、なぜわざわざ自分を巻き込むのか全く理解できなかった。
胸の奥で小さな苛立ちが芽生える。
感情に対して理性など、無駄な抵抗だと頭では分かっている。だからこそ、理屈では説明できない気持ちが身体をざわつかせる。
なんだよ、こいつ、意味不明すぎる。
それでも、確かに俺は守られている。行動としては間違いなく、完璧に守られている。
不思議だった。理解できないのに、安心感だけは確かに存在している。
安心感だと?今、こいつと一緒のこの場所で?
もはや、自分の考えすら、意味不明だ。
「そろそろいい頃合いだろう。心も観念したらどうだ?」
いつの間にか、声はすっかりいつもの優しいトーンになっているのに気付いた。
頃合い?何のことだ。確かに身体だけは慣れている。だが、心は拒絶している筈だ。
それに心を観念すると言うことは、身も心も取られしまうと言うことになる、つまりこいつの思い通りだ。心だけは渡せない。
「観念なんか…。」
「俺はとっくに観念している。これ以上手こずらせるな」
すっかり作業を閉じてしまって、ちらりとこちらに視線を寄越す。
これは呆れている時の目だ。
「観念しているのなら諦めろ。俺は、ただの『愛人』なんだぜ?」
「『愛人』か。それはお前が勝手に言い出したことだ。俺は、身も心も俺のものになれ、覚悟を決めて愛されろ、と言ったのだがな。」
その言葉を聞いて、思わず目を丸くした。
『それはお前が勝手に言い出したことだ。』その一言が、頭の中で何度も跳ね返る。
観察されなくても分かる、今、俺は動揺している。
身も心も俺のものになれ、なんて言われて、だからそれはつまりこういうことの筈で。
考えたいのに、戸惑い、驚き、嬉しさ、安堵。感情が一度に押し寄せて、思考がまとまらない。
嬉しさ?安堵?なぜそんな感情が混ざる。
「なん…嘘…?」
「ああ、とうとう観念したようだな。」
目を細めて、楽しそうに笑う。それが俺の心理を把握した上での最適な応えだと言うのか。
そんな、喜ばれるような心情だとでも言うのか。
「……っ。」
口を開くが、声にならず、押し寄せる感情の波にただ絶句するしかなかった。
今まで淡々とした態度や行動で示されていた優しさが、言葉で裏付けられ、初めて腑に落ちた。
こいつは『とっくに観念している』んだ。多分、始めから。
抗おうとする理性は、嬉しさと混乱の前にあっさりと溶けていく。
「嘘だ。そんなこと。」
「俺が手を伸ばした時の心拍は?視線が合った時の体感温度は?どうだった?」
「それは…。」
最近の記憶を引き出せば、心拍は上昇し、体は熱くなった。
そんな馬鹿な。
初めて、暴かれる恐怖の奥にある温度に気付いた。
愛されるのに覚悟が必要だったのは、単なる脅しではない。愛されるための強さだった。
恐怖は残る。だが、その恐怖が別の何かに変わる。
葛藤はしっかり残っている。しかし、この男の一貫した優しさと観察眼の前では、抗えない自分を受け入れ始めるしかないことも分かっていた。
いや、本当はいつからかダブルバインドな違和感として兆候はあった。混乱を避けたくて片方だけ、『拒絶』を選んだ。
心の中で、少しずつだが確実に何かしらの感情があったことを、認めなければならないなんて。
心は暴かれて、本当に、取り返しのつかないことになっている。
童実野町の地図を眺める。こいつは、俺の安全のために動いた。それは事実だ。
怒りも困惑もまだ消えない。しかし、胸の奥で静かに、けれど確実に、心が揺れている。
ああ、もう抗えないのかもしれない。
それは契約で強制された絶望ではなく、諦めに似た明るさを帯びた感情だった。
自分の意志で、理屈ではなく、自然に心が動く。
俺の、心。
「さあ、心を寄越せ。」
「だが…俺はお前を許せない。なのに…。」
小さく息を吐くと、胸の奥にほんのり暖かいものが広がる。心地よい筈なのに居心地が悪い。
心の壁は完全には崩れてはいない。怒りも、警戒だって残っている。
けれど、その壁の隙間に、期間をかけて根付かされた、確かな信頼と受容が芽生えているのを見つけてしまったのだ。
強引に迫ったくせに、時間を共にした時には実際に優しさはあった。
あいつの目には、言葉はない。しかしその視線が、確かに自分を捉えている。
自分でも驚きながら、初めて自覚した。いや、やっと認めた。
心は、この男に向かってしまった。
なんて絶望的な状況だ。怒りも警戒も抱えたまま、でも心は静かに応え始めてしまっている。
怒りたいのに、上手く怒れない。怒りを保てない。
こいつが脅してでも手に入れたかったものは、服従でも支配でもない。ずっと始めから開示されていた、俺の存在そのものだ。
「俺は、まだ怒りも…警戒だって消えない…無理だ。」
「今、お前の中には怒りも愛も同時に存在している。だがそれは自然なことだ。複雑ではあるだろうがな。」
怒りと愛が同居している。そんなどっち付かずな状態では、どけへも行けやしない。
「…どうしてそれが分かる?」
思わず問い返すと、あいつは立ち上がり、視線を巡らせながら歩み寄って来た。
「…呼吸、声の震え、瞳孔の広がり、微妙な筋肉の緊張、視線の揺れ。全てを観察すれば、何が支配的で、何が抑えられているかは、容易に把握出来る。お前の怒りはまだ尖っている、だが同時に、心のどこかで受け入れようとしている部分もある。表情や反応、微細な動作の差異がそれを示している。」
やはり、息をするように自然に読む。心理戦ではない、事実確認。
息を呑んだ。体の奥から熱が湧き上がり、頭は混乱する。
「俺の体まで見ているのか。」
「視覚情報として、入って来る。だが、体は単なる指標に過ぎない。重要なものは、意志…理性と感情の絡まり具合だ。」
その説明に、ほんの少し安堵が芽生える。
自分の混乱や矛盾した感情は、否定されるものではない。それを知るだけで、胸が少しだけ軽くなる。
「逃げることは出来ないが、理解されることは出来る。お前はその感情のまま、俺に向き合えばいい。」
息が詰まる。怒りを感じながらも、心の奥のどこかで暖かさが広がるのを感じる。
「お前の中の怒りは、まだ消えてはいない。」
「ああ、消える筈がない。」
声に出せば、むしろ自分の感情が現実になるようで怖い。
「だが、それと同時に、俺を拒まない部分もある。」
「拒まない?」
呼吸が一瞬乱れる。そんなこと、認めたくない。
しかし、あいつの目には嘘はなく、ただ静かに、確かに自分を見ている。
そう、嘘はつかない約束だ。
「それが、愛だ。」
その一言で、頭が真っ白になる。
怒りと愛が同居する感情の中で、どちらに動くべきか分からない。
体も心も、抗えず、ただその視線に捕らえられている。
あいつは、俺のすぐ隣へ腰を下ろした。距離は近いが怖くはない。
いつから怖くなくなったのか、もう記憶にない。
「そのままでいい。その感情、俺がまとめて引き受ける。お前は覚悟を決めて愛されればいい。」
耐えられるのか?
頭の奥でその疑問が渦巻く。
あいつは淡々と、しかし確実に俺を見透かしている。
お前は愛されればいい。
言葉だけなら簡単だ。だが、その背後には無数の観察眼と容赦ない愛が潜んでいる。
手が触れられた瞬間、体は勝手に反応する。
心臓は速く打ち、呼吸は浅くなる。理性は混乱し、恐怖と期待が入り混じって頭を支配する。
耐えられる、いや、耐えられないかもしれない。
だが逃げられないことは分かっている。選択肢はもう残されていないのだ。
「今度は…。」
「動揺も困惑もしていない!」
返事はつい強張った声になる。だが、目は逸らせず、体は正直に反応してしまう。
「いい加減に、嘘は無駄だと分かっているだろう。視線、呼吸、手。全て把握済みだ。」
観察者の目が全てを暴く。
この男の愛は優しさや甘さだけではない。容赦も、無駄な力もない。
ただ、事実だけを見極め、最適に応えてくる。
それが『愛』だと理解できる前に、心はすでに晒されている。
耐えられるだろうか?
「答えてやろうか?」
「答え…何に?」
「耐えられる。」
読まれている。
理性は、耐えるには、愛されるにはまだ早い、と警告する。
だが体はもう逃げられない。手の温もり、胸に押し当てられた時の包容力、吐息の距離。全てが理性を揺さぶる。
恐怖と甘さの境界が混ざり合い、心の奥で小さな戸惑いが芽生えていた。
怯える必要はないとこいつは言った。その言葉を思い出すが、頭で理解しても心がついていかない。
容赦ない愛に晒される覚悟は、まだ整っていないのだ。
けれど、目の前の男の視線は変わらない。
「何故、そう言い切れる。」
「俺がお前を選んだからだ。」
「どう言う…。」
「俺の愛し方に耐えられると確信した。」
視線は、優しく、確かに俺を捉え、逃げ場を許さない。
その圧力の中で感じている。少しずつ、この男に向かい始めている心。恐怖の中に紛れ込む安堵。拒絶できない快感と戸惑い。
耐えられるかどうかは分からない、だが、耐えられると男は言う。
それに、この感情を拒むことはできない。理性など、感情の前には脆いものだ。
だが、それなら。
今、俺の感情は色んなものが混じってぐちゃぐちゃになっている。
それでもこいつはこの感情を引き受けて、愛すると言うのか?
そんなこと。
出来るものならやってみろ。
くそ。視線を外して目を伏せる。
「…海馬…お前、約束しろ。」
「この期に及んでまだ約束か。」
「お前のせいだ。」
「…いいだろう、言ってみろ。」
目を開ければいつものテーブル、そしていつものホットココア。毒も薬も入っていない、ただの甘いココアだ。
この男は基本的に甘いが、それだけではない。
約束を守る。そして容赦なく愛する。
何かを覚悟するのなら得意だ。ならば、俺は今度こそ、それを覚悟しよう。
「お前は、例え俺が抗おうと、最後まで俺を掴んで離さないと約束しろ。」
愛し方に容赦がないと言ったのはお前の方だ。だからそれを覚悟してやる。
そして俺も容赦はしない。絶対に、生半可な『愛』では許さない。
契約なんて関係ない。そんなものは始めからなかったのだから。
そこに、必ず守られる約束事を、こちらから取り付け続けていただけだ。
「不変の執着、か。」
隣で、ふっと笑ったのが分かった。
「安心しろ、お前に逃げ場などない。」
逃げ道は、塞がれた。もう、これで逃げられない。
こいつが掴んで離さないことを約束した。いや、俺が約束させた。
自分で要求したのに、承諾されて思わず息を呑んだ。空気を吸い込んだ筈だが、言葉は何も出ない。
鼓動が思考の邪魔をする。
言葉の代わりにあいつの顔を見上げれば、視線が交わる。いつもは苦手な観察者の目、なのに今は言葉にならない言葉を読み取ってほしい。
あいつは、俺の視線を受け止めて、それから優しい視線を返す。だが、何も言わなかった。
無言の受容。それが、最適な応えだったのだろう。

瀬人の目に映る瞳には、怒りも警戒もまだ残っていた。だが、それ以上に、愛で揺らぎ、安堵が混じっていた。
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