2026-06-23

「いや、だからさ」

彼は片眉を上げ、口角だけをわずかに持ち上げる、彼が「知的な笑み」と信じているその表情を作った。

ハロウィン渋谷行くやつの気持ちマジでわからんのよ。企業に踊らされてるだけじゃん。資本主義集団催眠だろ、あれ」

同僚の宮本が「あー、はいはい」と生ビールを傾けた。もう聞き慣れた話だった。開発部の七人が集まったこの金曜の飲み会で、田村がこの調子なのはいつものことだ。

「つーか鬼滅もそうだけど」と田村は続けた。「流行ってるから観る、っていう思考回路がもう終わってんだよな。自分審美眼がないわけ。消費豚なわけ」

田村は何観んの?」向かいの席から佐々木が訊いた。

「俺? 俺は別に。強いて言えばゴダールとか、タルコフスキーとか。まあ、映画教養として観るもんだから

「出た」

宮本が小さく笑った。佐々木も笑った。田村の隣に座っていた中島も、向かいの林も、その隣の若手の山田も、そしてビールを注文しに手を挙げていた太田も、全員が笑った。

田村けが笑っていなかった。

「いや、笑うとこじゃないんだけど。事実を言ってるだけだからね」

「わかったわかった、冷笑君」

宮本がそう言った。軽く、なんの悪意もなさそうな声で。

田村の箸が止まった。

「は?」

「いや、冷笑君。お前いっつもそうじゃん。なんでも斜めに見てバカにしてさ。冷笑君じゃん」

冷笑君って田村は鼻で笑った。「レッテル貼りしかできない時点で知性の敗北なんだわ」

「お、冷笑だ」と佐々木が言った。

冷笑いただきました」と林が言った。

「今の冷笑、何点?」と山田が言った。

「八十点」と太田が言った。「もうちょっとキレがほしい」

田村枝豆を噛んだ。やや強く噛んだ。

「……くだらね」

冷笑!」と四人が同時に言った。

 

十五分後、田村自分のペースを取り戻そうとしていた。話題ソーシャルゲーム課金に移ったのは好都合だった。

オタクってさ、結局あれも資本主義養分なわけ。推しとか言って、キャラクターに何万も突っ込んで。疑似恋愛で脳のバグ搾取されてるだけ。まあ、本人が幸せならいいんだけど」

「いいんだけど、って言いつつバカにしてるよな」中島が冷静に指摘した。

バカにはしてない。構造を指摘してるだけ」

冷笑君の『バカにはしてない』は全部バカにしてるからな」宮本つくねを頬張りながら言った。

「だからその冷笑君ってのやめろって」

「じゃあなんて呼べばいい? 知的俯瞰マン?」

メタ視点おじさん?」と佐々木

「斜に構え太郎?」と山田

田村の表情にわずかに苛立ちが混じった。

「あ、怒った?」宮本が目を丸くした。

「怒ってねえよ。怒るほどの価値がない」

冷笑ーーー!」

テーブルが揺れるほど全員が手を叩いた。

 

三十分後。焼酎のお湯割りが二杯目に入った頃、話題恋愛に移っていた。

田村って彼女いんの?」林が訊いた。

「いない。別に要らないし。恋愛って結局、生殖本能社会制度で包装しただけのものから

「出たよ」

冷笑君の恋愛いただきました」

「いや実際そうだろ。マッチングアプリとか見てみ? 女も女で、年収フィルターかけて上から選別してんだよ。あれ、人間品評会からね。家畜市場構造は同じ」

「女って一括りにすんなよ」中島が言った。中島には彼女がいる。

「一括りにしてない。傾向の話をしてる」

冷笑君って絶対モテないよな」太田がしみじみと言った。

モテモテないっていう土俵に立つこと自体が、他者評価依存した——」

冷笑!」

「いい加減にしろよそれ」

田村の声が一段上がった。テーブルが一瞬静かになった。

宮本がニヤリとした。

「お。ちょっと熱入ってきた?」

「入ってない」

冷笑君さあ」佐々木ビールを置いて、真面目な顔をした。真面目な顔に見せかけた、明らかにふざけた顔だった。「一個聞いていい?」

「……何」

冷笑君って射精するとき冷笑すんの?」

田村の目が点になった。

「は?」

「いや、だってさ。お前なんでも冷笑するじゃん。飯食っても冷笑映画観ても冷笑、人の趣味にも冷笑。じゃあ射精冷笑すんのかなって。素朴な疑問」

「なんだよ素朴な疑問って。意味わかんねえよ」

「『うおw』って言いながら射精冷笑すんの?」宮本佐々木の援護に入った。「『うおw 出てるw 精子さん必死w 生殖本能に踊らされてるw』みたいな」

テーブルが爆発した。

山田が茶を吹いた。太田テーブルに突っ伏した。林が手を叩きすぎて隣の席の客に睨まれた。中島けが「やめてやれよ」と言いながら肩を震わせていた。

田村の顔が赤くなっていた。焼酎のせいではなかった。

「くだらなすぎて話になんねえ」

冷笑! 射精冷笑!」

「やめろっつってんだろ!」

「でも気になるじゃん」佐々木は止まらなかった。「お前の理論で言えば射精って生殖本能のものじゃん。冷笑対象としてはど真ん中だろ」

射精マウント取る男、田村啓介」宮本が実況のように言った。

ティッシュに向かって『これが生の虚しさな』って」太田が涙を拭きながら言った。

賢者タイムが通常営業の男」林が言った。

「お前ら——」

「ていうかさ」宮本が追い打ちをかけた。「冷笑君ってAVとかも冷笑しながら観んの? 『この喘ぎ声、マーケティングだなあ』とか思いながら?」

演出論を展開しながらシコる男」

冷笑シコり」

ポストオーガズムレビュアー

「黙れ!」

田村が叫んだ。本当に叫んだ。居酒屋の座敷に、田村啓介の怒声が響き渡った。隣のテーブル会社員グループが全員こちらを見た。

田村の顔は完全に紅潮していた。こめかみに血管が浮いていた。手に持っていた箸が微かに震えていた。

「いい加減にしろよ! 俺はな、別にお前らのことバカにしてんじゃねえんだよ! ただ物事ちゃんと見たいだけなんだよ! なんでもかんでもノリと雰囲気で流されて、何も考えないで生きてるお前らのほうがどうかしてんだろ! お前らが——お前らが——」

言葉が詰まった。何かを言おうとして、でもその先が出てこなかった。喉の奥が熱かった。目頭も熱かった。

静寂が落ちた。

五秒。

十秒。

宮本が口を開いた。

「熱怒!」

テーブルが再び爆発した。今度は前回の三倍の規模だった。

山田が転げ落ちた。太田が酸欠になりかけた。佐々木が痙攣していた。林が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら「ねつどwww」と発した。中島でさえ限界だった。

「熱怒・田村

冷笑からの熱怒、感情のフルコース

「これが生の虚しさな……」

田村啓介は、焼酎のお湯割りを一息に飲み干した。

グラスを置く音がやけに大きく響いた。

立ち上がった。

財布から三千円を抜いて、テーブルに叩きつけた。

「帰る」

「えー、冷笑君!」

「待てって、ごめんって!」

「熱帰!」

田村は振り返らなかった。座敷を降り、靴を履き、引き戸を開けて夜の空気の中に出た。十一月の風が火照った顔に当たった。冷たかった。

居酒屋の中からまだ笑い声が聞こえていた。

田村は駅に向かって歩きながら、ポケットに手を突っ込んだ。奥歯を噛み締めていた。

「……くだらね」

呟いた。

いつもの冷笑トーンで言ったつもりだった。でも声が少し震えていた。

歩きながら思った。

俺は別に間違ったことは言っていない。流行に乗るだけの人間思考停止だし、資本主義は人を消費マシンにするし、恋愛市場欺瞞だ。全部、構造として正しい。正しいのに。

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