干さオレ~六本木豪遊篇~(第一回)
文芸時評・7月 荒木優太
岩波書店の『思想』六月号にハイデガー研究者として著名だった渡邊二郎の遺稿小説『見えない声』 が掲載されている。大学教授の高野が、中学校時代からの親友の突然の自殺の報に接し、赤化した過去、妹の心配をよそにいよいよ病的になっていった回想をへて、なお残る謎に当惑するというもので、掲載経緯は直後の森一郎「ニヒリズムをいかに耐え抜くか」が詳しく解説している。実家の押入れ奥の段ボールに原稿用紙三八枚の手書き原稿があったらしく、大江健三郎のデビュー作『奇妙な仕事』と受賞を競った一作とのこと。
内容そのものにはインテリ哲学青年の若書き以上のなにかを見出せなかったが、自殺した友人の名前「原田直樹」を見て、おっと立ち止まった。かつてはニコニコ動画、いまはYouTubeにて活躍しているポケモン実況動画投稿者・ライバロリの本名が原田直希というからだ。文学好きのために補足しておくと市街地ギャオ『メメントラブドール』の主人公がよく視聴しているはずのYouTuberである。漢字も違うし、珍しい名前だというわけでもないが、なんとなく笑ってしまった。
そのついでで、だんのうらのことを思い出した。だんのうらとは、ライバロリのサブチャンネルによく出演していたポケモンカードゲームの有名プレイヤーで、直近の大会において不正行為のジャッジを受け、活動休止を余儀なくされている。当然、周囲からの見られ方も変わり、友達付き合いをしていることを疑問視する声も挙がっているようだが、ライバロリいわく、自分の態度はまだ決めかねている……ものの動画を消すことはないこれも一つの思い出だから、とのこと。
二つのことを考える。一つは、いま話題の軽出版事業までふくめ、知的財産の管理をクリエイター自身が担うとき、その倫理的管理すらも個々のクリエイターの負担に加重されるということ。仮に自身が悪をなさなかったとしても、悪いことをしたらしい人間とコラボした、同じ画面にうつっている、そういう状態を放置していることには責任が問われる。これは文筆業でいえば、編集や対談などのちょっとした縁故関係にも適用される。現在Twitterでは桑原旅人や深沢レナなどが、ハラスメント者の仕事を陰に陽に支える協力者ならびに傍観者に、告発めいた批判を繰り返しているが、この問題は大学や出版社などの権威主義的機関をより民主化したところで抜本的な解決には至らないだろうと直観する。民主化は管理の基準の拡散と不即不離だから。
もう一つは、友情について。知的財産とクリエイターの日常が地続きになったとき、本来は経済活動と無縁だったはずの人間関係が商売の論理に絡めとられていくことになる。Twitterに生息している物書きたちはお歳暮のような褒め言葉の互酬制で生きているかのようだ。褒めたから褒めてねという無言の脅迫を感じない日はない。勿論、その裏側で働いているのは不浄者には触れるべからずのタブーである。そのようなものが若い人の友情をひっかきまわしているとしたら、なんとも惨酷である。
決して上等にはみえない奥田亜希子『イデオロウィンの行進』(すばる)に、それでもなお惹かれるのは、由麻が求めていたのは本当にネット上のアテンションだけだったのだろうか、という問いが残存するからだ。
適応障害で無職になったことに負い目をもち、代わりに弁当作りを必死でこなす主夫の我妻良は、町の掲示板に、現在の市長の動物愛護精神を糾弾する手作りポスターを発見する。動物用料理教室の女主人が自発的に結成した市長再任妨害団体「命せんと」(いのせんと)の活動の一端で、良は違和感を覚えながらも、段々と彼らに協力していくようになる。この一連の合間に、大学時代のバイト先の同僚で現在は良のパートナーである由麻の様子が点描される。由麻はSNSでフェミニズムにはまり、男社会に対する不満や愚痴を発信する虜になっている。最初は「レイチャピ」、しかし性風俗に関する見解で相違し、次は「hikasa」、つづいて「コゾマ」というフェミニズム・インフルエンサーに次々と取り入って順調にフォロワーを伸ばす。やがて選択的夫婦別姓法制化を求めるデモにかりだされた良は、トロフィーワイフならぬトロフィー彼氏として扱われている自分を発見する。
込められたメッセージは明快である。新時代にあぐらをかいたフェミニズムがいまだ名づけえぬ弱者を踏みつけているのではないか。はたまた、ある倫理体系と別の倫理体系(この場合は女性の権利と動物の権利か?)を両立することがいかに困難であるか。ただ、そういうTwitterにログインしていれば自動的に分かることとは別に――わざわざ小説で学ぶことではない――、バイト時代に仕事のミスを重ねて空回りして裏で「空ちゃん」と呼ばれていた彼女の交友関係には想像力が刺激されてやまない。客観でみれば、由麻はアテンションの魔力に取り憑かれて次々とインフルエンサーをわたり歩く化け物でしかないが、彼女の主観では、SNSでしか同志をもてないと考えて何度もトライする、友達作りの空転なのかもしれない。愛人の子供という出自の告白、インスタライブでの仮面装着は、語気の強さのわりに脆い自尊心を暗示している。
ところで、しらすは好きだろうか。魚のしらすである。個人的には好んで食べるものではない。たいして味がしないからだ。だいたいは大根おろしと混ぜて醤油をかけて食っているが、もっとよい調理法があるだろうか。良は賞味期限切れのしらすを冷蔵庫で発見し、機転を利かせ炒め物にして由麻の弁当に入れようと調理をはじめるが、「これほどたくさんの死骸をいちどきに目にする機会は、しらすを食べるときのほかにはないような気がした」。これと相通じる感想を記しているのが芦沢央『ハザードランプ』(GOAT夏号)である。
麻千子は義理の息子の健太が留置場から釈放されるとのことで、保護者として警察署に向かう。健太は、最近マッチングアプリを通じて交際、結婚した石野の前妻の息子で、すでに二四歳、居酒屋アルバイトでもって自立していたが、そのアルバイト先のホール担当に絡む酔客を殴ったかどで逮捕されたのだった。健太を出迎えた車中の麻千子は、かつてFacebookで石野が息子との思い出の一品として紹介していた自作のしらす入り卵焼きを差し出すが、健太の反応は不思議とかんばしくない。麻千子自身はしらすを好まない。なぜならば「しらすは丸ごとだから、一匹一匹に目がついているのがどうしても気になっちゃ」うから。
表題のハザードランプ(非常点滅表示灯)とは、車内で非常事態が生じたことを周囲に知らせるためのSOS信号である。本文に即していえば、ネット上では善人をよそおう石野が、実はモラハラ男で、そのハラスメント、家庭内暴力が幼い健太にも及んでいたのではないかという疑念に相当する。男を悪く描いておけば安牌という現代創作法に凡庸を感じるが、奥田作にせよ芦沢作にせよ、しらすが他の魚と異なるのは、それが切り身で提供されることはないからだ。しらすとは小さくとも一つひとつが全体であり、それ故にこそ少し前まで生きていた感じが抜けない。健太の好物、出前の寿司はその点で違う。
インターネットには、決定的なしくじりをしてもうすでに死に体の亡霊が無数にうろついている。そのうちの何割かは自業自得なのかもしれないし、はたまた何パーセントかは不条理を押しつけられた可哀想な犠牲者なのかもしれない。が、いずれにせよ、切り身にならないことが大事だと思う。小さくても一つで全体であって、あなたを見ていると見させること。彼らにいつか復活の機会がめぐってくる、とは決して約束しないものの、不気味だったり拒否感を与えなくなったらそれこそお終いである。生きるってことはキモいってこと。
若い人の友情が云々と老人じみた繰り言を述べたが、若い人には若い人の、そんな悲観をものともしないしたたかさがあるだろう。YouTube上では縁遠くなったとしても、プライベートがどうだかは知らない。知るべきでもないし、知らせないしたたかな機知を信じる。阿部慎之助監督は娘への暴行のかどで読売ジャイアンツを辞任したそうだ。願わくば、知らないことについて知らないと言う勇気を各人がもてますように。
ちなみに、『GOAT』夏号のなかでは、死んだ祖母が延々手作り弁当を届けてくれるまったく怖くない怪談、前川知大『「ゆんちゃん、お弁当」』がよかった。
▶荒木優太。在野研究者。1987年生まれ。著書に『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍)、『貧しい出版者』(フィルムアート社)、『仮説的偶然文学論』(月曜社)、『内田樹の時代』(在野研究社)などがある。

