ホラー短編小説「木目」Part.4
第4話「逃げられない」
翌朝。
とうとう一睡もできなかった山田は、
始発電車で
誰よりも早く出社していた。
午前八時半。
オフィスのドアが開き、
出社してきた高橋の姿を見た瞬間、
山田は弾かれたように立ち上がり、
すがりつくようにその両肩を掴んだ。
「おっ……
なんだ山田、痛えな」
高橋が目を丸くする。
生きている。
首も、真っ直ぐだ。
大柄な体には、
確かな命の熱がある。
山田は安堵のあまり
へたり込みそうになるのを、
必死に堪えた。
「高橋さん……よかった。
お願いです、今日だけでいいんです。
一人にならないでください。
階段も、窓際も、近づかないでください」
血走った目で懇願する山田を、
高橋は怪訝そうに見つめ、
それからふっと息を吐いて、
その肩をぽんと優しく叩いた。
「……佐藤のことか。
お前、一番近くで見ちまったもんな。
参ってるんだ。
今日は無理するな。
俺が一日、
事務作業に付き合ってやるから」
「山田さん、
無理しないでくださいね」
温かいお茶の入った紙コップが
横からそっと差し出された。
鈴木だった。
心配そうに眉を下げた彼女から、
いつもの柑橘の香りがふわりと漂う。
受け取るとき、
彼女の温かい指先が、
山田の手に触れた。
絶対に壊させはしない。
高橋さんも、鈴木も。
山田は熱い茶を喉に流し込み、
決意を固めた。
今日一日、自分が見張って、
高橋の死をやり過ごす。
それだけだ。
しかし午後を回った頃から、
窓の外の空が、
急速に鉛色へと濁り始めた。
遠くで低い雷鳴が轟き、
やがて窓ガラスを叩きつけるような、
猛烈なゲリラ豪雨が降り出す。
午後五時。
定時が近づいたそのとき、
オフィス全体に
「プツッ」という鈍い音が走り、
すべての照明とパソコンの電源が、
いっせいに落ちた。
「うおっ、停電か?」
高橋の声が暗闇に響く。
非常灯の緑色の光だけが、
壁や床に
不気味な影を落とし始める。
「雷で一帯が停電したみたいです。
エレベーターも止まってますね」
スマホで確認した鈴木が告げた。
エレベーターが、止まっている。
山田の心臓が大きく跳ねた。
ここはビルの六階だ。
帰るには、
非常階段を使うしかない。
「仕方ない、
今日はもう上がろう」
高橋が荷物をまとめ、
立ち上がる。
「待ってください!
高橋さん、
電気が戻るまでここにいましょう。
階段は、危ないです」
「馬鹿言え。
いつ復旧するかわからんのだぞ。
スマホのライトで足元照らせば
平気だって」
暗闇の中、
高橋は山田の制止を振り切り、
薄暗い廊下へ出ていった。
山田は慌ててその後を追う。
絶対に、階段へは行かせない。
そのとき、雨音に混じって、
山田の耳に、あの音が届いた。
ペタ……、ペタ……。
濡れた素足の音が、
廊下の奥から、
微かに聞こえ始めていた。
「高橋さん! 待って」
山田はスマートフォンのライトを点け、
小走りで高橋の背を追った。
廊下の突き当たり、
非常階段の重い鉄扉に
手をかけていた高橋が、
鬱陶しそうに振り返る。
「しつこいぞ山田。
いい加減にしろ」
「お願いです、階段だけは。
せめて一緒に――」
山田が駆け寄ったそのとき、
再びあの音が、
廊下の奥から響いた。
ペタ……、ペタ……。
山田は息を呑んで立ち止まった。
高橋も眉をひそめ、
廊下の暗がりへ視線を向ける。
聞こえている。
今回は、高橋の耳にも。
「……誰だ?
警備員か?」
高橋がスマートフォンをかかげ、
暗闇の奥を照らそうとする。
だが、光の束の先には誰もいない。
誰もいない空間から、
濡れた素足が床を踏む、
あの不快な音だけが、
確実にこちらへ近づいてくる。
ペタ……ペタ……ペタ……。
音が、少しずつ速くなっている。
高橋の顔に、はっきりと、
戸惑いと恐怖の色が浮かんだ。
理性では説明できないものが近づいてくる。
その圧力に、
彼の太い声が掠れる。
「なんだよ、これ……」
「高橋さん、早く中へ!
ドアを閉めて!」
守らなければ。
その一心で、山田は
半ば強引に高橋の厚い胸板を押し、
非常階段のスペースへ押し込んだ。
ガチャン、と重い防火扉が閉まり、
廊下と階段が遮断される。
コンクリートむき出しの非常階段。
外の雷雨が壁越しに低く響き、
ひんやりとした空気が漂っている。
「ハァ、ハァ……
一体なんなんだよ、今の音は……」
高橋が手すりに寄りかかり、
荒い息を吐いた。
極限の緊張と暗闇が、
彼の理性を急速に削り取っていく。
普段の頼もしさが、
見る間に剥がれ落ちていくのが、
山田にはわかった。
「大丈夫です、高橋さん。
落ち着いて、一段ずつ、
ゆっくり降りましょう。
私が先を歩きますから」
山田が諭すように言い、
階段へ足を踏み出した――
その瞬間だった。
ドンッ。
二人の真上。
七階へ続く階段の暗がりから、
何か重いものが
コンクリートを叩く音が響いた。
ビクッと高橋の肩が跳ねる。
山田がライトを上へ向けるが、
階段は折り返しになっていて、
踊り場の先は見えない。
しかし、
その見えない上の踊り場から、
聞こえてきたのだ。
ペタ……。
鉄扉で遮断したはずの、
あの濡れた足音が。
今度は、自分たちの頭上から。
「ひっ……」
高橋の喉から、
声にならない悲鳴が漏れた。
ペタ、ペタ、ペタ、ペタッ。
足音が、
階段を駆け下りてくる。
異常な速さで。
「来るな!
なんだお前、来るなっ」
高橋が完全にパニックを起こした。
見えない何かに追いつめられる恐怖に耐えきれず、
階段を猛スピードで駆け下りようとする。
「高橋さん、走るな!」
山田は叫びながら、
高橋の命を繋ぎ止めようと、
その太い腕へ手を伸ばした。
だが――
恐怖で錯乱した高橋の目には、
暗闇から伸びてきた山田のその手すら、
「自分を捕まえようとする、もう一つの何か」
に見えたのかもしれない。
「触るなあああっ」
高橋は山田の手を
力任せに振り払い、
後ずさった。
しかしそこは、
階段の最上段だった。
空を切った高橋の右足が、
虚空を踏み抜く。
「あっ」
大柄な体が、
スローモーションのように宙へ浮き、
後方へ傾いた。
スマートフォンのライトが、
虚しく宙を舞う。
ドスッ。ゴンッ。グシャッ。
重い肉の塊が、
硬いコンクリートの角に
何度も打ちつけられる鈍い音が、
階段室に残酷なほど反響した。
そして下の踊り場で、
「ボキィッ」という、
取り返しのつかない決定的な音が一つ響き――
すべてが、静寂に包まれた。
雨音だけが、遠く聞こえる。
「高橋……さん……?」
山田は震える足を必死に抑え、
一段、また一段と階段を下りた。
下の踊り場。
そこには、うつ伏せに倒れたまま、
ぴくりとも動かない高橋の姿があった。
山田は歯を食いしばり、
その顔の辺りに、
ライトの光を当てた。
「あ……ぁ……」
絶望の呻きが漏れる。
高橋の首は、
階段の角に激突した衝撃で、
肩の付け根から「真横に九十度」、
へし折れていた。
ひっくり返った顔。
見開かれた両目。
苦痛に歪んだ口。
昨夜、自宅のトイレのドアで見た、
あの木目と、まったく同じ形だった。
自分が止めようとした。
だから高橋はパニックになった。
自分が手を伸ばした。
だから高橋は足を滑らせた。
そのとき、山田の脳裏に、
ひとつの冷たい法則が刻みつけられた。
――見えてしまった運命は、
それを回避しようとする行動そのものが、
死の引き金になる。
「高橋さん……っ」
冷酷な仕組みに打ちのめされ、
山田は暗い踊り場で、
恩人の折れ曲がった死顔を見つめたまま、
音もなく泣き崩れた。



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