ん? なんだ?
旅館の一室で布団に横たわって寝入りばなに、かすかなうめき声を聞いた日車寛見は、枕の先に手を伸ばし、行灯型のライトのスイッチを入れた。
「日下部?」
黄昏時に出るという呪霊の討祓に、日車と日下部篤也が出て、それがひたすらに恨み言を聞かせようとするやっかいな自殺女性の呪いだったことから、二人してひたすらに「うんうん」とか「そうか、たいへんだったな」とか、要は傾聴する羽目になって4時間、やっとで成仏?してもらえたのは夜の10時過ぎだった。とにかくくたくただったので、補助監督の伊地知潔高とともに遅めの夕食を、と思ったのだが、日下部だけは腹の調子が悪いから、と一人先に旅館へ戻った。そして日車と伊地知が部屋に帰って見ると、日下部は3つ並べて敷かれた布団の1つに既に潜り込んで寝ている。なので部屋の電気はつけず、窓辺の卓上ライト1つで缶ビールを開けただけで他にやることもなく、2人とも眠ったのが日付をまたいだ0時ごろだった。
現在、時計は1時を少し回ったあたり。
「日下部、どうした?」
日車は上身を起こして隣に眠る日下部の布団に身を寄せた。行灯の明かりが照らしたのは、布団をかぶって体を折り曲げている日下部の苦しそうな顔だった。
「ハラが、痛ェ……」日下部が小さく絞るように言う。
伊地知も起き上がり、眼鏡をかけながら日車の肩越しに日下部を見た。「腹痛ですか? 食あたり、ではないですよね」
そもそも晩飯を食べなかったのだから日下部の胃は空っぽのはずだ。
日車が、ダンゴムシ状態の日下部の、こんもりした布団の山に軽く手を触れた。
「吐き気は? それとも下痢か?」
日下部は布団から顔を出す。淡い灯でも額に脂汗をかいているのが分かった。
「どっちも、ねェ。とにかく痛ェ」
日車は、伊地知が取ってきてくれたタオルで日下部の額の汗を拭きつつ、そっと手のひらをつけた。
「38度以上あるな」
日車はダンゴムシ状態の日下部に囁いた。「日下部、仰向けになれるか?」
「ムリムリムリ……」
「ちょっとがまんしてくれ」
そう言ってそっと布団をはいで、日車は慎重に日下部の体勢を変えた。ダンゴムシはかろうじて布団に背中をつけたが、膝は伸ばせず、立てた状態でうなる。旅館の寝巻の合わせがくつろげられた。
「どこが痛いんだ?」
「んー、下腹が全部、かな」
下腹、といって日車の指が、日下部の鍛えられた腹筋の上をなぞり、下腹の、少し右の部分に来ると、指をぐっと押し付け、そうしてパッと離した。
「あいだだだだだ!」
日下部は再びダンゴムシになってしまった。押した時よりも離した時の方が痛いのか。
「ブルンベルグ跳動があるな」
伊地知が日車を見た。「何ですか? それ」
「つまり日下部は、素人診断ではあるが、虫垂炎の可能性が高いということだ」
日下部が目を開けた。「マジで? 俺、盲腸なの?」
「おそらく」と日車。「いつから痛かったんだ?」
「呪霊を片付けた後くらい、かな。でも実は3日前くらいから、何かチクチクしてて、あまり食ってなかった」
「でしたら」と伊地知が言う。「今日の討祓は無理せず休んでくださってもよかったのに。無理して悪化したら大変ですよ……って、もう十分に大変ですが」
日下部は横向きに転がって、ますます身を縮こまらせた。「うーっ、カミサマ、ごめんなさい」
「人はなぜ、腹痛や下痢になると神に謝るんだろう」
「ともあれ」と伊地知がフロント直通の電話機に手を伸ばした。「夜間救急病院に行きましょう」
「待ってくれ」日車の手がそれを制した。
「?」伊地知が止まる。
日車は日下部のはだけた寝間着をさらに広げ、下腹に指先で触れた。伊地知と日下部自身の視線がそれを追った。
「――ひゅう、ひょい」
えっ?という顔で日下部が日車を見た。それは家入硝子が反転術式を使う時の――
「……ひゅう、ひょい」
「――」
「ひゅう、ひょい」
反転術式を使える者自体少ないのに、他者を治せるとなると片手で足りるほどしかいない。日車が対宿儺戦で、ぶっつけ本番の反転術式をやってのけたのは、日下部も伊地知も知ってはいるが、果たしてそれが虫垂炎にも効くのだろうか。
日下部は恐る恐る息を吸い込んでみた。
「……痛く、ねェ」
自力で起き上がった日下部は、思わず自分の腹を撫ぜた。「痛みがなくなってる!」
「一か八かだったが、なんとかなったようだな」日車はぺたりと布団に座りこんだ。
「ありがとな~っ」日下部がガバッと日車に抱きついた。「神様、仏様、 日車サマ! ホント、助かった! 感謝、感激、雨あられだ!」
日車は大きな目をさらに大きくしながら、もじもじと日下部の寝間着の合わせを戻してやった。
「痛みは取れても、さっきまで熱を出して苦しんでいたんだ。体力も消耗しているはずだから、今夜はおとなしく寝て、明日いちばんに家入さんに診てもらおう」
「なんでも言うこと聞きます! 日車先生! とりあえず寝ます!」
「それがいい。お休み」
そうして3人とも、自分の布団にもぐり、眠りについた。
翌朝。
高専に戻った3人は、あらかじめ伊地知が電話で状況を伝えていた家入のもとに直行した。日下部はおとなしく診察を受け、異状なしのお墨付きをもらって子どものようにニカッとしてみせた。念のため1日の有給休暇を命じられたが、激しい痛みに悶絶したあととあっては一も二もなく言うことを聞いて、とにかく3日分の寝不足を補うことで落ち着いた。
「それにしても」伊地知も笑みを浮かべる。「家入さんの『ひゅう、ひょい』で、他人を治せた人は初めて見ましたよ」
家入自身もうんうんと日車の肩を叩いた。「これで私の重労働を肩代わりしてくれる人がようやく現れたな」
本当に、と伊地知も頷く。
日下部は診察台を下りてシャツを着なおしていたが、ぐるんと視線を回して日車を見た。「ちょっと待て。俺は人体実験されたってことか」
「まあそうとも言えるかな」と日車。「しかし手術となったら1週間は入院するところだったんだ。家入さんのまじないに感謝してくれ」
日下部の目が非難めいて日車を見たが、日車が目を伏せたのでアイコンタクトはすれ違ってしまった。
医務室を出て伊地知は補助監督室へ、日車は日下部のお目付け役として寮の部屋まで同行した。
「ありがとな、日車」
「役に立てて何よりだ」
二人は部屋の戸口の前で向き合った。日車が、先に目線を切った。「売店に行って消化にいいものとか、経口補水液とかを買ってくる。君はおとなしく寝ててくれ」
「ヘイヘイ。日車先生の仰せのままに」
二人はそこで分かれた。
といっても、買い物をしてすぐに戻るつもりだったので、日車の足は速い。反転術式には悪い思い出しかなかったが、今日は気分が良かった。朝一番で車を飛ばした伊地知にもコーヒーか何かを差し入れして、と思いながら廊下を歩く日車に、午前の陽光が注いでいた。
「ひゅう、ひょいっ」
頭の上に指先で円を描いて、日車は人に見せない微笑みをほんの少しだけ零したのだった。
了