これは、Nスペ「潤日の肖像」について耳を傾ける価値のある見解だ。日本語で少しだけ要約したから、下に記す。
中国語の「潤(ルン)」という言葉は、英語の「Run」に由来する。それは単なるきらびやかな移住ではない。切実な社会の歪みや不安から逃れ、静かな暮らしを求めて踏み出す、どこか悲壮感でさえ漂う選択だ。
しかし、Nスペが映し出したのは、富を誇示し、日本の土地や企業を買い漁る「富裕層」の姿だった。平等を尊び、豊かさを内に秘めることで調和を保ってきた日本社会において、財力を固執的に振りかざすその姿は、人々にただ困惑と恐怖を与える。それは「潤」の本質とはあまりにもかけ離れている。
さらに胸が痛むのは、彼らが「中国式の超効率」を日本の地方に持ち込み、伝統的な酒蔵や農家を「救う」と息巻く傲慢さだ。日本の老舗や地方の営みは、基本的に「産消の均衡」と、緩やかな時間によって守られてきた。一軒だけを「爆売り」させれば、周囲の生態系は崩壊する。彼らがやっているのは支援ではなく、文化の秩序に対する「闖入(ちんにゅう)」にほかならない。
われわれが日本に惹かれたのは、あの息の詰まるような過酷な競争から解放される、安心できる秩序があったからではないか。それなのに、逃れてきたはずの地で再び中国式のハングリー精神を振りかざし、「日本を改造する」と語るのは本末転倒だ。
いま、われわれに求められているのは、日本を都合よく変えることではない。この土地の文化を敬い、古くからのルールに静かに溶け込んでいく「融日(ロンリィ)」の姿勢である。
一本の樹木が森に馴染むように、この美しい秩序をそっと守る黒子でありたい。勘違いの熱狂に、みなさんの静かな暮らしをかき乱されてはならないのだ。