25 1937年12月南京市の陥落時に何があったのか
投降してきた兵や捕らえた敗残兵を捕虜として処遇するかどうかは、1929年ジュネーブ捕虜条約第1条で「捕獲の状況が本条約の適用を不可能ならしむる場合は此の限りに在らず」とされており、その判断は部隊のリーダーに委ねられている。また、投降後も兵器を隠しもっていた場合や軍服を脱ぎ捨て武器をもっている敗残兵が捕らえられた場合は、捕虜の処遇が受けられないであろう。その中で日本軍は、中国兵12、000人を捕虜にした。
1929年 ジュネーブ捕虜条約 (なお日本は条約参加したが、国会は批准しなかった。それでも日本は交戦国と個別に相互に条約履行を確認しあっている。)
1937年11月下旬、参謀本部はドイツの仲介による早期終結を目指していたが、日本の新聞は南京攻略を煽り、南京に撤退する中華民国軍への日本陸軍中支那方面軍の追撃は止まらなかった。すると中華民国軍は鉄道、道路を破壊しながら撤退した(焦土作戦)ので、日本軍は迂回して進軍した。
南京市は城塞都市なので、城壁を超えられたら、防衛は難しく、蒋介石らは早々に見切りとつけ、漢口に脱出した。ドイツ軍事顧問団ファルケンハウゼン中将も南京防衛は不可能と最初から言っており、上海から漢口に向かった。
12月7日10万の兵士を置き去りにしたまま蔣介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦するドイツ製の大型単葉機で南京を脱出、後を任された唐生智司令官も南京から船で漢口に脱出した。
12月13日、日本陸軍中支那方面軍は南京を陥落させた。ドイツ軍需産業のシーメンスの中華民国駐在員でナチ党員のラーベ(ドイツ軍事顧問団と立場的に同じ。)もこの時、南京に滞在し2月に、ドイツに帰国している。(ラーベの日記)(中国に武器を売ってきたラーベは、帰国後中国への武器援助を見直そうとするヒトラーに対し、反対の上申をしようとしたが、相手にされなかった。本は遺族が1996年に発表した日記とされる。)
中華民国政府は、南京の虐殺事件について南京陥落時、記者発表をしなかったが、18日のニューヨークタイムズでは南京市で数千人が殺されたと報道をした。しかしこれ以外の12月の英米の中国に関するニュースは、パネー号事件、レディーバード号事件一色だった。
12月に日本軍による誤爆、誤射事件(パネー号事件(米)海軍機誤爆撃沈事件、レディーバード号(英)砲撃事件(陸軍誤砲撃))が発生した。パネー号は、中華民国空軍の航空燃料を運ぶアメリカのタンカーを護衛していために攻撃されたということである。(日華両国が宣戦布告していない以上、アメリカに中立義務はないので貿易は自由である。日本側はいずれの事件も謝罪、賠償している。)
顧維鈞らアメリカで影響力のある在米有力中国人は、田中上奏文等国民党や中国共産党のプロパガンダを信じて反日言論を展開、また在華のアメリカ人牧師らは、布教の自由、身柄の安全と引き換えでプロパガンダに協力させられており、本国に手紙で偽情報を送っていたので、日本に対して非道な侵略者のイメージは既に出来上がっていた。パネー号事件が引き金になって、日本軍を極悪非道な侵略者として描く出版物の需要が高まった。
そこで1938年、イギリス系の記者ティンパーリーが、「戦争とはなにか、日本軍のテロ」という本で南京市民30万人を生きたまま埋めるか、ガソリンをまいて焼き殺した、女性を2万人強姦した」と書いた。香港から漢口に行き取材したとされるティンパーリー記者の本は、武漢政府の特務機関がゴーストライターとして全面協力しており、完全なプロパガンダであるが、当時の多くの欧米人は信じた。
漢口に脱出していた蒋介石は、12月17日「我軍退出南京告国民書」を公表し、長期持久戦を宣言した。
近衛内閣はドイツ仲介の和平条件に賠償支払いを追加したが、中華民国政府は、英米ソの介入を期待して、ドイツの和平仲介を断った。
12月北京(このとき北平市の呼称が日本によって正式に北京市に戻された。)では、王克敏を首班とする中華民国臨時政府が、北支那派遣軍の支援のもとで誕生し、冀東防共自治政府を吸収する。
一方、翌年3月南京(南京市復興までは上海で)では梁鴻志を首班とする中華民国維新政府が中支那派遣軍支援のもとで成立する。
上海、南京間の鉄道や道路を、中華民国軍が撤退の際に破壊したため、復旧し維新政府本部を南京市に移すのに6か月かかったが、南京市内の建物に自治政府の機関が入り、戦争難民の救護等人道活動にあたっていた。また揚子江の外国船航行禁止は、イギリスの抗議により解除され、外国船の出入りもできるようになった。
日本では朝日新聞らが南京陥落を祝い、祝賀提灯行列を主要都市で開催した。
近衛内閣は1938年1月16日、「国民政府を対手せず」声明を発表し、南京から首都機能を移転した漢口・武昌、漢陽(旧武漢市)政府と断絶する。
パネー号事件後、「中国の赤い星」で注目されたジャーナリストエドガー・スノーに、日中戦争に関する本の執筆の注文が入った。その結果上梓されたのが、1941年出版の「アジアの戦争」であり、その中で南京市民虐殺数4万2千人と書いてあり、ローズベルト大統領も読んだ。
この4万2千人は、ラーベの見積もりに合わせたものと考えられるが、本の内容はティンパーレーの「日本軍のテロ」を参考にしたと思われる。
ところが、東京裁判で20万人虐殺事件(原爆死傷者数に合わせた数字)の汚名を着せられ、南京攻略戦の指揮官松井石根大将は、B級戦犯として死刑になった。
一方中華人民共和国は、毛沢東存命中は、南京虐殺等歴史問題で日本を非難したことは一度もなかった。しかし毛沢東の死後、突然、中国共産党は外交カードとして歴史問題、特に南京虐殺を世界に向けて発信しだした。
日本の権威ある歴史学者が中国に忖度た結果、全世界で南京虐殺20万人が歴史事実のように語られだした。歴史問題で負い目を背負った日本は、日中友好の名のもとに、歴史教育における近隣諸国への配慮と謝罪外交を続けてきた。
12月13日までの南京市内の様子を諸説総合して想像するに、
中華民国の将校らに置き去りにされ組織的降伏ができない兵士は、漢口に逃れるため長江(揚子江)の船を奪い合い、船に乗れなかった兵士は、木の板を寄せ集めた筏で対岸に渡ろうとし、多くは溺死した。一方、中国兵を乗せた船は日本海軍の艦艇から射撃を受けた。
また漢口や故郷に徒歩で逃げるしかない兵士で道は渋滞していた。そのうち日本陸軍が南京市内に侵攻したときには、軍服を脱ぎ捨てた兵士(便衣兵)らによる略奪行為で市内は混乱した状態であった。日本軍は、安全地帯を設置し、食事の提供をしていたが、そこで多数の武器を隠し持った便衣兵が見つかり、便衣兵は見つけ次第、処刑されたであろうことは想像に難くない。その数は多くても数千人程度と思われる。一方、捕虜になった中国兵の一部は帰還を許され、残りは南京市復興のための労働者となった。
殺気だった日本軍の統制は十分ではなかったとされるが、それは中華民国軍に降伏した日本兵の無残な遺体を多数見てきた日本兵は、中国兵の残虐さに恐怖していたからだ。
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