2010年08月09日

徳川家康の幸若舞観賞中の逸話

【驚愕の事実が『幸若舞の歴史』(三省堂書店)(リンク)】
【幸若舞曲一覧(リンク先)】
 織田信長は武田家との通謀を理由に、徳川家康に妻子の処刑を命じている。
 安土城において信長は徳姫からの手紙を取り出し、徳川の家老酒井忠次に対して、嫌疑十二条を示したが、酒井忠次は全く弁明しないままそのうちの十条を認めている。
 家康は、二股城主大久保忠世に監視を命じ、嫡男信康(岡崎三郎君)を幽閉。
信康は大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張し、服部正成の介錯で自刀した。享年二十一歳(天正七(1579)年)
 家康も信康の死を痛く悲しみ、関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠が遅参したとき「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言ったという。
 後年(関東に入った時に)、酒井忠次(隠居)の嫡男酒井家次は下総・臼井三万七千石しか与えられなかった、井伊直政十二万石、本多忠勝と榊原康政の十万石に比べ少ない事を、酒井忠次が機会をとらえて所領に対する不満を訴え出た折にも、徳川家康は「そちも、子はいとおしく思うのか」ときつい嫌味を交わしたということです。
 また、家康が、家臣たちと共に幸若舞「満仲(まんじゅう)」を観賞した折り、「源満仲が自分の息子である美女丸の殺害を家臣藤原仲光に命じるのであるが、仲光は主君である満仲の心境を察し、我が子幸寿丸の首を斬り、その首を美女丸の身代わりにして満仲に差し出す」場面になると、家康は落涙し、同席する酒井忠次と大久保忠世をかえり見て、「おおっ、二人ともあれを見よ。あれをどう思うぞ。」と言い、二人をじいっと見つめた。二人とも身を震わせて、顔を上げられなかったという。(逸話は、常山紀談の岡崎三郎君の御事の中。「武辺雑談」「東武談叢」「寛元聞書」をそれぞれ出典として「徳川実紀」中にて紹介。)

 また、後年(関東に入った時に)、酒井忠次(隠居)の嫡男酒井家次は下総・臼井三万七千石しか与えられなかった、井伊直政十二万石、本多忠勝と榊原康政の十万石に比べ少ない事を、酒井忠次が機会をとらえて所領に対する不満を訴え出た折にも、徳川家康は「そちも、子はいとおしく思うのか」ときつい嫌味を交わしたということです。
 幸若舞「満仲(まんじゅう)」とは、寺一番の悪童であった源満仲の子美女丸が、忠臣仲光の子幸寿丸の身替わりによって一念発起し、円覚という高僧になるという大変劇的な曲である。



「幸若舞の歴史」


「幸若舞[年表]と徳川家康、織田信長等」

幸若舞曲(幸若太夫が舞い語った物語の内容)一覧を下記(舞本写真をクリック)のリンク先で紹介中!
越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367

幸若太夫の家系~桃井直常(太平記の武将)


posted by takeuchi at 16:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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