『命日』の不思議
今日は家族のことを話してみたい。
私は親の御蔭(その愛情と意志と金)で、何とか三流私大文系を卒業できた。何とかというのは、最初の3年では24/124(卒業に必要な単位数)しか取れず(取らず)、残りの2年(1年は留年=5年生)で100単位以上取ったからだ。
桜木町から都心へ出て、友達が0の状況で学生たちの中へ混じる。曜日によってはさらに電車に乗り2キャンパスの往復も。(1,2年次と、3,4年次でキャンパスが分かれるが、1,2年時の未修分のため下級生の中に留年生が混ざる)分刻みのスケジュールをこなしているうち、知らぬ間に十二指腸潰瘍になっていた。空腹になると痛む。数年後、胃カメラで医師に「治った跡がある」と言われた。
とにかく、あの2年は、私の中で「何もない」、でも忘れられない2年だった。
話はそこではなく、行っていなかった最初の2年目にある。私は入学後、アルバイトをしようということで「フロムA」(リクルート社)を買って、「吉野家」か「養老乃瀧」で迷った末、人とのかかわりがより多そうな後者を選んだ。(あとから思えば、あの時の選択が私の人生に相当大きな影響を与えたことがわかるのだが)
私は、「音楽を目指す」という自分レベルの大義名分に隠れて、単に夜のアルバイトにのめり込み、それなりに社員レベルの仕事もこなしたが、生活もどっぷり夜型になり、勤務終了後は仲間たちと飲み歩き、そのまま社員寮に泊まらせてもらう、というような日々になっていた。家へは、週に半分帰るか帰らないかだった。仕事は大変だったが、仲間たちとのそれは楽園のようであり、若さを謳歌していた時間だった。私は、夜の世界に生きる人たちの信念と悲哀のようなものを「局外=大学生アルバイト」にありながらも理解していった。
しかし、両親は反対だった。共に夜の世界に仕事としてはかかわったことのない人種だった。(父は副業で雀荘経営の過去があるが)
私は、一所懸命、みんなとてもいい人たちであること、沖縄や長野から高卒で来ている社員も多かった、上司は立派な尊敬できる人ばかりだった、そんなことを説いても、
「もうやめなさい。大学どうするの。パパもそう言ってる。」
父は、私に直接なにも言わなかった。見かけても、たばこをくゆらせる横顔を見せるだけ。私はさらに反発を重ね、家へ戻る日が減ったのだった。もう父は老人(父69・私21)で隠居しており、母だけが朝から夕まで事務のパートに出ていた。姉は嫁いでいたので、日中は父独りだった。
私は「いつもの」ように寮から直接職場へ出勤した。その日は17時。まだ、マネージャーと二人だったが、その時ホールの電話が鳴り、マネージャーが取った。
「おい〇〇!お父さんが倒れたって。お母さんから。すぐ家帰れ!」
私は少し焦った。少し、というのはそれまで人が『倒れる』というのはどういう原因がありえて、どういう症状があるのか、知識も身近での体験もなかったからだ。テレビドラマで見てきたような漠然としたものだけ。
顔は真っ赤。苦しそうないびき、唸り声。意識なし。
何もしてあげられない。こんなに苦しそうなのに。
母は狼狽していた。いや、変に落ち着いてもいた。
私は家まで走って10分。救急車はまだ来てなかった。母は、失禁している父の処理をしていたように思う。その辺は母任せだった。隊員が来るまでの10分間。何をしていいのかわからぬまま時が過ぎる。
エレベーターのない古い5階建てのビルに住んでいた私は、4階から階段で隊員と担架を運ばなければならなかった。一端を持ったが、非常に重かった。とてつもなくおもかった。普段アルバイトで、ビールやミネラルのケースを2~3同時に持ち上げるくらいの力はあるのにだ。焦る私の顔に気付いたのか、隊員に言われたひと言が忘れられない。
『頑張って!君のお父さんなんだろ!』
わたしは苦笑したかもしれない。しかし、それ以上に、他人に父に向き合っていなかったことをなじられたような気がして、こころを打ちのめされた気がした。私はその時、職場の「親が反対している水商売の」制服を着ていた。そのまま一緒に救急車に乗った。
完全な脳出血で範囲も小さくはなかったので、もう何もなす術はなかった。あの時代でも著名人や国にとって大切な人物なら延命措置はあったのかもしれないが、もちろん一般庶民である。母もそんなことを望みもしなかった。
意識は戻りはしない。あとは、心臓の力が尽きて、果てるのを待つだけなのである。やはり苦しそうだった。意識はないが、苦しさを訴える。心拍は上がったり下がったりを繰り返した。200を超えると見ていられなかった。普段何も運動をしていない老人がいきなりマラソンしてる。
AM2:00すぎ、走らされて、力尽きた。
それから私は徐々に冷静さを取り戻した。
取り戻すと同時に、今度は、父はいったい何時に倒れたんだろうか?という、もう誰にもこたえられない疑問が心を縛りつけ始めた。
(おれが寮に泊まらずに、あの晩は家に帰っていれば?。。。
もし、発見がもっと早かったなら?
最初に頭痛が来た時、父は何を思っただろう?
夕方帰宅した母に発見されるまで、何時間苦しんでいたのか?)
そう、それはちょうど43年前の今日=6月20日の今なのである。
(このあとの心の葛藤などについては、過去に書いた私小説の一部をのちにご紹介させていただくかも)
で、なにが言いたいのか?
さて、長くなったが、タイトルに「~の不思議」と書いたことの意味をお話してみたい。
父は、命日としては6/21だが、実際には倒れて苦しんだのは6/20である。
実はこの「20日」というタイミングで、私はこれまで数十年、何故か身近な人間との間でトラブルが起きる。簡単に言えば、ケンカになってしまうのである。
私は、それが不思議と20日に起こることが多い現実にしばらくしてから気づいたのだった。ふりかえると、それは20日だったということ。何故かはわからない。
しかし年を取ってきて、知恵はそれなりについたわけだ。今ではもう「回避してやる!へっへっへ」という気分だ。
どうでしょう皆さん。これも「陰謀論」の一つでしょうか?
【陰謀論としての検証】にあなたもご協力願えませんか?かっこわらい
追記;6/21 21:50
そうだ、大切なことを一つ書き落としていた。
父の兄は、弟に先に逝かれたのだが、彼は生前21日が近づいてくるたびに恐れおののいていた。
なぜなら、彼らの父(私の祖父)の月命日も21日だったからである。
南無大師遍照金剛
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