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樋口尚文の千夜千本 第244夜 『冤罪・甲山事件 山田悦子半世紀の闘い』(上田大輔ディレクター)

映画評論家、映画監督。
甲山事件の元被告・山田悦子さん。(C)関西テレビ

自由は闘い取るものだと覚醒させる、尖鋭な刑事司法の凝視

甲山事件をご存知だろうか。もう半世紀以上前の1974年3月に兵庫県の知的障害児施設・甲山学園で二人の園児が連続して不審な死を遂げた。当初から内部犯行説にこだわった警察は間もなくアリバイのない保育士・山田悦子さんを逮捕したが、神戸地検は不起訴相当として山田さんを釈放する。

不当逮捕について国家賠償請求訴訟を起こした山田さんだったが、まさかの展開で78年に再逮捕され、殺人罪で起訴される。園児たちの新証言にもとづくものだったが、この時はなんと山田さんのアリバイを証言した園長や同僚まで偽証罪で逮捕されている。しかし、85年に神戸地裁は証言の信用性を疑い無罪を申し渡す。神戸地検は控訴し、90年の大阪高裁は神戸地裁の無罪判決を破棄、審理差し戻しとなった。98年に神戸地裁は改めて無罪を言い渡し、検察は再度控訴。99年に大阪高裁は改めて園児の証言や山田さんが強いられた自白の信用性を否定して無罪判決を出し、検察が上訴しなかったことで事件発生から実に四半世紀以上を経て山田さんの無罪が確定した。

私は当時の報道でこの事件の異様さがいたく気になって、以後もずっと気にしてなりゆきを追いかけていたが、ちょうど当時読んでいた清水一行の推理小説『捜査一課長』が本事件をモデルにして保母を犯人視していたことで名誉棄損で訴えられ敗訴するなど、さまざまに印象深い事件であった。それゆえに、この二度の逮捕と三度の無罪判決を経て漸く雪冤を果たした山田さんを誰かが取材してくれないものかと待望していたが、なぜかそのような番組は存在しなかった。

ところがこのたび無罪確定からまた四半世紀以上を経て山田悦子さん本人が事件を語るドキュメンタリー番組が放映されるというので、食い入るように見た。聞けば山田さんは大のカメラ嫌い、報道嫌いで長くこうした出演と発言は固辞していたのだという。それもそうであろう、警察発表をセンセーショナルに増幅して自分を非情な犯人扱いしたマスコミに当時の山田さんは果てしなく絶望したはずだ。山田さんはもう高齢なので、頑なに取材を拒否するのではなく、この司法の過ち、恐ろしさを次代に語り伝えるべきではと思って、いま漸く出演依頼を受けたのだという。

この番組で再度解説される事件と裁判の経過は、私も概ねアウトラインは知っていることばかりであったが、しかしそれを当事者が映像で語るというのは重みが余りにも違う。だから、本番組は山田さんその人をカメラ前に引っ張り出したことだけでも評価さるべきものなのだが、同時にドキュメンタリー映像というものは言わず語らずして実にさまざまなものを感じさせるのだった。たとえば現在知的で上品なシニアとなった山田さんの映像の一方で、逮捕、再逮捕された頃の二十代前半の山田さんの映像、そして無罪確定した頃のもはや四十代も終わりの頃の山田さんの映像がインサートされる。今もおしゃれに気を遣うシニアの山田さんのファッションや髪型が、オイルショック直後の1970年代半ばとバブル期を経た1990年代後半の流行の変遷を映し出す。

それは、事件発生から裁判終了までの長い長い時間を私により具体的に実感させるのだった。ああ、山田さんが自由をもぎとられた時代は、あの頃からあの頃までに及ぶのか、それはとてつもなく長い時間ではないかと。一方で山田さんを犯人と決めつけていた神戸地検の検事正が、無罪判決のたびに異議を呈する映像が対置されるのだが、その信念というより妄執に近い断定ぶりに茫然となる一方で、刻々とこの人物の老いが深まるさまも映像は映し出す。

ああ、この山田さんを罪人にしようとした側の人間も面子にかけてその主張を繰り返し、こうして自身も老いて人相が変わるまでの時間を費やしているわけだ。その気の遠くなるような執拗な無理筋の追及に、なぜ彼らはここまで人生の時間を捧げたのだろうかと。この両者のありように、所詮捜査も裁判も人のすることで、時として全くあてにならないものだと背筋が寒くなる一方の、この恐るべき妄執と徒労はいったい誰のために…と複雑な思いになる。山田さんはイェーリングの『権利のための闘争』を座右の書としていて「世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである」という一節を自らを鼓舞した言葉として読み上げる。実はこれは京大法学部出身の大島渚が生前折にふれ言及していた言葉でもあるのだが、本作を観る者にしたたかに重く食い込んで来る。

これは本作の主題でもあり、また上田大輔ディレクターの取材作品に通底する軸であるかもしれない。上田ディレクターは、本作に先立つ2023年の『ザ・ドキュメント 逆転裁判官の真意』、2024年の『ザ・ドキュメント 引き裂かれる家族~検証・揺さぶられっ子症候群』『ザ・ドキュメント さまよう信念 情報源は見殺しにされた』と続々傑作ドキュメンタリーを放っていて驚嘆すべき仕事の密度だが、弁護士資格を持つ異色のテレビマンとして刑事司法の問題点を突いてゆくこの諸作には息をのむばかりだ。刑事司法のいびつさにより、時としてかくも信じがたい境遇を強いられている何の落ち度もない人びとがいるのか、という告発には慄然とするばかりだが、一方で常に驚かされるのは、まずはカメラ前に座ってくれなさそうな(この人の声を聞きたいが無理だろう、と観ながら思う取材対象の)人びとがなぜか上田ディレクターの申し出を受けて、語り出すところだ。時に顔を撮らせないこともあるのだが、ここにこぎつける粘りは凄いことだと思う。

そしてその成果として、時としてカメラの鋭利なまなざしは、言葉以上に雄弁な証言者の映像によって、実にさまざまな観点を観る者に差し出してくる。ただ尖鋭な主題を発見してくる嗅覚にとどまらず、こうしてさまざまな立ち位置の証言者に語らせることができる上田ディレクターの胆力が作品づくりに大いに結実している。

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ありがとうございます。
映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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