やっぱりオタクに戻ってきた元信者の日記
※
ここに書いたことは全て、私個人の体験を振り返り、記したものです。
身バレ防止のために多少のフェイクも交えています。また、読みやすくするため、諸々省いたり、表現を誇張したりしています。
あくまでも、私の主観・感情に基づく、体験の記録に過ぎません。それを理解してもらえると幸いです。
誰かの信仰を否定する意図はありません。また、誰かを傷つけることは本意ではありません。
何かあれば公開をやめます。
私がカルトをやめるに至った理由として、特別大きな出来事があったわけではない。
摂理と私の足並みにズレが出始めて、次第にその差が取り返しのつかないものになった、という具合である。
「なんかうまくいかないな」「ここに居て苦しいな」と思っていた折に、
①新たに夢中になれる場所(心の居所)
②避難できる実家(体の居所)
があったから、カルト団体から退き、今も無事に暮らせているのだと思う。
今回は、私がカルトを抜けるまでの経緯と、その後の話を書いてみる。
⭐︎この記事に出てくる単語
『摂理』…キリスト教福音宣教会のこと。韓国発の新興宗教。
『先生』…鄭明析。摂理の指導者。信者への性加害を行ったとして罪に問われている。
『神様』…本当は聖三位としていらっしゃるのだが、説明するとややこしいので、ここでは「神様」という表現に留める。
前回までのあらすじ
・摂理に出会い、「私の運命はここだ!」とのめり込む
・次第に物事が上手くいかなくなる
・現実逃避からインターネットに依存をし、摂理も社会生活もサボり始める
※カルト期後半については思い出せない部分も多く、曖昧な表現による記録となっています。
◎カルトを抜けるまで
⚫︎『吸血鬼すぐ死ぬ』を読む
立派な信者をやることにも、世の中(※教会外のこと)でまともな人を演じることにも疲れた私は、無気力にTwitterを流し読みすることが常態化していた。
ある日、とある投稿が目に留まった。
漫画『吸血鬼すぐ死ぬ』の無料試し読みキャンペーンに関するツイートだ。快楽に飢えていた私は、なんとなくその漫画を読み始めた。
馬鹿みたいに笑った。
心ゆくまで笑った。
軽い気持ちで読み始めたが、夢中になってしまった。
気持ちのいいテンポ感、万人を笑わせようとしてくれるあたたかみ。
コミカルな掛け合いが面白いだけではなく、設定が作り込まれており、各キャラクターが個性的。
彼らの世界に非常に愛着が湧いた。
私は既刊をすべて読んだ。
それから、久しぶりに二次創作に触れたくなった。
でも、その時の私はまだ「摂理人」だった。
摂理でいたい自分と、摂理から離れたい自分が同時に存在していた。いつだって心が二つある。
"漫画を読んではいけない。ましてや、二次創作に足を踏み入れるなんてもってのほか!"と、信仰は危険信号を鳴らすものの、欲望には抗いがたい。
"絶対に見る専に徹する"という保険を自分にかけて、私はTwitterのアカウントを作成した。
それから、作品のファンアカウントを探し、どんどんリストに入れた。
”発言する自我がなければオタクとして独立してないから、まだセーフ!”
という、意味のわからない持論で自分を誤魔化していた。
リストを巡回すれば、作品の感想やファンアートを楽しむことができた。
私は、何かの作品を愛し、得た感情を共有するというオタク活動の興奮を、しばらくぶりに思い出した。
そのうち自分でも、「吸血鬼に関する伝承」なんかを調べ始めた。こういう探究をし始めると、オタクとしてもう止まれなくなってくる。
得た知識をひけらかすように「こんな話があるよ」という情報をツイートしたり、誰かの書いた小説に対して「これってこういうことだよね……」としたり顔で考察を披露し始める。
そうすると、いくつか反応をしてくれるアカウントもあって、だんだん周りと交流をするようになった。
そのうち、自分でも二次創作じみた発言を繰り出しはじめ……見る専とかいう建前がどんどん危うくなっていく。
そして、ここから更に、人生が変わっていった。
私のTLには、『吸血鬼すぐ死ぬ』の登場キャラクター、「サテツ」をアイコンにしている人がいた。
ある日、そのサテツアイコン氏が、
「このフリーゲームめちゃくちゃ面白いですよ!!!!!!!!!!!やってください!!!!!!!!」と、叫んでいるツイートが見えた。
それが、『細胞神曲-Cell of Empireo-』である。
なぜだか、私の目には、そのツイートが輝いて見えた。
それこそフリーゲームで、探索可能箇所が光っているかのように。ノベルゲーで、特殊な選択肢だけ色が違うかのように。
そのツイートが妙に気になって、私は読み飛ばすことが出来なかった。
良い物語には、人の心を動かす力があり、
強い感動を持って伝えられた言葉には、人を惹きつける魅力があるのかもしれない。
私はサテツアイコン氏の熱烈な言葉に惹かれ、彼(彼女)を魅了した作品がどんなものなのか、知りたくなった。
サテツアイコン氏の紹介レビューや、公式アカウントのゲーム紹介を読むと、確かに面白そうだった。
主人公らしき金髪の男性が、鋭い目線でこちらを見ているのが印象的だった。
ゲームに時間を費やすことが、すなわち摂理への時間を犠牲にすることだとは分かっている。
理解しながら、ダウンロードを終えていた。
今になると「よくもまあこんな長時間の大作に手を出したな」と思う。
当時は何か、夢中になれるものに逃げたくて、必死だったのかもしれない。
『細胞神曲』は面白かった。
あの時、サテツアイコン氏を信じた自分を讃えたい。
もちろんサテツアイコン氏にも感謝の念が絶えない。
『細胞神曲』に出会えたのはサテツアイコン氏、そして『吸血鬼すぐ死ぬ』のおかげである。ありがとう盆ノ木至。
⚫︎『細胞神曲』をプレイする
『細胞神曲』は、ざっくり言うと、崩壊しつつある宗教施設から脱出し、真相を究明していくゲームである。
宗教施設から。
カルトに所属しながら、カルトが崩壊するゲームにハマるとは何事なんだ?
冷静になるとおかしな状況だが、当時はそんなこと露とも考えなかった。
むしろ、「私は信仰について理解している」「聖書を多少知っている」と自負をして、「だから、作品をよりよく理解できるはず」だなんて思い上がっていた。
カルトから逃げているはずが、カルトであることを軸にし、教義から離れた行為をしている。
プレイを始めた当時は、教会の姉妹と一緒に住んでいた。
全ルートを回収するにはそれなりに時間がかかるのに、家に信徒がいる環境で、彼女にバレずにどうやってPCゲームを遊び尽くしたのか、全く記憶がない。
ゲームの方の記憶はあるけど、現実生活の記憶がない。
一通り遊び終わってから、またひとつTwitterのアカウントを作った。『細胞神曲』への感動を発信するために。
「見る専」や「壁打ち」に留まってはいられず、私は自ら喋り、二次創作をし、ファンの方たちと交流をするようになった。
私はそこから何ヶ月か、摂理に通いながらも、裏でTwitterに勤しみ、『細胞神曲』のオタク活動を続けた。
どうやって両立していたのかよくわからない。が、私は『細胞神曲』界隈に、自分の居場所を見出していた。
前回の投稿で触れたように、神様よりも愛するものがあるなんて、言語道断である。
私にとってゲームや漫画とは、『二次創作カルチャーと深く結びついたもの』であり、私にとって二次創作というものは、『堕落した(=神様の愛を離れた)文化』であった。
でも、私は二次創作が好きだ。二次創作が見たい。二次創作がしたい。
信仰のためには、二次創作はやめた方がいい。ゲームや漫画も触れない方がいい。
そんなことはわかっているが、やめられない!
礼拝に行き、解散したらTwitterを開く。
カフェで隠れてSSなんかを書いたりする。その足で、帰り道に空を見上げると「自然を創造した神様は素晴らしい!」なんて信仰が戻ってくる。歩きながら聖書のことを考えて、家に帰った途端またTwitterに引き戻される。
私の心は行ったり来たりを繰り返した。
礼拝に行くたびに周りの空気に感化され、気持ちがカルトに戻った。
でも、一人になった瞬間魔法は解ける。
信徒の顔ができなくなって、Twitterへと逃げる。
教会にいると、脳が麻痺でもするのだろうか。
周囲の雰囲気に感化され、思考力が落ちて、物事の希望的側面ばかり見てしまう。「やめられる自分」の幻想を抱く。
現実は違う。それで、余計に自己嫌悪が進む。
元々、影響を受けやすい性格なんだとは思うが、ちょっと異常なほどだったと今は思う。
はたしてインターネットでドーパミン中毒になるのと、カルト信仰でドーパミン中毒になるのと、どっちがいいのだろうか?
どちらもお勧めできない。でも、何かへの依存から引き剥がすために、別の依存できる何かを与える、というのは一つの方法ではあるのかも……。
『細胞神曲』は私を信仰から引き剥がすくらい面白かった。
もしも面白くなかったら、私はもうしばらくの間、摂理を続けていたかもしれない。
『細胞神曲』を通して、私は更に多くのものを得ることができた。
私が映画を好きになったのも、もう一度小説を読むようになったのも、心強い音楽に出会えたのも、TRPGを始めたのも、それらを通して取り替えの効かない友人を得られたのも、『細胞神曲』がきっかけと言える。
ありがとう細胞神曲。
ありがとう鱶尾工業。
ありがとう吸血鬼すぐ死ぬ。
ありがとう盆ノ木至──。
⚫︎田舎に帰る
その頃、学業や就活は立ち行かず、ボロボロだった。
別に元々能力が高いわけでもないところに、信仰にリソースを費やしすぎていた。睡眠不足、孤立感、居心地の悪さ、他者への警戒心、そういったものでがんじがらめになっていた。
寝坊も増えたし、精神的な不安感から授業を休むこともあった。単位が足りなくて代わりの課題でどうにか工面してもらうなど。あんまり覚えてないけど不真面目な学生だったことは確かで、担当教員に随分と迷惑をかけた。
別に全部カルトのせいではない。
それ以外にもいろんな状況が加わって、私はうまいこと大学生をやれていなかった。
就活についてはあまり語りなくないので、具体的な話は控えさせていただく。
今でも影響しているのは、スーツが苦手である。
自分が着るのも、誰かが着ているのも苦手だ。
スーツを着ると自分が崩れていく気がする。
ある種の男性のスーツ姿を見ると、摂理の男性を思い出してしまう。新人を寄せ集めるために外面を装い、やたらキラキラとしているエリートビジネスマン、が脳裏に浮かび、結構キツイ。胸の辺りがモヤモヤする。めちゃくちゃ怖い。
どんな会社に行っても、「信仰を攻撃されるのではないか」と常に警戒はしていた。
共に頑張れる誰かもいなかった。自ら孤立を選んできたからだ。
平静を装いつつも、心中はずっとパニック状態みたいな感じだった気がする。
ともかく、大学最後の一年半ほどは、自分が何をしているのかよく分からず、とにかく這って前に進んでいるような感じだった。事実としては色々なことをしたはずなのに、ほとんど覚えていない。マジで覚えてない。
この時期のことを思い返すのが一番苦しい。人生の中で、最も惨めで、暗澹とした日々だった。
そんな暗澹とした日々の中で、磯井実光(『細胞神曲』のキャラクター)に出会い、暗闇の中でも這って進み続けるような姿に勇気づけられたものである。
社会的にも完璧に生きることができず、教会の中でも胸を張った信仰ができていない。
私の採点基準では、どちらも100点満点中15点の出来だった。
それがすごく嫌だった。
就活、卒業、信仰生活、の合間にオタク生活、を、フワフワしながらやっていた。
オタクをしている時だけが自分が自分であると感じられ、それ以外の時間は別の人の話みたいな感じだった。現実逃避甚だしい。
周囲とどういう話をして、どういう結論になったのか覚えていないが、ある日私は教会を離れ、実家に戻った。
教会の人たちには「地元で信仰を守る」と話していたが、内心では、すでにその気はなかった。正直に言えば引き止められて面倒になるから、本心は言わなかった。
私は私自身に愛想を尽かしたのだ。
もうここから、立ち上がるのは無理だ。頑張るのはもうやめよう。なりたかった自分には、もうなれない。理想も期待も捨てて、現実を受け入れるべきだ。そういう心情だった。
もう二度と、摂理には戻れない。そのつもりで、その地を去った。
詳しいところが思い出せない。
いつ「帰る」ことを決めたのか。家族には何と話していたのか。どうやって地元まで帰ってきたのか。何を考えていたのか。
覚えているのは、実家に戻ってきて、慣れ親しんだ駐車場まで足を踏み入れて、最初に考えたことだ。
「実家の住所も教会に教えたことがある。あの人たちが追いかけてきたらどうしよう」
真っ先にそれを考えていた。
◎カルトを抜けてから
⚫︎心理
なぜ、私が摂理を去ったのか。
私自身は、「教義や教会、先生に不満があったわけではない」「私の能力が足りず、不向きだったので逃げ出した」という風に考えてきた。
だから、脱会してからも摂理のことを責める気持ちはなかったし、むしろ「引き続き摂理を守らなくてはならない」と思っていた。
私が摂理に居たことを誰かに伝えれば、それが摂理への迫害に繋がるかもしれない。
だから家族や友人には秘密にした。
摂理の悪評も読まなかった。私にとって摂理は、まだ「間違い」じゃなかったから。
間違っていたのは、私の方である。
いつか、遠くない未来で、『先生』が"本物"だったと明らかになる日が来るかもしれない。
生きているうちに、そんなニュースが聞けたらいい。
そんなことを考えていた。
⚫︎精神状況
精神的には、強い緊張と不安が続いた。
要因は様々にあるだろうけれど、とりわけ、仲間を裏切った罪悪感が強かったと思う。
私は教会で果たすべき責任を放り投げた。
散々良くしてくれた仲間の元を、無断で去った。
『先生』と神様からの愛を払いのけた。
自ら救いの道を逸れた。
これらは裏切りである。
実家に戻ってから最初のうちは、何度も教会メンバーたちからLINEが届いた。
私がそれらを無視するうちに、次第に連絡は来なくなった。
それでも常に怯えていた。
電話が来るかも。家に来るかも。外で不意に出会うかも。
そうなったところで何も話さなければいいだけなのに、そこまで考えられてはいなかった。
外に出たり、郵便受けを覗くのが怖かった。
でも、この裏切りは自分でしたことなので、受け入れるしかない。
私がかろうじて人間の体裁を保てたのは、『細胞神曲』との関わりがあったからかもしれない。
作品そのものに集中すれば、余計なことを考えずに済む。良い気分転換になっていたと思う。
ファンとして二次創作をしたり、他者と交流をしたりといった「外部に向いた活動」があったことも良かった。
⚫︎最も大きな罪は裏切りである
『先生』は言っていた。「神様を裏切り、摂理を去った人は、大きすぎる罰を受けることになります。罰とは、御言葉を聞くことが、できないということ」。
昔は、それの何が罰なのか、ピンときていなかった。
摂理を抜けてから、その言葉の意味するところがよくわかった。
御言葉を聞けないということは、救いに通じる道が塞がれるということだ。
つまり、救われないということ。
天国には当然行けないし、死後の世界さえも定かではない。救いがないということは、死の恐怖と同義だった。
神様を否定し、去った以上、私は神様のいない世界を生きなくてはならなかった。
ふとした時に、天を頼りたくなることがある。めちゃくちゃお腹が痛い時とか。
「ああ、神様、助けて!」だなんて、とてもじゃないが言えない。
くだらないことに思えるかもしれないけど、私にとっては結構辛かった。
ふとした時に「神様」を思い出すのに、神様を呼ぶことは許されない。私は神様を裏切った身だからだ。
そう思うと大きな寂しさが身体全体にのし掛かってくるようだった。
すごい地味だけど、寺社仏閣に行った時なんかも気まずい。元一神教の立場として、合わせる顔がない。
付き合いで行くことがあるけど、毎度、「アッスミマセン……失礼しま〜す……」って思いながら入ってる。
⚫︎その後
なんだかんだで大学も卒業させてもらったし、今は働いて社会生活も一応はなんとなくやっている。
ある時から吹っ切れて、飲酒もするようになったし、堂々とオタクとして生きるようになった。誰かの創る物語には、日々救われている。
正直、脱会してからは苦しかった。
もう戻れない場所への寂しさが募り、ずっと神様や先生、みんなのことを考えた。
一年経っても、三年経っても、五年経っても傷が塞がらなかったので、時間が癒すという言葉は嘘だと思った。
”明けない夜は無い”、というのはまやかしで、夜が明けてもまた夜が来るんだから意味はない、と思っていた。
でも、七年経ったら変わった。七年の間に、私は摂理の外で自分の価値を見出し、自分が今ここに居ることを肯定できるようになった。そうすると、過去への執着が薄れていった。夜は来るけど、今は灯りもあるし、宿もある。そんな感覚だ。
だから実際、時間は必要だったのだろう。
これまで人生に起きてきた弊害について触れてみる。
①車に乗りたくない!
車に乗るのが苦手である。なぜかというと事故や視線が怖いから。
バスや電車は平気。
摂理に居た頃、教会のメンバーと同じ車で移動したことが何度もある。
私たちは地方に住んでいたので、車移動は必須だった。
運転をするのは決まったメンバーだった。
当時大学生の私は、後ろで乗っているだけ。
狭い車内の密室で、私たちは信仰の話をする。
今日の礼拝での説教はどうだったとか、最近こんなことがあって神様を感じたとか。
それは幸せな時間のようであって、実際は息苦しかった。何か間違ったことを言わないか、粗相をしないか、私は緊張していた。
運転手のメンバーは社会人で、多忙な日々によく疲れを見せていた。そんな彼女に長時間の運転をさせることは不安だった。
高速でフラフラしかけていたこともある。
でも、私には発言権はない。誰が運転するかは大人たちが話し合って決めている。
いつも、出発する前に神様にみんなで祈る。
私たちが無事に到着できますように、と。
それがかえって、私の中で事故を連想させる煽りとなった。
で、実際に事故に遭った訳ではないが、悪いイメージが染み付いてしまったように思う。
昔に免許も取ったけど、運転はできそうにはない。
一つ間違えたら大勢に迷惑をかけかねない、取り返しがつかないかもしれない、変な操作をして白い目で見られたくない、私には多くの情報を受け取って処理する能力はもはやない、自らをすり減らす無理をしたくない。
そういう負の不安感がどさどさと積み重なっている。
東京はありがたい。
電車で生活できるので。
②活動していた土地を避けるようになる
以来、一度も行っていない。
この先も行きたくない。
話にも聞きたくないし、テレビで流れたらチャンネルを変えている。
その土地で何か悪いことが起きると、「神様の裁きだ」「自分のせいだ」と思えてしまうので、ニュースは仕入れないほうがいい。
③なんやかんやしてるうちにNetflixでドキュメンタリー化していてワロた
この事実を知った時、天地がひっくり返るかと思った。SAN値が10くらい減った。
慣れ親しんだ『先生』の顔が、動画配信サービスに乗っかって、公に出ているのだ。
内容としては、「自らをメシアと名乗る男性が、信者を食い物にし、性的な加害を加えてきた。被害者からの告発」というような話である。
『先生』はいまだに存命だし、疑惑を否定し続けているし、摂理も活動を続けている。その中でこの作品を出すことは、とんでもない挑戦だと思った。
で、ものすごく死にたくなった。
私は長いこと目を背けてきたけれど、被害者たちが確かに存在していて、声を上げ続けてきたのだ。途方もない苦痛を受け続けながらも、ずっとずっと闘ってきたのだ。
それらの結晶の一つがこの作品であり、意志の表明であり、「私は生きている」というメッセージである。
でも、私は被害をなかったことにし続けて生きてきた。
ぼんやりと流されるままに団体に加わって、加害する側の母体となっていた。
この作品のおかげで、やっと、『先生』が"偽物"かもと思えるようになった。
いまだに本編は観れていない。かなり落ち込むだろうから、まだ観ないようにしている。
Netflixは解約しているものの、『超かぐや姫!』が面白かったので再契約しそうになった。
「『超かぐや姫!』おもしれぇ〜」って言える人生でありがてぇ〜。
④いまだに先生のことを疑えない
"偽物"かもと思えるようになったけど、それでもまだ半信半疑なのが正直なところである。
先生の顔写真を見る度に、「こんなに無垢な笑顔の人が、性犯罪なんてするわけがない」と思えてしまう。
思えてしまうことが恐ろしい。
こうなってくると、世の中の「そんな馬鹿な話に騙されるなんて……」みたいなヤツを何一つ笑えない。
もしも、私が今の生活を失って、もう一度信仰に縋り、摂理が私を受け入れるようなことがあったら……私は違和感なく、先生の味方に立ち返りそうだと思う。
まずい!!!助けてください、本当に。
⑤神さまってなに?
摂理やカルトを脱会した人たちのブログやSNSをいくつか読んだ。
摂理を抜けた人たちの中には、キリスト教に立ちかえる人もいるらしい。『先生』や教会上層部が腐っていたのであり、聖書自体は本物とする立場だ。
私はというと、正直なところ、もはや何の信仰もできないと感じている。
一体全体、今度は何を信じたら良いと言うのか?もう一度失敗するくらいなら、全部信じない方がマシである。
◎まとめ
⚫︎実録!カルトQ&A
Q.高額な献金してた?
A.献金はしたけど雀の涙ほどである。
学生だったのもあり、一般的なキリスト教礼拝でするのと同じくらいしかしてない。それも活動費だと思ってたので、金を取られたとは思っていない。
ただ組織上層部になっていくほど金銭的な要求があったとしてもおかしくはない。
Q.摂理の人ってどんな人?
A.恋愛の話をしない、酒タバコをしない、黒を厭い白を好む、韓国が好き、コーヒーフレッシュより本物のミルク、オーガニック食品が好き、日曜は予定が埋まってる、サッカーやってる。この辺は怪しい。
あと「316(3/16は先生の誕生日)」とか「8726(ハナニム=韓国語で神様)」といった数字を選んでたら怪しい。
Q.怪しい水とかある?
A.ある。聖地の月明洞(ウォルミョンドン)には「薬水」という湧水があり、それを飲むと病が治るとかなんとか。
Q.壺とか買う?
A.買わない。そういうのは無い。多分……
⚫︎最後に
前中後編とカルトについての記録を書いて、ようやっと「ズルズル引きずるのもうやめてもええか!」と思えるようになった。
これらはあくまで、私の人生の一部である。
それらの道筋を経て、今の自分があり、今の自分に与えられた生活を、私は尊く思っている。
カルト被害者のことを考えると、「これで良かった」と言うのは傲慢だけれども、私は有り難くも「これで良かった」と思えるような日々を得た。
こういう記録を書いて、公開して、正直何の役にも立たないかもしれない。それでも、私の心が一段階、楽になることは確かである。
話すことは、手放すことだと、今は知っている。
対して、沈黙し語らないことは、守ることだ。
傷つけられないためには、語らないのが一番である。
言葉にして外に出した途端、己の表現や他者の視点によって歪められ、望んでいた形で伝わらないことの方が多い。そうやってついた小さな傷を、受け入れたくない時期がある。
すでに体中が傷だらけの時は、ほんの小さな刺激さえ恐ろしいものだ。
でも、時が来たら、手放した方がいい。
秘密は抱えれば抱えるほど、自分を孤独にさせる分厚い壁になっていく。
誰かと生きることを望むなら、言葉にするべきだ。それは匿名掲示板の落書きでもいいし、SNSの鍵アカウントでもいいし、信頼したい一人でもいい。
私は話すのが苦手なのに、思考ばっかりはぐるぐる頭に溜まってしまうので、最終的には文字にして、書き起こすことにした。
この作業のおかげで、ずいぶん心が軽くなった。
信仰自体は悪いことではないと、人は言う。
それがその人にとっての救いになるなら、カルトだろうと、悪いだけではないと。
これが励ましであることはわかっているし、間違ってもいないんだろう。
でも、私個人としては、そのように言えない。
誰か個人が救われたとしても、その裏で、被害を受ける人たちがいる。
そうである限り、そのような団体のあり方を認めてはいけないはずだ。
私は実際に摂理に所属し、教団の一部となった。
私たち信者の活動が集まって、教会は運営され、先生は活動をする。(告発が事実なら、)その先で女性が暴行を受ける。
その実態を知った以上は、カルト宗教というものを、肯定することはできない。少なくとも今は。
とかなんとか考えていると、今の政治もサッカー日本代表も、何もかも嫌に思えてくるので、物事をもっと客観的に見て冷静に判断できるだけの知識を増やしたいと思う今日この頃である。
こうやって人の思想は尖っていくのか………………………。


コメント