子孫が語る大坂の陣(12)幸村と家康本陣急襲 豊臣に殉じた忠臣・毛利勝永の義侠心

吉成、勝永父子について語る毛利亮太郎さん。背後の日の丸は父子が参戦した慶長の役で使われたと伝わる=7月31日、鳥取県倉吉市
この記事は平成27年9月1日に産経新聞に掲載された企画「大坂の陣四百年・決戦」(全12回)のアーカイブ配信です。年齢や肩書は当時のまま。

この記事は平成27年9月1日に産経新聞に掲載された企画「大坂の陣四百年・決戦」(全12回)のアーカイブ配信です。年齢や肩書は当時のまま。

豊臣家と徳川家が天下の覇権をかけて争った400年前の大坂の陣。最終決戦となった夏の陣での天王寺口の戦いで、徳川家康の本陣に突撃した知将、真田信繁(幸村)に劣らぬ活躍をした武将がいる。父の代から豊臣家への忠誠を貫いてきた毛利勝永。「大坂五人衆」の一人だ。獅子が羊の群れを散らすかのように躍動し、家康本陣への血路を開いたが、最期は豊臣秀頼を介錯して自害した。

毛利といっても、中国地方の雄、毛利元就とは関係ない。勝永の父、森吉成(勝信)は尾張(愛知県西部)の出身で、天下人となった豊臣秀吉の親衛隊「黄(き)母(ほ)衣(ろ)衆(しゅう)」を務めた古参の家臣だった。秀吉の九州攻略で武功を挙げて小倉城主となった際、秀吉の提案で森姓を毛利姓に変えたとされる。

慶長2(1597)~3年の慶長の役(朝鮮出兵)には吉成、勝永の父子で参戦。5年の関ケ原の戦いでは西軍に応じて家康の東軍と対峙し、勝永は前哨戦の伏見城の戦いで活躍した。が、本戦ではまともに戦う機会がないまま東軍に敗れて領地を没収され、やがて土佐の山内一豊に父子とも預けられた。

「一豊も豊臣恩顧の武将で毛利父子とは相通じるところがあった。最初は加藤清正が父子を預かったが、一豊は自ら申し出て引き取り、それぞれに屋敷を用意して優遇した」。土佐山内家宝物資料館の古賀康士学芸員はそう話す。

慶長16年、吉成は土佐で客死した。その3年後、大坂冬の陣に出陣する際の勝永と妻のやりとりを、江戸中期の逸話集『常(じょう)山(ざん)紀(き)談(だん)』はこう記す。

「命を秀頼公に奉りてんと思へども、われここを忍び出でなば、憂きがうへにもなほ憂き事や御身の上に添ふらん」。大坂に駆けつけたい思いとともに妻ら家族の身の上を案ずる勝永がそう言って涙を流すと、妻は武士の妻が何を恐れることがあろうかと笑い、「はや此(こ)の暁(あかつき)船に乗りて、武名を潔(いさぎよ)くし給へ」と促す―。

死をも覚悟した妻の言葉に意を固めた勝永は、徳川方につくと偽って土佐を出航したとされる。

ほとんど無名だった勝永の名を高めた夏の陣・天王寺口の戦いは、慶長20年5月7日正午頃、徳川軍先鋒の猛将・本多忠(ただ)朝(とも)(千葉の大多喜藩主)隊と毛利隊の銃撃戦で激戦の火ぶたが切られた。

毛利隊は忠朝に続いて信州の名家である小笠原秀政(長野の松本藩主)を相次いで討ち取ると、榊原康勝(群馬の館林藩主)や仙石忠政(長野の小諸藩主)らの第二軍、酒井家次(群馬の高崎藩主)や相馬利胤(福島の相馬中村藩主)らの第三軍を蹴散らし、4千の兵で2万の大勢を壊乱させる。

「あの兵の引回しが際立っているのは誰か」

豊臣家との縁が深いため後方に控えて戦闘を眺めていた秀吉の軍師・黒田官兵衛の嫡男、長政(福岡藩主)は、感嘆のあまり、近くにいた加藤嘉明(伊予松山藩主)にそう尋ねたと伝わる。秀頼から賜(たまわ)った錦の陣羽織をまとった勝永の指揮ぶりは、徳川方についた歴戦の武将の目をくぎ付けにしたのだ。

混乱する徳川方の間隙を縫い、精鋭騎馬隊で家康の本陣を急襲したのが幸村だったが、勝永も本陣を襲い、家康は逃げるしかなかったとされる。

しかしその後、盛り返した家康の孫、松平忠直(福井藩主)の大軍に圧されて幸村が落命し、敗北は決定的に。それでも勝永は藤堂高虎隊を撃退するなど退却戦でも統制を失わず、大坂城に帰城する。

翌8日、秀頼を介錯し、後を追って切腹。豊臣家とともに38年間の人生を閉じた。

毛利家子孫 毛利亮太郎さん、父の「情」継いだ勝永

「勝永の行動は父の吉成の生き方から見えてくる」。毛利家の子孫で鳥取大名誉教授の農学博士、毛利亮太郎さん(97)=鳥取県倉吉市。昭和58年に大学を定年退官した後、研究対象を農学から吉成を中心とする歴史に切り替えた。勝永の行動を象徴するキーワードは「情」だ。

亮太郎さんは勝永の弟、毛利孫左衛門の血筋。孫左衛門は関ケ原の戦いで東軍の池田輝政に捕らえられて池田家に仕え、子孫は鳥取藩士を務めてきた。

鳥取大では地元特産のナシの病気を研究してきた亮太郎さん。退官後も日本農業教育学会の役員として東京で開催される学会に出席したが、そのたびに国立国会図書館で古文書が読める部屋にこもった。「吉成の血が流れている。他人事でないと思って調べていくとおもしろうて…」

培った知見は平成21年に刊行した『上(あが)野(の)焼(やき)尊楷渡来の研究―毛利吉成説の確立』にまとめた。茶人に好まれた福岡の上野焼の始祖とされる朝鮮人陶工、尊楷は、小倉城主だった吉成が朝鮮出兵の際に招いたことを証明する内容だ。

秀吉が茶人として重用した博多の豪商、神屋宗(そう)湛(たん)の日記を検証。日記に登場する武将は秀吉が最多だが、黒田官兵衛や石田三成と並んで多いのが吉成だった。肝胆相照らす秀吉の腹心だったことを暗示している。

「吉成には官兵衛のような頭の良さやしなやかさはないが、穏やかで実直な人柄が秀吉に信頼され、調整能力を買われた」と亮太郎さんはみる。

実は家康とも仲が良く、秀吉の伏見城築城では、石垣の遅れを指摘された家康に吉成が石を提供した逸話が残る。そうした武将としての友情を感じさせる品が毛利家に伝来している。

吉成と勝永が参戦した慶長の役で使われた日章旗だ。明(中国)と朝鮮の連合軍に攻められた加藤清正が朝鮮南東部の蔚(うる)山(さん)城で籠城を強いられ、救援に駆けつけた吉成らが振って勇気づけたものという。

<ひょっとすると、豊臣家を通じて純粋に忠誠心をもっていたのは、この勝信・勝永父子だけだったかもしれず…>

司馬遼太郎は大坂の陣を描いた小説『城塞』でそう記した。情け深い父と行動を共にしてきた勝永が豊臣家に馳せ参じたときの心中について、亮太郎さんはこう推察する。

「困っている豊臣家を放ってはおけなかった。やっぱり人情でしょうな」(川西健士郎)

子孫が語る大坂の陣

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